〔八〕
俺は夢でも見ているのか。
月下にて様々な格好で宙に浮かぶ建物。同じく浮遊する大小の瓦礫は飛び石のように点在し、立ち上る砂煙は汚い色の綿菓子のように地表近くで固まっている。
それでさえも驚きなのに、自分達は宙に浮く瓦礫の上に立っているし、ヘレティックとかいう化け物連中はこの状況にも拘らず戦闘を継続している。
特に赤毛のアフロ男とガイコツ男の超能力バトルは常軌を逸している。
まるでファンタジーだ。現実ではない空想世界に足を踏み入れてしまったようだ。
「呆けてないでエイムを合わせろ」
自分達を率いるキャプテン・トマスの声で目が覚めた〈フェリズ〉の生き残り達は、急いでアサルトライフルを構えた。
ライフルの名称はFN SCAR。米特殊作戦軍に採用されている汎用性の高い小銃だ。付属武装――所謂アクセサリを着装できるピカティニー・レールが標準装備されており、〈フェリズ〉の隊員らは夜戦に合わせて暗視スコープを取り付けている。
彼らは空飛ぶコンクリートの上で匍匐すると、折り畳み式のストックを伸ばして肩に当て、右目で暗視スコープを覗いた。
カズンとガイコツ男が空中の建物や瓦礫の上を跳ねながら、不可視のエネルギー波をぶつけ合っている。先程から唯一吹き荒んでいる突風は、その波動によるものらしい。
「今俺達にできるのは、あの死神のような面の男に休まる暇を与えないことだ」
言って、ファイアと告げる。夜のしじまに発砲音が重なる――が、銃弾は標的に届かない。まるで透明の壁に当たったように同じ場所で弾かれる。
それを見兼ねたように、鬼となった酒顛が血のように赤い長髪を揺らしながら飛び石を渡り、ガイコツ男に重い拳を食らわせた。
酒顛と入れ替わるようにトマスの傍まで戻ってきたカズンが言う。
「おいトマス、恥をかかせるんじゃねぇよ。まるで俺様がお前の手を借りてるみてーだろうが」
「見てのとおりだ。お前達、そのまま続けろ。このヘレティック様に恥をかかせ続けろ」
トマスはにべもなくそう命令すると、「エイム、ファイア」
カズンはフンと鼻で笑い、「ったく、マジでイイ度胸してるぜお前」
「俺も勝ちに拘る男だ。隙あらばハイエナにもなる」
「はんっ、〈フェリズ〉のくせにイヌになろうってか」
「ハイエナはネコ亜目のハイエナ科だ」
あの面でネコは無ぇだろうがよ!
他愛ないことで揉めている彼らとは裏腹に酒顛はガイコツ男を追い詰めていた。
真上から落下しながら放たれたダブル・スレッジ・ハンマーを、ガイコツ男はバリアーによって辛うじて防御する。
「んうっ!?」
「が あ あ あ あ あ あ っ !!」
本来ならこうしてバリアーを作ってしまえば、強い斥力で相手の如何なる接触も跳ね除けることができる。しかしこの赤い頭髪の巨大な悪魔はその斥力を耐え忍ぶどころか、押し返そうとしている。
悪魔の目が光って見える。網膜に輝板でもあるのだろうか。夜行性の肉食動物などにはそういう目の構造があり、さらにそれはグアニンという光を得ると白く輝く物質でできているようで、微かな光でさえも反射させて夜目を利かせているらしい。
化け物だ。ガイコツ男は素直にそう思った。自分も長らくそう呼ばれてきたが、こんなにも姿形を変身させるヘレティックを見るのは初めてだった。
恐ろしい。ガイコツ男は息を呑み、足を引いた。すると踏み外し、瓦礫の上から落ちてしまった。
「うっは、さっすがリーダー! チョー豪快!」
「はしゃいでねぇで俺達も行くぞ! カズン!」
「命令すんな!」
ガイコツ男の地上への落下に合わせ、一同を乗せていた空飛ぶコンクリートの絨毯は着陸した。
すでに飛び降りていたケンとエリは、標的に向かって駆け出していた。
着地ポイントでは酒顛とガイコツ男が競り合っていた。そこでも酒顛に軍配が上がるかと思いきや、彼は《念動力》によって文字通り足を掬われ、後ろに転んでしまった。
すかさずケンの足がガイコツ男の左から忍び寄る。直撃の寸前で動きを食い止めるも、エリに右腕を二の腕から切断された。
「つけ上がるな!!」
悲鳴を上げながら、ガイコツ男は激怒した。彼の周囲にあるあらゆるものが見えない波動によって吹き飛ばされた。酒顛の巨体も例外ではなかった。
まるで〈AE超酸〉のように彼の足下の地面が半球状に抉られる。
彼はしばらく重力に逆らって浮遊していたが、「お前がな!」と叫ぶカズンの声に気付くと着地し、止血する間も無く残る左手を天に向かって掲げた。
瞬間遅れて、先程まで浮遊していた――カズンの《念動力》によって空間座標の一点に縛られていた建物や瓦礫が一挙にガイコツ男へ降り注いだ。
情けも容赦も無く矢のように降り注ぐそれらに為す術が無かったか、彼の姿は粉塵と爆音の中に消えてしまった。
