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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第三章【雷鳴の暗殺者 -One-eyed REWBS-】
105/167

〔三〕

『そんなアンタにも、一生涯をかけても解らないことが一つある。人ってやつの葛藤だけは』

『人間のことに、お前は関わりがあるのか?』

『だが、アンタは中でも常軌を逸している。もはや現実的じゃない』

『……確かに葛藤したことなど一度も無い。しかし私にも恐怖はある。むしろ、恐怖が無ければ産まれてこなかったと言ってもいい』

『アンタの過去に何があったかなんてのを穿鑿する気はない。俺が言いたいのは――』

『〝あまり見下してばかりいると足を掬われるぞ〟――か?』

『あぁ、そうだ。現にいつだって俺はお前を裏切ることができる。金の切れ目が縁の切れ目だ。お前と主従関係は結ばない、決してな』

『それでもお前は私の下から離れない』


*   *   *


 目が合――

    大きな歩幅で間合いを縮める―相手の目の前で床を踏みしめる―莫大な筋力と質量のある物質が超高速で移動し着地したことで脆い足場はきっと崩れるだろう―そうなる前に左に捻っていた上体を右へ振り抜く―両腕を右に旋回させる―両手に持った刃の無い剣エッジレスを右に薙ぐ―死なないでくれ―殺させないでくれ―後生だから―願い祈りながら―薙ぐ

  ――った。そう自覚した頃には見えている世界が回っていて、次に目を開けると、何故か倒れていた。壁に強く打ち付けられたのか半身が上手く動かない。

 迅雷耳を掩うに暇あらずとはこのことか。笑わせてくれる。

 床に手を突いて身体を起こした。そうしたのがマズかったのか、手元――もとい足元の床がひび割れて、崩落した。そればかりか、まるで爆風に煽られたかのように、壁や柱が外側へひしゃげてしまっていた。

 それが終ぞ折れてしまい、廃アパートは崩壊した。


「しまった…!」


 瞬く間に崩れていくアパートから逸早く逃れていた早河誠はそう口走った。見るも無残な瓦礫の山を生んでいる張本人のセリフではなかったが、それでも彼は真剣に、こうなることを望んでいなかった。

 これでは、相手を殺してしまっていてもおかしくない。

 粉塵が視界を奪う。

 ガダン、ガシャン、ジアッ、ズィゥゥゥゥゥゥ……。

 まるで西海岸まで響きそうな轟音の中、誠は二の腕で口を覆いながら目を凝らした。生きていてほしいと願いながら、ジッと見つめた。

 矛盾は承知だ。それでも殺しは望むところではない。

 視界が晴れたので、誠はすぐに瓦礫を目指して走った。

 そこはあたかも爆心地――グラウンド・ゼロの様相を呈していた。白昼のコンクリートの海に、中折れした支柱がいくつか聳えていて、それが皮肉にもモニュメントのようにも見えた。

 掘り起こすべきか。いや、掘り起こさなくては。

 誠は山の上に膝を突くと、大小様々なコンクリート片を地面に向かって掻き分けた。


「死なないでくれ」


 どれだけ掘っても手に痛みが伴わないのは、頑丈なグローブのお蔭だ。


「認めたくないんだ」


 それでも心は痛んだ。


「諦めたくないんだ」


 止まらぬ冷や汗が心を磨り潰していく。


「約束したんだから」


 担架を切る過去の自分の姿が遠退いていく。


「殺さなくたって、争わなくたって、生きていけるって……っ!!」


 思わず手を止めて、声も失くした。

 小指に切り落とされたような激痛が走った。

 口から、食道から、胃に至るまで、ズキズキ、ジュクジュクと、剣山を飲み込んだが如く地獄の苦しみで満たされた。

 瓦礫の中から人の手が出てきた。左手だ。潰されたことであらゆる骨が砕かれていて、大きな傷口から血が垂れ流されたのか青白くなっていた。

 誠は呆然としたままその手に触れた。周りの瓦礫をそっと退かすと、もう動けなくなった。

 出てきたのは、その左腕だけだった。肘から先の腕だけだった。

 やってしまった。殺ってしまった。

 遠退くあの時の自分が、更にちっぽけに、目も当てられぬほど陳腐になっていく。

 俺はもう、殺人者になってしまった。

 落魄れてしまった。

 堕落してしまった。


「俺は、俺は――!!」

「マコト、避けろっ!!」


 その声に頭を擡げると、靴紐が視界の全土に広がっていた。鼻っ柱が聞いたこともないような音を奏でていた。後頭部を、背中を、瓦礫にぶつけて仰向けに身悶えていると、今度は靴底が現れた。

 誠は咄嗟に寝返りを打った。

 頭があった場所を踵で砕かれる。

 足に力を籠めて《韋駄天》を使った。エンジンが、モーターが積まれているように、フルスロットルで股関節が稼動した。勢いよく蹴り上げられた足は自然、彼に後方でんぐり返しを促した。それからすぐさま更に後ろへ飛び退いた。

 厳しい訓練で習得していたこんな動きが日の目を見ることになろうとは。

 誠は手の甲で鼻血を拭った。もう鼻は折れていない、治っている。《韋駄天》の効力だ。


「コイツか」

「ケンさん! はい、侵入者です!」


 その侵入者をマコトと挟むような位置に、雪町ケンはいた。


「でもケンさん、どうしてこんな所に。今の時間なら11-Aにいるはずじゃあ……?」

「リーダーからの援護要請だ。つーか、第一防衛ラインを突破されたら俺達の出番だってブリーフィングで言ってただろうが」

「ラインって……。でもここはまだ――」

「ここが、ラインだ」


 HQを中心に半径八百メートルが第一防衛ラインと定められている。このアパートは、そのライン上にあったらしい。

 焦眉の急を告げるリーダー――酒顛ドウジの要請が無ければ、ケンはマコトの言うとおり今も北北西エリアで警戒任務に就いているところだった。

 二人は侵入者に注目した。

 黒いロングコート。フードを目深に被り、口元も立ち襟で隠されている。身長は高く、その背格好から男だろうと推測できる。露出している左手の無骨さがそれを証明している。

 それ以外は一切解らないが、誠はその左手を見て、さっきの手の持ち主が〈フェリズ〉の隊員のものだと気付いた。

 もう少し早く駆けつけていれば、助けられたかもしれなかった。


「マコト、構えろ」


 ケンの指示に従い、後悔に暮れる誠は手の甲で目元を拭ってから、二振りのエッジレスを構えた。

 侵入者は臨戦態勢に入った両者を前に、不気味な気迫を垂れ流していた。


*   *   *


「ちっくしょう! アイツらだけで愉しみやがって!」


 足元の椅子を蹴り倒したカズンはドアを開けた。待ちに待った状況の開始に立ち会えなかった不運が彼を余計に苛立たせていた。

 そんな彼の肩を掴んで、「カズン、待機だと言っている。まだお前の出る幕ではない」と酒顛は制止を呼びかけた。

 今にもカズンは通路の窓から飛び降りて戦場に向かおうとしていた。このHQからでは、彼のセンス《念動力》は届かないのだ。


「何だよ、シュテンさん。そりゃまるで、俺のことを高く買ってくれているような言い草じゃねぇか?」

「そう言っているつもりだが。それに俺はな、有望な者しかスカウトしてこなかった。中でもお前はあのセイギさんをも凌ぐ逸材だ。そんなお前をわざわざ雑兵一人の為に向かわせるだなんて、あまりに役不足が過ぎるとは思わんか? この任務、お前はとっておきの切り札になる。そう易々と手の内を明かしたくないんだ。解ってくれ」


