〔五〕
こうして視える青黒い世界は深い海の底に似ている。ただの暗闇よりも重く、両肺に海水が溜まっていくような圧迫感が、冷静と興奮を綯い交ぜにさせていく。
まさにそんなパトスの類を生理として表しているのが、〝呼吸〟という代謝なのだろう。
その呼吸のリズムを今、意識的に制限しているのは、目の前を標的がこちらに気付かぬまま横切ろうとしているからだ。
己の口元から山吹色の熱気が上がって、たちまち霧散していく。
それよりも遥かに赤い人型のシルエットが左へ通過していく。焦りも石橋を叩いて渡るような慎重さもない。ただ散策するような足取りだ。はじめにこの地に踏み入った時と同じで、まるでロボットのようにインプットされた目的地を目指して北上している。
足を忍ばせ、鼓動も極限まで止めるようにして近付いているので、間合いは充分なほど詰まっている。両手に構えた刃の切っ先が揺れる度に赤く滲む。
今しかない。それぞれを人型シルエットの左側頭部と左の二の腕へ伸ばす――が、「チッ」エリ・シーグル・アタミは舌打ちすると、壁に突き刺さしていた〈紅炎双爪〉を抜いて、後ろへ飛び退いた。
厚いコンクリート壁にすっぽりと空いた二つの細い菱形の穴から、青い光が踊り狂う無数のシャクトリムシのように這い出した。
かと思えば、それは壁に深い亀裂を走らせた。閃光と共に壁が爆砕したのは想像に難くないだろう。
一連の現象を見届けることなく、エリは入り組んだ施設の中を逃走し、再び厚い壁を背に息を潜めた。
〈紅炎双爪〉に目を落とす。地金のそれに近い赤色――超高温の熱分布が脳裏に投射される。
間違いなく壁にこの刃を突き立て、刺し込んだ。この月光も届かないほどの暗闇の中、空間把握能力を高める閉眼式の《サーマル・センサー》のみを頼りに侵入者の死角を奪い、息の根を止めようとしていた。
〈紅炎双爪〉は素早く振り抜くことで、コンクリートさえも切り裂くことができる。正確には、溶断することができる。エリのような達人の居合いともなれば、瞬間最高温度は摂氏六千度を超える。それはつまり太陽の表面温度と同等で、〈紅炎双爪〉の所以がそこにある。
刀の形を成した紅炎。
しかしてシルエットに切っ先が接触しようとしたその時、痺れるくらいの振動が、超高温に達しても尚、原形を留めるこの鋭い刃を通じて全身に迸ったのだ。
視れば、壁の奥のシルエットが赤い靄に包まれていた。切っ先はその靄を斬り進めずにいた。
あれは電子障壁だ。早河誠の〈エッジレス〉や、バラージュ達による狙撃の集中砲火を耐え忍んできた完全無欠のバリアーだ。
もしもあのまま引かず、意固地になっていれば、きっとキムリックのようになっていたことだろう。身体を上下に分断されてしまったという、不運な〈フェリズ〉の隊員のように。
「落ち着け。逸れば負ける、あの子の時のように。屈辱を糧にするのよ、エリ」
エリはそうやって自己暗示のように言い聞かせると、〈紅炎双爪〉を鞘に収めた。
その鞘の内部は、感じた熱に反比例して温度が下がるようになっている。刀を納めると、蒸気がバッと吹き上がった。
相手の位置は把握できている。距離にして五メートルほどだ。
近い。侵入者の放つ電撃を思い返せばあまりに近過ぎる。この施設から脱出し、仕切り直す方が得策か。
そうやってここから先への侵攻を許せばHQまでは六百メートルを割ってしまう。まだ六百メートルではない、もう六百メートルだ。
だが今憂慮すべき問題は、すでにそこではなくなっている。今まで青黒かった視界が昼間のような明るさに包まれているのだ。周囲に炎も無ければ光源らしい物も無いというのに。
額や首筋に汗が滲む。さらには髪が逆立っている。
「静電気……まさか!?」
周囲のあらゆる電子が励起状態となり、電場が急速に形成されているのか。あの侵入者のセンスによって。
察した矢先、背後から光が瞬いた。矢継ぎ早に爆音と振動がエリを襲った。
彼女は壁から離れ、さらに奥へと後退した。
今いた壁はすでに跡形も無く粉砕している。位置が把握されているのだろうか。
エリはヘレティックに関する知識を総動員して思考した。
もしかするとあの侵入者のセンスにも、第八実行部隊の故プラワットの《レーダー》のような性質があるのかもしれない。彼は、彼の意思で長短様々な電磁波を発生させ、長距離の対象物の位置を観測できていた。
この侵入者も電子という広いカテゴリーのセンスを扱える。この巨大な電場が彼によって形成され、先の戦闘でも局地的な電磁波障害を引き起こしていた以上、彼にも何らかの空間把握手段があると考えても的外れではないはずだ。
となれば、さっきの暗殺紛いの奇襲が酷くちんけに思えてくる。
遊ばれていたなんて思いたくはないけど、搦め手が通じないってことは分かったわ。
エリはすっと深呼吸すると心機一転、敵に向かって一直線に駆け出した。
侵入者は彼女を目視すると、その女だてらに思い切りの良い行動に少し驚嘆しつつ左手を向けた。
その手が光るより先に、彼女は横に跳ねた。さながら荷電粒子砲から放たれたような高圧電流の直撃は受けなかったが、彼女のチャームポイントである長いポニーテールの毛先が燃えてしまった。
「いい度胸してるじゃない!」
左腰に差した右刀を振り抜く。切っ先が届き、彼の左の二の腕を掠めていく。傷口が火傷し、舞う血が炎を上げるように蒸発する中、遅れて電子障壁が構築される。
遅い遅い!
エリはわずかに高揚しつつも深追いせず、一撃離脱していった。
再び壁を背に息を潜める。この行為にはほとんど意味が無いのだろうが、こうして聳えるいくつもの遮蔽物を利用しない手は無い。
通常、こんな狭い場所ではナイフよりも長い獲物を振り回すには不向きだ。その点〈紅炎双爪〉はやはりイイ。最高の愛刀だ。どんな壁も、どんな柱も悉く切り裂いて、対象にその鋭く熱い刃を届けることができる。
エリは心拍を整えると毛先を抓んだ。
「あぁ、私のキューティクルちゃんが……」
真っ黒に焦げてしまっている。
「アンタ、万死に値するわ」
壁の向こうで、侵入者が鉄棒を右から振りかぶっている。高圧の電荷を帯びたその棒の先端が壁を砕いて顔を覗かせる。
スパークしながら徐々に袈裟に進む棒を、エリは振り向き様に左刀を壁に突き刺して食い止めた。衝突した二つの金属の間で大きな火花が散る中、彼女は右刀も刺した。
狙いは侵入者の腹部だ。しかし例によって例のごとく、電子障壁が邪魔をしてくれる。
二つの高温がコンクリートを焼き、煙が上がる。
侵入者は咄嗟に右へ半身を開くと、右刀による襲撃を回避し、左刀を力任せに押し返した。
爆音と共に壁が崩れ、粉塵が立ち込めた。消えかける侵入者の視界に刀が転がった。それに気を取られ、右頬を斬り込まれていることに気付かなかった。
「ズレたかっ。でもぉっ…!」
眉間狙いで突き出した右刀は、侵入者の見かけ以上に厚く硬い仮面に食い込んでいた。
この好機は逃せない。彼女は刃で仮面を削ぐように引きつつ、右へ薙いだ。
すると男は大きな図体を左手にあった柱に打ち付けて倒れた。
追い討ちでトドメを刺そうか。きっとノーマル相手なら、もしくはその行為が有効なヘレティックが相手ならばそうするべきだ。即物的な思考が許される狩人のように。
しかし違う。この男は接近することが危険。至近距離で高電圧の電撃を放たれれば防ぐ手段は無い。
実際、男が決してその手から離さない鉄棒の先端がこちらに向いている。そして現に、その先端から無軌道な電流が天井を貫いた。
私は冷静になれている。今は退いて体勢を立て直す時間だ。
エリは左刀を拾うと、急いで施設の窓から外へと飛び出した。彼女の後を追うように電撃が夜の廃墟を照らした。
云十年もの間全く整備されず、すっかり路面から剥離してしまっているアスファルトに膝を突き、彼女は早まる心臓を静めることに務めた。
目を閉じて《サーマル・センサー》を発動すると、動悸が鮮明に聞こえると共に、侵入者の動向も見てとれた。
気だるく立ち上がり首を鳴らす男の仮面がボロボロと崩れていく。
徐々に露になっていくその素顔に、エリは息を呑まずにはいられなかった。
対する男は、もはや役目を果たさなくなった仮面を脱ぎ捨て、彼女を警戒しつつも近くの階段を上っていった。
彼に釣られて、エリの足は彼の追撃を望んでいたが、慎重を重んじる心でどうにか思い止まらせた。階段は狭いのだ。きっと追いついても飛び道具がある彼に真上から狙い撃ちされるのがオチだ。
柱の悉くを溶断して、この施設を倒してしまおうか。トンデモ戦法を思いつくが、それが無意味なことは誠とカズンが証明しているので却下だ。
エリは髪に絡まったコンクリート片を払い、頬に張り付いた煤と流れる汗を拭った。
