〔一‐2〕 裏面工作
6/24(火) 大幅な追記を行ないました。〔一-3〕をご覧になる前にどうぞ再びお目を通してください。
「ボス、事情は心得ているつもりです」
世界最大の無人島――デヴォン島。北極海に浮かぶその島の地下には、人知れず巨大な基地が島の面積のおよそ七割に相当する規模で拡がっている。
組織が有するその基地のほぼ中心地に、司令部の会議室が用意されている。
大きな円卓に腰掛ける者達はそれぞれに眉間にシワを寄せている。中には脂汗を掻いて悲壮な表情を湛えている者までいる。
組織の総督――ボスというコードネームを持つ男も、その一人だった。多くの部下からいつも変わらぬ仏頂面を指し、“鉄仮面”と揶揄される彼が、追い詰められた現状に打ちひしがれていた。
円卓に両肘を置き、組んだ指の上に鼻を乗せる彼は、ずっと目を瞑っている。そんな彼に、誰よりも色白く冷淡な眼差しを向ける男が語気を強めた。
「が、このまま手を拱いているわけにもいきますまい。確かに〈アルパ〉のヘレティックがどの程度の空間把握能力を有しているかは不明ですが、我々情報部の精鋭達はこのような状況でも確実に戦果を上げることができます」
是非、ご下命を…!
そうやって彼は僅かに身を乗り出す。
ボスが一瞥の後に、再び視線を落とすと、「独り身は呑気に言えるものだな!」と屈強な体躯と岩のような印象の強面を持つ男が批難した。
「未知数だと解っているのなら余計な動きを煽るな!」
「止さんか、作戦部の。貴官の気持ちは痛感極まりないがな、情報部のも状況の打開に努めているだけに過ぎんよ。そうだろう?」
鼻息を荒くする作戦部長官を宥めるのは、年配の参謀副長だ。
組織の相談役である彼の言葉に情報部長官は静かに頷いて見せた。
その鼻持ちならない態度に、「分かるものですか! アナタは知らんのだ、この男の狡猾さを!」と作戦部長官を怒鳴り散らすばかりだった。
「心外ですな。確かに私は遥か昔に人並みの心を捨て去りましたが、今日まで世界の安寧に誰よりも尽力してきたつもりです。その日々と志を否定される謂れはない。そもそも、アナタ方に私を批難できますか? 組織の法に背いてきたアナタ方に」
「ぐぅっ! 知っていて泳がせておったくせに、ここぞとばかりに言いおって! それで鬼の首を取ったつもりならなぁ――!」
「組織に入隊する。それは、それまでの過去、経歴、出自、情報の一切を抹消することです。つまりは、それまで表世界で築き上げてきたあらゆる人間達との関係を断ち切ることを意味します。我々は皆、存在履歴を抹消した上で、ここにいる。そのはずだった。それが世界を守る為の覚悟と信じていた」
作戦部長官は椅子から腰を上げ、情報部長官に睨みを利かせた。
対して情報部長官は尚も舌を止めなかった。
「しかし組織には上層部しか知り得ない暗黙のルールが存在した。私はかねてから思っていましたよ、“これはアキレス腱を晒す行為だ”と」
トンと音が鳴り、情報部長官は口を閉じた。
ボスが指先で机を叩いたのだ。彼は言った。
「情報部長官。貴官には感謝している。組織創設以来、代々永きに渡り高官にのみ許されてきた特権を黙認し、情報部としてそれを決して漏れぬように務めてきた貴官には下げる頭も無い。あまつさえ、こうして敵に良いようにやられているのだから、尚更だ」
「ふっ、ボスの仰るとおりだ。まるでザルだな、情報部が聞いて呆れるわ。その緩いケツの穴、縫うて閉じてやりたいわっ」
ボス達が嘆息を漏らすと、作戦部長官のみが首をかしげていた。
「このことは内部から漏れた、そう考えるべきなのでしょうか」
話頭を転じたのは、ボスの秘書であり作戦部参謀長官でもある淑女――メルセデスである。彼女はボスの左後方に控える格好で立ち、その切れ長な双眸で組織上層部の面々を見渡した。
「当然だろう」と作戦部長官が答える。
「情報部が、心を捨てて全うしてきたのだからな」
彼の執拗な皮肉を、情報部長官はさらりと受け流した。
「事実関係は調査中です。内と外の両面から調べなければ、真実には辿り着けないでしょう。ですから、ボス」
決断を迫るも、ボスは少しの間答えを出さなかった。
代わりに、衛生部長官が意見した。
「私は第一実行部隊が気懸かりです」
「なぁに問題無い。シュテンは逞しく強かな男だ、きっと〈アルパ〉の尻尾を掴んでみせるわ」
「そのシュテンが問題なのだよ、作戦部の」と参謀は言った。