トマスは警戒を解かぬまま、カズンを横目でちらと見た。
カズンは動かすのも辛いであろう左手まで噴煙に向けている。両手を土団子を作るように動かすと、ガシャンゴコンと噴煙から音が鳴る。
煙が晴れて星明りに照らされたのは、瓦礫によってできた巨大な球体だった。
まるで人工の惑星だ。トマスらが唖然となっていると、カズンは両手の中に投影している小さなそれを潰すように指を交互にし、手の平を合わせた。
ぐしゃりと球体が潰れる。スクラップの塊が、さらに見る影も無いほどに拉げる。
おおとノーマルが楽観的な歓声を上げる中、カズンは球体の中に意識を凝らし、ケンはそっと耳を澄まし、エリは熱源を感知する為に目を閉じた。
三者が三様に頭を擡げた時には遅かった。
ガイコツ男の斬られた右腕が、切られたばかりのトカゲの尻尾のようにのた打ち回り――それどころかミサイルのように宙を飛び、エリの首を掴んだのだ。細い腕からは想像もできない力で締め上げられた彼女は、甲状軟骨がみしりと音を立てたのを聞いた。
ケンがその右手を彼女から引き剥がそうとする中、酒顛は自慢の怪力で球体を殴り壊した。中からガイコツ男が飛び出し、受け身を取れずに荒野に転がった。
〈フェリズ〉の中で唯一気を緩めていなかったトマスが直ちに狙撃する。
しかし例によってその弾丸はガイコツ男の鼻先で止まると、何事も無かったように地面に転がった。
「神の子…」
倒れ、砂に塗れるガイコツ男は、自分に迷いも無く銃口を向け続けるノーマル達を見て、悔しげに涙を流した。
* * *
ボスが、口を開いた。
「甥にあの座を譲り渡しても尚、このような形ばかりの紛い物に縋りついておられるとはな」
『相も変わらず吹きおるな、ボス。しかし後継も見出せん貴様に、引き際を語られる謂れはない』
元合衆国大統領ディカエル・プレマンはそう切り返すと、嘲るように短く笑った。
ボスは表情に出さなかったが、一秒の沈黙が図星を指されたことを物語っていた。
おそらくボスは話頭を転じるつもりだ。その為に会話が途切れてしまうのは得策ではない。フリッツは組織に主導権を握らせる為に執務机に身を乗り出した。
「お初にお目にかかります、プレジデント・プレマン。私はネイムレス情報部のFと申します、以後お見知りおきを」
『反論一つできぬ上司を押し退けてしゃしゃり出てきたところ悪いが、貴様のような斥候風情と話す舌は持たん』
強い言葉だ。
取り付く島も無い彼の物言いに、フリッツは思わず笑みをこぼした。
「〝アルパ〟ですか。確かに世界規模の情報を知悉していると豪語しておきながら、アナタ方の存在を今日まで感知できなかったのは我々の高慢さが招いた結果なのでしょう。アナタ方が我々を嫌悪し、駆逐しようと画策するのも尤もだ。しかし、互いにまだ歩み寄ることはできるのではないでしょうか?」
『嫌悪、駆逐、そう言ったか?』
「ここで得た情報からは、そのように窺えます」
堪え切れなかったように、プレマンは笑った。
「何がおかしいのです」とフリッツが問うと、今度は一転、自嘲するように答えた。
『それは笑いたくもなるだろう。後継にと思ってきた連中が、我らの宿願の一切を理解していなかったのだからな。ボス、先程の非礼を詫びよう。我々は所詮、同じ穴の狢だ』
フリッツは床に転がる初老の男達を一瞥した。
彼らはまだ狂ったレコードのように掠れた声で国歌を口ずさんでいる。しかしてその口調は次第に強まり、プレマンに必死になって縋りつこうとしているようだ。
「彼らもアルパの構成員でしょう、しかも幹部のはずだ。その彼らが何を理解していなかったと言うのか」
『言葉の綾で、嫌悪や駆逐などという手緩いことを言うとは思えん。我々アルパは貴様らヘレティックを憎悪している。至上目的を言えば、全てのヘレティックの殲滅だ。それを理解しておらんその二人は、アルパの名に相応しくない』
国歌は途切れ、床は涙に濡れた。嗚咽は無く、それでも続けようとする口からは声が出ていなかった。
「全てと仰る。それは、アナタが飼っておられる番犬も等しくですかな」
ボスが問うと、『無論だ』と彼は即答した。
『しかし、それを理由に奴らの説得を試みても徒爾に終わるのみだ』
「アナタ方を神と崇め、ノーマルを神の子と慕い、両者の安寧のみを生き甲斐としている為、ですね?」
ここで捕縛した二人の元大統領の記憶を部下に覗かせたところ、彼らに首輪をかけられているヘレティック達はそうした設定の下、洗脳を受けているらしい。その洗脳は非常に強力で、ともすれば熱心な信仰に近いものがあるようだ。
『同属たる全てのヘレティックを討ち滅ぼした時、連中は自らその命を絶つ。貴様らとは覚悟が違う』
「窮鼠にしてもやることが下劣ですよ、プレジデントともあろう方が」
