〔二〕
『俺がアンタの意図を理解したように、アンタも俺が言いたいことを解っているんだろう? アンタの言うことが本当なら、そのはずだ』
『そう腐るな。お前は運が良いんだぞ』
『どうだかな。悪魔に魅入られてしまったようにも思える』
『ならばお前の神になろうか』
『…アンタでも冗談を言うんだな。全てを悟って退屈そうな顔をしているのに』
『私の情緒まで理解できる者などいない。しかしお前だけは、いずれ解るのだろうな』
『それはつまり、今度の仕事で俺はしくじらないということか』
『だからお前を選んだ。流れに逆らえるほど、お前は強くないからな』
* * *
アメリカ合衆国――ミシガン州南東部。荒廃した自動車工場が連なる一帯。メーカーの倒産の煽りを受け、周辺市街地の人口は激減。ゴーストタウンとなり、ドーナツ化現象が深刻化して久しい地域。
積もりに積もった煤やら砂やら埃やらの微粒子が、時折吹き抜ける風で舞い上がる。ある一行はそれを吸い込まないようにか、あるいは別の目的の為か、マスクを付けて歩を刻んだ。彼らは首からカメラを提げ、または片手にハンディ・カメラを構えている。
この跡地に入る前、周辺のブラック・ゲットーを巡回していた警察官二人に目的を尋ねられた。彼らは口を合わせて、「我々は〝廃墟コレクター〟なのだよ」と自慢げに土地管理者が発行した立ち入り許可証を示した。
こういうオタク的なコミュニティーとは関わりたくないといった具合だろう。警官は肩をすくめると、迷子にならないようにと忠告して去っていった。この手の連中はことある毎にやってくるので、一々相手にしていられないのだ。
〝廃墟コレクター〟一行はまるでゴーストタウンのゲートのように聳える二つのビルの間を通り抜け、私有地に踏み入った。
割れたガラス。造りかけの車の部品。カラースプレーで壁に書かれたメッセージは何を伝えたいのか。ゴーストタウンの中心地――工場内部には、人の気配が無いものの、かつては活気づいていたのだという痕跡だけは風化しながらも残っていた。
「私有地とは言え、フェンスも無ければ門番もいない。じゃから一頃はホームレスからジャンキー、逃亡中の犯罪者まで、事情を抱えた者達の隠れ家になっていたが、今では野犬すら住み着かん」
一行の案内役を務めるように、先頭で電動式の車椅子を走らせる老人が言った。
工場を一つ抜けると、労働者居住区に出た。無人のアパート群である。
周辺には喫茶から小さな劇場、いかがわしい飲食店まで、あらゆる娯楽施設が犇めいている。しかしそうした自動車産業に従事していた者達の憩いの場さえも、再生の日の目を見ないまま今日まで至っている。
全てがセピアとなって、朽ち果てている。
一行の中には、その倒産の要因を作ったとされる某自動車大国出身の男が二人いる。内の一人、帽子を目深に被った巨漢は老人の話に耳が痛くなり、目を逸らした。直截的に関係があるわけがないのに、どうにも責められている気分だった。
「儂がこの土地を買い占めて管理してからはな、そういう者を一切排除した」
「穏やかじゃねぇな」
三白眼に眼鏡をかけた若い男に、「考え違いをするでないぞ」と老人は言った。
「儂とて人の子だ、手を汚してなどいない。迷える者、行き場を失った者、首を括る覚悟を決めた者、それらに新たな人生を与えてやったにすぎん」
ポニーテールの女が廃ビルの中や路地裏、下水道に至るまで人の気配を感じ取った。まばらに蠢くそれらは、まるで自分達を包囲しているようだった。
いや、包囲しているのだと確信できた。何故ならそれらは、一行と付かず離れずの距離を保ちながら追尾しているからだ。
「出てこいお前達。こ奴らは儂の客だ、ここならその姿も晒せるだろう」
複数のビルや工場という遮蔽物に囲まれた開けた場所で、老人は誰かに呼びかけた。するとその誰かも戸惑ったのだろう、少ししてからその姿を衆目に晒した。