 カズンはジッと彼の目と向き合った。訝る彼に訴えかける酒顛の真摯な願いが通じたのか、「そうかい。なら、しばらくは静観しててやりますよ」と窓枠に掛けていた足を戻した。

 酒顛は子供から刃物を取り上げて戸棚に隠すような用心深さで窓を閉めた。

 嘘ばっかり。

 エリ・シーグル・アタミは酒顛の猿芝居に肩をすくめた。

 彼女は知っている。あの酒顛ドウジという巨漢は、ヘレティックと知れば誰彼構わず保護してしまう同属愛に溢れていることを。ケンに言わせればお人好しで、悪い癖なのだが、組織の理念には適っている。

 だから、カズンを保護した時にもきっと、特別な感情は無かったはずなのだ。

 そう、酒顛の行動はあくまで保護であって、スカウトなどではないのだ。


「アイツはおだてられると案外従順なんだよ。総隊長はその辺をよく解っているみたいだな、安心したぜ」


 バラージュも、殊勝な――あるいは単純で大馬鹿なのかもしれないカズンの上機嫌さに呆れ果てていた。アレが自分達の隊長だと思うと情けなくも笑ってしまうというものだ。


「にしても、あの坊やが噂のエッジレスまで受け継いでるなんてな。お前が稽古つけてやったのか、アタミ?」

「うん、キヨメ先生とみっちりね。でも、二刀流は初お披露目よ。そもそもあの子は然程実戦経験が無い上に、太刀筋は未熟で才能もあんまり無いの。かなり心配だわ」


 エリは非常に不安そうな顔を浮かべた。

 数日前まで、彼女ら第一実行部隊は待機という名目で、バミューダ基地で謹慎を命ぜられていた。

 理由は〝恣意的妨害活動〟に該当する行為に准じた為。簡潔に言えば、作戦部の承諾も得ずに作戦を立案し実行したということだ。

 しかもあまつさえそれだけでも大罪なのに、その作戦で何の成果も得られず、有能な兵士を三名も亡くしてしまったのである。

 彼女らには皮肉にも反省する時間と、訓練できる暇がたっぷりと与えられていた。

 そこでエリはバミューダ基地の訓練場で、デヴォン島基地から送られてくる清芽ミノルのホログラム映像と共に、誠を鍛え上げていた。

 彼はようやく二刀流の基礎訓練に入ったばかりだった。


「宝の持ち腐れだな。というか、先代《韋駄天》とはエライ違いだな」

「ホントにね」


 ケンもそう思っているはずだと、エリは思った。

 どれほど偉大なセンスに恵まれていても、持ち主が素人同然の少年では、見ている側はヤキモキしてしまう。

 ただでさえケンは少年と同じセンスがあった男を父に持っていたのだから、内心穏やかではないはずだ。

 目を瞑って意識を凝らすと視える彼の姿に息を呑んだ。


「こちら〈飲んだくれ(ラッシュ)1〉。〈荒くれ者(ラウディ)3〉、準備はできているか?」


 イヤフォンマイクから指示を出すのは酒顛だ。〈フェリズ〉隊長トマスに、ユーリカ・ジャービルとその執事アレハンドロを非難区域への移動を命じた彼は、実行中隊に対ヘレティック戦闘の準備を取り掛からせていた。


『こちらネーレイ(ラウディ3)。順調です。万全を喫するにはもう少しお時間を頂きたいところですが、今来ても対処は可能です』


 応じる彼女の後ろでひんやとした音が聞き取れる。彼女の報告に虚偽が無いことを示しているようだった。


「了解した。タイミングはお前達に任せる。〈ラウディ4〉、そちらはどうだ」

『こ…らファルク(ラウディ4)。自分もいつで…奇襲でき…す』


 少しばかり音声が心許ないのは、それだけ戦場に近い場所にいる証拠だ。戦場は今でも電波障害が続いている。

 部隊コードに反して順良な彼らに、酒顛は酷く安堵した。


「エリ、バラージュ」

「今は大丈夫ですよ。侵入者はアイツ一人だけみたい」


 答えるエリに、バラージュも同意する。

 彼女らのセンスは似通っている。それが理由か定かではないが相性は良いらしい。

 センサーとしての役目を担ってくれている彼女らを信頼し、酒顛は次のステップに進んだ。


「そうか。ならばエリは継続して周辺を警戒。バラージュは既定の位置で戦闘準備に取り掛かれ」

「「了解」」


 エリは二振りの刀《紅炎双爪》を左右の腰に差し、バラージュは身の丈ほどの狙撃銃を背に担いだ。

 二人揃って部屋を出て行くと、酒顛も自身の持ち場へ移動しようと踵を返した。するとその足――戦闘服のズボンに何かが引っ掛かった。引っ張られているので視線を下げると、少女の細い指が絡みついていた。


「ん、アリィーチェか。お前は俺と共にジャービル氏の護衛だ」


 ゴスロリ系ドレスの特徴を随所に取り入れた特注の戦闘服を身に纏う彼女は、あどけない瞳を瞬きさせると指を離した。それは了解したという意味だったのか、フリルを翻してスタスタと去っていった。

 エリからの報告を思い出し、酒顛は頭を掻いた。

 誠は彼女のような子供にも戦闘を許す組織の在りように怒りを露にしているらしい。

 その気持ちは分からなくもないが。


「REWBSか」


 酒顛は敵の多さを理由に、その問題から目を逸らし、棚上げせざるを得なかった。


*   *   *


 グワングワンと重低音が薄暗い地下室に響く。

 強化ガラスの向こうでは、ボーリングが地核に向かって突き刺さっている。そうして縦断する油井に取り付けられた安っぽい工業用の照明がそれを照らし、ゆっくりと横回転しているのが見てとれる。

 ここはボーリングの制御室だ。ポンプによって採油し、濾過からタル詰めに至るまでの全工程も、ここのシステムが全て一括して管理している。石油の埋蔵残量もインプットされており、それが枯渇した時全てのデータが抹消される手筈となっている。

