〔二‐1〕 シグナル・ブラック
ニュージャージー州、ニューアーク・リバティー国際空港。
早朝にカナダのイカルイトを発ち、この場へ手ぶらで降り立った一人の男がいた。スーツにサングラスをかけた、どこにでもいそうな風貌の彼は、ターミナルビルのコンコースを抜けて広い出入り口から外へ出た。
タクシー乗り場には無数のイエローキャブが待ち構えていたが、彼はそのどれにも目もくれず、指定された場所に停車していた濃いブルーのバンへ歩を進めた。それに気付いたらしく、バンに乗っていた黒人女性が寝ぼけ目蓋を擦りながら飛び出した。色彩豊かなターバンを頭に巻いたその女に、「やぁ、ヘナ。待たせたね」と男は悪びれもせずに手を振った。
「全くですよ。皆さんはすでに状況を開始しています、急いで合流しましょう」
ヘナという女は相変わらずの男の態度に肩を落とすと、彼の為に助手席のドアを開けてやり、自身は運転席に座った。
「何か飲み物ある?」
「ミネラルウォーターでよろしいですか」
「いいね、ちょうどミネラルが不足していたところだよ」
飄々とした彼の口振りに溜め息を漏らした彼女は、「出しますよ」と一声かけた。しかし彼女はハンドルを握らない。それどころかエンジンすら掛けていない。それにも拘らず、車は勝手に動き始めた。ヘナが何もしない内に、鮮やかにカーブを曲がってターミナルを出た。
「いやぁ、やっぱり全自動って素晴らしいね」
「まだまだ課題は残されていますけどね」
「キミが開発したんだろ。だったらこれ以上無く安全じゃないか。僕は何も望まないよ」
サングラスから飛び出している男の眉はご機嫌にも小高い山を描いていた。
「現状は把握されていますね?」
「ニューヨークだっけ」
「半月前、例の男の消息がマンハッタンで途絶えたでしょう。皆さんはまずそこから足取りを掴む為に情報を収集しています」
「……えーと、何で途絶えたんだっけ」
ヘナは唖然とした顔を男に向けた。「ご冗談ですよね?」と顔を引きつらせると、男は下をペロリと出してはぐらかした。
「あんまり間の抜けたことばかりしていると、またダーシャちゃんに怒られますよ」
「今いないから言えるけどさぁ、あの子チョー怖くない? あの子が敵だったら正直誰も勝てないんじゃないかなっていつも思うんだよねー」
情報部にいるのが不思議だよ、ホント。
男はそう言ってサングラスを外した。現れた顔は色白の優男。あたかも責任感の欠片も無いような緩んだ口元は、“信用”という言葉から随分かけ離れているように窺える。
しかしヘナは、「リーダー・フリッツ」とあくまでも彼を敬い続けていた。
「仮にも〈シグナル・ブラック〉なのです。少しは気を引き締めていただかないと……」
「そこなんだよね~」
「と、仰いますと?」
「〈シグナル・ブラック〉ってさぁ、つまるところあの人の独断で動けってわけじゃない。そこが僕のやる気をさぁ、テンションをさぁ~」
「分からなくもないですが……」
ヘナはターバンを取ってベリーショートの黒髪を手櫛で整えた。
「アレ、それ取っちゃうの?」
「目立ちますから。それにコレが無ければ、私だと気付かなかったでしょう?」
「そんなことないよ。カワイイのに勿体ない」
「……そういうこと、サラリと仰いますよね」
「アレレ、気に障ったかい?」
「いえ、ステキだと思いますよ」
それはどうもとフリッツは如才ない笑みを返した。
ヘナは顔を背け、ポーチからコンパクトミラーを取り出してメイクを始めた。気の弱さを誇張させる下がった眉尻を心持ち上げたようにし、睫毛も少し長くした。明るめだがイヤらしくないくらいの口紅を引いた。
「例の男――隻眼のヘレティックについて、今一度ご説明しておきます」
「頼むよ」
「第一実行部隊と第二実行部隊による〈ジャービル護衛作戦〉で対象は我々に捕縛されました。所定の手順を取り、彼は作戦処理部隊の母艦〈タルタロス〉へ移送されました。目的は尋問とのことですが、内部調査をしているムックさんの話では、例によって拷問だったそうです」
作戦処理部隊は、作戦部の中にありながらほとんど独立した機関と言える。尋問と言えば情報部のお家芸と思われるのが一般的だが、組織――ひいてはヘレティックにおいてはそうそう通例に倣ってばかりはいられない。