そうしてから左足のホルスターから一丁のピストルを取り出した。しかしそれは弾丸を撃ち出す仕様ではなく、信号拳銃というわけでもない。
本来撃鉄がある辺りに空洞があり、腰の安全帯から引き出した細いワイヤーの先端をそこに挿入する。銛状のそれがしっかりとセットされたことを確認すると遊底を引く。するとワイヤーが銃身に巻き上げられる。二秒後、ワイヤーが限界まで巻き上がると、銃口を四階建ての建物の一番高い壁面に向け、引き金を引く。銃口から銛が射出されて壁に深く突き刺さったことを確認すると、もう一度引き金を引く。すると再び――今度は逆方向へ銃内のウインチが作動して、自然身体が銛へと引き寄せられる。
エリは壁にぶつかる寸でのところで三度目の引き金を引いた。そうすればウインチは止まるので、屋上に片腕を掛けてよじ上った。刺さった銛は安全装置のようなレバーを引けば〝かえし〟が萎んで抜けてくれる。
彼女は〈ワイヤーガン〉を元のホルスターに収めると、間髪を容れずにペントハウスを目指して駆けた。胸の前で交差させた腕で左右の刀の鯉口を切った。
目の前で青い光が拡散し、ペントハウスのドアが弾け飛んだ。
彼女は飛来するそれを立ち止まってXに斬り上げ、一歩踏み出して突いた。それが男の鉄棒でいなされると、「見間違いじゃなかったのね」
灰を被ったようなグレーの髪は一世代昔の精悍なスポーツ選手のように短く、一つも後退していない生え際が彼をまだ二十代だと知らせているようだった。また眉毛も短かったが、目は切れ長だった。鋭利で、殺伐とした感情を垂れ流していた。
しかしその名刀のように鋭い眼光は一つだった。たったの一つだった。
彼に、右目は無かった。
右の眉の下には睫毛も無ければ目蓋らしいものも無い。切れ込みの無い肌が眼窩の上に続き、わずかに窪んでいるのみだ。
なるほど、仮面の左目にしかレンズが用意されていなかったのはこうした理由か。
「その顔、生まれつきかしら?」
隻眼は電気を流した鉄棒を乱暴に振り回した。
それが彼の回答だったのかは不明だが、目元口元の無表情に反して眉間のシワが一つ深くなったのは見逃さなかった。
「感情が先行してるわよ!」
隻眼は鉄棒を両手で持つと、降りかかる二振りの刃を受け止めた。
充分に気迫が乗った彼女の刃だったが、隻眼にしてみれば思いのほか軽く感じられた。それもそのはずで、彼女の腕力はノーマルの同年代女性より多少高いくらいなのだ。彼女とノーマルの違いはやはり、《サーマル・センサー》というセンスの有無に帰結する。
彼女の脅威が刀のみに由来していることを感知した隻眼は力任せに刃を押し退けた。万歳するように両手を挙げる格好の彼女に、隻眼はすかさず棒から離した左手を向ける。
しかし指先から電撃を放つのを待たず、彼女の刃がまたぞろ降り注いできた。
その素早い刃を隻眼は再び棒で受け止めながら、くっと呻いた。
「アナタ、我流でしょう。腰が入ってないわよ」
エリはまた挑発した。
自分が普通の女と然程変わらない筋力だということは、エリ自身が重々承知している。だからこそ二刀流流派〈清芽流〉で肉体改造し、精神改造し、技術をそこに上乗せした。
きっと身体能力はトップアスリートと変わらない。刀や剣術に対する心構えは武士のそれと変わらない。だが、技術はあらゆる剣術の中でも常軌を逸している。
〈清芽流〉は二刀でもって相手を徹底的に打ち崩すことをモットーとしている。
攻撃こそ、最大の防御。
放つ一手一手がその者を活かす。
屋上に丁々発止の音が響くが、隻眼は防戦一方だった。
どれだけ刃を打ち込んでも斬れないこの鉄棒の金属は〈オリハルコン〉で間違いないだろう。その事実がエリの腕をさらに加速させた。
メギィドめ!
刃が手首の周りを柄を軸に回転し、巨大な車輪を描く。それが吹き荒れる風に飛ばされてきたゴミを燃やし、〝火車〟さながらの体を成した。
そんな突拍子も無い曲芸を披露されては隻眼も一溜まりもなかった。まだその車に乗せられるわけにはいかんと言わんばかりに地面を精一杯蹴って飛び退いた。
エリはすぐさま追撃すると、棒を二刀で鋏のように銜え上げ、隻眼の鳩尾に爪先を捻じ込んだ。
しかしようやく二度目の攻撃が届いたものの、隻眼は苦悶の表情を浮かべなかった。
浅かったか。弱かったか。
逡巡する彼女をよそに、隻眼は鉄棒に高電圧を流し、〈紅炎双爪〉を弾き返した。それでもすぐに向かってくる刃から飛び退くと、隻眼はわずかに笑みを見せた。
「何かおかしなことをしたかしら?」
「いいや」
答えが返ってきた。
エリは見開いていた目を細くすると、「喋られるんだ?」
「弱者と語らう舌を持たないだけだ」と隻眼は答える。
「へぇー、それは光栄だわね。後でみんなに自慢させてもらうわ」
「あの銀髪の男も強かった。しかしあの時はマスクがあったからな」
「あ、あぁ、そうだったの……」
その雪町ケンに自慢してやろうと思ったのに。
エリはけっと唾棄した。
「女。お前は〝今〟をどう思う。幾多の戦場を人知れず渡り歩いてきたお前達のことだ、それなりの一家言はあるのだろう?」
「は?」
「反戦などというつまらん世俗のシュプレヒコールに惑わされた結果がこのザマだ。俺は絶望しているぞ。無力な子供でさえも人差し指一つで強大な力を手にできる今の銃社会と、核の傘で互いを牽制し合うだけの茶番劇にな」
「私にそんなこと言われてもねぇ」
「一兵士には愚問だったか。それでいい。事実、俺はお前達に感謝しているのだから」
はぁ、とエリは耐え切れずに嘆息を漏らす。
偶にいる。こうして自分の世界観にどっぷりと浸って、持論を展開するナルシシストが。特に男に多いのだ。
モノローグで罵られているとも知らない隻眼は続ける。この数日誰とも会話できなかったストレスが堰を切ったように、彼の口をオートで動かせる。
「お前達は表世界よりも遥かに高い技術を有しながらも、人目を忍ぶ為にこうした地味な戦法しか講じられない。お前達が自らに課したその戒律のお蔭で、俺はこうして己の求めている真の戦いに身を投じていられる。これを感謝と言わずに何と言える」
「わっかんなーい。何それ、漢の美学ってやつ? 寒い寒―い!」
内股にし、自分の腕を抱いて寒さを誇張する彼女に、「女、お前は何故カタナを振るっている。それは男の武器だろう」と隻眼は蔑むような目を向けた。
そのセリフ、その態度で、エリの脳裏から嫌な記憶が掘り起こされた。
『剣を習う!? 女の子が刃物を振り回してどうしますの!』
十年程前、母代わりのような眼鏡の女性は、台所で包丁片手にそう言って反対した。
包丁も刃物だと言い返すと、ならば食材と人は同じなのかと問われてしまい、言葉が出なかった。
その頃の自分にはまだ、人を斬るという覚悟が固まっていなかった。
『テメーがいらんと言うなら儂にくれ』
それでも剣を覚える為に道場師範に懇願し、何度も拒まれていた頃だ。とある老人が自分を指してそう言った。
男の土俵を土足で踏み荒らすその気迫は天晴れだとも言い、自分を連れ帰ろうとした。
物言いよりも、女を道具のように言うこの男に腹が立ち、竹刀を向けた。
「世の中にはね、時代錯誤とジェンダー・フリーって言葉があるの。覚えておきなさい」
エリは右刀を隻眼の喉元に向けた。
もうウンザリだ。人のやることに口出しする連中の顔を――再会する度に眉を顰めたり、女というだけで見下す輩の顔を見るのは、もう。
少しは応援してくれてもよかったじゃない。少しくらいは、何も言わずに。
「そうだな。戦う意思のある者を戦場から無碍に追い出すのは戦士の恥というもの。ジャンヌ・ダルク然り、否定はせんさ。俺に敵意を向ける全てと、俺は戦いたい。俺はお前と命尽き果てるまで戦いたい」
「戦闘狂なんだ」
「お前も同類だろう」
「心外だわ。虫唾が走る」
「それでもカタナを振るっている時のお前の顔は高揚していたぞ」
口角が上がっていると、自分でも自覚してしまった。
自分を一介の戦士と認めた――認めてくれたこの男の物言いに気持ちが軽くなってしまった。
これは不愉快だ。こんな男に、理解されてしまった。
「女、サムライ女、誇ればいい。人の戦いは斯くあるべきだ。互いの死に様を目の当たりにできず、返り血に汚れぬ戦争などは意味が無い」
「黙りなさい。私はアンタとは違う」
許せない。自分を許せないと思った。
屈辱だ。刀を握る手に、必要以上の力が入って緩まない。
「同じだ。俺が今日まで手にしてきた勝ち星も、お前が今日まで流した汗も、全てはより良き強者とまみえる為。否定はさせん。俺とお前は等しい戦士なのだから」
「なら」
REWBSは敵。REWBSは、世界を乱す敵でしかない。
だから今日まで刀を振るってきた。自分は敵を殺す為じゃなく、世界を守る為に振るってきた。