 何故かと言えばそれは当然、ここで石油が採掘されていたという事実を残さない為だ。

 しかし単なるデータの抹消だけでは、油井やボーリングなどから外観的に判断できる。

 そこでデータ抹消から数時間後に、組織が開発した〈AE超酸〉がこの施設一帯を消滅させるようプログラミングされている。

 それをジャービルから聞かされているアレハンドロは、慎重に慎重を重ねながらコンソールを操作する。誤って自爆システムを作動させてしまえば酒の肴では済まされない。

 ジャービルの寝室にあったモニターとは似ても似つかない小さなそれが起動する。


「アレハンドロ、外の様子は分かるか」

「はい、情報は共有できるようです」


 コンピューターがセキュリティルームと同期されたようだ。モニターに戦闘区域のマップが表示された。

 アレハンドロはそこから6-B付近を拡大し、表示されているカメラを模したアイコンをクリックした。すると撮影されている映像が画面一杯に映し出された。

 しかしこのカメラは瀕死状態だ。ほとんどスノーノイズが掛かっていて、時折映っても色調が狂ってしまっている。マップ表示まで画面を戻して別のカメラを選んでも、細い路地しか映していない。

 そうして三つ目のカメラを選んで、ようやく戦場を捉えることができた。中央に小さく映る人影を拡大すると、ケンと呼ばれる銀髪青年と、誠というアジア系の少年、そして黒いコートに身を包んだ何者かの姿が映った。


「これが侵入者のようです」

「他に不埒者はいないのか」


 主の問いに答えようとセキュリティルームから情報を引き出そうとしたが、〝パスコードを入力せよ〟のウィンドウが邪魔をして進入できない。彼らが知っているコードを入力しても、ご丁寧にブザーと文章でもってコードの誤りを指摘されるだけだ。


「これ以上の情報は得られそうにありません」

「トマスめ、鬼の小僧の言いなりになりおって」


 きっと酒顛の入れ知恵でパスコードを無断で変更したのだというジャービルの憶測は的中していた。

 酒顛はジャービルを守るのに手段を選んでいないらしい。


「プライズ様、仕方がありません。この場は大人しく待機しておきましょう。幸いここには最低限の生活必需品と医療薬が揃っております。庶民のシェルターよりもよっぽど快適かと思われますよ」

「一度は富豪の頂点を極めたこの儂が、こんなカビ臭い場所に閉じ込められることになろうとはな」


 ジャービルは車椅子の肘掛を指でトトンと叩いた。


「お気持ちは察しますが、今はご辛抱ください。彼らも全力を尽くしている証拠です」

「つくづく儂は運に見放されてしまったようだな。組織め、儂をつまらん闘争に巻き込みおって」

「私は寡聞にして存じ上げないのですが、本来非公知であるはずの組織の出資者がこのように命を狙われるケースは今までにあったのでしょうか?」

「解らん。奴らは〝語らず〟〝語られず〟と言って、頑なにそうした情報の漏洩を封殺してきおったからな。しかし奴らの慌て様を見る限り、部外者と思しき者に感知されること自体稀なのだろうな」


 苛立つ彼の横顔に、「…プライズ様は、組織に内通者がいて、それがバーグとやらを動かしたと?」とアレハンドロは問いを投げかける。


「そう思わんか、アレハンドロ。疑うにはまず身内からというのが、儂ら富裕者が長年かけて身につけてきた知恵というものだ。儂の大成があったのも、そうした用心深さがあればこそ」


 だから家族を持たなかった。他人を信用しないことが、今の彼の地位を確立させた。

 では彼にとって父はどういう存在だったのだろう。

 先の女達の推測話に触発されてしまったのか、アレハンドロはあの頃から喉に絡まっている言葉を吐き出しそうになっていた。


「アレハンドロ」


 正気を戻した彼は少し身動ぎすると主に向き直った。


「アレハンドロ、何故お前はここにいる?」


 その言葉の真意が皆目見当付かず、「は?」と意味を持たない声で答えるのが精一杯だった。


「儂はお前に命じていないぞ」


 ぼやく彼は俯くと、それっきり何も言わなかった。まどろむように床の一点を見つめるのみだ。

 アレハンドロはその場で立ち尽くすばかりだった。


*   *   *


 誠とケンの視線が合わさるその先に、明後日を向いて佇む侵入者がいる。彼は何の自己主張もせぬまま、ただただ二人が繰り出す次の一手を待っているようだった。

 誠の目に、顎をわずかに上へ向けるケンが見えた。

 寸時、誠は駆けようと腰を落とした。

 その瞬間、侵入者はそんな彼に左手を向けた。

 白人系のその肌がくっきりと目に焼きついて、誠は思わず前に進むべきはずの足を後ろへ動かした。


「おい、何やってんだ」

「何って」

「態度が変わっても心臓はノミのまんまだな」


 ケンは失望したと言わんばかりに肩をすくめた。

 態度の話は横暴だと思いつつも、「……すみません。もう一度行きます」と誠は仕切り直した。

 チリチリと音が鳴っている。誠に手を向けたままの侵入者からチリチリ、チカチカと奇妙な音が鳴っている。

 記憶を掘り起こし、ケンはその音の正体を突き止めた。誠が走り出すよりも彼の判断は迅速だった。

 早く走れと言っておきながら、自分よりも先に駆け出してしまうせっかちな男の行動に、誠はまたも度肝を抜いた。しかしここで突っ立っているのは得策でないと思った彼も走ろうと決めた。

 そうして前へ踏み出そうとする彼を再三にわたって後退させたのは、目にも止まらぬ光の嵐だった。

 胸元に衝撃が加わったと感じる中、ナイフで皮膚を全て削がれたような激痛が顔面を襲った。

 ケンの目には、侵入者の左腕から青白い光が放出され、それが誠を吹き飛ばした光景が映った。

 一歩遅かった。

 ケンは飛び上がると、相手の顔に蹴りを入れた。まるでマネキンのように無抵抗に倒れる侵入者を警戒しつつ、「マコト! 動け! 走れ!」と叫んだのも束の間、彼はすぐに侵入者を追撃した。

 のそのそと上体を起こす侵入者の頭部を、ケンは情け容赦無く蹴り上げた。やはり硬いという触感が、靴越しの足の甲に伝わる。相手のフードの下には鉄板でも仕込まれているようだ。


「その面、拝ませてもらうぜ!」


 ケンは仰向けに倒れる相手の顔に手を伸ばした。

 すると相手は左手を青天井に――ケンに掲げた。

 さっきはチリチリと聞こえた音が、こうも近付くとジリジリガリガリと岩を削っているように聞こえる。脳味噌をかき回されているような高音に晒されるも、外耳道にインプラントされた弁を閉じる暇も無い。