「この半年の第一実行部隊の行動は目に余る。特にカラコルムでの一件は独断もいいところだった」
兵站部の長官が、「ネーヴェマン、良い男だったな……」と目を潤ませて鼻を啜った。
「本件の発端となったジャービルの護衛も結局は失敗に終わっている。そして何より本件では、最も重大な罪を被った。表世界にヘレティックの存在を知らしめてしまった…! もし仮に〈アルパ〉から解放され、我々がこれまでどおりの活動を再開できた時、儂はあの男の降格を進言したい」
「参謀、いくら何でもそれは……。今の組織に、あの男以上に総隊長を任せられる者などおりません」
「キヨメがおるだろう。組織随一の剣士、ミノル・キヨメが」
「お待ちください。我々衛生部としては容認しかねます。救命の医師として、彼以上に才覚に恵まれた者はおりません」
衛生部長官は頑として首を縦に振らなかった。
参謀が椅子に腰を埋めて不服顔でいると、「御一同。今の議題は、“いかにして現状を打開するか”というもののはず。実行部隊の人事など二の次で良いのでは?」メルセデスは静かに彼らを鋭鋒した。
「情報部長官の仰るとおり、本件は組織が重ねてきた禍根の結果と言えるでしょう。我々に許されるべき行為ではなかったのです。表世界に家族を持つなどということは」
彼らは押し黙り、多少の沈黙が部屋の空気を重くした。
「自戒に苛まれるのは結構。しかし心の脆さや卑しさを是正する機会を〈アルパ〉が与えてくれたと思えば、我々はまだ“世界の為”、ひいては“ヘレティックの為”に戦えるはずです」
「しかし、下手に動けん。いかに諜報部隊と言えども、《千里眼》を相手に任務を遂行できるだろうか」
作戦部長官は縋るような目でメルセデスを見た。彼はポルトガルに妻と息子、その婚約者を置いている。この十年まともに会っていないが、情報部を通して彼らの現状を見守り続けてきた。
その彼らの名が、〈アルパ〉が送りつけてきた人質名簿に載っていた。彼らだけでなく、組織上層部と血縁・婚姻関係のある家族全ての名が。
余計な真似はしないでくれ。そんな弱々しい眼差しを作戦部長官は注ぎ続けていた。
「一つ、手を打ってある」
ボスが口火を切った。
皆が注目し、「ほぉ、どのような」と参謀が目を細くした。
顔を擡げ、出入り口のドアに向かって、「入れ」とボスは言った。
しかし一同がドアへ注目する中、「もう、失礼しておりますぅ……」というネットリとした返事があったのは、円卓の上――部屋の中央からだった。
その男は一同の虚を突き、突然その場に出現した。仰天する彼らを残忍な笑みで嗤ったその男は、「累差絶、この度ボスより勅命を受けぇ、デヴォン島本部基地へ参上いたしましたぁ。幕僚方ぁ、ご無沙汰しておりますぅ」と白々しくも深々と頭を垂れた。
「“更地のルイーサ”、貴様いつからいた!」
作戦部長官は動揺を隠し切れずに声を荒げた。
黒いトレンチコートに身を包む長髪の男――絶は、その薄く青白い唇をにぃと引き上げると、縁の広いソフト帽の下から冥い瞳を覗かせた。
「組織は秘密を具象化したような存在ではありましょうがぁ、兵への礼儀を欠いてきた事実が漏れればぁ、一枚岩にも皹が入りましょうねぇぃ?」
円卓の上を一周した彼は、最後に作戦部長官の前で肩膝を突き、脅迫した。
「そうだ、そこでお前にはある任務を下す」
ボスは彼の言動に決して眉一つ動かさず、まさに“鉄仮面”を取り戻したいつもの平静で彼に令した。
「単独でぇ? 私はねぇぃ、作戦部ではありますがぁ、作戦処理部隊なんですがねぇぃ」
「表世界で起きている事実の一切を抹消するという点では、職務に逸脱していないはずだ。それに、この難局を乗り越えられるのはお前一人をおいて他にいない」
絶は無言の行を返した。彼の表情は長く癖のある黒髪で覆われ、よく見えなかった。
ボスの再びの危険を顧みない独断に、作戦部長官は異議を唱えた。
「お、お待ちください! 何もよりにもよってルイーサなどに――」
「拝命致しましょうぅ。してぇぃ、仔細を伺ってもぉぅ?」
机上で立ち上がる彼の不気味な笑みに一同は思わず息を呑んだ。
ボスはメルセデスに目配せすると、円卓の中央にホログラムを呼び出した。
「おい、情報部!」
獣のように毛深い大きな手で線の細い肩を掴む。「黙っておるつもりか!?」と作戦部長官は問い質した。
会議が終わり、それぞれが自らの部署へ帰る途中のことだった。彼の手を振り払った情報部長官は、「アナタは何なのですか」と努めて冷静に返した。