そして何より、一人で重い荷を担ぐ彼の支えになる為に、どんな辛酸も舐めてきた。
「なら、勝って否定する。この世は勝者の世界。敗者の論理は通じない。勝って、アンタの妄想を全部否定してあげる……!」
彼女の紫電一閃に、隻眼は目を眩ませなかった。喉と胴を狙う二つの刃を不可視の障壁で遮り、瞬く間に押し返した。
先程とは打って変わり、遮蔽物が一つも無い開けた場所で、エリは距離を取ることくらいしか相手の反撃を回避する手段が無かった。
ぬかった。
「惜しい」
手の平から放出される無軌道な電撃の代わりに、そんな言葉が返ってきた。
隻眼は、その左目で雲の切れ間から覗く月を見上げた。足元から伸びる自分の影も見下ろした。
「すまんが俺にもスケジュールがある。俺個人としてもお前と死闘を演じられんことを悔やむばかりだが、如何せん雇われの身だ」
雇われ…。
「だ、誰に雇われたの!? 答えなさい!」エリは問わずにいられなかった。
バーグだ。バーグのはずだ。それしかない。
薄い笑みを浮かべる隻眼に、彼女は身体を緊張させた。
「俺は依頼を成す。決着は次に預けるぞ」
「ジャービルを殺ろうって言うの!?」
隻眼は床を蹴り、飛び降りた。
ここは四階建ての屋上――つまりは五階の高さで、近くに同じような建物は無い。
身投げだなんてことをするようなセンチメンタリズムがあるわけでもないだろうに。
エリは屋上のフェンスに手を掛け、真下を見た。そこに隻眼の姿があり、大きく跳ねた。センスを使えば、彼が跳ねる度に足元で高濃度の電子が炸裂するのが分かった。
「あんな真似、できる…」
唖然としていたエリは我に返ると、〈ワイヤーガン〉をホルスターから取り出した。
* * *
「待機って! いつまでここにいればいいんですか、戦端は開かれたんでしょう!?」
その公衆トイレの清潔感といったら、寝室の豪華な内装とは天と地ほどの差がある。それもそのはずで、HQにいるのは男達ばかりだからだ。
排便する場所にこそ清潔感を持ち寄ろうという考えは、ホームレス生活が長かった彼らには皆無で、執事のアレハンドロも最初だけは小まめに掃除をしていたが、それが無意味だと悟ってしまい、今では異臭が目に見えるようなくらい手の付けられない肥溜めと成り果てている。
これでは食事に毒物云々ではなく、トイレから未知の病原菌が発生してもおかしくないとさえ思える。
鼻が利き過ぎるケンをはじめ、実行部隊の面々のほとんどはこのトイレを利用しない。彼らはジャービル専用のトイレをこっそり使っている。ここを使うのは、細かいことを気にしないカズンやウヌバくらいのものだ。
誠もケンらと同じであり、こうして緊急を要する付き添いでもなければこんな不潔な場所には近付きたくはなかった。
『〈ラッシュ5〉は〈ラウディ5〉と共に現状を維持しろ、以上だ』
誠は悪臭立ち込めるトイレの外の壁に寄りかかり、〈フェリズ〉隊長トマスからの通信を受けている。
イヤフォンから届くその抑揚の無い命令に、「だから!」と誠は声を荒げた。その顔が焦燥に駆られているのは言うまでも無いだろう。
「それってつまり、誰かが殺されてしまったから敵が侵入してくるってことでしょう!? それまで待てって言うんですか、こんな安全な場所で!?」
通信は切れていた。
「こんなの…くそっ!」
背に預けた壁に、拳を振り下ろす。
胸元に目をやると、自分の不甲斐無さに嫌気が差した。
どうしてボディアーマーを壊されてしまったんだ。もっと用心していれば、皆の役に立てたはずなのに。
「始まったのですか?」
その問いはトイレの中から投げられた。アレハンドロのものだ。
誠は、制御室で催してしまった彼の付き添いでここにやってきた。当時は戦闘が始まっておらず、制御室に備えられた簡易排便器具もギリギリまで利用したくないと言うから仕方なくだった。
「えぇ、ですからアレハンドロさんも早く出てきてください。早く戻らないと…!」
「早く早くと、そんなに急かさずともいいではありませんか」
手を洗っているのだろう、アレハンドロの声は蛇口から流れ出る水音と重なっている。
「な、何を言ってるんですか? これは遊びじゃないんですよ!?」と言うのも、実際急がなければとこのトイレを目指したのはアレハンドロだったからだ。それなのに彼は今、気が抜けた炭酸飲料のように酷いくらいマイルドで、人格が変わってしまったようだった。
用を足してスッキリしたどころの騒ぎではない。
それを証明するように、「そうです。コレは遊びじゃありません」と冷淡な声が誠の耳朶に触れた。
直後、視界にエアロゾルが拡散される。それが鼻腔や目に入ると、誠は呻きを上げて倒れてしまった。
トイレから防毒マスクを被った男が出てくる。髪型はオールバック、モーニングコートにスラリとした体躯を通しているが、どこか今ひとつしっくりこないのは、彼が二十代後半ほどと若いからか。
彼――アレハンドロはマスクを取ると、誠の傍で跪いた。
閉じかけている誠の意識に、彼の黒い皮靴だけが映り、近付いては遠退いていく不安定な声が鼓膜を叩く。
「今日この日をもって、ユーリカ・ジャービルには退場して頂きます。そうしなければ、貴様が私の前に現れてくれないのだから」
彼は誠の髪を掴み上げると、耳元に口を寄せ、彼とは思えないほど冷徹で、残忍で、低く野太い声で囁いた。
「これはそう――私と貴様の宿命だ」
* * *
ケンは一人、前線から離脱していた。HQに引き返していた。
しかしこれは敵前逃亡はない。あくまで戦術的撤退だ。敵兵との戦闘の最中、ネーレイが彼の代わりを買って出たのである。
彼女の安否については心配はいらないだろう。今はただ、刻一刻と失っていくHQの兵力を補うことが先決だ。
そして、あの男の動向も気になる。すでに先手は打っているが、こうも早く侵攻されていれば、それも上手く機能していないはずだ。
もっと相互情報として共有しておくべきだったか。
いや、確証が無かった。杞憂かもしれないと、心の中でも思う。
しかし勘が、肌が、この身を形作る覚醒因子が、あの男にどうしようもない違和感を覚えるのだ。
もしもこの複数の敵を呼び寄せているのがあの男だとすれば、その方法とは一体どういうものなのか。
そもそも何故、情報部はあの男の情報を持っていなかったのか。
何かがおかしい。
聞けば、ネーレイも何かを感じ取っているらしい。
ケンはフェンスを駆け上がり、飛び越えると、HQから聞こえる発砲音に歯を噛んだ。
今はとにかく足を動かそう。考えるのは後でもできる。
風に紛れて絶叫が鼓膜を掠める。ドンと地鳴りがし、HQから黒煙が上がった。
* * *
『――――は!? オッサンがやられた!?』
その時、ネーレイの脳裏に映ったケンの顔は、血の気が引いたという形容が似つかわしかった。
『アンシン シテ。ドクヲ モラッテ ウゴケナイダケ ダカラ』
『あ……いや、〝だけ〟じゃねぇだろ。猛毒じゃねぇのか』
『シンパイ?』
酒顛ドウジと雪町ケン。
彼らの関係を知らない者は組織には皆無と言っていいだろう。
ネーレイは水のパペットを通じて嫌味な笑みを浮かべた。その顔を見れば、酒顛を気遣う必要は無さそうだった。
『ったく女ってのはどいつもこいつもこんな性格してんのかよ』
『エリトハ ウマク イッテルノ?』
『は、はぁ!? い、意味わかんねぇしっ!』とケンはこんな慌てようだから、ネーレイは笑いを堪えられなかった。
この青年と、あの天真爛漫なお嬢さんは、少し突っ込んでみると顔色がコロコロと変わって面白い。良いカップルだ、そう思う。
『ヤサシク シテ アゲナサイヨ。アノコモ アアミエテ ヒトリノ オンナノコ ナンダカラ』
『無駄話してる場合かよ、現状報告早くしろ』
『ムダ ジャナイワヨ』
そう、無駄じゃない。
『タイセツヨ。アノコハ サキバシル タイプダシ ナニヨリ イマハ マコッチャンヲ キニカケテ イルカラ』
あの早河誠という少年。疫病神に見えるのはどうしてだろうか。
バーグの情報から見つけた子供らしいが、センスがあの《韋駄天》というから穏やかではない。実際、先の戦闘記録映像で見た彼の戦い様には鳥肌が立った。
アレは人の――生物の動きではない。
自分もカズンも、それにウヌバも、きっと生物としての常識を根底から覆しているのだろうが、アレとは芯の部分が違っている気がする。そう思いたい。
別格と言えば聞こえは良いが、そういうものでもない。
かてて加えてあの性格だ。
今話しているケンの父も同類だったから、ボスや酒顛もノスタルジーに浸っているのかもしれない。基地に繋ぎ止めておかないのが何よりの証拠だ。
もしもバーグがそこまで考えている手合いならば、誠をジャービルの傍に置いておくのは危険――か?