『我らを悪魔と罵るか? しかしな、我らは彼らに正義を与えたのだよ。働き次第では英雄として国葬すらも考えている』
「ナンセンスですな。我々をウィルスのようにお思いならば、その対処方法を大きく間違えておられる」
もしもヘレティックを癌だと喩えるなら、病巣を切除しなければ根治には至らない。
「我々の根源は何を隠そうアナタ方人間だ。アナタ方が滅びなければ、ヘレティックはこの世に永遠に生まれ出てきましょう。無益なイタチごっこを続けるのがアナタ方アルパの本懐なのでしょうかな?」
『変わらんな、ボス。貴様はずっとそうだ。人の為、世界の為と言いながら、結局はヘレティックの存在意義を確立したいだけなのだ。そしてその目はいつも、我々人類に取って代わろうという野心で満たされおる…!』
政治家が国のトップを目指す。腹に一物を抱えず純粋さだけでそれができる者はそうはいないはずだ。おそらくほとんどの者が利慾や野心を、国益などといった方便に置き換えるのだ。正直者は馬鹿を見るとは言うが、そうした腹芸の心得が無い者は一つの駒以上には成れない。
このプレマンがどういう志で政界に足を踏み入れ、あの座に着いたのか、そういうものはボスには解らなかったが、初めて逢った時から見抜けていたことが一つだけあった。
屈辱だったのだろう、ということだけは。
『真に人の未来と安寧を思うのならば、貴様らは潔く自らの存在を否定し、この世から消えてしまえばいい。このアルパは、恩着せがましいお題目を並べられ、手の平で踊らされている我々人類の怒りの象徴であり、最後の聖域となるよう設立された』
憎悪と言うだけはあるか。
フリッツは、積年の恨み辛みを吐き出すような彼の声から心の震えを聞いた。彼は本気でヘレティックを根絶やしにしようと考えているようだ。
しかし世界中が彼と思いを同じにすれば、たかだか十万にも満たないヘレティックを掃滅することは容易いだろう。仮にネイムレスとREWBSが結託して反抗作戦を展開したとしても、防戦からは抜けられず、世を暗くするばかりのはずだ。
そもそも、このボスが世界の総意に対して抵抗するとは思えない。それを自覚しているから、早急にアルパを壊滅させたいのかもしれない。
フリッツは、プレマンの言葉に聞き入るボスの横顔を一瞥した。
『そうだ、聖域なのだ。真実を知る我々が、人類の守り手とならなければならん』
両者の想いは同じだった。
どちらもが世界と人の世に光り射す日を夢見ている。その導き手としての主導権をどちらが握るか、それだけの違いだ。
我々に人類と争う意思は無い。
彼がそう返そうとした矢先、フリッツの通信機が鳴った。どうしたと問いかけるより早く、『奴です! 回線を回します!!』
イヤフォンから聞き、〝奴〟と呼ばれる者を脳裏に過らせると、全身が粟立ち、汗が一息に噴き出した。悲壮な顔で、「ボス!!」と叫び、通信機からプラグを抜いて音声をオープンにした。
彼の一連の動作を待つように、〝奴〟は言葉を紡いだ。
『これで役者は揃いましたかな』
『貴様、何者だ!?』
〝奴〟の声は二重になっていた。一つはフリッツの通信機だが、もう一つはプレマンとの会話に使っている電話機から響いていた。
『はじめまして、プレジデント・プレマン。そしてお久しぶりです、ミスター・ネイムレス――ボス』
ボスの脳裏には、椅子から立ち上がりこの異常事態に驚きを隠せないプレマンと、彼の協力者であろう帽子を目深に被った若い――あまりに若い小柄な研究員が唖然としている様子が浮かんでいる。
それは深く同情できる光景だった。〝奴〟の出現――一方的な接触により、それまで秘匿されてきたはずの存在や居場所が全て露呈されてしまったことになるのだから。
〝奴〟は言う。相変わらず機械で処理された無機質に近い声で言う。先程のプレマンの登場を踏襲するように言う。
『私はバーグ。ただのしがない情報屋です』
デジャヴのようだ。
プレマンは直感した。コイツにピエロを演じさせられてしまったのだと、赤面するほどに。
* * *
HQ北方にあるオペラハウスの天井は崩落しかけている。一部の鉄筋と屋根はすでに焼け落ち、整列している座席を踏み潰している。
「アリィーチェ逃げろ! 戦わなくていい、逃げるんだ!」
座したまま身動きを取れない誠が叫ぶ。彼の右太腿には鉄棒が刺さっており、それが釘のように壁に打ち付けられている。
彼の視線の先には、攻防を繰り返すアリィーチェと隻眼の姿がある。
アリィーチェは、言霊を巧みに使い分け、隻眼の動きを事ある毎に制御していた。《不動》と言っては電撃を放射しながら猛然と襲い来る隻眼の動きを止め、《不能》と叫んではセンスを使用できなくしていた。