「何!?」
「私を目の敵にしたかと思えば、次はルイーサを警戒して。彼はアナタの部下でしょう」
「部下であるから余計に解るのだ、奴をこのように重要な任務に就かせる……いや、秘密に触れさせることの恐ろしさが!」
「ボスが、間違っていると?」
瞠目した彼は、一考の後、顎を引いて、「あぁ、そうだ」
情報部長官はジッと彼の揺るぎない瞳を見据えた。
「ボスはバーグとの邂逅以来、間違ってばかりだ。我々幕僚の制止を振り切り、奴の情報にまんまと踊らされてきた。その結果がこのザマだと言っても過言ではない」
作戦部長官は周りを気にし、人がいないのを確認してから彼の耳元で言った。
「あの男は自らのセンスに溺れたのだ、《ライト・ライド》にな」
「その仰りようは要らぬ噂と諍いを齎すので即刻撤回してもらいたいものだが……」
「さもありなん、だろう?」
「かと言って、今更我々に何ができますか。釘を刺しておきますが、その暗いお気持ちは両刃の剣となりますよ」
「俺は同胞に、ひいては世界に誤った道を示したくないだけだ」
情報部長官は首を横に振り、「お力にはなれません、失礼します」と踵を返した。
次第に遠退いていく背中に、鶏冠にきた作戦部長官は、「この腰抜けが! 後悔した時には遅いぞ!」と顔を真っ赤にして指差し、怒鳴り散らした。それでも背中は小さくなるばかりなので、壁を激しく殴りつけた。
行き交う幾人かの兵達が、憤慨する彼と大きな皹が入った壁を見て何事かと思いつつ通り過ぎていく。
居心地が悪くなったか、作戦部長官はそそくさとエレベーターへ引き返すと、ズボンのポケットから携帯端末を取り出した。
総務部で大きな荷物を受け取り、エレベーターへ乗り込む。目的の階層ボタンを選び、すぐに扉を閉めなかったのは尾行に気付いていたからだった。
「何をコソコソ尾行ているんだぁぃ?」
累差絶はエレベーターから続く通路の、一つ目の曲がり角に向かってそう投げかけた。
「そんな、懐かしい物まで持ち出してぇ」
顎まで裂けるような大きな口でにぃと嗤う彼の前に、一人の男が姿を見せた。絶は男の手元を指し、「白鞘の休め鞘ぁ。しかしそれの拵えはぁ、朴の木の木目に似せて作られたぁ、軟質オリハルコンぅ。室町の時代に打たれたあの宝刀の模造品だねぇぃ」
男は一歩踏み寄った。
「お前を殺す。その覚悟で封を解いた」
「私を? お前がぁ? 清芽ぇ……きひっひはっ、ひゃっははははははは!」
通路をかき回す絶の嗤笑を、清芽ミノルは素早い居合い抜きでもって切り裂いた。
それはかつて戦場で見た光景と遜色は無かった。絶は口を閉じ、長髪の奥から清芽を注視した。
「お前があの会議室で過ちをしでかした時に備えて待機していた」
「………」
「戦場から逃げ出したことは認める。しかし、お前を斬ることに僕は今でも一分の躊躇いも起こさない」
「……中古から続く血が疼くのか、いいねぇぃ」
絶は自動で閉じようとするエレベーターの扉を押し開けて、「生憎時間が無くてねぇぃ、乗りなぁ」
清芽は白銀の刀身を鞘に納めると、鋭い剣幕をそのままに狭い空間に乗り込んだ。
扉を閉め、潜水艇が泊まる最下層の港を目指す。絶は清芽から視線を外し、ガラス張りの壁から外を見た。上下に擦れ違う複数のエレベーターの中に見覚えのある背中を見つけると、思わず笑みが零れた。携帯端末で誰かと通話しているようだった。
「ボスがお前を頼った。その意味は解っているな?」
清芽の言葉を、絶は肩で嗤った。
「……そんなに心配ならばぁ、あの頃と同じように血に従い、お目付け役を買って出ればいいぃ。あの日植えつけられた絶望を拭い去れるならねぇぃ」
「僕はもう、お前と轡を並べることはない。お前に腹蔵無い正しさがあったとしても、僕とお前は決して相容れないんだ」
清芽が水なら、絶は油なのだろう。彼らは決して他人には理解できない、小さな歪みを抱えた関係にある。
「僕らを繋ぎ止めていた糸は切れた。代わりに今は、ドウジ君が僕ら以外の多くの仲間を力強く結んでくれている」
それは軽蔑を孕んでいたのだろうか。絶は切れ長な瞳を、深く頭を下げる清芽の姿に注いだ。
「ゼツ、大きな貸しと考えてくれていい。お前に僕らの命運を預ける」
絶はまた嗤った。そこに感情らしいものが宿っていなかったことに、清芽は恐ろしさよりも侘しさを覚えた。
