〔六〕
『―レイ…っ』
今のはアリィーチェの声か?
ネーレイは銀行跡から悲鳴のようなそれを聞いた。
そう言えばさっきから、本体が妙な揺れを感じている。意識を乗せたパペットが聞く音と、本体が聞くバスタブの水が跳ねる音が重複している。
目の前では水の牢屋に閉じ込めている企業戦士が今にも息絶えようとしている。もがき苦しみ、それぞれに蠢いていた三十を越える腕は一本ずつ止まり、今では助けを乞う為にこちらへ伸ばす右手と、首にやる左手だけが辛うじて動いている。
最初は威勢が良かった。水の中でもナイフを振り回し、耐水性に優れているらしい拳銃を何度も乱射していた。しかしパペットにそれが通じるわけもなく、今のように動きが鈍くなっていった。牢屋の中には適度な浮力と圧力があるので、男は足を付いて逃げ出せずにいたのだ。
センス《ウォーターテイル》を使えばその水圧さえも自在に操れるが、それをするには本体との距離が遠過ぎる。
彼女のセンスの根本的な原理は、液体が彼女の肌に触れることで覚醒因子と感応することにある。覚醒因子が体内で分泌されるアドレナリンに反応してセンスは発動されるが、意識というものも共鳴する。意識は自我であると同時に、彼女の空間把握能力でもある。つまるところ彼女が直感的に把握できる領域が、センスの発動限界距離ということだ。
さらにエネルギーの話をすれば、生体を動力として発されるエネルギーは一定を保つことが不可能だ。人間のような生物はどの状況下においても外力を受け続ける。
エネルギー保存の法則のようなもので、エネルギー源たる彼女から遠のけば遠のくほど、彼女から放出される水をコントロールしようという意識や空間把握能力はその力を薄めていく。
現在、パペットは2-C――HQから二時方向の六百メートル付近に建つ銀行跡にある。それはネーレイの空間把握能力の限界距離に近く、パペットの操作もまるで電波が届き辛いラジコンカーのように難しい。
もっと近ければ――それこそ百メートルや二百メートルならば、この企業戦士の口や鼻、あるいは耳の穴からなど水を浸入させて窒息させるような緻密で繊細なコントロールもできるのだが、この距離ではこうして牢屋に閉じ込めるのが精一杯だ。絶命まであと一分は掛かるだろう。
アリィーチェがどうしたのか。
企業戦士を苦しめながら、脳裏にはタイマーのようなカウントダウンが始まっている。しかしアリィーチェのことが気にかかり、集中できない。
「くっ!」
ネーレイにはもはや是非も無く、意識を本体に還すことにした。
我に返った彼女はバスタブから腰を上げると、すぐにシャワー室から飛び出した。
きっと銀行跡では企業戦士が水の牢屋から解放され、噎せ返しながら鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしていることだろう。
しかし今、彼女の脳裏に彼のことなど一つも介在しない。彼女の足を急がせる原動力は、ジャービルでもなければ実行中隊の面々の安否でもない。
ただ一人、アリィーチェというか弱い少女の助けを求める声だった。
通路を走っているとHQの柱に上水を引く配管が沿っているのが見えた。ネーレイは足を止めずに脹脛のホルスターから拳銃を取り出すと、配管に向かって三度引き金を引いた。内一発が直撃すると水が噴き出した。
彼女はそれに触れるとセンスを発動し、引かれる水の悉くを自分の支配下に置いた。手の平から粘膜のように水を伸ばしながら走ると、エントランスへ踏み入った。
そこで誠と鉢合わせた彼女は怒り心頭に発した。
「アナタ、何をやっているの!?」
ギョッとする誠は彼女の名を叫んで腰を引くだけだった。
彼女は意識を高め、エントランス脇にある下りのスロープに向かって洪水を放った。求める水量に耐え切れず、配管が破裂すると、通路は瞬く間に水浸しになった。
誠はその水量に足を竦ませて、スロープを下りるネーレイの背中に圧倒されるばかりだった。
* * *
地下に短い悲鳴と潰れたような音が響く。
そこに美女の嬉々とした声が連なって、空気がドッと重くなっていく。
「ごっめーん。つい昔の癖が出ちゃって、見えないところだけ殴っちゃってたわぁー♪」
事も無げにそう言う彼女の足元には、芋虫のように惨めに丸まっているアリィーチェの姿がある。
彼女は口から涎のような、胃酸のようなものを吐きながら、しきりにネーレイに助けを求めていた。
「まぁアンタ可愛いし、私の妹みたいだし。昔とおんなじプレイすんのも楽しいし! 顔以外全部ボコボコにしてあげるわ! だってみんな、顔さえ綺麗なままだったら、死体になった時も安心できるでしょう!? 私ってホントやっさしいいいいいい!」
狂気に満ちていた。
美女はまた彼女の小さな腹に爪先を捻じ込んだ。
「ぎゃうっ」
「なぁ。さっき何やろうとしてたんだ、面白そうだからやってみなよ」
先程、美女はその姿をアリィーチェに披露するよりも早く、地下に向かってスモーク・グレネードを投擲した。
突如視界全土が一息に灰色と化したので、アリィーチェは咄嗟に「《不動》」と叫んだ。その行為は彼女のお決まりの戦法とも言えないような反射であった。会敵した際にそう叫んでおけば、一先ずは身の安全が約束されるのだ。
しかしこのセンス《ネガティブ・コントロール》には条件が必要だった。
一つは対象が目視できていること。そこに対象の存在を証明できる身体の一部分、影でさえもあれば、それでいい。
そして声が相手に届くことも重要だ。それが英語にしろ何にしろ、言語が通じなくても、声さえ届けばアリィーチェの洗脳波の効果範囲内となる。
彼女のすぐ後ろ、扉の奥に聞き耳を立てるジャービルがいたが、彼には《不動》はかからなかった。それは彼女が彼を洗脳波の標的から除外しているからだ。
それらの条件が、煙幕一つで崩されてしまった。
叫んだ時――充分に煙幕が拡散される前に相手の存在を確認できなかったのだ。手応えの無さから焦燥に駆られたアリィーチェは、ウェスト・ポーチから〈マルチプル・ゴーグル〉を取り出した。それの熱感知モードを使えば忍び寄る敵を発見できると思ったからだ。
だが、それは相手も同じだった。組織の物よりも随分と重そうで不恰好なゴーグルをかけた美女は、逸早く少女を補足すると、彼女の首根っこを掴んだ。
そこからはもう、アリィーチェに抗う術は無く、ひたすらに殴る蹴るの暴行を受けることになった。
そして今、彼女は挑発を受けた。意地があったので必殺の言葉を叫ぼうとするが、耳を引っ張り上げられた途端に声を失ってしまった。そればかりか脱力し、感電したように奇妙な痺れが全身に迸った。
「させねぇよ、バーカぁ」
「っか、あっ…!?」
「《アンチセンス》。それが私のセンス。センスを無効化するセンス。身体の痺れは覚醒因子が機能していない証拠だ。このまま私の身体に触れられていると因子は壊死し、痺れを感じなくなった頃にはお前はただの肉人形だ」
「う、うー…?」
「センスは因子とアドレナリンが活性化することによって発動されるが、どうだ。段々と反抗する気さえも無くなってきただろう。妙にリラックスしちまって、目がとろーんってなるだろう? こんなのさぁ、無敵でしょう? なぁ、エミリア」
誰だそれは?