それでも隻眼の脅威は押さえ切れない。《不動》にしても光そのものである雷撃を身体から放射され、《不能》になれば一歩でも近付いてくる。二つの言霊を交互に繰り返し連呼するのに加え、《盲目》や《幻覚》などを織り交ぜてみても、彼の圧倒的な殺意に身体が竦んでしまう。
苦し紛れに《心不全》と唱えると、それは諸刃の剣となった。心臓へかかる負担を除けば、《不動》でも《不能》でもないその状態は限りなく〝自由〟だからだ。
胸の痛みや苦しみに気付いていないのか、隻眼は膝から崩れ落ちながら雷撃を放った。それはアリィーチェが盾にしていた椅子を弾き、彼女を吹き飛ばした。
巨大な鉄筋の角に腰を打った彼女だったが、ボディアーマーと戦闘服が緩衝材としての役目を果たしてくれたお蔭で九死に一生を得た。しかしか弱い少女にはその最大限抑えられた衝撃ですら応えるものがあり、再び立ち上がるのにも一苦労だった。
軽い眩暈を払おうと頭を振っていると、「アリィーチェ!!」隻眼が全身から電気の帯を輻射しながら肉薄していた。
後ろへ飛び跳ねようとした彼女だったが、フリルスカートの裾が壊れた椅子の骨組みに引っ掛かってしまっていた。
隻眼の光る右手が彼女の顔へ伸びる。肌の接触より先んじて、電撃が迫り来る。今更《不能》と叫んだところで、一度放たれたそれを止めることはできない。
万事休す。苦し紛れに、「《不発》っ!!」と願いを口にする。
すると背祈願の腕からは、機械が故障したような白煙が立ち上り、彼女の顔面に掌底を食らわせるのみで済んだ。
彼女が鼻血を流して倒れるとスカートの裾が破れた。
隻眼は不思議そうに腕を見る。センスは正常に発動するようだ。
ホールの中腹で起きる一連の光景に、誠は呼吸を忘れていた。冷や汗が止まらず、気持ちばかりが先走って身を乗り出した。激痛を覚えてから足に刺さった鉄棒のことを思い出した。
痛い。痛くて動かせない。患部の近くに触れるだけで辛い。
そうしている間に隻眼はアリィーチェの首根っこを掴んでいた。
〝アナタにアリィーチェは守れない〟
動悸が打つ。耳の奥で、彼女の重い言葉が蘇る。
「よく足掻いたが、な。相手が俺だったことが運の尽きだ」
俺は、タフネスなんだよ。
そう言って、隻眼はアリィーチェを片手で持ち上げる。
せめてもの抵抗か。彼女は足をばたつかせ、自分の首を締め上げる太い腕を両手で掴んで爪を立てる。
しかし隻眼はそんな子猫の甘噛みにすら手心を加えず、無情にも腕に電流を流して引き剥がした。
アリィーチェは短く悲鳴を上げると、両手をだらりと下げた。手の平からは血が滴った。
〝アナタだけじゃない、私以外の誰にも彼女は守れない〟
誠は鉄棒に手を掛けた。
痛い――が、痛いのが、何だと言うのだ。
ネーレイがいない今、誰がアリィーチェを守ってやると言うのだ。このまま彼女は誰の助けも求められず、死んでしまうしかないのか。
それを俺は、黙って見るしかできないのか。痛い、ただそれだけを理由にして。
一々腹を括るまでもない。鉄棒を両手で握り、歯を食い縛って、足を前に出す。《韋駄天》を使いながら起き上がり、右足に鉄棒を通していく。鉄棒が動かないなら、こうして足を動かすしかない。
長い棒だ。気が遠くなるほどに、長い。それでも、誠は激痛と向き合った。
「せめてもの情けだ。あの女のようには苦しまぬよう、一瞬で散らせてやる」
アリィーチェは、天井を見上げた。ぽっかりと空いた穴からは白み始めた空が見えた。
想い出す。あの日を想い出す。
ネーレイがラボから連れ出してくれた日も、同じような早朝だった。肌寒く、ぶるりと震える身体を、彼女はそっと抱き締めてくれた。輸送機から見た朝焼けは美しかった。
仇討ちを果たせなかった。そう思うと涙が溢れてくる。この懺悔は、彼女に届いてくれるだろうか。
彼女の髪が一帯に充満していく静電気で逆立っていく。対して涙は変わらず頬を滑り、落ちていく。
それが平たい何かに掬われ、弾けた。
隻眼は一つしかない我が目を疑った。
早河誠が、左手で少女の腰を抱えつつ、右手の刃の無い剣を自分の腹に宛がっていたからだ。
誠は〈エッジレス〉を振り抜いた。それは隻眼の腹に食い込むと、一息に彼を押し退けた。隻眼が壁に激突している間に、遠心力で身体を回転させた彼は、床を蹴って舞台の方へ飛び降りた。足の傷はすっかり塞がっていた。
「大丈夫、アリィーチェ?」
椅子を盾に身を隠した誠はそう言った。
アリィーチェは唖然としていたものの、彼の眼差しからネーレイの優しさを感じて泣きじゃくった。「ネーレイ……ネーレイ……!」と彼に抱きついて訴えた。
「解ってる。でも、だからって復讐なんてしたらダメだ」
その一言に彼女は、「唐変木! 朴念仁!」と怒鳴って彼を突き飛ばした。ホールの端にある階段を上り、中腹で倒れる隻眼に向かって、「《心不――」言いかけるも、誠は彼女の口に指を挟んで止めさせた。