 ケンは相手の左手から顔を逸らした。直後、光の嵐が彼の右耳を掠めていく。鼓膜がイカれたか、耳に水が溜まったような不快感が充満している。

 それでも彼は、「馬鹿の一つ覚えかよ!」と左手で相手の左腕をコート越しに掴んで、力任せに引っ張り上げた。大の大人の体重も何のその。フラッグを振るかの如く中空に持ち上げると、相手の身体が天に向かって仰向けになったところで、右手で相手の右肩を掴んで、地面に叩き落した。そのまま相手の左腕を背中に貼り付け、捻り上げればハンマーロックのでき上がりだ。

 それでも相手は呻き声一つ上げない。代わりにむき出しの左手が青やら黄色の火花を上げる。まるで千切れた銅線から電気が漏れ出すように、放電しているのだ。

 相手との接触で感電する虞もあったが、ケンには勝算があった。それは相手の放電に対して、左手のコートの袖が焦げていなかったからだ。おそらくこのコートには絶縁体の作用があるのだろう。


「バチバチ五月蝿ぇよ」


 左耳だけでも確かに聞き取れる爆音に業を煮やしたケンは、右手で相手のフードを剥いだ。

 下にあったのは、黒い球体だった。光沢のある、フルフェイスマスクだった。

 何だコイツは。

 呆気に取られるケンは、マスクの左半分をジッと見つめた。目の辺りに作られた大きなレンズに燦々と降り注ぐ太陽光が反射していた。

 その奥に隠れた左目を見てしまったような気になったケンは、激しい殺意を肌に感じた。しかれども手を緩めず、拘束を続ける。


「テメーの目的は何だ」


 問うも、応答は無い。

 ケンは相手の奇妙さに一考した。

 その矢先、相手は腕立て伏せでもするように右肘を立てた。ケンが動くなと左腕を締め上げても、相手は起き上がろうと下肢にも力を入れた。

 ケンはすぐさま相手の腰に膝を入れて圧し掛かった。


「それ以上動くと肩を外すぞ!」


 それでも相手は動き続ける。むしろ、ケンが締め上げるよう誘いながら蠕動している。

 彼がそれを察知したのも時既に遅く、相手の肩は鈍い音を奏でていた。しかし直後の悲鳴は無い。それを不可解と思う彼の右のこめかみに、相手の肘が突き刺さった。身体が倒れる中、咄嗟に左手で相手の腕を掴み続けるも、鞭のように撓って捕らえきれない。

 油断した。

 すぐに受け身を取って、相手の動きを注視する。

 しかし相手は堂々と佇んで引き下がろうとしなかった。

 まるで生物的でない相手の冷静さに、ケンはまさかロボットじゃないのかという冗談のような推測を並べた。

 それを証明するように、相手は自身の右手で左の二の腕を掴み、まるで棒を扱うように肩をグルグルと回した。肩が外れても、痛覚はあるはずだ。だが相手は喘ぐ素振りも見せず、瞬く間に脱臼を治してしまった。


「コイツ…」


 相手は肩を軽く回すと、ついでのように首も左右に傾けて関節を鳴らした。そうしてから、ケンと向き合った。その黒いマスクには、左目の大きなレンズしか特徴が無かった。

 まるでロボット。やはりロボット?

 人間としての要素を全く見受けられない相手の異様さに、ケンは対応を一転させた。


「あぁーったく。全部テメーのせいだからな。死んでも俺のせいにするんじゃねぇぞ」


 相手は彼の恫喝に答えるように、治ったばかりの左手を向けた。横方向に雷が落ちたように、閃光が駆け抜けた。手から放電させているのだ。

 ケンは横に跳ねると、着地と同時に前進した。相手との距離を一息に縮めると、右の拳を腹に捻じ込んだ。

 ここも硬い。その感触は実行部隊に与えられ、自分も身に着けているボディアーマーに似ている。続いて両の脇腹を連続で殴り、顎の付け根にも一発見舞った。

 するとようやくガタがきたのか、膝がガクンと崩れた。

 ここだ。

 ケンは足を振り上げて、回し蹴りを食らわせた。それは一度に留まらず、右の甲で蹴れば、左の踵で追い討ちをかけ、さらには左の甲で切り返し、右の踵を連続させた。飛び跳ねると着地までに五回の蹴りを繰り出した。

 これだけやれば、ヘレティック相手でも脳震盪を起こさせることができる。しかし相手はまだ、肩膝を突きつつも戦意を喪失していない。

 その姿を回転の最中に目撃したケンは、それでこそ〈飆風(ひょうふう)〉を披露する甲斐があると笑みをこぼした。

 着地しても彼は回転を止めなかった。またしても左から攻撃されると踏んだ身構える相手の腕も蹴破って、倒れることも許さぬように後方宙返りの間に鳩尾を蹴り上げた。

 高く中空に浮き上がった相手の身体を見据えながら、ケンは大きく股を開くと、姿勢を低くして腰を右へと捻った。続けて上体を勢いよく左へ回し、地面から足を切り離した。

 その姿こそがもはや超人的で、生物の動きから逸脱していた。

 空中で二回三回乱回転するケンの足の行方を侵入者は捉えきれなかった。気付けば、太陽の近さを実感していた。

 軽やかに着地するケンとは裏腹に、侵入者は壊れた人形のように瓦礫の海に沈んでいった。


「おいマコト、具合はどうだ」


 頽れた格好の誠は激しく息を切らしていた。ケンに言われたとおりに《韋駄天》を使って傷を癒したらしい。しかし彼の声に顔を上げるも、まるで地獄の底を覗いてしまったように蒼白で、開いた口から言葉は出てこなかった。

 まかり間違えば即死という状況で生き抜いただけでも良しとするか。

 ケンは誠の腕を引っ張り上げてやった。


「便利な身体してるくせにビビってるからそんな目に遭うんだよ。少しは――」


 ケンの健常な左耳が、羽虫の羽ばたきのような不快音を後方で捉えた。

 ジジジジジ――

 ヴヴヴヴヴ――

 振り返る彼の目に、まるで何事も無かったかのように二本の足で立つ侵入者の姿があった。

 有り得ない。

 加減はしなかった。仮に、万が一殺していなくとも、再起不能になるくらいの重傷は負わせたはずだ。

 驚きを隠せなかったケンだが、すぐに平静を取り戻すと、「……まだやろうってか?」と悪辣な笑みを湛えて問いかけた。

 侵入者はそれでも答えなかったが、意思表示らしいものをしなかったわけではない。おもむろに担いでいた鉄製のような竿を手に持つと瓦礫に突き刺した。さらにコートを脱いで黒いノースリーブ姿になった。ケンの見立てどおり、胴回りにはボディアーマーのような緩衝措置が施されていた。