朦朧とする意識の中、アリィーチェは彼女の目を見た。そこにあったのは、光を映さぬ青いだけの瞳だった。その青も青でくすんでおり、現在と過去の区別が付いていないように錆びついているようだった。
ネーレイ、ネーレイ。
血液から酸素が失われていくような感覚に襲われたその時だった、輝く青が全身を包み、この恐ろしい美女から解放してくれた。その青は限りなく透明だったが、美しい青のイメージが強い、優しい激流だった。
「アリィーチェ!」
叫ぶネーレイは水を得た魚のように泳いで、アリィーチェと美女の間に割って入った。
「何だ、豪雨でも降ってんのか!?」
スロープから流れてくる大量の水は、まさしく霈然としたゲリラ豪雨でも降って川が増水し氾濫したか、ダムが決壊したかのような猛然たる勢いで地下通路に浸水した。
しかしその水は扉の手前で止まり、ネーレイの意識に呼吸を合わせて、美女の周りにだけ集束した。
「そうね、血の雨を降らせてやるわ。この子を傷付けた報い、受けさせてあげる!」
地上であるにも拘らず渦潮に包囲され、動転する美女に、ネーレイは冷徹な言葉を浴びせる。
その頃、誠はエントランスで魔法のような光景を目の当たりにしていた。破裂した配管から忙しなく流れ出ていた上水が、ネーレイと共に地下へと流れていった直後にぴたりと止んで、そればかりか通路やエントランスに一滴も残さずに消え去ったのだ。
腰まで濡れた感覚は確かにあったのだが、組織の戦闘服がいかに揮発性が高いとは言え、こうまで乾ききっているのは不自然極まりなかった。
誠は恐る恐るスロープを下りると、凄まじい剣幕のネーレイに睨まれた。
「マコト君、私はアナタも許せないわ」
そう言う彼女は両手に纏った水の球体に美女を閉じ込めていた。
「アナタがアリィーチェを放置して、その結果、こんな…!」
彼女の視線に引っ張られ、制御室の扉の方を見た誠は愕然とした。
先程まで不貞腐れながらも元気でいた少女が、ボロ雑巾のように、捨てられて瀕死の子犬のように、水に濡れて潰れてしまったドーナツと同じように、ぐったりと倒れていたのだ。
誠は無意識のまま《韋駄天》を使うと、彼女の傍に寄り、慎重に抱え起こした。
呼吸はある。脈もある。しかし薄く開いたまま呆然としているその顔と、ドーナツを齧っていた小さな口から溢れる血、乱れた衣服を見れば、この侵入者にどんな仕打ちをされたかは一目瞭然だった。
「可哀想に。痛かっただろうに。生きているのが奇跡よ。この女の児戯のお蔭? そんなこと誰が思うものですか。アナタがその力で任務を全うしていれば、そもそもこんなことにはならなかったのよ…!!」
「俺が、アリィーチェを…」
「ごちゃごちゃ五月蝿ぇよ、このドブスがああっ!!」
美女はじわじわと拷問のように水圧を上げられていく巨大な水球の中、それを操りながら激情から余所見をするネーレイの腕を掴むと《アンチセンス》を発動した。
するとあっという間にネーレイは脱力し、水球は水風船が割れたように破裂した。
彼女の顔面を足蹴にした美女は、一つ飛び退いて濡れた髪を掻きあげた。腰を打ち、剥き出しのコンクリートの上を滑る彼女に言う。
「あーヤダヤダ。神々のお告げすら聞こえない奴はコレだからダメなんだ。お前らがどれだけ息巻いてるのか知らないが、この世に裏も表も無い。この世は全て神々の所有物だ。それを横から掠め取るお前らは悪そのもの。いいからさっさと潰れてくれよ、滅びてくれよ。あーヤダヤダ、ホントヤダヤダ」
「神々…? どういう意味かしら」
ネーレイは鼻血を拭うと問うた。
「堕ちたお前らに教える義理は無いな。私らも同じだが、私らは神々に見初められた」
「神様…、フフ、そんなものを信仰してどうするの。そんなものがいて、この世の争いを看過しているのならそれこそ悪でしょうに」
「神の子達の争いを言っているのか? アレは試練じゃないか、人も動物だから生存競争を勝ち抜けるだけの強い種が必要なんだ」
「神の子…ノーマルのことかしら」
「取り得も無いようなこと言ってんなよ、クソアマ。絞め殺すぞ…!!」
美女は青筋を立てて憤慨した。言葉と裏腹に銃口を向けた。
連射されるだろうその弾の軌道を歪めようと、ネーレイは咄嗟に自分とアリィーチェの前に意識を凝らした。圧力を上げ引き締まった水分子を縦に積み上げると、まるで壁のように直立した。
しかし発射された弾丸はそこまで届かず、随分と手前で跳弾しているようだった。
光が屈折して歪んで見える水の壁の奥には、男の背中があった。
「殺すとか殺さないとか。どうして女の人でも、そんな風に平気で荒んだ言葉を口にできるんですか」
誠は二振りの〈エッジレス〉を盾にして、凶弾から彼女らを守り抜いていた。《韋駄天》の高速移動で飛び出したのは言うまでもないだろう。
その素早さに度肝を抜かれたのは美女だけでなく、ネーレイも同様だった。だからこそ、アリィーチェをこうまでした原因の一端を担う彼に怒りが治まらなかった。
「エリの言うとおり、本当に優しいだけなのね。アナタには心というものが無いの?」
「え…?」
「私はアリィーチェが大切。誰よりもね。その彼女が、こんな女に痛めつけられた。殺意が芽生えないわけないでしょう…!?」
「んだよ仲間割れかぁ? 見苦しいな。あーヤダヤダ、ホントヤダヤダ」
美女は首を横に振って肩をすくめた。
その彼女から目を離さずに、誠は言った。
「それでも俺は、その場の感情に任せて人殺しなんて道を選びたくありません」
「殺す覚悟も無くて、誰かを守れるなんて思わないで!」
カラコルム山脈の洞窟に造られていた巨大な研究施設の中、レーン・オーランドにも似たようなセリフを吐かれた。
そうだ、覚悟なんて無い。そんな覚悟なんて必要ない。
理由の如何に拘らず、人殺しは、人の死は、誰かに容易く決められるべきものではない。
誠は心に誓った。誓い直した。
間違っていないと。
遠く異国の地でその消息を絶ったらしい父母。自分一人に最期を看取られたらしい祖母。
死は、残された者を否応無しに苦しませる。
そんな悲しみだけを広げて、一体何になるというのか。
「アナタの諦めなんて知りませんよ! 俺はまだ諦めたくないんです!」
「いつか絶望するわよ。だって、その足は危険だもの。人を殺さず戦い続けられるわけがない」
「この足だからこそやれるはずなんです」
「毒されているとは思わないの? セイギ・ユキマチの偉大過ぎる英雄譚に」
「どういう意味です…?」
「彼の存在、彼の強さ、彼のみが成しえた偉業の数々は、組織のヘレティックに決して覚めることのない夢を魅せる毒を盛った。可能性という名の毒をね」
「夢を魅せる…毒――可能性……?」
「ボスやメルセデス、ドウジ・シュテン、ミノル・キヨメ、ゼツ・ルイサ、きっとあの現実主義のネーヴェマンでさえも知らぬ間にその毒の餌食になっていたはずよ。それぞれの想いを胸に、今でも彼の巨大な影に狂わされている。そんなところに、アナタが現れてしまった」
誠は背筋を粟立たせた。正面でじっとこちらに目を凝らしたままの美女よりも、後ろから受けるネーレイの刺すような視線が恐ろしかった。
「確かにその足は希望の象徴足り得るかもしれない。バーグの件があるにしろ、《韋駄天》だから彼らが入れ込むのは無理もない。でも根本が違う。アナタはセイギ・ユキマチじゃない。彼が誰も殺さず一人で困難な任務を完遂したことがあったのは事実。でもね、多くの人を殺した経験があったからこそ強い覚悟があったのよ。想像だけでは手にできないリアルよ。だから夢想家のアナタには絶対にできない、誰も殺さず戦い続けるなんて」
彼らのそれが自分を無視した談笑に聞こえたか、痺れを切らした美女がPDWに火を噴かせる。
誠は二枚の盾に身体を隠した。銃弾が隠しきれない肩や足の先に直撃するが、優秀な戦闘服が衝撃を吸収してくれていた。
