〔三‐3〕 舞台袖にて
タイムズスクエアを縦断するブロードウェイから東に逸れた、人気のない路地裏。
横向きにしたスマートフォンを両手に持って、意気揚々とアプリゲームに夢中になっている老人がいる。萎れた花のような肌、目ヤニと鼻クソはこびりつき、もう何十年もまともに洗っていない髪はボサボサでフケが粉雪のように肩にまで積もっている。財産を失ってからの一張羅はすでに泥や黄ばみで固くなり、不潔の二文字で織られたただのボロ雑巾。
絵に描いたようなこのホームレスの足下には、いくつものスマートフォンの交換用バッテリーが転がっている。そんな物が見つかれば、きっとこの老人はあらぬ疑いをかけられてお縄を頂戴されることだろう。狡賢い者ならば、彼に暴力を振るってでも窃盗ルートを聞き出そうとするだろう。
しかしそれは土台無理な相談だった。彼はそもそも盗んでいないし、雇い主から渡された物で言われたことを行なっているに過ぎないのだ。それに彼の子供のように無邪気な双眸にはスマホのディスプレイに表示された光景以外は映っていない。雑然とした人混みが奏でる騒音も、誰かによる直接的な詰問も、全て耳に入ることはない。ヘッドホン一つで外界からの干渉を拒むプロのゲーマーのように、アプリに熱中しているのだ。
その様子を小一時間眺めている隻眼の男は、すぐそばの人通りの多い道から現れたフード男を一瞥した。青い長袖のパーカーにコバルトのジーンズ。フードを目深にかぶって口元だけを露出させ、両手はパーカーのポケットに突っ込んでいる。この男もまた、外界からの干渉を拒んでいると隻眼は評価した。
「追っ手は」
「シナリオに狂いはない」
フードはにべもなくそう言った。左手の壁に凭れる隻眼の前を通り過ぎ、立ち止まった。
「俺は港でアレを待つ。お前はコードを入手しろ」
どう見ても年下の若造の口振りに、「上から目線とはな」と隻眼は多少の苛立ちを覗かせた。雇い主であるバーグに命ぜられるならまだしも、この男に尻尾を振る義理はなかった。
「歯車なんだろう?」
挑発だ。そうとは解っていても気に障る。隻眼は壁を蹴るようにして歩き出すと、フードの背後に立った。
「俺にお前のセンスは効かんぞ」
「だったらさっさと殺してみろ。できればの話だがな」
フードは振り返ってさらに煽り立てた。高慢に上げる口角が隻眼の逆鱗をさらに逆撫でた。対峙する二人の様子は、誰の目にも留まらなかった。
隻眼は全身に電気を帯びた。特に頭周りに帯電させ、フードによる《催眠》対策を行なった。《催眠》がフードから発される何かしらの波によって発動していることはすでに知っている。
周囲に発生した磁場が二人の衣服を靡かせる。それは路地裏の配線にまで影響を与え、ホームレスのスマートフォンの電波さえ狂わせた。突然フリーズした画面に、ホームレスは困惑して指先を何度も突き立てた。
そこへ、一本の電話が入った。一帯に発生した電波障害を突破してだ。
フードはパーカーのポケットの中で握っていたスマートフォンを取り出し、応答した。
『こちらの準備は整った。後はお前達次第だ』
音声は万一に備えて機械で変えられているが、それは確かにバーグ本人からの通信だ。
高電圧発生器となっていた身体をオフにした隻眼はフードからスマートフォンを奪い取り、「俺だ」
『ジオ……』
「以前、そう出逢って間もない頃だ。あの時お前が話したことは全て現実になった。寸分の狂いもない。ならば俺は……、戦う歯車に違いない」
本来右目があるべき場所にその痕跡さえもない隻眼男――ジオは、「一つ問う」と言葉を区切った。バーグは続く言葉を待った。
「お前の知る未来に、俺が望む世界はあるのか」
『今日、それが生まれる。ジオ、お前が生み出すのだ、その手でな』
ジオは手の平を見つめた。チリチリと電気が走り、時折火花を散らせる。
通話は切れている。手の平で絡んでは消える青い糸くずを握り締めたジオは、フードにスマートフォンを抛り返した。
「幕を上げろ。これから――俺達の時代を始める」
フードの声を背に、ジオは歩き出した。薄暗い路地の先にあるという、果てない闘争の日々を手にするために。