「諸君らに集まってもらったのは他でもない。随分と待たせていた例の任務を発令する」
「動くな、如何なる諜報活動も禁止する――というお話だったのでは?」
「事情が変わった。〈シグナル・ブラック〉だ、良いな?」
「それはまた大変なことだ……」
情報部に用意された広大な区画は、十を越える部署に一部屋ずつ与えられている。一つの部屋の内部は四方をコンピューターで埋め尽くされ、各員がブースで仕切られた持ち場で仕事を行なっている。
それらの区画の中央――通路に囲まれた場所に、情報部長官の執務室がある。四方の壁はマジックミラーの要素を持ち、内部の者の任意で、外からでも内部を見えるようにも、内部からしか外の様子を見えないようにもできる仕組みになっている。
現在、後者の状態にある部屋では、椅子に掛ける情報部長官に呼び出された四人の若い部下が起立している。四人の内、半歩前に出る青年は、「先程出港した〈タルタロス〉の潜水艇と関係が?」と長官に問うた。眉を隠す黒髪のボブヘアーと白い肌、青と緑のオッドアイは慢心とも取れる自信に満ち溢れていた。
「ゼツ・ルイサ。“更地のルイーサ”、な」
そんな彼よりもいくらか年上で赤毛の目立つ男が捕捉した。
「流石に耳が早いな」と長官は感心したように言った。
「当然です。何ならたった今起きている緊急事態についてもお話できますが?」
それに気を良くしたのか、青年は親に自分の成果を自慢でもするように笑った。
「緊急事態?」
「作戦部長官シルド・ボ・ギャバンが独自のコードを用いて、さる人物に助けを請うているのです」
「誰だ」
「三大、今は二大出資者ですか、の内の一人――ミーエリッキ女史です」
「リコールの為の査問会議の要請、か?」
「ご名答」
悦に入るような二色の眼差しから長官は目を逸らし、「……放っておけ」と答えた。
すかさず、「イイんすかー?」と馴れ馴れしい口振りで問うのは、身長一四〇センチメートルほどの小さな娘だった。奇抜な青色に染まったワンレングスを胸元まで伸ばしているが、身の丈とのミスマッチ感は計り知れない。ただ誰もそれを指摘せず、暴言も咎めないのは、彼女があらゆる意味で恐ろしく凶暴で、凶悪だと知っているからだ。
「あとはヒルアンドンの爺さんさえ口説き落とせばー、ボスは玉座を追われちまうんだろー。バーグの件がヤバかったってのは分かるけどさぁー、情報部的にはヤムナシって判断じゃなかったっけー?」
「仮に査問の結果、ギャバンが新たなボスに任命される虞があるならば動かざるを得んが、そうはならんという確信がある」
ワンレン女が小首を傾げていると、「ヒルアンドン氏が彼を好いていないのよ」と彼女と正反対の背の高い女が答えた。垂れ下がった眉尻に従って気弱な風貌で、色鮮やかなターバンのような布を頭に巻いているのが特徴だ。
「あ、なるほどー」とワンレン女は得心がいったようだった。
「しかし、万が一ということもあります。ボスのリコールを止められなかったにせよ、誰かが組織を牽引する必要があります。長官は、立候補されないのですか?」
長官は、質問した青年の顔をジッと見つめた。眉一つ動かさずほくそ笑む青年に、僅かな隙も気の迷いも無いことを見て取ると、「他の部署から推薦されるようならば致し方ないだろうな」
目を細めた青年は白い歯を見せると、前髪を掻き揚げてから、その腕の肘を肩まで上げ、握り拳の親指と人差し指の付け根を口元に宛がった。組織の最敬礼である。
「その際は我々にお任せください。必ずや、アナタを優位に立たせてみせましょう。“紺青の魔女”――ミーエリッキ女史は賢いお方ですので、きっと我々の話に耳を傾けて頂けることでしょう」
「……世辞として受け取っておこう」
青年が拳で隠した口元の上の、日の出か、あるいは日の入りのような半円の双眸を崩したのは、「ところで、奴はどうした」と長官が問うてからだった。
「またフラついているのか」
「声は掛けたのですが、すぐに行方を暗ませてしまうのでどうにも……」
赤毛は申し訳なさそうに空笑いをした。
「これがいかに重要な任務かということを理解していないのか、奴は」
「理解はしているんじゃないですかね、さすがに。ハハ……」
「まぁいい。ルイーサのこともある、お前達にはすぐに発ってもらう。どんな手を使っても構わん。部隊コード〈DUST〉の名の下、埃のように〈アルパ〉とバーグ双方の懐に潜り込み、連中の謀略の全容を掴め。息の根を止めてやるのは、その後だ……!」