「電撃のお次はその得物でお相手してくれんのか。随分と手厚い待遇じゃねぇか」


 侵入者は右の手袋も脱ぎ捨てると、鉄棒を槍のように両手で構えた。

 ケンも緩めた全身の筋肉を今一度引き締めた。


「ケ、ケンさん」

「黙ってろ。〈飆風〉を受けても立ち上がったのはコイツが初めてだ。テメーのお守りをしてる暇はねぇ」


 この顔は余裕を失くして焦っているのではない。余裕が無くなったので集中しているのだと誠には解っていた。

 あの〈ネオアルゴー〉での、レーン・オーランドとの一戦とはワケが違うのだと。


「…なら、オレがケンさんのサポートをします」


 自分も違うと思う。

 誠はケンの態度に同意した。

 あの時、レーンには不意打ちを食らい、油断を見透かされていた。まさかあの少年がという驚きが皆から動揺を引き出し、彼の完全なる独壇場を許してしまった。

 対して今日は違う。相手は仮面を被っているが、きっと顔見知りではないはずだ。電撃を使えるヘレティックをケンが知っていれば、彼はその者の名前を口にしているはずだ。

 加えて部隊の全員が、今日の為に心構えをしていた。特に第一実行部隊はレーンという教訓を経たことで、二度と失態を繰り返さぬよう覚悟を決めて任務に臨んでいる。

 ケンはきっと、かつてない難敵と対峙したことで、頭の中の戦術イメージを全て書き換えようとしているのだ。

 それができるのは、冷静だからに他ならない。


「はぁ? ガキがナマ言ってんじゃ――」

「行きます」


 口とは裏腹に自分を背に戦おうというケンの為にも時間稼ぎは必要だと思った。

 侵入者もいよいよ積極的に戦闘行動を開始するつもりなのは見てとれる。

 誠は思考した。

 先程《韋駄天》を使ったお蔭か、霧が晴れたように頭が冴えている。

 不意を突いたとは言え、侵入者は誠の第一撃を回避できなかった。それどころかまともに反応すらできなかった。

 やれるはずだ。

 誠は《韋駄天》で相手の右から距離を詰めると、瓦礫に深く足を埋めながら、右手のエッジレスで薙いだ。頭部は狙わない、横っ腹に少し当てるだけだ。この加速度ならば、それだけで吹き飛ばせる。

 上手くいけば、この一撃で終わらせられる。

 命は取らない、殺人ができない身体にするだけだ。


「らぁっ!!」


 誠が気迫を乗せて振り抜いたその刃は、相手には届かなかった。相手の胴体から三十センチメートルは離れた場所で、見えない壁に塞き止められてしまったのだ。踏ん張って押し込むも、その壁はあまりに強靭で、むしろ押し返されてしまう。

 銅鑼を鳴らしたような音が拡散する。

 一連にして一瞬の動作に時の流れがようやく追いついたのか、堰を切ったように誠の足元の瓦礫や、彼が押し退けてきた大気が爆発した。


「マコト!」


 反発し合う磁石のように、正反対へ投げ出された両者だったが、示し合わせたように同時に受け身を取って着地した。

 誠は回想した。

 相手の胴に近い刃に青白い閃光が絡み付いていた。アレは前に見た覚えがある。

 確か――そうだ。

 誠が思いついた頃、侵入者はまるでそうプログラミングされているように鉄棒を構えた。

 それをある女が彼方から捕捉していた。女は指先に神経を尖らせると、任意のタイミングで折り曲げた。

 その直後、侵入者の左側面で爆発が起きた。




「え、当たってな……え、何やってんの? 下手なの? 下手なら最初から言ってよ。そんなデッカイ銃持ってたら誰だって〝できる女〟みたいに見ちゃうじゃない。女版東郷さんとか次元さんとか斉藤さんみたいなキャラなんだって勘違いしちゃうじゃない」

「アタミお前、結構口悪いよな。人のミスをネチネチネチネチ……。将来中々のクソ姑になること請け合いだな」

「ヘタクソが何言ってんの? ヘタクソが口答えしちゃうの?」


 女――バラージュに、エリは蔑むような視線を送る。

 彼女らはHQにほど近い廃ビルの屋上で、レーダーとスナイパーとしての役割を果たしていた。

 狙撃手のバラージュは、愛用の電磁加速式アンチマテリアルライフル〈ゲイ・ボルグ〉の整備不良を疑いつつも、侵入者をセンス《バイブ・センシング》で再分析した。

 彼女の目や脳裏には、周囲で発生する振動が波形のような分布図として映っている。センスの発動経緯はエリの《サーマル・センサー》とほぼ同じだが、見える光景はまるで違っている。彼女の脳裏に映し出される空間把握上の世界は灰色で、それを振動値に従って天気予報図の等値線や地形の等高線のような細い線が埋め尽くしているのだ。線は全て青色で記され、振動の発生源が最も濃く、遠退くにつれて薄くなっていく。

 如何せん振動なので、単なる地震のような揺れのみならず、目に見えない音波や熱振動、また脳波まで観測してしまう。だからバラージュは作戦行動以外でこのセンスを使わない。脳への負担を考慮すれば多用できないし、センスのオンオフができることは幸いだった。

 今は遠方に見える侵入者の位置と、斜線上に吹き荒ぶ風などの空気振動を感知し、ライフルの照準を的確に合わせ、狙撃した。

 手応えは命中に違いなかったが、当たらなかったのは侵入者の周囲で発生している奇妙な波形が要因らしかった。


「つーか、アタシは何もミスってねぇし。アイツの熱量を視てみろよ」


 指示に従い、目を瞑ると、侵入者の周囲の熱量が異常に高くなっていた。しかもそれは侵入者自身に影響するほど広範囲ではなく、また外へも広がりを見せていない。まるで卵の殻のように薄い膜が高熱を保ちながら彼を守っているようだった。


「変な熱分布。センスを見る限り、電気的な作用だとは思うんだけど……」

「もっかいやるから、直撃の瞬間を視といてくれ」




 今のはバラージュによる狙撃だ。

 ケンはそう察すると、「マコト!」と叫び、ハンドシグナルを彼に見せた。


〝対象から距離を取れ。狙撃班に任せろ〟


 彼の指示に従って近くの遮蔽物に身を潜めた誠は、そっと侵入者に目を向けた。

 彼は〈フェリズ〉の数名を含めた狙撃チームによる四方八方からの集中砲火に対しても動じることなく、ただ的らしく立ち尽くしては、銃弾の直撃から免れていた。


「ダメです、あの人に銃弾は効きません!」

「どういうことだ……?」


 〈フェリズ〉が使う米海兵隊専用モデルの狙撃銃〈M40〉から放たれる7.62mmNATO弾のおよそ倍に相当する大きな銃弾が、侵入者の左即頭部に直撃することなく弾け飛ぶ。