ぞろぞろ、ぞろぞろ――足音という足音が迫り寄ってきた。その数は二十を越え、その誰もがただならぬ気迫をこれ見よがしに垂れ流していた。
知っている。
一行はそれを、〝殺気〟と呼ぶのだということを。
「コイツら…」
「一丁前に喧嘩売ってやがるぞ、オイ」
連中の格好は無様なものだった。身だしなみも何も無く、ただ単に人として残された最後の羞恥心から上下に布を纏っているだけだ。顔は痩せ細り、シャワーも浴びていない肌は目も当てられないほど汚れ、白人ならそれは余計に顕著に見えた。
まるで数週間放置された死体のよう。そこらのホームレスよりも一層酷いようにさえ思える。
しかし目だけは生きている。殺気を湛える双眸は、活力に満ち溢れていた。
野生的な、活力に。
「か、勝手が過ぎます。我々が表世界に干渉できないことはご存知でしょう…!?」
巨漢は焦燥に駆られ、老人を諌めた。これは彼らにとって由々しき事態なのだ。
一触即発の空気。身構える両者を前にして、老人は嘆息を漏らした。
「カズン君、キミも彼らを知っているのか?」
ついに巨漢は動転のあまり、青年を名指しで呼んでしまった。
隠密行動も何もあったものじゃないなと、一同は変装を解いた。状況を見れば、連中は老人の手下のようだし、隠す理由も無いだろうという判断だ。
カズンも黒縁の眼鏡を外して肩をすくめた。
「レポートに書いてあったでしょうよ。俺らはこの爺さんと一緒に方々を飛び回ってたって。こんなジャンクの山にお目にかかったのは今日が初めてっスよ」
巨漢――酒顛ドウジは、今一度連中に目を走らせ、最後に老人を睨んだ。
いくら組織の活動を資金面から支えてくれているとは言え、これはあまりに危険な綱渡りだ。何しろ、一般人に自分達――組織の存在が感知されているのだから。
詰め寄る酒顛に、老人は答えなかった。
そこへ、カツカツと革靴が地面を鳴らすので一同を黙らせた。野獣の群れを割って近付くのは男だった。髪型はオールバック、モーニングコートにスラリとした体躯を通しているが、どこか今ひとつしっくりこないのは、彼が二十代後半ほどと若いからか。
執事だろうな。という予測を誰もが浮かべるものの、確信を得られないもどかしさがある。
しかし当人はそんな視線を柳に風と受け流し、涼やかな顔を湛えて老人に一礼した。
「ジャービル様。ご一報いただければ、お出迎えできましたものを。彼らが色めき立つのも無理もありません」
「大事は無かったか、アレハンドロ」
「留守中、警戒すべき者は誰一人侵入しておりません」
「……なら良いが」
失礼致します。
そう言ってアレハンドロという男は、主人であるユーリカ・ジャービルの腕を取り、手首より上に巻かれた時計に目をやった。
しかしそれは時計ではなく、小型の血圧計のようだった。従来のそれよりも細くカジュアルなデザインのカフが、前腕の動脈圧を測定している。
ご主人様の体調管理までしているなんて、まさに執事の鑑だわ。エリはよく見れば端正な顔立ちの彼に、うっとりとした眼差しを浴びせた。
「エリさんはああいうのが良いんですか?」
早河誠の質問に、「だって~、ウチにはあんなキャラいないでしょ」とエリはにこやかに答えた。
まぁ確かにと誠は妙に納得してしまった。
同じ隊の男達は無論のこと、最も理想に近そうな清芽ミノルも少し空気感が違う。主を敬愛し、心血注いで奉仕するような男はまず思い浮かばなかった。
「……っ!?」
こめかみの辺りが疼く。針でチクリと刺されたような、何度も何度も突かれたような痛みが、誠を襲った。
〝――って言ってね、ウチで働いてくれてる人がいて――〟
誰かの声が鼓膜を撫でた。
聞いたことがある。知っている。
記憶の断片が叫んでいる――名も知れぬ彼女の声だと。
いつか戻るべき場所にいる、愛する女性の声だと。
誠は耳に触れ、感じた熱を、顔も思い出せない彼女があの日差し出した手の平の温もりと重ねた。
そうだ、少し冷たかった。緊張していたのだろう。拒絶されることを、恐れていたのだろう。