「〝仇を討て〟って、あの人は言ったのか……?」
「!」
「自分が死んでも、キミにREWBSを殺し続けるように言ったのか!?」
ネーレイはいつも、自分の復讐心に対して肯定も否定もしていなかった。自分の自由にさせてくれていた。
終ぞ、その自由を取り上げなかった。ただ温かく見守って、ただ優しく抱き締め、手を握ってくれるばかりだった。
〝愛してる〟
彼女は最期にそう言った。そう、言ってくれた。
「アリィーチェ。今日でもう、こんな不毛な争いはやめにしよう」
誠は彼女と向き合うと、肩膝を突いた。彼女の血まみれの両手を優しく包むように握ってやった。
「許す必要なんて無い。キミの怒りは間違っていないんだから。だけどさ、だからって、許せない相手と同じことをしてしまったら、キミが最初に抱いた気持ちは嘘になるよ」
記憶が戻っていく。これまでの日常が高速で巻き戻って、ラボでの苛酷な日々が想起された。
神も仏も無い。あるのは注射器と薬品と、心も身体も壊死しているような人型の何か、そしてそれらが放つ腐った臭いだけ。
滅入る以上の気分が無い。そんな中でひたすら思っていたのは、〝何故〟と――
「キミは、思ったはずなんだ。〝自分は悪くない〟って」
脳髄が痺れた。
涙すらも枯れていたあの日々に散々抱いていた暗い感情が、ダムが決壊したように流れ出てきた。
「きっともう、そんなことすらどうでもよくなっているんだろうけど、オレはこれ以上、キミが血に塗れていくのを見ていられない。ネーレイさんだって、きっと望んでいなかったはずだ。キミがこんな風に戦うことを」
アナタに何が解るの!?
そう思いつつも、ネーレイが時折見せた寂しげな、辛そうな、複雑な微笑みを想い出す。その顔を見せるのは、決まって戦闘区域の中だった。任務の時ばかりだった。
「でも仕方なかったんだ。キミのことが本当に大切だったから、キミの願いを叶えてやりたかったんだ。キミが今までやってきたことが、あの人が思い至った唯一の方法だったんだ」
自分はそれを知りながら、それを笠に着て、それを免罪符にして、心のままに復讐を果たしてきた。
愛してる。
それが、彼女の自分への想いの全てだった。
だから、何も言えなかったのか。言いたくても、言えなかった……。
「もうやめよう、アリィーチェ。ネーレイさんがキミの為に捨てた気持ちを、オレがキミの為に拾い上げるよ。もう汚れなくていい、キミは可愛い女の子なんだから」
これで完成っと。
デヴォン島基地のネーレイの自室に呼び出されて来てみれば、彼女はそう言って一着のドレスをアリィーチェに当てた。彼女が仕立てたらしい黒いスカートに白いフリルの付いたそれは、アリィーチェのサイズにピッタリだった。
『年頃なんだから、基地にいる時ぐらいはオシャレしないとね』
すっかり気に入ったアリィーチェは、普段着としてだけでなく戦闘服の上からこれを着て、その更に上からボディアーマーを装着するようになった。
しかしあまりに不恰好なのを見兼ねたネーレイは、兵站部に掛け合って、特注のドレス型の戦闘服を作ってもらった。
それが、このボロボロになったドレスである。初めて着た時に、『やっぱり似合う。可愛いわよ、アリィーチェ』とネーレイは褒めてくれた。本当の姉のように。
一生忘れない。だから、涙がボロボロと零れた。
誠は目を剥いた。彼女が泣きながら、顔を赤らめながら、微笑んでいたからだ。
これでいいんだ。よかったんだ。
胸を撫で下ろす誠だったが、辺りが光に満ちるとすぐさま彼女を抱き寄せた。
流星群のようないくつもの光の茨が天井に突き刺ると、オペラハウスの崩壊が始まった。
* * *
銅鑼を鳴らしたような轟音が、すっかり荒野へと変わり果ててしまった廃墟地帯に爆ぜる。この後、リセッターがどのように処理するのかという疑問は、奏者である酒顛の脳裏の片隅にすら介在していない。
今の彼は鬼である。正気を失くした、〝大江山の暴れ鬼〟である。一度敵と認識した者を殺すか食らうかしなければ止まらない、現世に蘇った凶暴で凶悪な鬼の頭領である。
そして彼が振るう拳は、城攻めで城門を破る為に使われる破城槌よりも強力だ。まともに食らえば一溜まりも無い。もしもバリアーを張っていなければ、ガイコツ男の身体は木っ端微塵もいいところのはずだ。
ガイコツ男は、だからこそ耐え忍んだ。不可視の斥力で、左右から交互に放たれる重い拳から身を守った。
彼らの周囲には、首を刎ねられ、胴を潰された〈フェリズ〉の死体が並んでいる。そればかりかケンは右腕と右足を、エリは両腕を折られ、カズンは肋骨と内蔵を潰されて身動きを取れなかった。
つまり今、この荒野に立つのは両者のみ。