『ハッ、さすがアリィーチェのことしか考えられねぇテメーが言うと説得力があるな。つっても、いくらアイツでも、戦闘の最中にお守りまで頭にあるとは思えねぇけどな』
ネーレイが『……ワカルンダ?』と悪戯っぽく訊くと、ケンは顔を逸らし、目を閉じた。
コレは恥らっているのではない。聴覚と嗅覚をシャープにし、〝今彼が戦っている相手〟の位置を把握しているのだ。
『で、リーダーは何て言ってやがる。こっちもそんなに余裕があるわけじゃねぇんだ』
『アレハ …… テ?』
彼らがいるのはかつては多くの人で賑わっていただろう巨大な銀行跡だ。
古札然り、金目の物がごっそりと無くなっているカウンターの奥は、地盤沈下で床から水が浸水している。ネーレイがパペットをケンの元に届けられているのは、そうした条件が整っているからだ。
ネーレイのパペットは施設の端にある気取った螺旋階段を見た。二階にはスタッフルームが連なっているようだが、足場が崩れて不安定だ。
そこを、奇妙な男が歩いている。縦縞のスラックスに、高価そうなベルト、革靴も英国調で洒落ている。それなのに上半身は裸で、その背中からは腕が、無数の異様に長い腕が生え、それぞれに個別の意思が宿っているようにうじゃうじゃと蠢いている。さらにその手の一つ一つにナイフや拳銃などの武器に交じって、確かに名刺が握られていた。
『あぁ、三十六本ある。ヤローの骨格に興味はあるが、容易に近付けねぇ』
『メズラシイ ワネ。アナタガ ヨワネヲ ハク ナンテ』
『そりゃあ吐きたくもなるぜ。何せ、ヤローの懐に潜り込んだら、名刺を渡される』
『……ゴメンナサイ。エ? メイシ? ナニ?』
聞き間違えたか。
ネーレイ本体は待機している水を張ったバスタブに浸かりながら小首をかしげた。それがパペットにも反映される。
『名刺だよ、名刺。自分はホワイトカラーで、企業戦士で、だから初対面の相手には名刺を渡すんだって、そればっかりだ。いらねぇっつってあの紙くずを蹴り飛ばしたらキレちまってあのザマだ』
『リーダー カラハ アナタト コウタイ スルヨウ イワレテ イタンダケレド スコシ カンガエ サセテモラッテモ イイ カシラ』
膝まで形作っていたパペットを頭まで沈めて彼女は言った。
ケンがHQに戻れば、ネーレイ本体もHQにいるので戦力を補うことができる。こうした采配は、ノーマルのトマスにはできない。カズンの判断は正しかったのだ。
『何だよ。それならとっとと言えよ。後はテメーに任せるわ』
じゃあなとケンは背を向けると手を振った。
そんな彼の肩に手を置いて、『マッテ! マッテ! ココロノ ジュンビガ!』とパペットはしがみついた。水なのに汗を掻いているようだった。
『んだよ、テメーならやれるって。大丈夫だって。気色悪いし面倒臭いけど頑張ってくれや』
『エ! エッ!?』
『まぁ見た目気色悪くなったカズンだと思えば楽だろうぜ。俺は嫌だけどな』
『リーダーヲ タオシタ ノハ オンナ! センスヲ ムコウカ デキル ミタイ!』
『だろうなぁ! そうでもなきゃあ、オッサンがやられるわけがねぇ!』
ケンは彼女を残して、そそくさと立ち去ってしまった。
取り残された彼女は棒立ちになっていたのも束の間、仕方なく企業戦士の前に姿を見せることにした。
『おや、どちら様でしょうか? 私、こういう者で御座いまして』
『タシカニ メンドクサソウネ』
『はい?』
『イエイエ。ゴテイネイニ ドウモ』
企業戦士はパペット相手にも偏見も警戒心も持ち寄らず、社会のルールに従って名刺を差し出した。
ケンはそれを決して受け取らなかったが、ネーレイは受け取ってやることにした。
両手で行なうその対応に、男は猛烈に感激したようで、『おお!』と叫ぶと、それはもう、涙を流し、鼻水を垂らし、凄惨と言っても過言ではない有様で唇を震わせた。
『アナタは理解がある! そうなのです! 名刺交換こそ、我々社会人にとってのご挨拶! 商談はここから始まるのです――って、ええええっ!?』
ネーレイは名刺を水の中に浸すと、多方面から圧力をかけ、ボロボロになるまでふやけさせた。さらにはそうしてできたH2O以外の不純物を、彼の足元に吐き捨てた。
ちらりと目を通した名刺にも、〝A〟と〝#7〟とだけしか記載されていなかったので、余計に気分が悪かったのだ。
『アラ ゴメンナサイ。ワタシタチハ ナナシダカラ アナタト コウカンデキル メイシガ ナイノ。ダカラ ヨクヨク カンガエレバ ウン イラナイワ』
『何という無礼か。お話を伺った時、まさかそのような無礼な団体があるなど信じたくはありませんでしたが、ここまでアウトローとは!』
涙と鼻水で目も当てられなかった企業戦士の顔付きが豹変した。
太い眉と眉の間にはそれらがくっ付きそうなほど深い溝ができ、眦はこめかみに届きそうなくらいに釣り上がり、口は下顎まで裂けそうなくらいにへの字になった。浮き上がる血管がまるで歌舞伎の〝火炎の隈取〟のようにも見える。
激怒した。
とは、本来このような人相の相手に使うべきなのかもしれない。
『よろしい! ならばあの男共々、ルールの何たるかを説き聞かせながら、地獄に落としてやりましょう!』
『カレハ モウ イナイワヨ』
ネーレイは怖気ない。
何故なら、パペットは本体の集中力が途切れない限り何度でも再生可能で、いくら倒されても本体に何ら影響が無いからだ。
淡々と述べる彼女に、『はい?』と企業戦士は眉を波打たせた。未だに持ち続けていたいくつかの名刺をケースに仕舞い、銃やらナイフやらに持ち帰えた腕を忙しなく動かした。
『アナタノ アイテハ ワタシダケ』
足元が震え、一階から、ひいては地下から何かがせり上がってくるような感覚を覚えた。
企業戦士は咄嗟に窓へと足をかけた。そこから飛び降りるのではなくいくつもの長い腕を巧みに使い、よじ登ろうという魂胆らしかった。
しかしネーレイはそれを許さない、彼の足を水の腕が絡めとり、ついには腰まで覆い、引き摺り下ろしたのだ。
地下から大量の水が噴き出すと、それは彼女の意思どおりに動き、たちまち企業戦士を水の牢屋に閉じ込めてしまった。
もがき苦しむ彼に、彼女は冷淡な言葉を聞かせてやった。
『イカセナイ。アナタハ ココデ オボレルノ――――』
* * *
ケンがHQへと引き返していた同じ頃。
HQから四時方向――4-Cの辺りで、真っ赤な炎が周辺一帯を焼き尽くしていた。
「独活の大木が! あんなに火の海にしやがったら狙撃もクソも無いだろう!」
バラージュが、考え無しの野生巨人に向かってそう罵る。
ごうごうと燃え盛る炎と、不燃物から立ち上る黒煙が視界不良を加速させる。
彼女は3-Gに聳える高いビルの屋上から愛用のアンチマテリアルライフル〈ゲイ・ボルグ〉のレティクルを、狙撃対象に合わせられずにいた。
「アタシのセンスが振動の感知だって忘れてんのか!」
それでも第一かよ!