 その弾が弾ける時に見える青い光はプラズマによるものだ。誠は忘れかけていた白頭翁の厳しい相貌を思い出した。


「バリアーなんですよ! ビームバリアー! マデイラの無人島でメギィド博士が造っていたアレと同じなんです!」

「アレって言われてもなぁ……」


 元組織の研究者メギィドが熱核融合炉をエネルギー源に、巨大な電子防壁を起動させていた。誠は今と同じようにエッジレスでそれに触れ、跳ね返されてしまった経験があった。

 しかし彼以外の者は、その装置の存在は確認しているものの、実際に稼動している場面には立ち会っていない。


「とにかく普通の攻撃では通用しません!」


 ビームバリアーなる装置の原理を想像してみると、物理攻撃は効き目が無いということか。左手だけでは直線的な放電も、肩まで肌を露出させると電磁波をあのように応用できるのか。

 ケンがそのように考察していると、微弱な高音が耳朶に触れた。若者には聞こえるというモスキート音とは比べるまでもない高い周波のそれは、ネコにも匹敵する聴覚を持つケンにしか感知できない超音波――仲間からのシグナルだ。

 百キロヘルツ弱のその音は上空から雨のように降り注いでいる。ケンは見上げると、太陽を背に孤を描くように旋回している大きな鳥の姿を確認した。するとやおら立ち上がり、引くぞと言う意味のシグナルを誠に送って、侵入者からさらに距離を取った。

 誠は先日HQで行なったブリーフィングを思い出し、ケンの指示に従った。

 彼らの後ろ姿を見つけながらも、侵入者は追いかける素振りも見せず、再びHQへと進路を戻した。

 そこへテニスボール大の球体がいくつか投下され、侵入者は火の海に呑み込まれてしまった。




「俺なら死ぬよ、こんな攻撃受けたらさ」


 上空でそう独り言ちるのはファルクだ。彼は両の肩甲骨から生える巨大な翼を羽ばたかせながら、爆発による風圧と炎により生じた上昇気流を受けてさらに高度を上げた。

 彼のセンス《スパルナ》は酒顛の《鬼変化》のように肉体を変質させるものではなく、肉体の異常発達と言える。

 生まれたばかりの彼は体重が健常な乳児に比べると遥かに軽かった。身体は小さく、腕を見れば筋肉らしいものは見受けられなかった。

 そんな彼に外見からも判別できる異常が見受けられたのは、一般的な第二次性徴の発現時期のおよそ二年前――七歳頃のことだ。第二次性徴の二年前と言えば、生理学上では性腺刺激ホルモン放出ホルモンの生成時期とされているが、彼はやはりヘレティックらしくその成長スピードは凄まじく早かった。

 こうしたノーマルよりも早い身体的変化は、先天発現型のヘレティックにはよく見られる現象だ。ファルクもこうしたヘレティック生理学上のご多聞に洩れなかったということだ。

 彼の身に起きた変化というのは、背部の筋力が異常に膨らみ、それを突き破るように肩甲骨が奇妙な形に隆起したことにある。日毎、まるで鳥類における上腕骨のような形に変質していったのである。

 鳥の翼を支える骨は、人間の腕から指までの骨と同じである。つまりファルクには、三本目、四本目の腕の骨が生えたということになる。

 ファルクは日増しに伸びていく奇妙な肩甲骨の有様に恐怖し、自宅から離れることになった。一週間、二週間、生きる為に万引きのような軽犯罪を繰り返していたが、ついには胸筋までも膨らみ、骨と共に突っ張った皮膚からは羽根が生えてしまった。

 自分は鳥になってしまうのか。

 その恐怖を和らげたのは、やはり組織との出逢いだった。彼は組織に参入すると、まずは骨の切除を行なった。しかし組織の見立てどおり、その骨はまるで髪の毛のように伸び続けるので、投薬で成長を抑制するようにした。

 聞けば、ファルクのようなヘレティックは今日までに数人確認されており、中には放置しすぎた為に、肩甲骨から上腕骨のような物が生えるに留まらず、尺骨や橈骨、先端の指、最後には鳥らしく小翼まで作られて、幾多の伝説に語られるような鳥人間になってしまったという。

 しかしながら、そのヘレティックは飛ぶことはできなかった。いくら変質の過程で骨が鉄のように硬くなりながらも軽くなり、胸部と背部それぞれの筋肉がノーマルよりも増えてしまい、それ以外が脆弱な体型になってしまっても、それでもそのヘレティックは飛べなかった。

 何故なら、成長の過程で脳が縮小し、飛ぶ為に生やしていたのだろう翼を行使するという考えさえ至らぬほど機能しなくなってしまっていたのである。

 覚醒因子という本能が、本末転倒したのである。

 そこでファルクには、成長を抑制させる代わりに、新たな翼を与えることになった。

 彼の覚醒因子はあらゆることを求めている。

 翼の為の骨を生やしたい。

 風を掴む羽根が欲しい。

 羽ばたく為の筋力を強くしたい。

 それ以外の筋力を落としたい。

 骨を硬く軽くしたい。

 目を良くしたい。

 脳を小さくしたい。

 それらの先に生物としての未来が無く、またどう足掻いても表世界での生活が困難なら、彼には発達した三つ目、四つ目の腕に無機物の翼を取り付けて、新たな人生を歩む他に道は無かった。

 誠ほど戦うことに否定的でなかったから、彼は飛ぶことを選んだ。

 飛ぶことは嫌いではなかった。今のように空爆することが主任務であり、組織法の観点から自由飛行は制限されているが、脳が本能的な渇望を忘れずにいることに、奇妙な幸せを感じていた。

 ファルクは肩の神経と接続されたケーブルに命令し、翼を打ち下ろした。

 そうしてさらに高く舞い上がったところで、彼は戦慄を覚えた。

 地上の空爆地点――今も炎が広がるそこに、対象が無傷で立っているのだ。


「おっかないねぇ……うっと!?」


 相手が、右手を挙げてファルクに電撃を放った。まるで逆再生された落雷を、ファルクは間一髪のところで回避して、一目散に撤退した。

 一撃離脱が空爆のモットーだ。




 塵芥と黒煙が視界を奪う。

 迂闊に突っ込めないぞ、どうする。

 ケンは侵入者の能力を考えながら自問した。黒煙の先に侵入者がいるのは明らかだ。ごうごうと燃え盛る炎に隠れているが、侵入者から漏れ出す微かな電流音は捉えている。

 誠を偵察に行かせるか。《韋駄天》を使わせて、侵入者の状況を確認させるか。

 いやダメだ。不用意に接近して何かあってからでは遅い。もっと相手のセンスを引き出してからでなければ意味が無い。

 煙が晴れるのを待つか。

 これもダメだ。相手に考える暇を、行動させる余地を与えることになる。

 どうする。

 二度目の問いかけと重なって、ケンと誠の二人の間隙を巨大な雷が走り去った。それは向かいのビルの壁に突き刺さると大穴を開けるに至った。

 ちくしょうと舌打ちしていると、煙の奥で足音が遠退いていく。


「マコト、追うぞ!」


 誠は《韋駄天》を発動した。疲れはあるがまだ体力は残っている。

 加速する彼の足は瞬く間に侵入者を追い越した。

 二人が対峙する次なる舞台となったのは自動車工場の内部だ。吹き抜けの空間。止まったベルトコンベア。割れたガラス。風でのみわずかに回る換気扇。穴の開いたルーフからは日が差し込んでいる。