「さぞかし楽なんでしょうね。そうやって力に物を言わせて、自分に都合の悪いものばかりを排除するっていうのは」
その言葉は自分に対してか、それとも憎き女侵入者に対してか、ネーレイには分からなかった。
「俺は、自分を知らない。本当の自分が何処にあるのか見当もつかないんです」と誠は続ける。けたたましい銃声が鼓膜を狂わせる間も想いを舌に乗せた。
「早く記憶を取り戻したい。本当の自分を、本当の日常を、本当の人生を、全てを取り戻したい。そして少ない記憶の中にいるあの子に会いたい。もしも願いが叶ったその時に人を殺してしまっていたら、俺はあの子にどんな顔を見せればいいんですか」
あの子――名も知れぬ、顔も思い出せぬ少女。恐らくは記憶を失ったばかりに搬送された病院で、何度も面会謝絶の自分にドアの向こうから叫び続けていたあの少女。
彼女を悲しませたくない。人殺しになって、彼女を裏切りたくない。
「人生なんですよ。人の人生なんですよ。皆そうやってさも当然のように命のやり取りをしてしまうけれど、戦争だから仕方ないって言うけれど、知らなければどうでもいいことだなんて俺には思えない、割り切れない! 俺達は、奪い合う為に産まれてきたわけじゃないはずだ! センスってのはそうなんでしょうっ!?」
誠は思い出していた。いや、ずっと頭の隅に置き続けていた。
あのフランスでの日々――あのレーン・オーランドと出逢った日に、家主のサクス・ペレックのセンスを見せてもらった時のことだ。
それを指し、酒顛は言った。センス、覚醒因子の本質は、本来戦う為に発現したものではないと。
ケンは言った。それを兵器のようにしたのは人間の闘争本能という弊害があるからだ。
誠は問うた。センスの本質を知りながら、それではどうして戦うのか。
REWBSがいるからと、ケンは答えた。
「組織もREWBSも同じヘレティックじゃないですか! 何故解り合わない!」
分からず屋め。
銃火が止み、美女が弾倉を入れ替える頃、ネーレイは手を伸ばすと立ち上がった。水が彼女の手の形になり、誠の襟首を掴むと後ろに引っ張った。
扉にぶつかる彼を背に、言った。
「都合を言うならお互い様よ。アナタもアナタの理屈を押し通そうとしている」
「違う、俺は――」
「違わないわ。どんなお題目を並べたところでアナタにアリィーチェは守れない。アナタだけじゃない、私以外の誰にも彼女は守れない」
「ネーレイさん…!」
「アナタのこと、勘違いしていたわ。ただ優しいだけなんじゃなくて、ただ自分にだけ優しいのね。そしてとっても失礼な子。私達を心底汚らわしいと思っている」
「そんなこと!」
「あえて見せてあげるわ、アナタが嫌う戦争を。人には悲しみを広げてでも、手を汚してでも守るべきものがあるということを、教えてあげる」
これはきっと、姉と言うよりも母親の心境なのだろうとネーレイは思った。
彼女に後光が差すように、一筋の雷が降り注いだのはその直後だった。
* * *
その目の覚めるような雷光と、それが起こした衝撃波は瞬く間に戦場を駆け巡った。
闇夜を羽ばたくファルクは突風と、止まない火災旋風による乱気流に揉まれながら、バラージュがいる建物の屋上へ降り立った。
「無事か、バラージュ!」
「うるせぇなぁ、頭に響くだろ……」
身を屈めながら近付くと、バラージュはぐったりとした様子で腰を下ろし、ペントハウスの壁に背中を預けていた。足元にはいつも後生大事にしている〈ゲイ・ボルグ〉がぞんざいに転がっている。
「状況は最悪だ。あのカズンさえも苦戦してる」
「普段から偉そうな口ばっかり利いてるんだ、イイ薬になるんじゃないか……」
「どうしたんだバラージュ、具合が悪いのか」
彼女はまるで一週間飲まず食わずでいたようにやつれた顔で答えた。
「敵のセンスにやられた。奴の目を見たら身体の自由が利かなくなった。ついでに息もできないくらいに心臓を締め付けられた……」
声にも張りが無いので、男勝りの彼女がしおらしくさえ見える。
「目を合わせるって、相手はバラージュの居場所を確認したのか? この暗闇の高台にいるお前を」
「……そう言えば…そうか」
バラージュはぼんやりとした目を〈ゲイ・ボルグ〉に向けるとそう呟いた。
ファルクは彼女の肩を掴むと揺さぶって、「しっかりしろ、バラージュ!」と言い聞かせた。
「お前がそんなんじゃあ、ウヌバもその内同じ目に遭うぞ!」
「……ファルク」
俯きがちだった彼女はすっと目だけを彼に向けた。
彼はその鋭利な眼光に背筋を凍らすと、自分の口の利き方が悪かったのだと気付いた。曲がりなりにもバラージュは年上で、先輩なのだ。
しかし彼の心配とは裏腹に、バラージュの目の輝きはかつての活力を取り戻しつつあった。
「アタシを裏から降ろせ。奴の死角を奪ってやる」と言うと、バラージュは〈ゲイ・ボルグ〉を両手で担いだ。
「やれるのか?」
「奴は戦場ではしゃいでやがる。まるで新しいゲームを始めたばかりのガキみたいだ。練度の違いを教えてやる」
アレはきっと初陣だ。多少の訓練は積んできたようだが、それだけで自信過剰になっているのは珍しくもない。
初陣は、人を興奮状態にさせるものだ。ハイになるのは紛れもなく興奮だが、必要以上に怯えるのもまた興奮している証拠だ。
冷静になれる奴というのはきっと、正真正銘、真性の戦闘狂だ。
バラージュはあの口の悪いオトコオンナを思い出すとそう分析した。
「ウヌバはどうする」と聞かれると、「囮にする」と真顔で返した。
「マジかよ」
「奴は本当に遊んでやがるんだ。ウヌバにはセンスを使っていない」
ウヌバは運が良い。悪運が強いと言ってもいい。
オトコオンナが冷静な戦闘狂であったなら、きっと会戦時には決着していたに違いないのだ。それをしなかったというのは、やはり遊んでいる何よりの証明だ。
怯えているのなら、アリィーチェのように即座にセンスに頼るはずなのだから。
「よく分からないけど、降ろせばいいんだな」
ファルクは首を傾げつつも翼を広げた。
「降りたらすぐにカズンの援護だ。あの馬鹿の言うことには耳を貸すなよ、一人でやるって無茶を言うに決まってるんだから」
「さすが、付き合いが長いとよく理解していらっしゃる」
「馬鹿言ってねぇで降りるぞ!」
タンデムジャンプのように互いをハーネスで固定すると、バラージュはファルクを引っ張るように建物の裏手から飛び降りた。
ファルクは肝を冷やしながらも、大きな翼に風を受けて降下していった。
* * *
伸びをするように、組んだ手を夜空に近付ける。
高い天井に空いた小さな窓は、満天の星々の最も美しく贅沢なところだけを切り取っているようだ。
それはもう曖昧であるはずのカロンを、善と美の両立たるカロカガティアを、圧倒的過ぎるスペクタクルを、一つの窓枠へ押し込めた美のイデアそのもの。その意義に反して形而下に姿を成してしまったイレギュラー的な究極美。
誰も何も否定できない絶対。
それが今、網膜に焼き付いていく。
この圧倒的な美しさを前に、何故は無い。疑問符の入り込む余地は用意されていない。
私の中の絶対。
だからこうして祈り続ける。発信し続ける。自らも絶対へ近付けるように。
「HQん中に、こんな隠し部屋があったとはなぁ。気付かなかったぜ」
「ケン・ユキマチ…」
「よぉ、アレハンドロ。顔色悪いが、どうしたんだ?」
暗い部屋。
固いドアが許可もなく開かれたものの、そこから光が差し込むことはなかった。ブレーカーが落ちたように通路も変わらず暗いらしく、彼が声を出さなければケンだとは判らなかっただろう。
対するケンが弱々しい星明りに照らされるだけのアレハンドロを判別できたのは、元々彼がいると当たりを付けてこの隠し部屋に踏み入ったということもあるが、彼が放つ二種類の臭いから確信を得ていたからというのが最たる理由だ。