そう罵ると、ヘッドフォンから「ムゥ…」と不貞腐れたような、困ったような声が響いた。野生巨人――ウヌバのそれだ。
通信系にあまり頼りたくないというのがバラージュの本音だ。彼女らが使うのは量子暗号通信で、それは逆探知の対抗策として開発された物だが、REWBS相手ではそれも完全とは言えない。さらにはその量子の力でもってしても、先の侵入者による電磁波障害を回避できないようなので、どちらにせよ長時間の利用は制限せざるを得ないのが現状だ。
こうして通信系に依存した連携を続けていては、いずれドツボにハマって敗北してしまう。それがバラージュの見解だった。
まだ戦略・戦術について未熟なウヌバにとっても、上司からの指示に依存しなければならない現状は辛いものがあった。最大限自分の頭だけで思考しても、きっと裏目に出ることは分かっているからだ。
それでもこうして怒鳴られるのは、彼の腕もまた未熟で、加減もできないほどに不器用だからだ。
上手くコントロールできないまま放出した大量の炎は、彼と敵とを隔てる柵となったが、それがバラージュの苛立ちの原因になってしまっていた。
ウヌバは自分が放った業火の奥に見える建物を注視した。侵入者はあの中にいる。このまま建物ごと灰にしてしまえば済む話だが……。
「怖がらなくていいのよ、ボウヤ! さあ私にもう一度その朴訥とした綺麗な顔を見せてごらん!」
擦れた声が耳朶に触れる。バチバチと火花が散り、風に揺られて炎が呻く中、その声だけはハッキリと聞き取れた。
そしてその声の主のハツラツした様子を思い浮かべると、どうしても殺意が鈍ってしまう。
だが、これは戦争だ。侵入者の掃討は任務だ。
誠の、人殺しはダメだなどというお題目が脳裏を掠めるが、ウヌバは自分の意識を前方に押しやり、炎をそれに乗せた。
前進する炎はまるで火炎放射器のようのに炎の柵を突き破り、侵入者がいるだろう建物へと激突した。
しかしいくら耳を澄ましても悲鳴は聞こえず、返るのは舞い上がる上昇気流が奏でる風音だけだった。
そろそろ鎮火するべきか。この巨大な篝火を独自の情報操作で隠し続けるのも容易ではないはずだ。ケンにもよく言われている。炎は派手過ぎる、乱用するじゃないと。
「そういう過激なのも大好きよ! イイわよ、ボウヤ! 今日は朝まで私と遊びましょう!」
挑発が右から聞こえ、ウヌバは炎を放った。それなのに全身に寒気を感じるのは、この声の主が、女のように化粧をして、オシャレをしているが男のようで、声も高いが作ったような男の声で、口調も女の真似をしているだけに聞こえるからだ。
ウヌバは知らない。
人には様々な性格、様々な性癖、様々な性質があることを。
ウヌバは知らない。
この世には、自身の性別を否定し、対照的な一方へなりたいと望み、多くのリスクを越えようとする者がいることを。
そう。彼が今対峙しているのは、性別は男でも心は女でありたいと願う――いわゆるオカマだ。
しかしウヌバが聖書と言って持ち歩く国語辞典やらを読んでいるだけでは、こうした生々しい存在は想像もできなかった。単語も知っている、意味も知っているが、実在しないし御伽噺の一種だと思い込んでいた。精々オトコオンナという言葉が、ウヌバの中で相手をカテゴライズできる唯一の単語だった。
レストランのような建物が燃える。上がった火柱は先の炎で生じた気流に煽られ、渦を巻き、巨大な火災旋風を起こした。
全焼していく建物に右手を向けたまま、ウヌバは鎮火作業の為に周囲の水素を冷やし始めた。
その様子を〈ゲイ・ボルグ〉のスコープで覗いていたバラージュは、脳裏に人影を見つけた。レストラン隣の宿舎跡か。風の向きから延焼を辛うじて免れているその宿舎の窓ガラスから、人の形をした振動を感知したのだ。
「そこか!」
火災旋風まで起こって、大気の振動が乱れきっている。まるでテレビのアナログ放送でよく目にした砂嵐のようだ。
しかしバラージュには対処法がある。実視界では油絵のように濃淡の振動という名の線状の波が幾重にも塗り重なって見える。だからエリのように目を閉じる。高まった空間把握能力で脳裏に外の世界が映り、任意の距離にある視界だけをチョイスするのだ。そうすれば窓のすぐそこに視点を陣取り、オトコオンナの正確な位置を知ることができる。
彼女は目を閉じながら〈ゲイ・ボルグ〉の銃口をオトコオンナに向けた。
対象の、額の左の生え際から耳の後ろを貫くような射線を獲得し、引き金を引く。狙撃のタイミングが早いのが彼女の強味だ。組織の作戦部が行なう合同演習では、その強味で同じ狙撃手のデファンを圧倒してきた。
直撃すれば、綺麗な弾道が穿たれるどころか、対象の頭部はスイカを落としたように木っ端微塵になるだろう。だが引き金を引いた瞬間か、あるいは電磁加速に乗った弾丸があらゆる空気抵抗を押し退けガラスを破り、ヘッドショットを成立させる瞬間に、オトコオンナの頭が大きく下がった。直立し、ウヌバに対して壁を盾にアサルトライフルを肩越しに構える格好だったオトコオンナは、まるでどこかの喜劇のように、解けた靴紐を結ぶ為に膝を突いたのだ。
オトコオンナはすぐ後ろで床が爆発するのを聞き、すぐにその場から退避した。首筋に汗を滲ませるのは、火災による体温の上昇ではなく、今のが狙撃で、運良く死を免れたことを自覚したからだ。
「女……!? 今のは女のやることよねぇっ!? ねぇっ!?」とオトコオンナはなるべく頑丈そうな壁の裏からそう叫んだ。
遮蔽物を多くしても、脆い建築材が相手ならばこの〈ゲイ・ボルグ〉の敵ではない。とは言え、弾丸は何かを穿つ度に軌道を変える。いくら《バイブ・センシング》で敵を捕捉できても、その軌道予測を計算するのが面倒だ。
バラージュは「ええい!」と舌打ちすると、次弾を装填する。スコープを通して見える実視界と、脳裏に過る振動分布が重複する。やはり目を閉じた方がまだクリアに見える。敵はまたウヌバを狙おうと別の小窓の方へと移動している。
次こそは仕留める。あの電撃の暗殺者との一戦からケチがついているんだ、汚名は返上させてもらわなければならない。
「オラァ、メス豚あああ! 私と彼のアッツイ夜を土足で踏み荒らすなやゴラァっ!!」
「くあっ!?」
オトコオンナは小窓から身体を乗り出すと、バラージュと目を合わせた。
偶然か、それとも相手にはこちらの位置を的確に把握できるセンスがあるのか?
しかし今は、この全身に奔る痺れが問題だった。オトコオンナと目を合わせた瞬間だ、バラージュの身はまるで石になったように動かなくなり、感電したような激しい痺れを感じたのだった。
指一つ、瞬き一つさえもできない硬直――金縛り状態だ。スコープのレティクル中央にはオトコオンナの顔が納められているのに、引き金を引けばその気色悪い化粧顔を潰してやれるのに、どう脳で思考しても身体が反応してくれなかった。
「あぁーいた。いたいたいたいたいたいた、メス豚み~~~っけ」
今になってオトコオンナは視界の中からバラージュの位置を掴むと、眉間を揉んでからにんまりと微笑んだ。狩猟民族ほどに視力に自信があるわけではないが、確かに高い建物の屋上に、大きな銃と人の頭らしきものを確認できた。
やはり女。思ったとおり、下世話な女だ。
いつもそうだ、女はすぐに人の獲物を横から掠め取ろうとする。図々しく、計算高く、強かで、自分がどれほど望んでも手に入れられないホルモン物質を多分に含み、分泌している。
あぁ腹立たしい。
女は、「全ての女は死滅してしまえばいいのに!」本当に大嫌いだ。
バラージュはその恨めしそうな双眸に押しやられ、後ろに倒れてしまった。仰向けになった彼女を次に襲ったのは、激しい胸の痛みだった。
ちくしょうっ、コレは何だ!? コレは…?
「さぁ~あ、無粋なメス豚の居場所も分かったことだし、しぃーーっかり楽しませて頂戴よ、ボウヤ!」
オトコオンナの叫び声は反響して位置を掴めない。
ウヌバは全方向に意識を集中し、相手の出方を見るほか無かった。
* * *
「顔面ガイコツ野郎がぁっ!!」
三つの電信柱が雨のように降り注ぎ、ケーブルが触手のようにカズンへ伸びる。彼はそれを《念動力》による不可視の超常的エネルギーからなるバリアーで防御すると、弾き返した。
同じく未知のエネルギーで操作されていた電信柱とそれに接続されたケーブルは、近くの施設にめり込むと圧し折れた。元々断線していたそれはスパークすることなく、それっきり動かなくなった。
「俺様に楯突きやがってなぁあああっ!!」
カズンは路肩に放置されていたボロ車を片手で持ち上げると、およそ二百メートル先にいる侵入者の一人に投擲した。埃と割れたガラスを宙に散らしながら飛来するそれは、一直線に、的確に、対象へ激突した。
しかし、車は対象の一メートル手前で宙に浮いたまま止まると、徐々にバンカーからフロント部分へと拉げ、さらにはトランクのある後部からも潰れていき、まるで一枚の紙を丸めたような球体になってしまった。
それは投擲コースをそのまま引き返し、カズンへと突っ込んできた。この行為は、先に投げていた建物の最上階部分を跳ね除けた時と同じだ。
彼はそれを右の拳で軽く払い除けると、一歩前に出て、左手を前方に突き出した。そして球になった車が飲食店の屋上に突き刺さるのと同じ頃、脳裏に対象の首を思い描き、それを絞めるように手を動かした。
「左手は軟弱だな」
相手の声が、脳裏に響く。
二百メートル先で、相手は独り言ちながら、それでいてカズンに話しかけていた。
「いや、怪我をしていて上手く動かせないのか」
男は確かにガイコツのような貧相な顔をしている。肉付きも薄く、ひょろりと縦に長く、黒いローブと大きな鎌を持てば死神にも見えそうなビジュアルだ。
ガイコツ男は首へと掛かる圧力を、カズンと同じ《念動力》で跳ね返し、同じように右手を前へ伸ばした。カズンの左腕を想像し、手首を捻るようにした。
「はぁ!? 怪我!? 舐めてんじゃねぇぞ!」
「橈骨が大きく剥離している。これは余程の無神経でなければジワジワと痛みを感じていたはずだ」
「るっせぇっ!!」
カズンは意固地になって手首に絡む圧力を振り払うと、負けず嫌いのカズンはあえて左腕に力を籠めた。首を絞める、いや骨を圧し折り、喉仏ごと握り潰してやる。
が、突如その左腕に千切れたような激痛が奔った。「てんめえええええ!?」と絶叫するカズンの脳裏に、殺人もできない童貞小僧に蹴られた時の映像が想起された。
「シャツから糸が解れていると切る。逆睫毛が生えていると抜く。私はそういう性分だ」
ガイコツ男は無表情のまま、カズンの左腕の骨から剥がれかけている骨の一部を強引に引き千切ったのである。
カズンは咄嗟に左腕を引っ込めるも、歯を噛んで右の拳を振り抜いた。
遠方のガイコツ男の顔面をそのエネルギーが押し退けた大気が撫でるが、エネルギーそのものが肉体のどこにも届くことはなかった。
バリアーだ。エネルギーをぶつけ、相殺させたのだ。
「集中力が乱れている。だから私に触れることすら叶わない」
そっと目を閉じるガイコツ男の脳裏に、左腕を押さえるカズンの姿が映る。
手負いの獅子か。哀れなものだ。
「しかし危険。やはり危険。彼らが嘆くのは無理もない。ヘレティックは害悪でしかない。その名の通り滅ぶべき異端種だ」
「テメー、何言ってんだ…?」
まるで目の前に話し相手がいるように、彼らは会話を成立させていた。
「神々を恫喝し、その子らをも支配せんとする我々は、決して在ってはならん存在だ。よって粛清する。この身の一片も後の世に残さぬ為に、我々が、神々とその子らの為に」
男は意味深長なセリフを零すと、直立する棒の上下を掴むように両手を前に伸ばした。
想像する。カズンの頭と両足首を掴み、上下へ引く。ゴムを伸ばすように、引く。
するとカズンの身体は宙に浮き、ピンと直立しては、背筋が異様に伸びる。伸ばされていく。
あぁ知ってる。これは俺様もやったことがある。
このままでは背骨が千切れて。真っ二つだ。
「クソがああああ!!」
「何も恐れることは無い。慈悲深き神々は、我々にさえも安息をお与えくださる」
ガイコツ男は常套句のように囁いた。
「まつろわぬ者共に救済を」
その顔は酷く慈愛に満ち、同情しているようだった。
カズンはそれを見て、余計に腹立たしくなった。
戦場では笑えよ。殺す時は歓べよ。その顔は、自分が死ぬ時の顔だろうが。
* * *
酒顛ドウジは地べたに胡坐をかき、交差する足の上に右手を乗せた。彼の両のこめかみからは角が生えていた痕があり、滴る血が頬を赤く染めていた。
深い刀傷が右の手の平を縦断している。ようやく出血は止まってくれたが、親指の筋肉がパックリと裂けてしまっているのでそこだけは動いてくれない。
この傷を受けた直後、激痛が痺れを伴い、それが心臓にまで達した。毒だと思い、死を悟った。
REWBSがジャックナイフに塗布する毒だ。猛毒に違いない。
そのはずが、心臓を締め付けていた痺れはすぐに止み、手の平も激痛以外の余計な感覚は無くなった。
「私達には効かない既存の毒だったんじゃないのかぃ?」
そうだ、組織の構成員は最新の毒物が発見される度に、解毒剤やワクチンの摂取を義務付けられている。組織が製造するそれは、服毒時に効果を発揮し、摂取者をあらゆる中毒から守ってくれる。
この感覚は久々だが、確かに累差絶の言うとおり解毒時の反応だ。
「命拾いをしたねぇぃ」
あぁ。そう、命拾い……?