だが、ガイコツ男は酒顛の猛攻に嫌気がさしていた。こうやっていつまでも踊るように暴れられては身が持たないと思った。
右腕は切断されている。出血と酸化を防ぐ為に《念動力》で止血はしているが、気を緩めれば傷口は開いてしまう。
「驕るなよ、化け物めぇっ!!」
振り翳し放った酒顛の拳は空を切った。身体は宙に浮き、いつかの誠のように空間座標の一点に固定されてしまった。
ガイコツ男はバリアーを消すと、酒顛に向かって左手を向けた。開いた手の平の内、中指の爪を親指の腹に引っ掛けた。そして想像した。目の前にある酒顛の巨大さを否定し、もっと小さな人形を脳裏に描き、それに向かって指を弾いた。
酒顛は吹っ飛んだ。まるで最高速度の戦車に突撃されたような衝撃を受け、瓦礫の山に巨体を埋めた。
飛距離は五十メートル程だ。もうこの程度の力しか残っていないか。ガイコツ男は自身の体力の限界に気付くと、しぶとく生きているらしい三人のヘレティックにトドメを刺そうと踵を返した。
覚束ない足取りで振り返ると絶望した。
「まだ、やるのか…!?」
問い掛ける先に立っていたのは、赤毛のアフロ男だった。
彼は血みどろになりながら、しきりに吐血しながら、執念深い双眸を湛えて答えた。
「やられたく…なかったら、殺せばいい、んだよ」
「ならば望みどおり朽ち果てるがいいっ!!」
不敵に笑うカズンの首を、《念動力》で締め上げる。しかし掴んだと思いきや、彼の《念動力》がそれを堰き止める。
両者のエネルギーが拮抗する中、〈フェリズ〉の隊員がガイコツ男の右手から狙撃する。
だが、銃弾は虚しくも弾かれてしまった。
「神の子、私はアナタ方の為に…!!」とガイコツ男は涙ながらに声を荒げると、弾いた銃弾を操作し、匍匐状態の隊員にそっくりそのまま返した。
そうしてできた隙を突かないカズンではなく、ここぞとばかりにエネルギーを押し込んだ。
気が漫ろになっていたガイコツ男は、急迫したカズンに鳩尾を殴られると頽れた。
「ちくしょう、《豪腕》が使えねぇ…っ」
覚醒助長薬の副作用か。それとも効果が切れたか。はたまた単に体力が底を突いたのか。もはやカズンにはセンスを使えるだけの力が残っていなかった。意地でも強がって笑ってみせるが、本当に笑っているのが膝だというのが何よりの証拠だった。
「許さん。貴様らだけは許さん。罪の無い神の子をこうまで惑わせた貴様らだけは、絶対に許さん!!」
ガイコツ男は、その貧相な顔を血の涙で濡らしていた。底知れぬ力でもってカズンを宙に浮かすと、両手を広げさせ、右足の甲に左足の踵を付けさせた。
そして、逆さに吊るした。
「我らは今日まで神々と神の子らにこの身を捧げてきたのだ! 彼らはこの世の宝だからだ! だというのに、貴様らはそれを踏み躙る! そんな貴様らと同じ血が通っていると思うと反吐が出る!!」
酒顛は打ちのめされた身体を動かせなかった。ケンもエリも同様だった。
ネイムレスとREWBSの違いを懇切丁寧に説明したくても、それをできるだけの気力が残っていなかった。
「お…たが、い…さ、ま、だ……」
カズンはそう言うと、また大量に吐血した。
ガイコツ男は彼の不遜な態度に憤慨すると、左手を伸ばし、彼の首を絞めるように拳を握った。さらに首を千切り取ろうと下に引いた。
「首無しの逆さ磔だ!! 地獄に堕ちろおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!」
「……っ」
空間が、凍ったようだった。
ガイコツ男は伸ばした手をそのままに、自分の右半身に圧し掛かる重圧に目を向けた。
そこにいたのは、青い顔をした男だった。男は折れた左足を引き摺りながら、懐にしがみついていた。
右の横腹に違和感を覚えたので見ると、ナイフが装着されたハンドガンで刺されていた。
Cz75 SP-01と呼ばれるそのハンドガンは、銃身下部にマウントレイルがあり、タクティカルブロックを装着できる。それはマズルガードなどのアクセサリを取り付けられ、この男のように銃剣も選択できる。
男――トマスは、どくどくと流れる敵の血を見つめながら、念押しで引き金を引いた。十九発目一杯撃ち切ろうとするが指に力が入らず、六発撃ち込むと視界が回転した。
「神の子…どうして……?」
「俺は、神の子なんかじゃない。ただの、兵士だ」
共倒れになって、足下の砂埃がわずかに舞い上がる。
するとカズンを縛っていたエネルギーも途切れ、彼は頭から地表に落下した。
ガイコツ男は薄く開いた目で、白々明けの空を眺めた。地平線の向こうに後光が差したように見えると、天に召されることを祈った。
「カズン。お前の…か…ち……」
トマスは青い唇でそう呟くと、動かなくなった。
「……節穴かよ、お前。俺の負けだろうが」