ケンは彼から一定の距離を保ちつつ警戒した。天井に向けていた両手をゆっくりと下ろした彼は、重そうな目蓋を次第に大きく開き、ぎこちなく首を周囲に回らせた。
「それはパラボラアンテナか」と問うケンの視線はアレハンドロの足下に向けられている。民家に設置されているような市販の小さなそれではない、白く巨大な皿型の衛星通信用パラボラアンテナだ。
「そこにテメーが突っ立っているってことは、テメーが輻射器の役割を果たしていやがるんだな?」
本来アンテナには皿の中央から垂直に伸びるレーダー輻射器が設けられている。皿の放物曲面に向かって電磁波を輻射することにより、反射した電磁波は平行を保ったまま任意の人工衛星へ送信される。受信の際はその経路の逆を辿り、輻射器に収束される。
しかしここにある皿には輻射器は存在せず、ケンの言うとおり代わりにアレハンドロが佇んでいるように見える。
「ここが判ったのはトマスのお蔭だ。アイツにはある薬品を混ぜた飲料をテメーらに渡させた。微弱だが特殊な臭いを放つ薬品だ。臭いは俺にしか判らない。ジャービルも飲んだだろうが、個人の臭いと混ざれば判別は可能だ」
アレハンドロは皿の上で唇に触れた。そうしてから彼は唐突に慌て始めた。目を左右に泳がせ、手足をガクガクと音が鳴るくらいに震わせた。
「そしてテメーが制御室に入る前の会話も、奴に持たせた盗聴器から聞かせてもらった。ジャービルにおかしな点が無かったかって? おかしいのはテメーの方だろうよ」
「私は…、私は違う…!」
眉を八の字にして訴えかける彼を、「何が違う」とケンは一蹴した。
「初めて遭った時から妙だった。テメーからは俺達に似た臭いを感じていた」
その臭いはどこの基地にもある臭いだった。外に出ても、一人になってもどこからか漂ってくるので、もしかすると人類そのものに共通する臭いかもしれないと思っていた。
「確証が無かった。今までヘレティックとノーマルに臭いの違いがあるとは思えなかったからな。だが最初の違和感の後に、テメーの臭いを嗅いでみたが、その臭いが消えていた。だから俺は一つの仮説を立てた」
アレハンドロは苦しげに胸元のボタンをギュッと握って固まった。
「やはりこの臭いはヘレティックの臭いで、その発生原因はセンスの発動時にあるのではないか。覚醒因子が活性化することで、臭いを分泌しているのではないか、ってな」
ケンの鋭鋒が、彼を余計に追い詰めていく。
「もう一度言う、確証は無かった。だが、どうやら俺の直感は正しかったらしい。テメーはヘレティックに逢ったことがあるんじゃなく、テメーこそがヘレティックだった。この部屋にはその独特な臭い――センスの臭いってやつが充満してやがる」
もっと早く気付けていればと悔やむばかりだ。
ケンは歯を噛むとアレハンドロを睨んだ。
彼が天井に手を伸ばすような格好を取っていたのは、きっとセンスの発動に必要だったのだろう。そしてそのセンスとはこの位置を侵入者連中にリークした暗号通信の類に違いない。
「私がヘレティック…?」
身に覚えが無い。そんな風にアレハンドロはぼやく。
その佇まいは苦しみながらもどこまでも慇懃で、性悪な本性のようなものは一切醸していない。
「惚けんなよ」
「それでもっ、私は違う!」
言うや、彼はボタンを外し、拳銃を取り出した。自らのこめかみに銃口を宛がった。ケンが瞠目してにじり寄ると、親指で撃鉄を起こして、さらに銃口を捻じ込んだ。きっと離せば痣ができているくらいに。
「私はアレハンドロです! プライズ様の秘書を務めた父の息子! 拾われた恩義に報いる為に今日まで奉公してきた! トマス大尉と同じ、それが私の生き甲斐なのです!」
「テメーがアレハンドロなのは分かってる。ワケのわからんことを言うな。それよりもどうして自分に銃を向ける、事情があるなら話せ、聞いてやる!」
言われて気付いたようだった。
どうもさっきからおかしい。心と身体が均衡を保っていない。同居していない。それぞれがバラバラ、スタンドアローンのようになっているようだ。
ケンは踏み出していた足を引くと、肩の力を抜いた。
「何がテメーをそこまで追い詰めてやがるんだ。今ならまだ引き――」
「返すことなどできない。全ては大いなる流れの中にある」
誰かがケンから語次を奪って答えた。低い声の誰かだ。
この部屋にまだもう一人いるのか?
そんなはずがないと、視覚だけでなく優れた嗅覚と聴覚を動員して室内の索敵を行なった。しかし部屋には自分とアレハンドロの二人しかいない。
まさかと思い、ケンは頭を擡げた。
巨大な皿の舞台の上。星明りの淡いスポットライトが、一人の男を照らし出す。自らに銃口を当てながらも、随分と余裕のある見下すような冷たい双眸を湛える男をだ。
男は言う。野太く低い声で言う。
「誰にも逆らえない、一つの大河だ」
眉間にしわを寄せ、口を真一文字に結び、生固い目には冷徹な殺意が満ち満ちている。
ケンは直感した。これはアレハンドロではない。しかし前言撤回だ。心も身体も確かにアレハンドロに違いないが、全く別の何者かの意識が彼の中に宿っている。
「……テメー、何者だ?」
アレハンドロの皮を被った何者かは、にぃっと奇奇怪怪な狂った笑みを満面に浮かべた。それは人のする顔ではなく、酷く怪物的だった。
全身が粟立つのを実感したケンは、見る間に怪物がアレハンドロの顔を取り戻すのを目の当たりにして呆気に取られるばかりだった。
無表情に彼を見つめていたアレハンドロは、一つ瞬きすると涙を流した。
「あぁ、なるほど。そうだったのか。私は紛い物だったのか」
まるで憑き物が落ちたように清々しい顔を見せる青年は、「それでもプライズ様、アナタは私の主なのです」と呟いた。
「プライズ様。一足先に逝かせて頂きます。お出迎えのご準備を致しますので」
ケンは何もできなかった。
説得も、自殺の阻止も、拘束も、真実を自白させることすらも、何もかもできなかった。
ただ銃声が轟き、血が飛び散り、人形のように受け身も取らずに彼が倒れゆく様を、ケンはただ見届けることしかできなかった。
「バーグ…か……?」
頽れる彼の背中を眩むような光が照らしたのは、その時だった。
* * *
脆いな。
隻眼の男は、施設の屋上から縦に空いた大きな穴を見下ろして感想を述べた。穴の底に深く突き刺さる一本の棒と、それの周囲十メートルほどの辺りで倒れるいくつかの人影に向かってだ。
彼は穴から飛び降りた。三枚の厚い板を通り抜けると、着地の寸前で足元から強力な電磁波を放出した。それらの電子は男の意思によって格子状に縦に整列すると、彼を見事着地の衝撃から守ってみせた。
その様子は、傍から見ればスーパーマンが超能力でもって空を飛び、そしてゆったりと着地する様に似ている。
ネーレイは頭を振ってから身体を起こすと、カズンでもできないようなことをと見覚えのない男を睨んだ。
以前、カズンには聞いたことがあった。やはりスーパーマンになぞらえて、《念動力》で空を飛べないのか、と。返答は、そんなことをしなくても俺様は最強だ、とのことだったが、言ってから顔を背ける彼の横顔には悔しさが滲み出ていた。
きっと彼も何度か試したのだろう。終ぞ成功しなかったのだろう。他人を重力定数から解放し、空中の一点に留めることができても、自身が浮遊し、自在に飛び回ることはできなかったのだろう。
思い返せばカズンは不器用だ。性格だけでなく、手先もだ。もしかすると浮遊や飛翔は理論上可能なのかもしれないが、カズンにはそれができなかったのかもしれない。
しかし眼前に突如として現れたこの隻眼は、パラシュートや他の器具に頼らず、電磁波のみの性質を応用して高高度からの着地をやってのけた。
それだけで分かる。この男はセンスを熟知し、扱いに長ける強者だと。
「ようやく現れやがったな、電気野郎」