会いたいという衝動に駆られ、触れていた耳たぶを強く抓む。
バーグ、か……。
その情報屋の一声が無ければ、自分はここにはいなかった。そう聞かされている。
酒顛達は口を揃えて言う。早河誠の拉致は、異例中の異例だったと。
何故自分は、この世界に連れ出されたのだろうか。
未だに答えが見つからなかった。
――何らかの意味があるならば。
一つの決め事が少年の胸の中に発芽した。
バーグから真相を聞き出さなければならない。
「執事のアレハンドロだ」
「お初にお目にかかります、名も無きご一行」
モノローグに耽る少年を置き、大人達は事態を動かしていた。
慇懃にお辞儀で挨拶をするアレハンドロは、微笑を浮かべた。
「彼のデータもありません」
「そう目くじらを立てるな、鬼の小僧」
「遊びではないのですよ…!?」
鬼気迫る酒顛の態度に、アレハンドロが割って入った。
「主は高脂血症を患っておいでです。心臓へ負担が掛かるような物言いはくれぐれもご遠慮願いたい」
若い男の堂々とした立ち居振る舞いに、酒顛は危機感を募らせた。若さ故の無鉄砲さが垣間見えたのだ。
彼はまだ、我々を理解していない。こういう輩はズケズケと人の事情に踏み込んできて大怪我をするのがオチだ。
「しかし説明はしていただきますよ、ジャービルさん。我々の役目は、アナタお一人を守るだけではなくなったのですから」
ジャービルは答えぬまま、車椅子を前進させた。
それを追いかけるアレハンドロの背中を眺めながら、雪町ケンは高い鼻を親指で擦り上げた。
* * *
石油王イーサン・プライズは隠居して久しい身。
そうした個人情報はインターネット上で誰もが当人に断りも無く閲覧できる。世界的な常識として、写真入りの記事で掲載されている。そのネット上の文面では数ある隠居の理由を一つ、次のように説明している。
〈そうして来る九十七年のことだ。プライズ王はスイスで行なわれた晩餐会の折、テロリストによる凶弾を受けて重傷を負った。弾は腰の脊髄に刺さり、彼を下半身不随に至らしめた。九死に一生を得た王だったが、不自由な身体を苦にして嫡子にその座を譲り渡した〉
また中略すると、プライズが発見したイランにある超大油田は、現在はその妻と息子夫婦が管理しているのだと綴っている。
しかしその世界的な常識は、組織の創作物である。
「妻も息子も、孫娘さえも組織が用意した。それはあの油田の恩恵を一部的にも世界へ還元したいと願う、儂の意思に共鳴してのことだ。若い時分に利得のみを追求してきたこんな儂にも、今では少なからずの善意がある。国家や企業から得た収益を、社会的弱者の救済に充てることが儂の最後の役目。それを支える為に、組織は手を貸してくれている」
内縁の妻とその隠し子としてマスコミ各位が全世界に発信していたプライズの家族は、全て組織の一員である。情報部の一部隊がイランにある彼の屋敷に常駐し、特殊メイクと変声器でもって四六時中芝居を続けているのだ。
付き人と共に車椅子で世界を放浪する夫を待つ健気な妻。
日夜油田という巨大な宝物庫の利権を守り続ける生真面目な息子。
さながら贅を極めんと金銭を湯水のように使い捨てる愚かな嫁。
そんな彼らに甘やかされて育った苦労知らずの孫娘。
セレブリティ・オブ・セレブリティズ。
それを情報部が演じるのは、ジャービルとの盟約を守る為だ。
「見返りに氏は、組織への資金援助を行なう。アナタの庇護の下、組織はREWBSから表世界を危機から遠ざける」
「しかしこの共生関係を続けるには、あの油田一つでは事足りなかった。アレはもう十年も持たない」
ジャービルが言葉を切ると、照明が落ちた。
ここは彼の秘密の城の中。工場の一施設という外観からは想像できない豪邸仕様の内観は、煌びやかな家具や調度品で埋め尽くされている。欧米に見られる豪邸のそれだ。
しかし高い天井から下げられたシャンデリアが息を潜めると、それらも沈黙し、もう一つの顔を来賓達に披露した。