腹から腸を垂らしながらも戦った戦士を前にしては、さしものカズンも減らず口を叩けなかった。
壮絶に生き抜いたトマスは、安らかな笑みをこぼしていた。
* * *
鉄骨の雨が降り注ぐ。
誠はアリィーチェを抱えながらそれらを回避するも、間隙を縫うように駆け抜ける雷撃が行く手を阻んでいた。
「どこかにキミを隠せられればいいんだけど」
ようやく鎮まったのか、鉄骨の竹藪のようになったオペラハウスの舞台の上で誠は言った。
しかしアリィーチェは首を横に振る。その目は共に戦うことを望んでいるようだった。
「ダメだ。キミをこれ以上戦わせたら、ネーレイさんに合わせる顔が無い!」
「復讐」と言って彼女は首を振る。その目に暗い炎は滾っていないように見えた。
彼女の意志を読み取った誠は、立てた小指を出した。
「なら、約束してほしい。絶対に、人殺しはしないって」
小指の意味が解らず戸惑った彼女だったが、見様見真似でやってみた。そうしてから頷いた。意志は、固いらしかった。
誠は差し出されたその小指に、自分のそれを絡めた。火傷を負ったその指を痛めつけないように、優しく。
「約束だ。オレも約束する。人を殺すような戦いは、絶対にしない」
立ち上がると、右の〈エッジレス〉を隻眼に向けた。
「どんなに憎くっても、お前と同じようにはならない!」
「神も仏も悪を滅ぼすというのに、お前は聖人君子にでもなるつもりか? だが、戦う意思がある以上、インドの主義者とは随分違うようだがな」
担架を切る少年に、隻眼はそう返した。
彼が指摘している二振りの〈エッジレス〉を見つめて、誠は言った。
「本当はこんな物も使いたくない。コレだって、結局は鈍器だから。でも託されたんだ、色んな人に。コレとオレのセンスを使って、一刻も早く戦いを終息へ向かわせるように」
「それは困るな。俺から闘争を取り上げてくれるなよ」
「オレはお前を見てしまった。お前を知ってしまった。今更目を瞑るなんてできない」
「とんだ自信家だな、マコト・サガワ。俺を殺せると、本気で思っているらしい」
彼から膨れ上がった殺意を感じたか、「《不能》!」とアリィーチェは叫んだ。
直後、誠は無防備な彼を横薙ぎにした。
直撃を免れなかった彼は再三の壁への激突を余儀なくされた。
「もしもオレが加減をしなかったら、お前はここで死んでいた」
誠は言う。
倒れる隻眼は、一つ瞬きすると、「いいや、それは無いと誓って言える」と否定した。
「〝もしも〟、そんなご都合主義のパラレル・ワールドは存在しない」
そんなものがあったなら、何故この道を歩む自分には右目が無い。
「俺は生きている。それが事実だ。お前によって生かされているのでもなければ、俺自身の意思で生きているのでもない。俺もようやく理解した、〝奴〟というものをようやくな」
次に〝奴〟に出会えたなら聞き出さなければならない。何を企み、何を望んでいるのか、その全てを。
隻眼は正体不明の依頼主の残虐な笑みを思い出すと、やおら立ち上がった。
「俺達は歯車なのさ。そう回るようにしか、そう外れるようにしか定められていない、ただの歴史の一部でしかない!」
悪寒がして、誠はその場から離脱した。整列する椅子を飛び越え、鉄の竹藪に手を掛ける。しかし、「づぐぅっ!?」触れるや否や感電した。花火のように弾けながら、誠は相手の術中に嵌ってしまっていたことに気付いた。
隻眼は鉄骨で押し潰そうとしたのではなく、戦場を電気を流すのに都合の良い金属で満たす為に天井を壊したのだ。さながら、電流のデスマッチだ。
「俺は戦う歯車だ。止めたければ心して掛かれよ、マコト・サガワ!!」
「《不能》!!」
叫ぶも、隻眼の周囲ではしきりにスパークが発生していた。不思議に思いながらアリィーチェは、「《不動》!」と唱えたが、彼はにやりと笑みを返した。
「少女、お前のセンスが脳波によるものなのか、あるいは電磁波などの電気的作用によるものなのかどうか、俺には皆目見当もつかんが、こうして脳周りに電場を作っておけばどうやら干渉できるらしい」
アリィーチェは足を引いた。しかし周りは鉄骨に包囲されており、迂闊に身動きを取れなかった。
「さぁ、少年少女。あえて殺さなかったと豪語する貴様らが勝つか、それともこの世の虚しさを知覚し始めている俺が勝つか、答えは二つに一つだ。解を求めたければ全力で挑んで来い!!」
言うや、影が落ちる。
隻眼が飛び退くと、二振りの〈エッジレス〉が立て続けに空を切った。すかさず、着地する誠に向かって電撃を放つも、すでに彼の姿は無かった。
「貴様らは俺達をREWBSと言う!」
ホール脇の緩やかな階段を下りた隻眼は、舞台下の壁に刺さったままの鉄棒を掴むと、電流を流して引き抜いた。
「そう言われたくなかったら、人の為にその力を行使すればよかったのに!」