隻眼にそう投げかけたのは、彼の背後でぬらりと立ち上がる美女だ。ネーレイ達同様、唐突に突き立った長い棒から床を這って拡散した電子の波に感電し、一時的な脳震盪を起こしていた彼女は、重い頭を片手で支えながら口角を上げた。
「お前には感謝してるんだ。お前がドンパチやってくれたお蔭で、内通者のリークが正しいと判断できたんだからな」
隻眼はどんなに酷使しても歪まない鉄棒を床から抜き取ると、そのたった一つの目を彼女に向けた。その顔もまた、どこか楽しんでいるようだった。
「お前が〝A〟の意思を継ぐ者――確か〝アパスル〟と言ったか。そしてこっちがネイムレスだな」
訳知り顔で言う彼に、「な…!? どうして知ってる!」と美女は動揺を隠し切れなかった。何故なら〝A〟のことも、〝アパスル〟のことも、外に漏れるはずのない彼らだけの隠語だからだ。
「知りたければ俺と戦え」
隻眼の挑発に、美女はあえて乗ることにした。この男は知ってはいけない秘密を握っているからだ。それに情報の出所も突き止めなければならない。
美女には勝機があった。《アンチセンス》さえあれば、あの強力な電磁波も怖くないからだ。
肉薄する彼女は猛毒を塗ったジャックナイフを男に突き出した。
男はそれを胸を反らすだけで躱すと、「それでいい。俺はヘレティックだ、お前達の標的足り得る資格を備えている」
ナイフを縦に小さく、横に素早く、奥へ深く突き出す。それらを隻眼が躱すので、左手に持ったPDWの引き金を引いた。等間隔で撃ち出される銃弾の八割ほどが男の胴体へ向かっていくが、電子障壁が邪魔をする。
拉げた金属の塊は男を避けるように放物線を描くと、左右上下の壁に減り込んだ。
ヘレティック特有の白兵戦を繰り広げる彼らを、ネーレイ達は一先ず静観していた。下手に割って入れば、その後の展開はより複雑になる。漁夫の利を狙うべきか、それとも一網打尽にするべきか、もしくはここは撤退か。
どちらも強敵に違いないが、特に厄介なのは隻眼の方だろう。水が電気を通すのは今時幼稚園児でも知っている。先程は光を感じた瞬間に水の分厚い盾で、自分を含めた子供達を守ったから強力な電気は水中で四散してくれたが、もしも身体を水で覆っていれば一溜まりもなかったはずだ。
現状は最悪。絶体絶命、そんな気分だ。
思考していると、「ネーレイ…」とか細い少女の声が耳朶に触れた。
「アリィーチェ、無事…!?」
アリィーチェは身体を起こすと、震えた手でネーレイの手を取り、うなずいた。
その様子に堪らず、「ごめんね、一人にさせて」とネーレイは彼女を抱き締めた。
彼女も行為を返すと、もう一度深くうなずいた。
ネーレイは彼女の目を見つめた。その意味が伝わったのか、彼女は立ち上がり深呼吸した。
何かをしようとしている。誠がそう直感すると、「マコト君、今の内にジャービルを連れ出して」とネーレイに言われてしまった。
「俺も戦います!」
咄嗟にそう返すと、アリィーチェが強い目を湛えて立ちはだかった。
ネーレイは絡み合うREWBS達の戦況を窺いながら言った。
「状況を見なさい。あの男がここまで来たということは、エリが負けたということよ。彼女を負かすような男を相手に、ジャービルを守りながら戦えると思ってるの?」
「エリさんが…? そんなはず、ないじゃないですか!」
あのエリさんが、やられた? 死んだ?
いつもあっけらかんとしていて、細かいことを気にしなくて、まるで病気のようにワケのわからないことを言って、喚いて、皆を惑わせて、そして誰よりも優しい眼差しで自分を見てくれていた彼女が――殺された?
そんなものは何かの間違いだ。間違いのはずだ。
「私だってそう思いたいわ。でも、いくら希望的観測を並べても、真実が違っても、ここにあの男がいるという最悪の事実は変わらない」
誠は膝をつくと、顔を覆って大粒の涙を流した。
それが背中から伝わってきたのか、ネーレイはじわじわと込み上げる感情を押し殺し、「立ちなさい、マコト君。そしてエリが何の為に戦っていたのか、よく思い出しなさい」
何の為に…。
耳の奥で、彼女の言葉が反芻する。それと重なるように、ケンのセリフも思い出した。
〝テメーも少しは賢くなれよ。お勉強じゃなく、流れを読み取る賢さだ〟
我に返った誠は床に広がる涙の海を見つめて一考した。
エリはジャービルを守る為に戦っていた。もしもここでジャービルを守りきれなかったら、それはエリの命を無駄にしてしまう。
それにまだ、エリが死んだと決まったわけではない。
そしてこの現状、最悪の現状でやるべきことは、やはりこの任務の最大の遂行課題――ジャービルの防衛。ネーレイの言うとおり、彼をここから逃がすこと。
万が一にも、彼の死だけは防がなくてはならない。
「最善の策なんですね、それが」
「そうは思わない?」
アリィーチェはそっと、立ち上がった誠の腹を押した。
彼女を見つめると、自分よりも逞しい瞳が息衝いていた。
「分かりました。その代わり約束してください、必ず生きるって」
「呆れるわね。みんながアナタを気にかける理由がよく分かったわ」
「何ですか、それ」
苦笑する彼に、「褒め言葉よ」とネーレイは微笑んだ。
そんな風に笑えるのにと、誠は唇を噛むと、踵を返した。ドアを開けると薄暗い部屋の中、ジャービルが諦めたような顔で車椅子に腰を沈めていた。
誠は車椅子の手前で腰を降ろし、彼に背中を向けた。
「ジャービルさん、俺の背中に乗ってください」
「どうするんじゃ、小僧」
今更足掻いても何にもならんだろう。
そんな風に彼は言うが、強い口調で返した。
「ここから出ます。なるべく加減しますけど、少し我慢してください」
「我慢…?」
ジャービルは振り向く彼の意を決したような双眸に押しやられるまま、彼の肩に手を掛けた。
誠は彼が上体を背中に預けてくれたのを確認すると、彼の膝関節の裏側に腕を回した。そうしてからぐっと腰に力を入れ垂直に立ち上がった。ジャービルは太っていて重いが、《韋駄天》を応用すればすんなり持ち上がった。
《韋駄天》は脚部だけでなく、下肢そのものに作用する。腰の力が充分に機能すれば、後は重心の置き場を見つけるだけでいい。
今にも爆発して走り出しそうな足から徐々に力を抜き、誠はジャービルをしっかりと背負った。
「彼を高速で走るオープンカーだと思ってください。しっかりとしがみつかないと、簡単に飛ばされます」
「待て、儂はこの少女に用があるんじゃ」
彼の言葉に、ネーレイは目を丸くした。アリィーチェを見るが、その目はREWBS二人に釘付けになっている。余裕が無い証拠だ。
「後で会えますから、今は我々に従ってください」
しかしと言いかけるジャービルの反論を遮り、「とにかく遠くへ逃げるのよ。作戦所要時間を越えたら三十分ごとに信号弾を撃ちなさい。必ず迎えにいくわ」と彼女は言った。
そのセリフは以前にも二度、聞いたことがあった。
一度目はマデイラ諸島の無人島で。二度目はカラコルム山脈で。
「はい…!」
大丈夫。組織の人々は必ず自分を助けてくれる。だから自分も、彼らの役に立たなければならない。
誠の目が決意に満ち溢れたのを確認したネーレイは、アリィーチェの肩に手を置いた。
すると彼女は、「《不動》!」と叫んだ。
片や小銃とナイフを構え、片や竿のような鉄棒を握る両者の動きがピタリと止まった。それはまるで時間停止のようだったが、動かないのは彼らだけだった。
二人は声も上げられず、身に起きた異常事態に動転した。
「行って!」
その合図で誠は駆けた。フルスピードは出さない。出せない。そんなことをすればジャービルの首が飛んでしまうだろうから。
短距離走の世界記録ほどの速さでスロープまで走った誠は、そのまま駆け上がった。トマスと鉢合わせるが、立ち止まらずにエントランスの扉を蹴破って外へ出ていった。
上手くいってくれたか。ネーレイはホルスターから拳銃を取り出すと、身動ぎ一つできない侵入者達の一方――隻眼に銃口を向けた。レティクルを彼の頭部に合わせた。