白く巨大な壁がスクリーンへと変わり、四百もの映像を一挙に映し出した。
スクリーンを操作するアレハンドロは言った。
「これはここから半径一キロメートル圏内――つまりこの工場跡地に設置されている監視カメラのライブ映像です。先程のホームレスの方々――もとい傭兵部隊にはこれらの映像を頼りに、この邸宅の防衛を務めていただいております」
「素人が防衛だぁ? 金欲しさに集まった骸骨共で何ができるんだ」
カズンがせせら笑ったその時だった。無数の赤い光が彼の全身に浴びせられた。銃火器のレーザーサイトから照射される光だ。
「あ…?」と身を強張らせたカズンを煽るように、ケンが言った。
「ブラボーだぜ、コイツら。隠密行動、隊の統制、銃の扱い、どれもCQBの基礎ができていやがる。米軍のSEALs出身者でもいんのか?」
Navy SEALs――米国海軍特殊部隊。ベトナム戦争の折に結成され、陸海空と場所を選ばずに任務を遂行する精鋭の集団。
そのSEALsが、というよりも世界の戦闘部隊がまず習得している技術がCQBだ。
「そのシーキュービーって何ですか」と誠が問うと、「バーベキューのことよ」とエリが真顔で答えた。
「いやそれBBQでしょ」とすかさずツッこむと、彼女は舌を出して、「テヘッ」と自分の頭を小突いた。非常に鬱陶しいリアクションに、誠は白けた目を返した。
「クロース・クォーター・バトル。こういった建物の内部で行なわれる近接戦闘技術を指します。銀髪の御仁が仰るとおり、二名ほど元米軍の士官が混じっております」
「惜しむらくは、性格が短気でプライドが高いってことくらいか。一兵卒が自我なんて持っちゃあいけねぇよ」
お前が言うのかと、酒顛やエリは心の中で返した。
誠はカズンを狙う銃口がどこにあるのか探した。一つはキングサイズのベッドの下。一つは窓を隔てたテラスから。一つはドアの隙間から……。それ以外は分からない。
エリには見える。床に敷かれたカーペットの下から五つの銃口が覗いている。天井にも複数の銃眼が張り巡らされており、その一つ一つで先のホームレス連中が銃を構えている。
その数、二十六か。さっきジャービルが呼びかけた時には見なかった顔もチラホラいるようだ。全体数はおそらく、五十名弱といったところだろう。
「しかし驚きました。その米軍と引けを取らないだろう組織の実行部隊の方々に、CQBもロクに知らない方が居られるとは」
アレハンドロの冷笑に、誠は妙な刺々しさを感じた。まるで自分達を邪険にしているようだ。
「何でも良いが、いつまで俺様に銃口を向けやがるつもりだ? 全員の居場所くらい、とっくに把握してんだよ。これ以上続けるなら、脳味噌ミンチにしちまうぞ」
カズンの脅迫にも臆さず、連中は照準を一ミリメートルもズラさなかった。
それに堪忍袋の緒が切れたか、カズンは目を閉じると脳裏に意識を凝らした。
増大する殺気を肌で感じた酒顛は、「止すんだ、カズン!」と咄嗟に叫ぶが、暴虐な彼を止めることはできなかった。
秒針が揺れる度、レーザーが小刻みに揺れる。周囲から呻き声が漏れ出す。
誠は頭を振って、その声に耳を澄ました。何が起きているんだと困惑していると、ドアの外に隠れていたホームレスが頭を抱えて部屋に転がり込んできた。
ネーレイが彼を支えて介抱しようにも、彼は泡を吹いて白目を剥いてしまっている。
どうやらカズンは《念動力》で、彼らの脳を圧迫し、頭痛を引き起こしているようだ。
「カズン、もういいでしょう!?」
彼女に続き、酒顛が彼の胸倉を掴んだ。
「今すぐに《念動力》を止めるんだ。さもなくば――!」
「あと一人」
彼の身体から、レーザーサイトが消えていた。しかし背中に一つだけ残っているのだ。
エリは《サーマル・センサー》で彼の後方――クローゼットに隠れるホームレスを感知した。
男は歯を食い縛り、鼻血を垂らして目を充血させながら懸命に照準を合わせ、引き金に指を掛けていた。
危ない!