酒顛はぼうっとしていた頭を起こし、「絶…!? どうしてお前がここに!」と暗闇の中でもいっとう暗く見える影に向かって叫んだ。
ぬぅっと物陰が揺らめくと、それは人の形に像を結び、あの特徴的な格好の陰気な男を召喚した。
影の世界の住人と言っても過言ではないその男――累差絶は、「私がリセッターだからさねぇぃ」と凄惨な笑みを浮かべた。
「作戦はまだ終わっていない。戦場でお前と鉢合わせるなどあってはならないことだ」
「何年組織にいるんだぃ、お前はぁ」
呆れた風に絶はソフト帽をさらに目深に被った。
「リセッターはお前達実行部隊のバックアップだ。戦闘の痕跡を戦場から抹消することが本文だが、それは戦闘が終了しなければ意味が無い。お前達は時間を掛け過ぎている」
組織の行なう全ての戦闘行為は隠密でなくてはならない。派手な戦闘は作戦区域の外で待機している情報部諜報部隊によって情報操作が行なわれ、表世界への漏洩を阻止されている。
しかしその漏洩阻止の情報操作も戦闘が長引くにつれ困難になる。だから作戦には所要時間が設けられている。作戦を継続できる限界だ。それを越えれば作戦は失敗、実行部隊は直ちに戦闘行為を中止し、帰還しなければならない。
その後、実行部隊が乱した戦場からREWBSの気配も消えた頃、裏世界に関するあらゆる痕跡を抹消する為、作戦部作戦処理部隊が投入される。
絶はその部隊の総隊長。第一作戦処理部隊のリーダー。痕跡抹消のスペシャリスト――〝更地のルイーサ〟の異名を取る不気味な男。
「ならばどうする。俺達ごと抹消するか?」
彼のつるりとした頭や額から大粒の汗が滴っているのは、解毒が正常に作用している証拠だ。
決して絶の威圧感に気圧されたものではない。
そう思いたい。この男が組織一殺人に長けているから、恐れ戦いているのではないと。
「そんな野暮はしないさねぇぃ。作戦の変更を伝えに来てやったまでさねぇぃ」
「今更か…? それにお前が何故。諜報部は何をしている」
「諜報部に関しては、ちょっとした異常事態が起きたとだけ伝えておこうかねぇぃ。本題は、ボスがある連中の捕縛に成功したということさねぇぃ」
連中。つまり複数。
バーグではないということか。ならば今、重視すべき捕縛対象は――
「ヘレティックの撲滅を企てていた、元合衆国大統領連中さねぇぃ」
早河誠の報告にあった。
レーン・オーランドという少年は、父シューベルの願いの成就の為に戦っていると。その願いとは、息子レーンを含める全てのヘレティックを撲滅しようと企てるアメリカ合衆国の崩壊である。
レーンの話は、どうやら事実だったらしい。
「〝元〟ということは現職のハリス・ミリードは無関係ということか? 彼の叔父にはディカエル・プレマンがいるだろう」
アメリカ合衆国第四十三代大統領ディカエル・プレマン。
九十五年から〇三年の二期八年を務めた彼の辣腕ぶりは、十年近くが経った今でも世界中から高い評価を得ている。特に一貫して民主的なスタンスを通し、〝国家基盤の救済〟――つまるところ〝低所得者の為の政治〟をことあるごとに口にしてきた彼の姿勢と、持ち前の滑らかな語り口が、〝リンカーンの再来〟というイメージを色濃くした。
〝私にはよくできた甥がいる。いつの日か近い将来、必ずや彼がこの国をより良き道へと導くだろう。私を越えられるかは、まぁ、皆様の判断に任せるとしよう〟
退任の際、彼はこう言って観衆を沸かせたのは有名だ。
その甥――ミリードが大統領選に出馬すると、プレマン政権後に落ち込んだ経済が再び持ち直すのではないかという期待が民衆の間で膨らんでいった。新聞各紙が〝ポピュリスト・プレマンの血縁〟という見出しで取り上げていたほどだ。
しかし大きな成果が得られないまま大統領就任二年目を迎えようとしていた。
現在は、〝プレマンのラスト・ジョーク、暗示を読み切れなかった民衆に落ち度か〟という見出しが並んでしまっている。
「ミリードの大統領当選後、奴はプレマンとはたったの二度しか接触していない。一度目は昨年一月二十日の就任式で、二度目は同じ年の七月四日――独立記念日の式典で。どちらもワイングラスを片手に談笑しただけだ。だが後者ではミリードの表情は硬かった」
「組織と接触し、大統領の重責を思い知ったからか」
「ご名答ぅ。プレマンは流石と言うべきか、切迫したミリードの視線にも動揺せず、得意のジョークで会場を盛り上げると早々に帰路に着いた。以後、プレマンは消息を暗ませた。組織の諜報部隊の目を盗んでねぇぃ」
「プレマン以外の元大統領を捕縛したということか?」
絶はニタリと嗤うと、人差し指と小指の二本だけを立てた。
「今回捕縛に成功したのはウッドラー・クリフォードとジェイムス・V・アダムの二人。存命しているのはあと二人、ディカエル・プレマンと…」
薬指を立てる彼に続き、「第四十代大統領、ジョージ・グレア。まだ生きていたのか」と酒顛は深手を負う右手の親指を見つめた。
「今年で奴は九十二にらしいねぇぃ。聞けば、初めにヘレティックの撲滅を画策したのは奴らしいぃ。現役から変わらず豪胆な性格には感服するねぇぃ」
「グレアが大統領を退いたのは七十九年の九月だったか。つまりその頃から動き出していたと?」
「知っているかぃ、暴れ鬼。奴の退任を裏で操っていたのは組織だったという話を」
「組織は表世界に不干渉だ。そんなはずがあるか」
「ところがどっこい、グレアが組織に反抗したとしたらどうさねぇぃ」
最近聞いたような話だと酒顛は中指に視線を落とした。
四十二代大統領ウィンドー・マーソンは、組織とヘレティックに関する情報を知人に暴露したとして、組織に暗殺されたのだ。
「奴はアングラ誌の記者に情報を売ったのさねぇぃ。当時のボスを呼びつけて、その現場をカメラで押さえようという腹だったようだがねぇぃ、そんな幼稚な搦め手が我々に通用するわけもないだろうぅ」
「ではあの女性問題というのは…」
「真っ赤な嘘。複数の愛人など存在しない。しかし組織に恐喝されていたグレアは命の為に汚名を被り、辞任した。悲惨だねぇぃ。グレアは一家離散して、しばらくパパラッチに追い回されていた」
当時、グレアと愛人との親密な様子を撮影した写真や映像はメディアを席巻した。しかも一人ではなく、年齢や性格、体格までも違う女性をとっかえひっかえしているとまで報道された。
だがそれは絶曰く、組織の策略だったらしい。
このまま組織に反抗して命を落とすか、汚名を受け入れて職を辞するか、二つに一つの選択を迫られたのだ。おそらく支持者がその場にいたとしたら、後者を選んだ彼には酷く失望させられたことだろう。
そんなグレアが反ヘレティックの結社を創設したという流れはよく分かった。
「それで、作戦の変更点とは何だ」
「捕縛した連中がゲロったのさ。ヘレティックを抹殺すべく、この地に戦闘部隊を派遣したとねぇぃ」
「部隊…、今の女がそうか。だとしたら五人編成…?」
「五人?」と絶が訊く。
「何だ」と問い返すと、「一人多いねぇぃ。私の読みでは、先日単身で乗り込んできた電撃使いは連中の一味ではない」
「やはりバーグが差し向けた暗殺者なのか」
「おい、暴れ鬼。何故訊かない、どうして連中はこの場所を特定できたのかと」
「………」
「目星を付けているんだねぇぃ、内通者のさぁ!」
絶は歓喜したように気味の悪い顔を酒顛に近付けた。
ケンの言葉が鼓膜を反芻させ、絶から目を逸らさせた。
「そいつはある周波数帯に信号を垂れ流しているようでねぇぃ、連中が飼っているらしい優秀な科学者がそれをキャッチしたんだとさぁ。裏取りは、先日の仮面の暗殺者の襲撃で充分だったろうさねぇぃ」
「連中の目的はあくまで我々の撲滅か。電撃使いだけが、ジャービル氏を狙っているんだな?」
「情報を整理するとそうなるがねぇぃ、鵜呑みにするかはお前次第さねぇぃ」
肌寒い風が、絶の長い前髪を揺らす。隙間から覗く病んだ眼光に生気のようなものが鈍く輝く。