隻眼は眼球も動かせず、ただひたすらに、必死に身体を動かそうとした。
しかし震えもしない。鼓動と脈だけが体内を駆け巡っている。
ネーレイは引き金を引いた。だが、その心情はアリィーチェのセンスの如く、非常にネガティブ極まりなかった。
きっと銃弾は当たらない。
その予想通り、彼女が放った弾丸は、彼から溢れ出た電子障壁にもならない荒々しいいくつもの電子の鞭によって叩き落された。
《不動》は体の動きを止める技だが、センスを止めるには、「《不能》!」と叫ばなければならない。
動きを取り戻した二人だが、隻眼のセンスは消えていた。彼も自身のセンスが発動できないことを自覚しているようで、ちらと美女の方を見た。
すると彼女は口角を上げ、「そうだな、仮初めの共闘戦線といこうか」
「さっさと嬲り殺しておくべきだったなぁ、エミリア!! 《アンチセンス》は私だけで充分なんだよ!!」
ぞっと身を竦ませるアリィーチェの前に立ち、ネーレイは言った。
「アリィーチェ、いつもの手順で頼むわよ」
見なくても分かる。彼女はうなずいた。
ネーレイは盾に使っていた水の塊から三つのパペットを生み出した。
* * *
「神の子までも受け取らんとは、無礼千万も甚だしい!!」
誠が飛び出したのと全く同じタイミングで通路の窓ガラスを割り、HQに侵入したのは企業戦士だった。彼は群がる〈フェリズ〉の隊員らに名刺を渡そうとするが、またかと言うよりも当然銃撃によるお返しを受けてしまった。
「ネイムレスが惑わせているに違いあるまいなぁ!!」
無数の銃弾に晒された企業戦士は、通路の途中にある厨房に飛び込んだ。手向かう神の子らを不憫に思いつつも、心を鬼にして迎撃行動に移った。
神々に言われていた。
ヘレティックに与する神の子は堕落してしまっているので元には戻らない。葬ってやれば、神々が必ずや天へと導く、と。
企業戦士は涙を拭うと、戸口から長い腕を出し、小銃を撃った。
〈フェリズ〉の二人が連射されるそれの餌食となる。
トマスが小銃を持つ腕に一発当てると、悲鳴が聞こえた。直後、別の腕が現れて、再び小銃が火を噴いた。トマスは角に隠れると、別働隊に裏から回り込むようハンド・シグナルで指示を出した。
「キャプテン、地下の援護はどうするんです」
「ラグドール、お前は三次元の戦いができるのか?」
「は。ヘリを使えば可能かと」
「連中はな、それを自力でやるんだよ。言ってみれば陸空海三拍子揃ったマルチ戦闘兵器だ。対して俺達人間は、どう足掻いたところで装甲が薄くて鈍い戦車もどきだ」
「自分をチハとは思いたくありませんが…」
「ネイムレスの思想には、ヘレティックにはヘレティックをというものがあるらしい。それでも総隊長が俺達を使ってくれているのは、こうした一対多数の場面を想定してのことだ。つまり俺達は何としてもコイツだけは仕留める必要がある」
それが、今の優先事項――生き甲斐だ。
企業戦士の攻撃が止むと、〈フェリズ〉が牽制する。一マガジンを消費すると、今度は企業戦士の牽制。まるで弾丸のキャッチボールだ。
きっとそれが途切れた時が転機だ。
「動きは変わらんか」
トマスは牽制し続ける兵の足元に転がるマガジンを拾うと、彼の肩を叩いて下がらせた。自分が牽制役に代わると、厨房の戸口から影が覗いた瞬間にマガジンを投げた。
この暗がりの中、厨房の戸口の前をカランと跳ねたのが黒い物体にしか見えなかったはずだ。自分なら厨房の奥に隠れるとトマスは思った。その黒い物体をグレネードと直感すればそうすると。
だからトマスは走った。戸口の手前で止まり、本物のグレネードを厨房に投げ入れ、身を隠した。
寸秒後、戸口から破片を乗せた爆煙が噴き出した。
「やったか!?」
誰かが叫ぶも、トマスはライフルの引き金から指を外さなかった。
煙を掻き分ける足が見えた。それはこちらに走ると、出鱈目に銃を撃ち鳴らした。そうして煙の中、光る銃口から企業戦士の位置を特定したトマスは撃った。彼は通路の際で匍匐していた。
ぎゃあと声がし、手応えを覚える。腰のベルトに差していた懐中電灯を取り出し、ライトを点けてから煙の先に投げた。光がくるくると回る中、トマスはライフルの銃床を顔の前に立てると、左手と両足を使って匍匐後退した。
カランコロンと鳴る。バリンとも聞こえたのはきっと、懐中電灯のレンズが割れたのだろう。
今の光に反応したのは企業戦士ではなかった。回り込んでいた別働隊が通路の突き当りから煙に向かって連射した。
しかし今度は悲鳴が無い。
ぞっとして顔を擡げると、「キャプテン、上だ!」という声が本隊から聞こえた。
企業戦士は通路の天井にある電灯に無数の手を掛けてぶら下がり、ショットガンでトマスに狙いをつけていた。
「哀れな神の子に救済を」
「トマス!!」
「キャプテン!!」
ここか? ここで終わるのか?
ジャービル様をあの少年に預けたまま、自分はここで終わってしまうのか?
本当の人生の幕が、ここで下りるのか……?
トマスは床に這いつくばったまま動けなかった。天井に蜘蛛のように張り付く男の目が細くなる。
不意に思い出すのは、ヘル・ウィークと呼ばれる過酷を極める選抜訓練をパスしてSEALsに所属し、中東で極秘作戦を展開していた時のことだ。
反米の武装勢力の隠れ家を夜襲しようと、木々が生い茂る険しい山々を進攻していた。目的地は谷底の集落だったが、ヘリでの接近は困難だった。スパイダー地対空ミサイルシステムを搭載した車両が六台配備されていたからだ。
かてて加えてトーチカもある。もしも内通者がいなければ、地上からの侵入も不可能だったはずだ。
三日歩いた。危機管理室で吉報を待ち侘びていただろう国家の首脳部連中もよく自分達を切り捨てなかったと思う。それは事前に作戦立案書から、長期間の任務であることを伝えられていたからというのもあっただろうが、SEALsに信頼を置いていたからでもあったのだろう。
内通者は自分達十名を集落の外れにある古びた山小屋へと導いた。小屋の扉に彼が勝手に手を掛けるので、急いで彼を突き飛ばし、自分で扉を開いた。小銃を構えて中に踏み入る仲間は、うっと息を呑んだ。何があったと問うと、中は女子供で犇めいていた。
ひぃっ。きゃあっ。
言葉が通じなくても悲鳴だということが分かる。ぶつぶつと言っているのはきっと、助けを乞うているか、罵っているかのどちらかだ。
小屋には五人だけ入り、外に残りを置いた。小屋に入った自分含めた五人は、彼らに銃を向けた。とりわけ多くの女が群がっている辺りが気になった。どうにも床が浮いているようだった。注視すると、彼女らのワンピースの裾が揺らめいていた。床板から風が吹き出しているようだった。
銃口を女に向けつつ、顎で退けと指図した。女達は頑として動かなかったが、すぐ後ろで何かが答えた。咄嗟に振り返ると少年が膝を抱えていた。土で汚れた足元を見つめて呟いている。
言葉はやっぱり分からない、が、確かにある固有名詞が聞こえた。彼らが崇める神の名だ。
我を失い、少年に銃口を向けた。同時に彼もピストルを構えた。少年の頭を、こちらの腹を、それぞれ狙い定め、密着させた。
自分も、仲間も、そして女達も動揺する。しかし少年だけは動揺しない。まるで神に人生を捧げたように、少年の目は純朴な瞳を湛えたままだ。
おそらく何も疑っていないのだろう。神の教えを、その教えの為に他国と争う連中の言葉を、丸々鵜呑みにして、自ら思考するという行為を排除しているのだろう。
危険だ。撃たなければ殺される。誰かが身動ぎした時、誰かが声を上げた時、どちらかが死ぬ。
ならば。
地下だと叫んだ。すると同時に引き金を引いた。腰を捻るも左の腹部に穴が空いた。目の前では少年がその綺麗な瞳を湛えたまま倒れていた。