そうエリが叫ぼうとしたその時、銃口から弾丸が飛び出した。それは一直線にカズンの背筋を目指す――が、途中で時が止まったように動かなくなった。
カズンが《念動力》で止めたのである。
「確かにプライドだけは一人前だな。だが、雑魚の出る幕じゃねぇんだよ」
ようやく全ての敵意が消えると、彼は酒顛の手を振り払い、「ざけんなよ、テメー」とケンの肩を手で突いた。
「あ?」
「テメーも俺様と同じこと考えてた癖に、わざと黙っていやがったな…!?」
「は?」
「しらばっくれんじゃねぇよ。気付いてたんだろうが、この雑魚共がここに隠れてやがんのをよぉっ!」
「カズン様なら俺なんかよりも先に気付いてると思ったんですがねぇ」
視界の左半分に拳が迫る。ケンは咄嗟に腰を沈めた。一歩踏み出すことで逸らすと、「利き腕はこっちじゃねぇだろ」右手でカズンの胸倉を掴み、彼の右脇に右肘を入れた。左手を彼の腕に宛がいながら、足を刈った。さらに彼の身体を腰に乗せ、背中から落とした。
その流れるような一連の動作から紡ぎだされた体技は――一本背負投である。
天井を仰いだ格好になったカズンは、呆気に取られた様子で目を丸くしていた。
「大人になれよ、カズン。今ここにいる俺達を見ろ。もう時代が来てんだよ」
酒顛を除けば、平均年齢は二十歳と少しだ。それが実行部隊の主軸となっているのが、今の組織の現状だ。
ケンは嘆息を漏らすと、一人輪から外れて壁に凭れかかった。
「貴様らは話の腰を折るのが得意じゃな」
「返す言葉もありません……」
酒顛は下げた頭を掻いた。
その彼をフォローする為か、「あのさー」とエリが口火を切った。
「もしかしてなんだけど、お爺ちゃんはこの地下の話をしようとしてるの?」
床を指差す彼女に、アレハンドロは瞠目した。「解るのですか」と問い質す彼の様子は挙動不審だった。
「解るって言うか、見えるって言うかねー。これって、油田ってやつかな?」
アレハンドロはポカンとしまりの無い顔を主に向けた。
しかしその主の表情に、驚嘆や感心の色は無かった。世界の変人びっくりショーを見飽きてしまった常連客のように、「いかにも」平然とした口振りで答えた。
主が顎でしゃくるので、アレハンドロは映像を切り替えた。
九つの画面が映し出された。そこには仄暗い竪穴と、そこに突き刺さる太い鉄の棒――ボーリングという掘削機が複数の照明により照らされていた。
「この地下に隠しているのが、儂が発見したもう一つの超大油田だ。発見当時の試算では、究極的な可採埋蔵量は百億バレルぼどだったか。これを資源にあと半世紀は組織の活動を援助できる」
一同はその言葉に圧倒的な心強さを覚えた。
「組織の誇る二大戦闘部隊である貴様らに今回の任務を依頼したのは、儂は勿論のこと、この油田を守ってもらう為だ。解るな、ドウジ・シュテン。これは貴様らの今後を占う重要な任務だ。貴様の手抜かり一つで、組織が傾く!」
ボスの言っていた〝組織の存亡〟とはこのことかと得心がいった酒顛は、「ではこの任務、傭兵含め一切を私の指揮下に置かせて頂きたい」と申し出た。
大きく出たな。
ジャービルはにやりと口角を上げると、「無論そのつもりじゃ」と言ってからアレハンドロを一瞥した。
すると彼はシャンデリアを灯してから、スーツの胸ポケットに挟んでいた小型の機器を指で叩いた。直後、天井の一部が開き、一人の男が飛び降りてきた。どうやらマイクのようだ。
他の傭兵と同じくみすぼらしい格好のその男は、眉間を軽く揉んでから背筋を正した。カズンの《念動力》を受けたせいだろう、顔色がすこぶる悪いように見える。
「彼が傭兵部隊〈フェリズ〉の隊長――トマス大尉です」
トマスは一同に敬礼した。その目にはカズンへの怒りはもはや皆無のようで、彼の挑発的な態度も映っていないようだ。
そんな彼に、「はいはーい、質問しっつもーん!」といつもの年甲斐の無い天真爛漫な声を弾ませるのはエリである。
「トマト大尉は、何でBBQのピーマンズから生ゴミになったんですかー?」
「おい、色々間違い過ぎてワケが分かんねぇーよ。つーかヒデー言いようだな」
彼女の無神経さにバラージュは青ざめたが、当のトマスは敬礼を崩さず明後日の方を向いている。もしかすると現実逃避しているんじゃないかというくらいの馬耳東風っぷりだ。
「これは失礼した、大尉。彼女のことはそのまま無視してくれて構わん」
「えー」