「これ以上は行かせません」


 侵入者は例によって例のごとく答えない。

 誠が投げかける会話のボールは、ミットに収まるどころか冷たいマスクに当たって、足元に落ちてしまう。


「帰ってください。家に帰って、自分のやっていることを見つめなおしてください。アナタは、間違っています」


 その幼稚なまでの説教をどう受け取ったのだろうか。

 侵入者は肩をすくめることもなく、鉄棒を構えることもなく、誠に向かって前進した。

 誠は彼の背後から斬り込んだ。彼の背中に刃は届かない。電子障壁に弾き返される。

 しかし誠は倒れてもまた立ち上がり、今度は正面から斬り込んだ。それが功を奏さなくても、誠は懸命に立ち向かった。

 それにとうとう嫌気が差したのか、侵入者は彼が倒れたところに鉄棒を打ち込んできた。

 誠は咄嗟にエッジレスで防ぐと、強靭な脚力で持って立ち、押し返した。


「どうしてこんなに荒んだことしかできないんですか!」


 侵入者は鉄棒に電流を流し、それを再び誠に振り下ろした。一八〇センチメートル強の長身からハンマーのように打ち付けられるその武器は、エッジレスと衝突すると帯びた電気を拡散させた。

 それが目眩ましとなり、誠は突如掻き消えた視界に低い呻きを上げた。

 直後だった。

 エッジレスから伝わっていた相手の重さが離れた矢先、右の脇腹が押し込まれた。薙ぎ倒されたのだと自覚して起き上がると、霞んだ世界の中心に黒い影が像を結んだ。それが彼にさらなる一撃を与えた。左肩から頭の先、足の先まで電撃が突き刺さった。

 高圧の電流が全身に迸る。

 首の後ろや肩に備わった通信機器がショートして煙を上げる。

 眼球が飛び出そうなほどの高電圧に晒される中、誠の脳裏にマリアナ基地でのある会話が思い出された。

 アレはマデイラの無人島へ向かう為に、潜水艦で出港を待っている時のことだった。エリが、誠の為に戦闘服の説明を懇切丁寧に行なっていた。

 彼女は言った。

 ボディアーマーには生体反応感知システムがあり、装着者が意識不明の重体となり同じく搭載されたAEDでも息を吹き返さなかった場合、組織やヘレティックという個人の情報が漏洩しない為に〈AE超酸〉と呼ばれる超酸性の液体が死体を消滅させるよう設定されていると。

 しかもアーマーを本人の意思を無視して他者が剥ぎ取ってしまうと、それでも〈AE超酸〉は化合されてしまうと。

 では、今のように高電圧に晒されている状況では、ボディアーマーはどんな反応を見せるのだろうか。

 続けて脳裏に過るのは、カラコルム山脈で亡くなったプラワットという隊員のことだ。彼は頭部を狙撃されて即死だった。ボディアーマーは彼から全ての生体反応が観測されないと分かると、薄情にも、冷徹にも、無慈悲にも、〈AE超酸〉をアーマー内部で生み出した。赤い液体が横たわる彼の胸から溢れ出し、半径二メートルを瞬く間に無に帰した。

 離れなければ。

 逃げなければ。

 脱がなければ…!?

 誠は絡みつく電子の鎖を振り払い、侵入者から距離を取った。そしてすぐに胸に手を当てた。指紋と静脈をアーマーに読み取らせて、脱衣の認証を得なければならなかった。

 しかしどれだけ当てていても、どれだけ当て直しても、叩くように当て続けても、アーマーは無言の行を返すばかりだった。

 まさか今の電撃でシステムが壊れてしまったのか。では本当に、ますます誤作動で〈AE超酸〉が起動してしまうかもしれない。

 こんなポンコツがっ……!?


「このっ、このっ! 脱がしてよ! じゃないと……はっ!!」


 胸に鉄棒が突き刺さった。貫通はしていなかったものの、吹き飛ばされる中、ボディアーマーが砕け散った。

 もはや倒れて動けない彼に、侵入者はゆっくりと近付いてくる。

 誠は黒い仮面が放つおどろおどろしさに目を剥いた。

 侵入者は歩を刻む。砂埃に足跡を残し、小さな水溜りも踏み荒らした。

 瞬間、その水が凍り、草木が芽吹いたように氷の蔓が真上に伸びてきた。

 侵入者は初めて慌てた素振りを見せた。電気を帯びた鉄棒で纏わりつく氷を薙ぎ払った。


「よく耐えた!」


 そう言って誠を担いだのはケンだった。彼は一目散に自動車工場から脱出した。

 工場内部は急速に温度を下げていく。プラスからマイナスへ急落し、大気が相転移して凍てついていく。空間は巨大な冷凍庫へと変質し、冷え固まった機械からはまるでハエトリグサのような食虫植物のごとく意思を持って、彼に向かって蔓や茨を伸ばしていく。

 侵入者はそれらを振り払い、すっかり厚い氷で塞がった出入り口に向かって雷撃を落とした。氷が砕けて、外の空気が入り込んでくると、彼は急いで脱出しようと足を急がせた。




「シュテンさん、もうイイよな。俺様もよく我慢した方だ」


 シュテンの返事を待たずに、カズンは左手をズボンのポケットに突っ込み、右手を戦場に向けた。

 目を瞑り、《念動力》における第一の能力――空間把握を発動する。自分が立つジャービルの寝室から、朽ちた自動車工場の様子を脳裏に投射される。

 寒々しい空間から黒い男が逃げ出そうとしている。


「行かせるかよ、クソカスが」


 カズンは伸ばしていた掌を開き、脳裏の映像に向かって第二の能力――念動波を送信する。イメージが沸き起こる。自分の手は今自動車工場の真上にあり、そこはここから実視界から見えるくらいに小さなものだ。つまり掌は今、工場を覆わんばかりに巨大になっている。