任務報告書によれば、任務は成功したらしい。床下に武装勢力のリーダーが隠れており、多少の抵抗の後、射殺されたようだ。負傷した自分はその場に倒れたが、意識は保っていた――とのことだ。
確かに意識はあった。しかし脳裏を巡るのは少年の瞳ばかりだった。あの瞳がこれから見ていくだろう世界の輝きを、自分が奪ってしまった。状況によらず、奪ってしまった。
腹の傷が癒えた後、自分は軍病院から逃げ出した。現実から逃避した。気付けばここに辿り着いていた。
ジャービルに出逢わなければ再起は不可能だっただろう。生き甲斐など、見つけようとも思わなかっただろう。
もしもあの時生き残ったのがこの時の為だったのなら、少しは本望だと思う。このような得体の知れない連中相手にここまで戦えたのだから、多少は。
トマスは長くも短い走馬灯から覚めると、そっと目を閉じた。
もういい。ここで終わろう。
しかし、「お あ あ っ !!」という獣染みた雄叫びが彼の決意を掻き消した。
通路の外側の壁がブチ破られ、腹這いのトマスに巨大な影が落とされた。その影は一つ大きく踏み出すと、床を割り、人間の顔三つ分ほどの拳で蜘蛛男を殴りつけた。
すると立ち込めていた煙が爆ぜ、影の主の巨体を露にした。
全長は四メートルほど。身を屈めなければ通路に入りきらないようで、こめかみの辺りから生える二本の角が天井に傷付けている。真っ赤な長い髪と鋭い牙、ホリの深い双眸は悪魔のそれだ。普通なら自立できそうにない筋骨隆々のその肉体は、人には無い複数の筋肉と象のような太い骨によって支えられているようにも見える。
「シュテン、か…?」
トマスは唖然としながらもそう問うた。
すると悪魔は彼を見た。そこへ銃声が轟いた。いくつもの弾丸が悪魔の身体に直撃する。しかしそれらは貫通することなく、ただの鉄屑へと変わっていく。
「無 事 か 、 キ ャ プ テ ン」
〈フェリズ〉による銃撃の一切をスルーして、悪魔――もとい鬼となった酒顛ドウジは答えた。
トマスは立ち上がると、恐る恐る彼に近寄った。部下達が危険ですと呼びかけるも、総隊長なんだよと説明した。
「申し訳ありません。敵の侵入を許してしまいました」
酒顛は相撲取りのように片手を付いて中腰になると、静かに首を横に振った。その目は殺意に満ちて恐ろしかったが、態度は自分に責任を感じているようにも見えた。
おそらく、最終防衛ラインで朽ち果てた部下達の姿を見てきたのだろう。
「地下に、二名の侵入者がいる模様です。ジャービル様は、〈ラッシュ5〉が連れ出しました」
その報告に、酒顛はピクリと反応した。
絶の言葉が過る。またもやマコトへの信頼が不確かになっていく。良いのか、あの二人を一緒にさせて…。
《鬼変化》によって興奮状態になっている頭で考えようとするが纏まらない。今は、目の前に集中するべきだと思った。何故ならさっきの蜘蛛男は、死んでいないのだから。
「酷いことをする…」
企業戦士は言った。
自分を下敷きにしていた瓦礫を押し退け、四方八方に銃口を向けながら続けた。
「アナタは受け取っていただけますよねぇ? 二本角の悪魔と言えばオニ、オニと言えばジャパン。ジャパンはホワイトカラーのメッカ!」
言うや、彼は自らが遵守していた礼儀作法を破り、乱暴にも名刺を酒顛の巨大な顔に投げつけた。
手裏剣のように縦回転で飛来するそれを、酒顛はイソップ寓話の北風ごとく尖らせた口から勢いよく息を吐いた。
名刺は突風に飛ばされ、ブーメランのように押し返されると企業戦士の額に深く突き刺さった。
「おっ、おうおうお…?」
企業戦士は事態を飲み込めず、額からとくとくと流れ落ちる血に触れた。指先は血の川を上り、名刺まで辿り着いた。
青筋を立てると、余計に血が飛び散った。
「もはや慈悲すらもかける価値無し! センス《ヘカトンケイル》の恐ろしさ、存分に味わわせてやろう!!」
全方位への射撃が開始された。
酒顛はトマスを分厚い手で銃撃から守ると、「二 線 級 は よ く 喋 る」と挑発した。そうして巨体をぐっと屈め、やはり相撲のように片手を突いて、腰を上げた。
仕切りである。
あとは行司がいないこの土俵で、何を合図にするかだ。
* * *
「まるで抜き身の魔剣だな」
荒野に一人佇むガイコツ男は、両の手の平に目を落とした。右手は人差し指と中指が、左手は中指と薬指、そして小指までもがぽっきりと折れてしまっている。
想像よりも遥かに激しい痛みだ。今日まで怪我一つしてこなかった自分には何分強過ぎる刺激だ。
ガイコツ男は無意識に荒くなっていた鼻息を整えると、意識を遠方の男に向けた。
男は叫んでいた。
「お前は文句無しの好敵手ナンバーワンだ! だが、勝つのは俺様だああ!!」
カズンは実視界に映る障害物の悉くを粉砕し、徐々にガイコツ男へ近付いていた。
「力を増したか」
ほんの数分前、アドバンテージは完全にガイコツ男の物だった。《念動力》によりカズンの身体を小さな人形に見立て、身体の上下を左右の手で握り、真っ二つに引き千切ろうとしていた。
しかし寸でのところで、カズンはガイコツ男の左右の指を想像し、その細い骨を一つずつ丁寧に潰していったのだ。
あの絶体絶命の状況下で、そうした冷静な判断と集中力を保っていられる。さらには自分にさえも匹敵するセンス。危険だ。
「おお神々よ、やはりアナタ方は正しかった。コレはこの世にあってはならん、終末を呼ぶ力だ……!!」
野放しにしていては、近い将来、人間は我々に食い潰される。神の子は全て異端者に陵辱される。
それは神の世界の崩壊。世の終末。人類の黄昏。ハルマゲドン。ラグナロク。
ガイコツ男はもはや痛くて動かせない両腕をだらりと下ろすと、目を瞑り意識を凝らした。脳幹に熱が篭っていくのが分かる。前身の覚醒因子がそこに向かって神経を集約させていく様が目に浮かぶ。
この戦場の一切を自らの監視下に置こう。そう思うと、空間把握能力が高まってそのようにできる。いくつもの監視カメラロボットが自分と同期しているように、一帯のあらゆる場景が脳裏に投射されていく。
そこへ突如、「俺様はこっちだろうがよぉっ!!」カズンの顔が大きく映った。映像を全て押し退けて、意識の中に流れ込んできた。
ガイコツ男は咄嗟に彼を押し退ける。
カズンは肩を押されたように一歩引いたものの、すぐにガイコツ男の周囲にある瓦礫を彼にぶつけた。
それらを跳ね除けたガイコツ男は近くの施設に飛び込んだ。
「逃げてんじゃねぇよ、へっぴりがああああああああああああ!」
施設の柱を折り、砕き、壊し、倒壊させる。
ガイコツ男は不可視のバリアーでもって沈みかける建物を支えると、それをミサイルのように空へ飛ばした。着弾ポイントは言わずもがな。
カズンはそれを空中で叩き落した。まるで隕石が落ちたように落下ポイントにクレーターができた。衝撃波はきっと、作戦区域を越えているだろう。
「もう終わりか、ガイコツ野郎」
波動に身を晒しながらのカズンの問いに、彼は答えなかった。無防備にも俯いて動かない。
降参したのか、つまらねぇな。カズンはそう思い、右手を向けた。
が、それをすぐに背後に向けた。
それはHQの方だった。
ガイコツ男はカズンを差し置き、アリィーチェの首を絞めていた。
「#6、遊んでいる場合か…!」
「目移りしてんじゃねぇっ!!」
カズンはすぐさまアリィーチェの首を締め付けるエネルギーに、自分のそれをぶつけて相殺させた。
それはもはや科学では証明できないオカルト。次元を超えた彼らだけの理屈だった。
* * *
「《心不全》」
それはアリィーチェの《ネガティブ・コントロール》における必殺の言葉だ。彼女の標的となり、その言葉を聞いた者は体調に拘らず心臓の機能が低下し、やがて血液の拍出を完全に停止させ、死に至らせる。
彼女のセンスは一言につき五秒だけ効果を持つ。効果を持続させるには連呼する必要がある。
そして《死ね》や《心停止》、あるいは《脳死》など、過程の無い死のセリフを吐いても効果は無い。