「さぁてぇぃ、実行部隊総隊長。ボスの命令は、ジャービルの守護、元大統領連中が野に放ったという飼い犬の抹殺、それを引き込んだ内通者と電撃使いの捕縛だぁ。捕縛対象の二人は私に引き渡せ、いいねぇぃ? 私の読みが正しければ、その二人はバーグの何かを知っている。私が奴の尻尾を掴んでやるよぉぅ」
「愉しそうで、何よりだ…」
酒顛は腰を上げると、HQへと歩き出した。立ち眩みがし、足元が多少覚束ないが、そんなことに構ってはいられない。事態は深刻、一刻を争う。
気だるそうな彼の背中に絶は呼びかける。
「暴れ鬼よ、いよいよ狂ってきたねぇぃ。聴こえるかぃ、覚醒因子のざわめきがさぁ。早河誠にも何かが起こりそうだねぇぃ」
そう言って彼は、置き忘れている酒壷を持ち主に抛った。
受け取る酒顛は、自分のマヌケ具合に気を落としながら、絶に冷めた目を向けた。
「どうしてだろうな、絶。俺は今、無性にお前がバーグなんじゃないかと思えて仕方ないんだが」
「同感だぁ。何故だか私もバーグを理解できそうなんだぁ。何故だろうねぇぃ、バレないでくれ、バレないでくれ、そんな心の叫びが私の中から溢れてくるんだよ」
言われてみて初めて気付く。
確かにバーグが何らかの策略、計画を実行している最中ならば、絶の言うとおりその計画の真意についてバレてほしくないと願うはずだ。
だとすれば自分達の役目は、その計画を暴き、失敗に終わらせることか。
つまり、電撃の刺客にも、内通者かもしれない〝彼〟にも、何もさせない必要がある。
酒顛は息を整えると、背筋を正し、足を急がせた。
遠ざかる広い背中を見送っていると、絶の通信機から男の声が響いた。
右腕の李螺葵だ。
『絶さん、やはり睨んだ通りでした。ここの諜報部隊はアレハンドロなる人物を知らないよう、何者かに洗脳されていたようです』
「そうかぃ。連中には事態をしっかりと骨の髄まで認識させた上で、職務を全うさせろぉぃ。何せジャービルが死にでもすれば、最期の仕事になるかも知れないんだからねぇぃ」
現場がこの体たらくでは本部も実行部隊もてんてこ舞いだ。
イイ手を使うじゃないかぃ、バーグ。
絶はまた嗤うと、影の世界へとその身を溶かした。
* * *
ジャービルの私兵団〈フェリズ〉の隊長トマスは、通路に充満する煙幕に向かってサブマシンガンを撃ち鳴らした。撃ち終わり曲がり角に身体を隠すと、返事をするように無数の銃弾が返ってきた。
見知らぬ女が一人、最終防衛ラインを突破し、HQに侵入したのである。被害報告では彼女によって最終防衛ラインで四人が、HQでは二人がすでに殺害されているらしい。
「グレネード!」
トマスの号令で味方が手榴弾を投擲する。煙幕に隠れたそれは一秒後、閃光を上げて爆ぜた。
煙が晴れたので、彼は鏡を使って通路の奥の様子を覗き見た。爆発地点の床が粉砕して真っ黒に焦げているが、死体のようなものは見当たらない。
後ろに控える味方に向かって、ハンドシグナルで〝GO〟のサインを出そうとした。しかしそれを阻むように、鏡が撃ち落された。割れた鏡の破片が足元に散らばるのと入れ替わりで、飛来する手榴弾が目に止まった。
「退避!」
叫ぶと同時に、トマスは頭を両手で抱えるようにして飛び退いた。
手榴弾は床に接触した瞬間に弾けたが、トマスは大怪我から免れた。周囲の味方も無事のようだったので胸を撫で下ろしたのも束の間、黒い煙を突っ切って絶世の美女がロングヘアーを靡かせながら彼にジャックナイフを突き出した。
「アッハハハハ!」
ケラケラと笑う彼女は、手首にスナップを利かせながらトマスをナイフで襲い続けた。
対するトマスはライフルを盾に猛攻を凌ぐも、その近過ぎる距離で味方からの援護射撃を受けられなかった。
「お前ら馬鹿だな! 今まで内通者の存在に気付けなかったなんてさ!」
その通りだ。〝彼〟に言われるまで、気付けなかったのだから。
トマスは隊長として恥じ入りつつも、ナイフを持つ美女の右腕にライフルのベルトを巻きつけると、顎の付け根に裏拳を振るった。
美女はそれを左手で止めるも、ベルトを引かれたことで体勢を崩し、足を払われて転がされた。
トマスはすぐさまライフルの引き金に指をかけて、膝を突く彼女の後頭部に銃口を向けた。
「ここまでだ。投降しろ」
「やるじゃん。さすがは神の子だ」
「神の子…?」
「だけどお前らは神々に牙を剥いた。神々はさぁ、お前らを許さないって言うんだよ」
眉をひそめるトマスの虚を見抜いたのか、美女はマズルを握り、押し上げた。
トマスが一歩引いて照準を直した頃にはもう彼女はそこにはおらず、壁を蹴り、近くの味方に襲い掛かっていた。
まるで野獣のようにアグレッシブな動きを追って引き金を引くが、美女の足跡を追いかけるばかりだった。それどころか味方の腕を撃ってしまい、その彼を人質に取られてしまうハメになった。
「あーヤダヤダ。本当さぁ、ウチもこんな真似したくないんだよ。アンタら神の子を相手にするとこう、頭がガチガチして、胸がグギグギして、胃の方がジュッギュジュッギュってなるんだよ。でもさぁ、神々は絶対だしさぁ、あーヤダヤダ、ホントヤダヤダ」
「キャ、キャプテン……たすけ、助けて」
怯える隊員の首に左腕を回した美女は、ナイフを逆手に持って頚動脈に突きつける。しかも右手にはPDWと呼ばれる短機関銃とアサルトライフルの中間にカテゴライズされる銃器が握られ、包囲する部隊員を威嚇している。
隊員を盾にするので向かって正面のトマスは射撃姿勢は取れても引き金は引けない。他の隊員もPDWの銃口が的確に各々に狙いを定めるので下手な真似を打てない。
美女の背後に通路は続く。彼女はまるで気負いもなく、淡々とした足取りで後退する。
抵抗できない人質は彼女のスピードに合わせるので精一杯だ。
「うっ、うっ…」
「泣くなよ、神の子だろ~。あんまり五月蝿いと掻っ切るぞ」
突き当りまで来たところで、人質の嗚咽が酷くなった。
呆れる美女は左に広い空間を見つけた。エントランスのようだ。
ここには窓ガラスを割って狭い通路に飛び込んだから、殺風景な通路からは想像できないエントランスの広さ、そして妙な豪華さに目を剥いた。
ここには何かがある。何かがいる。
美女の勘が冴え、エントランスの脇にある地下へのスロープを確認した。よく耳を澄ませばグワングワンと、足元に意識を凝らせばズゥンズゥンと、彼女の全身を震わせていた。
「うっ、うっ、うああああああああああああああ!」
地下に何かがあり、何かがいる。自分達をここに呼び寄せ、ヘレティックの存在を知らしめた内通者だろうか。
ならば行くべきだ。そう思った矢先にこの絶叫だ。
人質の男が叫び、彼女の腕を振り払おうと暴れ始めたのである。彼は首筋に傷を作りながらトマスに上ずった声で懇願した。
「撃て! 撃てぇええっぇえええ!!」
「コイツっ!」
「俺もアンタと同じなんだ、キャプテン! 生き甲斐が欲しかった! それが命懸けでも俺は生き甲斐が欲しかったんだ! だから撃て! ジャービルさんを守る為に、早く!!」
「バーマン…!」
どうせコイツは使い物にならない、すぐに死ぬ。ジャックナイフに塗り込んだ猛毒がすぐにコイツを蝕む。
美女は人質バーマンの尻を蹴り出した。
彼は毒の効果から吐血しながら踏鞴を踏む。
トマスはその瞬間に引き金を引いた。それを合図に味方も美女を射撃した。銃弾が無慈悲にもバーマンを蜂の巣にする。その時の彼の表情はどこか充実したように見えて、トマスらの胸を苦しめた。
彼女は素早い身のこなしでエントランスの方へ逃げ込んだが、左腕をトマスの銃弾が掠めていた。舌打ちする彼女に息をつく暇は無かった。エントランスの上階へと続く階段から別働隊に迎え撃たれたのだ。
三つの銃口が逃げ惑う彼女を追尾する。
対する彼女がPDWで一人を仕留めると、別働隊は階段の踊り場の陰へと身を隠した。
トマス達は突き当りまで歩を進めるとタイミングを見計らった。
美女はウェスト・ポーチから円錐型の兵器を取り出すと床に置き、円錐の先をトマスらが隠れているだろう方向へと向けた。そうしてから円錐の底に付けられたスイッチを入れた。すると円錐は底から炎を上げて榴弾のように飛翔した。