何故なら、情報部は情報収集や情報統制に特化したセンスを持つヘレティックが配属されており、実行部隊に似通った対ヘレティック戦闘向きのセンスを持つ隊員は極少数であるからだ。情報部内で拘束していた敵対ヘレティック集団――いわゆるREWBSが暴走した時、その者が凶悪だった時、当該部署には応戦する人材が不足しているのだ。
加えて、人材不足は作戦部も同じくであるので、情報部に譲ってやれるだけの人材も無い。となれば、戦闘員を多く抱える作戦部の、その中でも情報部に類似した機能を持つ作戦処理部隊に、捕縛したREWBSの処理を任せた方が有意義だった。
「ムック君も早々に引き上げさせた方がいいな。〈タルタロス〉はその名の通り闇の底だ。いずれ彼の足はぬかるみから抜け出せなくなるよ」
「ご尤もです」
公道に出た車は法定速度を守り、前方の車から適切な車間を取り、赤信号にはきちんと止まり、青になると正常に発進した。まるでゴールド免許を持つドライバーのように、癖も無く、異様なほどスタンダードな走行を実行していた。
フリッツがふとサイドウィンドウ越しにカーブミラーへ目を向けると、ミラーにはフロントウィンドウへ笑顔を向ける彼の姿と、ハンドルを握るヘナが映っていた。すれ違うパトカーに、手放し運転を続けるヘナが咎められないのは、そうしたマジックミラーの要素がこの車に施されているからだった。
「その彼の話によれば、対象は自力で拘束を解き、〈タルタロス〉から脱走した模様です。その際、ゼツ・ルイサはわざと見逃し、我々情報部に追跡を要請したのです」
「抜かりないね、怖いほどに」
ええと相槌を打つヘナは続けた。
「情報部は要請に従い、非番だった第五諜報部隊を派遣し対象の追跡を開始しました。〈タルタロス〉からボートで脱走を図った対象はこの国の東海岸に漂着し、迷わずマンハッタンのハーレムへ向かったようです」
「どうしてそこから消息が途絶えたの?」
ヘナは嘆息を漏らすと、「〈アルパ〉が人質を理由に全ての諜報活動を停止するよう強要したからじゃありませんか」
「あーなるほどなるほど」
「その後、第一実行部隊以外の全ての隊員は各基地から一歩も出られずにいたというわけです」
「僕は出てたよ。っていうかここ数日外にしか出てなかったよね」
ポカンと口を開けたまま、ヘナは呆然とした目をフリッツに向けた。その瞳には、嘘ですよね、冗談ですよね、と書かれているようだった。
「嘘でも冗談でもないよ。だから昨日半月ぶりに帰ってきたら長官に怒られちゃってさぁ、しかもあの人キミ達を先にニューヨークへ向かわせたなんて言っちゃってさ。ホント参ったよ、僕そろそろ過労死しちゃうかも」
そう言うわりに彼はケラケラと笑った。
「だからあの時、いくら探してもいなかったのですか!?」とヘナが問い詰めると、フリッツは興奮した馬を宥めるように、「ま、ま、落ち着いてよ。その甲斐あって面白いことも分かったんだから」
小首を傾げる彼女に、フリッツは意地の悪い笑みを見せた。
「強気なことを言っていても、〈アルパ〉ちゃんは僕らの全てを見通せてなんかいない。きっとこの〈シグナル・ブラック〉は滞りなく遂行できるよ」
面食らっていたヘナは次第に正気を取り戻し、「……それでも、慎重に行なうべきです」と言葉を紡いだ。
「モチロンさ。その為にも、隻眼君の行方はロバ君達に任せて、僕らはクイーンズのジャマイカ地区に行こうか」
分からなかった。フリッツの思惑が一切。ヘナはジャマイカ地区についての情報を思い出そうとしたが、丸っきり度外視していたから何もこの件との接点を見出せなかった。
「〈LUSH-2〉と〈LUSH-5〉。彼らが数日前にジャマイカ地区でバーグについて調べていたという情報を入手したのさ」
「いつの間に……」
「ヘナ、僕らはバーグが生きているという前提で捜査を行なうよ」
利発な面立ちにスーツ姿、そしてさっぱりとした短髪。普段とはかけ離れたアクティブな女性へと変身したヘナは、「分かりました」と一考してから承諾した。
「今更だけど肝に銘じておきなよ。僕らは“埃”なんかじゃない、組織の“心臓”なんだってことをさ」
ハイウェイへ乗り上げたバンは、一路ジャマイカ地区を目指した。