 イメージを固着させる。念を送る。

 カズンは掌を上げ、叩き降ろした。

 同時に、自動車工場のルーフが崩落した。

 侵入者は突然のことに混乱しながらも、落ちてくる鉄筋をバリアーで凌いでいた。


「いつまでやってられんだぁ?」


 次にカズンは、指を熊手のように立てると、砂を掻くように手前へ引いた。

 またも同時に、崩落した瓦礫が侵入者に向かって津波のように押し寄せた。彼がそれに呑み込まれると、いよいよ生の視界では確認できなくなった。

 しかしカズンにはまだ視えている。脳裏にハッキリと、前後左右上下に至るまで瓦礫の海に囲まれながらも執拗にバリアーで生き延びる男の姿が。


「これで終わりだ――!?」


 拳を振り下ろす最中、侵入者が足元に電撃を放つのが視えた。

 一歩遅かったらしい。瓦礫がぺしゃんこに潰れてしまう直前に、侵入者は地下に大穴を開けて脱出したのだ。


『無茶をしないで、カズン(ラウディ1)ウヌバ(ラッシュ4)の苦労が水の泡になるでしょう』


 イヤフォンからネーレイが窘める。

 カズンはふんとそっぽ向くと、「後はお前の好きにしろよ、ネーレイさん」


『そうさせてもらうわ。《ラッシュ1》、よろしいですね?』

「あぁ、お前達二人なら捕縛も可能だろう。やってみろ」


 開始された状況下で、対象を殺すのはとても容易いことだ。加減をしなければいいのだから。

 しかしその加減を要する捕縛という行為は、相手の戦意を喪失させる材料を見つけることから始めなければならない。

 ケン達は対象の抹殺を試みたが、それが叶わなかった。しからば畢竟、捕縛は望み薄だ。

 だが彼女はそれをやるらしい。

 酒顛もやれると踏んだ。

 

『始めます』

 

 彼女の冷ややかな声が反響して聞こえた。




 背後で鉄板と瓦礫が落ちている。暗くて見えないが、おそらくそんな音に聞こえた。

 侵入者は幸運にも廃下水道に隠れることができたらしい。彼は腕から放電すると、右手に壁を見つけた。彼から放たれる電気は、彼に空間把握を齎しているようだ。

 彼は壁伝いに歩を刻んだ。落下した位置から考察するに、この廃下水道を北上すれば目的地の真下に到達できるはずだ。

 とんだ貧乏くじを引かされたものだ。侵入者はわずかに眉根を寄せた。

 あの銀髪の男はかなりの手練だった。この身体でなければまず瀕死は免れなかっただろう。オーナーの情報どおりだ。身体のデメリットに配慮するならば、あの男とこれ以上の戦闘を興じるのは都合が悪い。

 侵入者は足を止めた。

 突き当たりに一際大きな水路が見える。

 侵入者は進まなかった。

 工場内で起きた冷却現象は忘れていない。アレはおそらくセンスによるものだ。あの氷には、確かに人の意思――殺意らしいものを感じた。

 すぐ足元を流れるこの細い水路も怪しい。立て続けに突如発生した工場の崩落から脱出したつもりだが、もしかすると誘い込まれてしまったのかもしれない。

 侵入者は足を引いた。一度出直すべきだ。そう思い踵を返すと、その足を誰かが掴んだ。無理に引っ張られ、尻餅をついてしまった。

 咄嗟に電撃を放ってそれを引き裂くと、ブーツが何故か水で濡れていた。

 一考する彼に、今度は丸い塊が飛来した。それを帯電させた鉄棒で叩くとそれが割れ、全身がびしょ濡れになった。

 唖然としていると続け様に、矢継ぎ早に、止め処なく、水の塊が飛来してきた。彼はそれらを迎え撃ちながら、徐々に進むべきでないと判断したばかりの北へ後退した。

 そしてついには、足場の行き止まりに来てしまった。踏み外せば水路だ。そう思い、反射的に後ろへ振り返った矢先、水の壁が押し迫り、彼を情け容赦なく突き落とした。

 直後だった。腰まで水に浸かった彼の身体が動かなくなったのだ。見ると、凍っていた。さっきまでたしかに液状だったその場所が、セメントのように固まっていた。


「過冷却って知っているかしら」


 女の声が耳朶に触れた。

 水道の左端に設けられた通路に、眼鏡をかけた女が立っていた。彼女は足元にランプを置くと、冷酷にも上品な笑みで言葉を紡いだ。


「水の融点が0℃だということはさすがに知っているでしょう。でもその水も、ゆっくりと温度を下げながら冷やしていくと、凝固されずに液状を保つことができる。それが、過冷却。過熱を思い浮かべると分かりやすいわ。水の沸点は100℃だけれど、実際にケルトで水を熱しても突然全てが気化するわけではないでしょう?」


 女――ネーレイは、通路の端に捨てられている空き缶を拾って彼に見せた。


「もちろん、過冷却にはただゆっくりと冷やす以外にいくつかの条件があるわ。一つはマイナス10℃未満であること。一つは不純物が無いこと。一つはある程度密閉されていること。もう一つは余計な圧力が加わらない状態を保つこと。これだけ大きな水道で過冷却をするにはまずこうしてお掃除しなくちゃいけなかったから、中々骨が折れたわ」


 彼女はそう言うと、足元の水溜りに手を当てた。するとその水がVサインを作った。水溜りから手首から先が生えてきて、そのようにした。

 この女のセンスか。

 侵入者が黙っていると、彼女の背後から巨大な影が現れた。珍妙な髪形をした黒人だ。


「過冷却の最大の特徴があるのは分かるわよね、侵入者さん。そう、過冷却された液体は衝撃が加わると思い出したように凝固されるの。今のアナタがその状態。アナタが過冷却された水道に落ちたことで、この水道は冬場のため池のように凍ってしまった」


 身動ぎする彼に、天井から水が降り注いだ。それはネーレイの意思を乗せて、彼の全身を水の牢屋に封じた。


「コレは本来、こちらの索敵網を抜けてきた人へのトラップとして用意していたのだけれど、アナタのお蔭で成功する瞬間を目の当たりにできたわ。ありがとう」


侵入者はもがいた。重力に反して球体を保ち続ける水の中で手を振り回した。


「ウヌバ、凝結させて。彼にはまだ、聞きたいことがある」


 彼女に従い、ウヌバは凍結した水路に手を突いた。センスにして自らの名前の由来である《ウヌバ》を発動する。

 彼の意思は水路を伝い、侵入者を絡め取る水に伝わった。水は瞬く間に凍てついて、侵入者を氷漬けした。


「さて、と。捕縛は成功したけれど、どうやって尋問しようかしら」


 まずは酒顛に報告しようと、彼女はイヤフォンマイクで連絡した。するとウヌバが突然覆い被さってきた。何がどうなってと、赤面しつつ動転していると、水路で光が拡散した。


「そんな……!?」


 侵入者が氷から解放されていた。露出した両腕と、それが構える鉄棒から、目視できるほどの電気が放出されていた。

 すっかり砕け散った足元の氷を踏み割った彼は、反撃と言わんばかりに彼女らへ雷を落とした。

 ウヌバは咄嗟に氷の盾を作ってそれを防ぐも、すぐに砕けてしまった。第二撃目を予想して身を強張らせていると、相手の姿はとうに消えていた。

 逃げられたか。

 遠退く足音に、二人は耳を澄ますばかりだった。

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