ならば《脳溢血》でも《脳卒中》でも良いはずなのだが、どうやらアレらは時間が掛かるらしい。被験体だった頃、何度もこれらの言葉の効果を実験させられたが、脳への負担を促す言葉は総じて実際に効果を出すまで小一時間は必要だった。
それはもはや、戦闘では役に立たない。
だから即座に効果を出せる《心不全》は必殺の言葉として適切だった。
しかし、あともう少しで隻眼と美女の息の根を止められるところで、アリィーチェの喉が締め上げられた。
「アリィーチェ!?」
隻眼が苦し紛れに放つ雷の嵐を、水の壁で防ぐ中、ネーレイは倒れる彼女を抱え起こした。彼女は目を見開き、舌を出して喘ぐばかりだった。
直後、耳元でバッと音が鳴ると、アリィーチェの首筋についていた手の痕がすっかり消えた。
噎せ返す彼女に安堵したのも束の間、悶えていたREWBS達が息を吹き返した。
隻眼は鉄棒を拾うと、絡みつく水のパペットに電流を流して分解し、振り払った。そして棒の先端を彼女らに向け、高電圧の電撃を放った。
まずい。
ネーレイは咄嗟にアリィーチェを背に膝を突いた。
電流に晒され、半固体状の水がゼリーのように崩れていく。水を使い過ぎたか、もはや電流が四散してくれるほど厚い壁を保てず、ネーレイは直接水に触れられなかった。
覚悟した。水を切り離した両手を広げ、最大限にアリィーチェを守る生身の盾となった。
まるで、針の筵に全身を覆われたようだった。その衝撃は声さえ上げられず、涙も出ぬほど脳を狂わせた。
左目は完全に死んだ。右目は白い靄で覆われてほとんど見えない。
腕はどうだ。やはり左は動かず、右手も使い物にならないだろう
足は、動く。しかしこの痛みは出血が酷いようだ。
長くない。これ以上は、生きられない。
隻眼は、少女に抱き抱えられる女の朦朧とした瞳をじっと見た。勝ったと確信した反面、彼女を賞賛した。左半身は焼き焦げている。これ以上の戦闘は不可能だ。しかし今の一撃で形を留めているばかりか、息をしていることに驚いていた。
これがネイムレスか。
人間同様、ヘレティックも身体能力で女は男に負けているという話を聞いた覚えがあるが、このネイムレスの女は別格だ。そう思った。
女戦士を抱える少女に目をやった。泣きじゃくり、こちらを見ることもできないようだ。混乱し、戦意を喪失している。
隻眼は踵を返すと、ゆっくりとスロープを上がっていった。
「あの片目野郎、まだ一人残ってるだろうが!」
そう吐き捨てるのは、ようやく立ち上がれるようになった美女だ。彼女は未だに痙攣しているような感覚を抱く心臓を叩くと、落としていたナイフを拾った。PDWはパペットによって壊されていた。
「――レ―、―――イ!」
酷い耳鳴りの中、名前を呼ばれたような気がした。
ネーレイは辛うじて動く右手の小指を動かす。何かが当たり、痛い。これは沁みる感覚だ。
水かもしれない、そう思ってセンスを発動した。やはり体力が底を突いていて、上手くできない。それでも手元の液体からごくごく小さなパペットを生み出すと、視界をそちらに委譲した。
女が覚束ない足取りで接近している。
今度は顔に何かが沁みた。その何かを使って視界を移した。
アリィーチェがいた。
どうやら彼女に膝枕をさせてもらっているようだ。いつもは、逆なのに。
「ガキ、エミリア、死ね!」
刃が彼女に降りかかる。
「神々の救済を受けろ!!」
アリィーチェ、逃げなきゃ…!
いや、私が――
「うおっ!?」
「守るのよ…っ!!」
ネーレイは全身に水を纏い、その水によって逆に動かぬ身体を引っ張り起こすと、地面を蹴って美女を押し倒した。
もう自力で身体は動かない。ならば意識を全て水に譲渡して、肉体をパペットにしてしまえばいい。
パペットは彼女の身体を動かすと、仰向けに倒れる美女の腕をしっかりと広げさせてから拘束した。馬乗りになって、身悶える美女を封じる。
「手に触れなければ、アナタのセンスは怖くない…!」
美女の腕を拘束するネーレイの手の平には厚い水の膜ができている。直接の接触が無ければ《アンチセンス》が発動しないのは、先程までの戦闘で学習済みだった。
美女は肌を粟立たせた。ネーレイが笑っているからだ。額に汗を滲ませながら笑っているからだ。
「おいお前っ、何かしようとしてるだろ!? 離せよ、おい!」
必死に声を上ずらせる彼女に、「あの子の言うとおりだったのかもね…」とネーレイはつぶやいた。
「はぁっ!?」
「こんなところで倒れるんだったら、もっと彼女を大事にしてあげれば……」
本当に愛しているなら、もっと愛してやるなら、彼女の心に滾る復讐の炎を鎮めて、こんな醜い争いに近付けないようにしてやるべきだった。口を汚し、心を汚しているのに、それを綺麗に洗い流してやろうともしなかった自分は、全くもう、姉代わりでもなんでもない。ただの傍観者だった。
マコト・サガワは、やはり酷い子だと思った。
何故なら、こんな後悔をこうして思い知らせてしまうのだから。
「ネーレイ…!?」
スロープに息を切らしたエリの姿があった。
彼女は絡み合う二人の女に驚愕し、足を竦ませた。
ネーレイは彼女に焦点の合わない目を向けるや、すぐに美女に顔を向けた。
それは、女同士だから分かった合図なのかもしれなかった。
ネーレイが右手を左胸に当てると、自由になった美女の左手に首を掴まれた。それでも彼女はボディアーマーの静脈認証を起動させた。パネルに指先を立て、文字を書いた。
最愛の彼女の名を書いた。
「お望みの《アンチセンス》だ! 死ねぇーっ!!」
「ネー…レイ…!?」
エマージェンシーを意味するサイレンが鳴る。
三度目が鳴り止む前にエリは足を急がせた。二人を引き剥がす為ではなく、二人に近付き過ぎている少女の元へ急いだ。
脳の芯まで痺れていく中、横切る彼女の足を横目に見ると安堵した。
「アリィーチェ……――愛してる」
エリはアリィーチェを抱えると、開放されている制御室へと飛び込んだ。
ぐったりと倒れるネーレイを押し退けようとした美女だったが、一足遅かった。
ネーレイの身体は赤く光り、その光が美女を包んだのだ。
〈AE超酸〉――全てを消し去るその化学物質は、ご多聞に漏れず半径二メートル圏内のあらゆる物質をこの世から抹消した。
熱風が一帯を掻き混ぜる中、強く抱き抱えるエリの腕を押し退けたアリィーチェは、小さな口を開いた。
「ネーレイ」
よたよたと歩を刻み、半円状に抉られた床の傍で膝を突いた。
エリにはかける言葉が見つからなかった。震える拳で壁を殴るのが精一杯で、拳に奔る痛みから彼女の苦しみを想像するくらいしか手向けになるものが無かった。
エリがスロープに消えていく中、それが自分の為だと知らないアリィーチェは、線香のように立ち上る白い煙に手を伸ばした。
指に絡んで、熱い。
「ネーレイ…」
思い出すのは、彼女と初めて手を繋いだ時のこと。
REWBSのラボラトリーで度重なる研究と称した虐待を受けていた自分を助け出した彼女が、指の一つ一つを包むように握って連れ出してくれたのだ。
組織の査問委員会に召還され、処遇について話し合いがなされた時も、怯える自分の手を、変わらず握ってくれていた。
どんな時も。
どんな戦場でも。
どんなに悪夢に苛まれて寝苦しい夜でも。
彼女の熱いくらいに温かいその手が、自分を、やつれきった自分の心を優しく包み込んでくれた。
しかし熱い煙を握っても、あの時の、今日までの温もりはもう二度と返ってこない。
「お…姉ちゃ……あぁっ」
悔やむのは――悔やんでも悔やみきれないのは、ただの一度も彼女のことを〝お姉ちゃん〟と呼んでやれなかったこと。
愛しているのに、〝愛している〟と言ってやれなかったこと。
「ワタシ…も……愛して、るぅ……っ!!」
面と向かって。
目を合わせて。
微笑みながら。
ワタシはアナタに、前向きな愛の言葉を伝えたかった。