肉薄する誠の攻撃を電磁障壁で弾くと、鉄棒で攻めに転じた。誠がそれを避けたのを見計らい、鉄棒の先端をアリィーチェに向けた。
彼女は立ち竦んだ。その格好から放たれる攻撃を知っているからだ。高圧の電撃が放たれても彼女は身を屈めることすらできなかった。辛うじてできたのは目を瞑ることだけだった。
「アリィーチェ、下がってくれ」
恐る恐る目蓋を開くと、肩で忙しなく息を切らす誠の背中があった。〈エッジレス〉を盾にしたらしいが、どこか様子がおかしい。彼の顔を覗き込むと、その目は真っ赤に充血していた。
「マ…コト……」
「早く行ってくれ。じゃないと、キミを巻き込んでしまう」
その異様な雰囲気に、隻眼も武者震いをした。少年から、殺意とは別の気迫を感じた。
もっと戦いたい。
その欲が、隻眼の口を動かせた。誠の望みどおりにアリィーチェが充分に離れてから言った。
「俺は感謝している! 純粋に力のみを追求してきた俺にとって、〝国境無き反乱者〟というレッテルはおあつらえ向きだ!」
「コイツ!!」
消える。赤い瞳の残像を残して、消える。
どこから来る。そういう思考は無意味だった。それ程に速かった。
気付けば右のあばらを粉砕されていた。だが、それは願ったりだった。ソニックブームのような衝撃波と〈エッジレス〉による挟み撃ちに遭いながらも、隻眼は誠の無防備な腹に鉄棒を突き刺した。
「…どうだ、戦いは、楽しいだろう?」
「うっ、げあ…っ!!」
血反吐を吐く誠に、隻眼も真っ赤な歯を剥き出しにしながら言った。
「この心臓の、高鳴りはっ、俺達を、あるべき、本能へと導くっ、鐘の、音だ…!!」
「ち…がうっ!」
誠は腹に鉄棒が刺さったまま隻眼を押し退けると、踏鞴を踏んで後退し、肩膝を突いた。
「何、がっ、違うっ!?」
問う隻眼も不敵な表情に反して呼吸は荒かった。
もはやアリィーチェは、戦いの帰趨を見届けることしかできなかった。
「ヘレティックはっ、センスはっ!」
誠は立ち上がると、引いた足を今一度踏み出した。二歩目で《韋駄天》を発動し、彼の視界から消えた。
隻眼も力を振り絞った。ヴァンデグラフ起電機のように全身に静電気を纏い、周囲の帯電された鉄骨に向かって一息に放電した。すると蜘蛛の巣のように彼の意識も広がり、誠の動きを感知できた。
しかれども、隻眼は遅れた。光の速さで誠の現在地を把握した頃には、すでに彼の爪牙に掛かっていた。
懐に現れた赤い瞳が一息に離れていく。宙に身体が浮いているようだ。
一撃と同時に立ち止まったことで、誠の腹に刺さっていた棒が遠心力で発射されるように抜ける。
「戦争の道具じゃない!!」
赤い軌道が隻眼を包囲する。それは誠の腹から漏れた血か、充血し切った眼光か。さながら赤い糸のように彼を包み――
爆弾が爆発したようだった。
アリィーチェは鉄骨の藪の中で身を屈め、吹き荒ぶ爆風が止むのを待った。彼らの周囲にあった太く大きな鉄骨が、竜巻に巻き込まれたように軽々と飛来していた。
衝撃波と轟音、地鳴りのような震動が全て失せ、辺りに静寂が戻ると、アリィーチェは周囲を見渡してから立ち上がった。辺りは白い砂埃のような靄で満たされていた。
目の前のそれらを振り払いながら歩を進めた。正面に見えた壁らしいものに手を添えると、その肌触りからすぐに鉄骨だと気付いた。慌てて手を離すも、すでに電流は流れていないようで、ひんやとした温度だけが伝わってきていた。
鉄骨に沿い、足下の緩やかな階段を下りていると、「許さない、からな…」誠の声を聞いた。
苦しげな声に嫌な予感を覚えた彼女は足を急がせた。靄が晴れている踊り場まで駆け下りると、下手側の壁に身体を預ける誠の姿があった。
瓦礫に埋もれながら、彼は言った。
「お前みたいな奴は、ぜっ、たい、に……!!」
そう断じて、誠は脱力した。
動かなくなった彼に駆け寄ったアリィーチェは、戸惑いながら彼の首筋に手を当てた。脈はある――生きている、生きてくれている、らしい。
安堵する少女を、ひいては大口を叩く少年を冷笑するように、「哀れ、だな…」と隻眼は吐き捨てた。
彼は誠の合わせ鏡のように上手の壁に埋まっていた。
「どんなに望んでも、お前も、俺達も」
アリィーチェは怒りを湛え、歩き出した。踊り場の中央に転がる一振りの〈エッジレス〉を広い、隻眼に近付いた。
「あの男の、巨大な手の平、からは、抜け出せんというのに、な……」
彼の傍まで近付いた彼女は〈エッジレス〉を振るった。
切っ先が、すっかり脆くなった壁を穿つ。
隻眼はそれを見届けることなく意識を閉じた。彼の頬に、憎しみの涙が落ちた。
アリィーチェはそれを堪えるように空を仰いだ。
小鳥達のさえずりが聞こえる。
煤けた赤い舞台幕に光が落とされていく。
朝日が昇る。