「お前は黙ってろ」
「ぶー」
「それで大尉、自分はどうにも気掛かりなことが一つある」
エリが下唇を突き出して不貞腐れる中、酒顛は彼と目をかち合わせた。
「ジャービル氏に忠誠を誓えるか?」
その問いでようやく、トマスの瞳孔が揺らいだ。
「古くは〈君主論〉に語られるように、どうも傭兵というのは信用に欠ける。カズンの言い分も分かるというものだ。本心を語らぬ限り、俺はお前達を使う気は無いし、このまま野に返す気も無い」
瞳孔が止まった。脅しには動じないという意思の表れか。
「答えろ、キャプテン・トマス。お前は何を求める。地位か、名誉か、金か、女か、それとも――漠然とした幸福か」
一つ瞬きしたトマスの視線は、次に開いた時には床に落ちていた。
赤い絨毯が血の海に見えた。その上に様々な国旗がひらりと落ちては、沈んでいく。あまりに多くの命が、自分の人差し指一つで散っていった。
呆気なく、無残に。
「地位も名誉もうんざりだ。それらはいずれ地に落ちる。金も女もいずれは飽きが来てしまう。ファミリーやマイホームなんてものに人並みの幸福があるなんてのはマヤカシだ。ただの種の繁殖という生々しい本能をオブラートに包んでいるだけだ」
案外おしゃべりだな。
滔々と持論を展開する彼に、エリは自分の質問に答えてくれなかったことへの不満を並べた。
「俺は――俺達は、生き甲斐が欲しい」
酒顛の目と向き合って、彼は続ける。その眼差しは真っ直ぐで、確かに飢えているようだった。
「この世に生きた証が欲しい。誰かに奪われたり、社会というシステムから弾き出されない、身一つでできる最期の生業が欲しい」
傭兵職は、自らの肉体のみを元本に開業できる男の職業とされている。それこそマキャヴェリやメディチ家のロレンツォ二世が生きた時代よりも遥か昔から存在している。
〈君主論〉では、その傭兵の扱いについて十二分に注意せよと言及している。彼らは利に聡く、雇い主への忠誠などは猫のように皆無だと。
それを承知しているから、ジャービルは〈フェリズ〉と名付けたのだろうか。
酒顛はジャービルを一瞥した。
動いた彼の黒目を追ってから、「ジャービルさんはそれを与えてくれた」とトマスは言った。
「恩義に報いたいのか」と酒顛が問うと、「違う」トマスは固い口調で否定した。
「俺達は、ジャービルさんを守ることで生き甲斐を感じたい。ただそれだけだ」
死体のような日々を過ごしていた。ジャービルに声を掛けられるまで、ずっと。
恩義は少なからず感じている。それまで重い水に浸かっていたような身体が、一息に宙へと舞い上がったようだった。救われたのだという実感が痩せ細った心を潤した。
同時に、もう二度と喪失感を覚えたくないとも思った。生への執着が爆発した。
今度こそは生きる為に、生きたい。そう願った。
「そんな悲しいこと…」
そのか細い一言で、トマスは我に返った。
振り向いた視線の先には、アジア系の面立ちの少年が眉を八の字にしていた。
トマスはおもむろに鎖骨の辺りを撫でてから、諭すように言った。
「全てを失えば解る。思い至ったその一つしか、生きる術が無いということを」
全てを失う。
誠はあの日のことを思い出していた。組織に残るか否かの選択を迫られた日のことだ。
あの時の誠にも、その選択肢が二つも無かった。たった一つだけ。頭に思い浮かんだその選択のみが、彼が生きられる唯一の道だったのだ。
そう――記憶という糸を断たれた誠には、もはや引き返す場所など、当に無かったのである。
誠に、トマスらの生き方を否定する権利は無かった。
「くっだらねぇ」
からからと笑い飛ばすのは、言うまでもなくカズンである。
「せいぜいそのたった一つの生き甲斐とやらを満喫して野垂れ死んでくれや。俺様はその間に、ごまんと湧き上がる欲望の赴くままに人生を楽しませてもらうぜ。全てを失わず、この手に抱えたままなぁっ!」
彼が部屋から去っていくと、しばしの沈黙が訪れた。
* * *
その後、酒顛は忙殺された。
まずは戦力を把握しなければならなかった。
第一実行部隊五名。第二実行部隊五名。傭兵部隊〈フェリズ〉五十七名。総計六十七名が、戦闘部隊として酒顛の指揮下に入った。
とは言え、組織法に遵守するなら〈フェリズ〉は警護対象にもなる。組織の存在を知っている以上、今や彼らも裏世界の住人だが、だからと言って彼らに無理はさせられない。あくまでもノーマルに他ならない。やらせることには制限がつく。