トマスはまたもや「退避!」と叫んで身を屈めなければならなかった。
簡易発射式の榴弾はトマスの目の前を横切ると、天井にぶち当たって炸裂した。爆風は彼らを巻き込み、天井を木っ端微塵に粉砕した。エントランスへの通路を閉じる格好で、真上にあるジャービルの寝室からベッドが崩落した。
トマスは脳天から流れる血を拭いながら天井を仰いだ。ジャービルを守る為に、この施設にはいくつかの隠し通路、隠し部屋が用意してある。まるで忍者屋敷のようだが、こうも手玉に取られてはそれどころではない。
「駄目だ隊長、遠回りしよう!」
「急ぐぞ、ジャービルさんが危ない」
少ないマガジンを捨て、満タンのそれに取り替えたトマスは、部下を引き連れて通路を引き返した。
* * *
少女が一人、扉の前で佇む。その目は上から慌しい喧騒が微かに響く度に緊張を増し、じんわりと滲む汗を拭うようにフリルスカートの裾から手を離せずにいた。
一人は初めてだった。組織に迎えられてからというもの、常に姉代わりの心優しい女性が傍にいてくれたから、覚える恐怖も少なくて済んでいた。
今分かる。痛いほどに理解できる。
彼女の存在一つが私にどれだけの安息を齎してくれていたのかということを。
「ネーレイ…」
少女アリィーチェは秘かに姉代わりの彼女の名を呟いた。
彼女もこのHQの中にいるのだが、意識はきっと遠くにある。遠くで戦っている。
自分には無い自立できるだけの強さを兼ねた彼女は、その力を頼りにされている。
こんな風に、お飾りのように、ぬいぐるみのように、赤子の安心毛布のように、護衛対象の気分を和らげる為だけに放置されている自分とは、全く違う。
彼女のようになれたら。
そう思うと、裾を握る手がより固くなった。
「小娘、そこにおるんだろう? 外はどうなっておる、トマスからの報告が途絶えたままだ」
背にある大きな扉の奥から、その護衛対象の冷静を装った声が届いた。
「不明」と答えるのはそれが事実だからだ。自分にも情報は何一つ下りてきていないし、対象の秘書と共にここを離れた少年の安否も何もかも不明だ。
この状況で楽観できる人が世の中にどれだけいるだろうか。アリィーチェは、身近には自分達のリーダーくらいしかいないだろうと思った。
彼の自信過剰ぶりには呆れると共に、多少の憧れを抱かずにはいられない。
「聞け、小娘。儂は時折記憶が曖昧になる」
「老化」
そうにべもなく言われてしまったら、護衛対象――ユーリカ・ジャービルに反論の余地は無かった。だが、どうしても告げなければならない。
「…そうだ、そうかもしれん。しかし違うと断言できることが一つある。アレハンドロのことだ」
アレハンドロ。あの秘書の男か。
アリィーチェは瞳だけを端に寄せ、彼の独白に聞き入った。
「奴のイメージが儂の持っているものと違う。ここで再会したあの男は確かにアレハンドロだ。私の知っているアレハンドロだ。しかし儂の記憶の片隅にあるアレハンドロとはどこか違う。アレハンドロはあんなにも慇懃で、気が利いて、物分りの良い好青年ではないと、心の奥で本当の儂が叫んでおる…!」
「意味不明」
「それでもいい! しかしお前に頼みがある! お前のセンスとやらを儂に使ってほしい、儂の記憶を呼び覚ましてほしい!」
頼みの綱は彼女しかいなかった。
思い過ごしならばそれでいい。老化というならば、生きとし生けるものの抗えぬ運命として受け入れてやろう。
しかしそれは、この少女という希望の光が消えてからだ。
「試してくれ! その強力な暗示の力を! 本当の儂に戻してくれ! ユーリカ・ジャービルではなく、イーサン・プライズにっ!!」
言って、脳の軸が痛んだ。まるで外れながらも独立して回り続けていたいくつもの歯車が、再びぶつかり、みしみしと競り合いながらも、噛み合っていくような感覚だ。
自分はイーサン・プライズ。またの名を、ユーリカ・ジャービル。
何故今に至る。いつ自分は、この名を語るようになった。思い出せん。組織にかどわかされたわけでもないだろうに。
あの日が甦る。こうして車椅子での過酷な生活を送るきっかけとなった、あの日――あの事件だ。
十五年前の、あの忌まわしい事件。スイスで行なわれた晩餐会の夜。
一方的に飛来する無数の弾雨から、文字通り必死に、命を尽くした秘書の勇気ある行動に守られた。凶弾が腰の骨を穿った時、投げ出され倒れ伏せる自分の視界はテーブルの足と、落ちかけているクロスと、転がる椅子に奪われていた。
そこで同じように倒れる少年と目が合った。生気の無い目。血に濡れた死人の目。何も脳に投射しない、涙と角膜で保護された視神経の集合体。
彼はアレハンドロ。
彼がアレハンドロ。
秘書の息子。一人息子。自分を支える為に離婚し、男手一つで育てた秘書の息子。
「アレハンドロは、死んでいる……!?」
全身が粟立った。感覚の無い足の先まで震えているようだった。
今の映像、掘り起こされたものは記憶と言って良いのか。それともやはり妄想か。
それに最後に一瞬だけ見えたあの黒い手は何だ?
ズンッと鳴る。
身体を苛む痺れではない、空間を裂く振動だ。
「何の音だ! 小娘、小娘無事か!?」
あの少女は寡黙だが、問えばそれなりの返事をするのが愛嬌というものだった。
動揺から扉を叩こうとするが、少女ではない別の女の笑い声がそれを辛うじて止めた。
ジャービルは前のめりだった身体を椅子に埋めた。
もはやここまでか。
* * *
「おいマコト! どうした、何があった!?」
静まり返っていた水面に一石を投じられたように、誠の意識に波紋が起きる。
「何やってんだ、こんな所で!」
意図せぬ瞬きのように目蓋が開く。
ケンは誠の頬を叩き、胸倉を掴んで上体を起こした。
誠はじんわりとした熱を帯びる左頬に手をやると、徐々に瞳孔を縮ませて、「アレハンドロさん…! そうだ、アレハンドロさんが!」とケンに訴えかけた。
しがみつく少年を静めるように突き放したケンは、「野郎がどうした!?」
「ケンさん! アレハンドロさんに気絶させられて、それで……!」
「いいから立て!」
いつものように立ち上がると眩暈がした。通路の壁に寄りかかり、石のように重くなった頭を支えるように手で顔を覆った。
ケンは誠を注視した。
外傷は無し。今の反応から、芝居だとしたら一流の役者になれるだろう。盗まれた物は無さそうだ。父の形見たる〈エッジレス〉も二振りとも奪われていない。
何故、殺さなかった。
ケンは親指で鼻を払った。キナ臭い。
「便所の臭いと混ざっちゃあいるが、奴はアッチか。トマスの奴、上手くやったんだな」
通路の先、HQの端の方を見る彼に、「何の話です?」と誠は問うた。
「ちょっとした仕掛けだ。アレハンドロ、やっぱり黒だったか」
そう言うケンは顔を擡げ、HQの中央に向けた。
誠の耳にも、ヒールのまま走り回っているような高い音が微かに響いた。
「銃声がする…?」
「侵入者が五人ってのは聞いてるよな。その内の一人……コイツは女の臭いか、そいつがここに攻め入ってきた。どうやらセンスを無効化できるヘレティックらしいが、テメーはそいつの方へ行け。狙いは地下だ、地下に戻れ」
「ケンさんはどうするんです」
「アレハンドロはまだこの中にいる。野郎がキーマンなのは確かだ、問い詰める」
「殺したりはしませんよね」
まだ言うのか、コイツは。
感心するケンだったが、厳しい目を湛えた。
「テメーも少しは賢くなれよ。お勉強じゃなく、流れを読み取る賢さだ」
「そんな風に言われたって、俺はまだ半年もこんなことやっちゃあいないんですよ」
コイツはこれでいいんだろうな。
組織に歯向かうようなことがあれば、その時に考えればいい。
何せ今のコイツの言うことは、何も間違っていない本当の無垢、本当の白、本当の正義なのだから。
ケンは誠の肩を掴むと、HQのエントランスへ通じる路へと押し出した。
「オラ、愚痴ってねぇーで急げよ!」
逡巡していた誠は駆け出した。
去り際に向けた彼の目が、信じますよと云っていた。
ケンはその信頼を拳に握ると、少年に背を向けた。