次に戦闘区域の把握だ。
監視カメラが設置されているのは、ココより半径一キロメートル――ジャービルの私有地内に限られている。事前に秘書官メルセデスから渡された任務概要によると、そこより外で戦闘が行なわれた時、後詰の情報部でさえも情報の改竄が困難だとのこと。同じく作戦におけるあらゆる履歴を抹消する作戦処理部隊も完全にカバーはできないらしい。
つまり、何者かの侵入と襲撃を許した時、絶対に戦闘区域から取り逃がしてはならないということだ。
そうした有事の際、ジャービルやアレハンドロをどこに匿うかということも問題だ。現状では邸宅一階のエントランスから、地下の油田観測所へ向かう通路があるらしいので、速やかにそちらへ向かってもらう手筈になっている。初めからそこに待避してもらうのが得策なのだろうが、ジャービルはそれを頑として拒んでいた。
「儂は貴様らに警護しろと言ったのだ! 幽閉しろとは一言も言っておらん!」
「しかし、避難訓練はしてもらわなければ…」
「ならんものはならん!」
また始まった。
エリやバラージュは彼らの様子を尻目に嘆息を漏らしていた。
ジャービルの秘密の邸宅で任務を開始してから四日が経っていた。その間、ジャービルは子供のように駄々を捏ねては、酒顛の要望に非協力的であった。
確かにジャービルが言うとおり、未だに暗殺者どころか野犬一匹の姿を監視カメラは捉えていない。毎日総員から二十名を選出して戦闘区域を巡回させているのだが、穏やかで殺伐とした風だけが、彼らの頬を撫でるばかりだった。
事態に動きが無い。まるでバーグの脅迫が嘘のようにさえ感じられる。
嵐の前の静けさと言えば腹の底が冷える想いをしなくもないが、暇を持て余す毎日は彼らから集中力を削ぎ落とすのに充分だった。
それでも飽きずに任務を続けるのは、ボスから撤退命令が下されないことと、暗殺の日時指定が無かったことの二点が、酒顛の思考の軸にあるからだ。
しかしジャービルの態度を見ていると、実行部隊の隊員らの指揮は下がる一方だった。
同じ行動を繰り返し、同じ討論を繰り返し、同じ結果で眠りにつく。
これはやはり、時間の浪費に他ならない。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」
女二人に頭を下げるのはアレハンドロである。彼は片手に銀のプレートを持っている。載せているのは紅茶の入った洒落たポットとカップだ。
「アラ、気が利くわねセバスチャン」
何故か貴婦人気取りで上から目線のエリの横腹に、バラージュはすかさず肘鉄を食らわせて黙らせた。
「アンタも大変だな、アレハンドロさん」
「いえいえ。皆様に比べれば、私の苦労など取るに足りません」
彼から淹れたての紅茶を受け取ったバラージュは、そっと部屋の端に目を走らせた。
暗殺の鉄則として、彼らは毒殺にも警戒している。邸宅内のあらゆる食材は、薬毒物の検知器として重宝されるガスクロマトグラフィーですでに検査済みであるが、何分相手はヘレティックだと予測される。想像もできない未知の毒薬が相手になるかもしれないと思うとゾッとする。
しかしこの四日、毒と呼べる代物は検出されなかった。その証明として、アレハンドロが振舞う料理で誰一人腹すら壊していない。
バラージュはそうした強みと、甘い香りに誘われて、一口含んだ。喉を通り、胃に落ちると、たちどころに鼻と口に芳醇な香りが広がる。
むぅ、ローズマリーか。アタシには合わないな。
コレは香りだけでいいと思った彼女は、感想を脇に置いて訊いた。
「アンタ、随分若いな。アタシらとそんなに変わらないんじゃないか?」
「あらヤダ、バラージュさんったら。こんなところで逆ナンですか? 顔に似合わずお盛んなことで」
二度目の肘鉄を食らったエリは、アレハンドロから受け取り損ねた熱々の紅茶を頭から被って悶絶躃地した。
大丈夫かと膝を突こうとする彼を、バラージュは手で制して話を続けさせた。
「……元々私の父が、ジャービル様――いえ、当時はプライズ様の秘書のようなものをしておりまして、その父が十五年前に早死にしてからというもの、身寄りの無かった私をあの方が引き取ってくださったのです」
「十五年前……」
バラージュが目を細くすると、アレハンドロは視線を外して口を開いた。
「お察しの通り、主が下半身不随となられたテロ事件に、父も巻き込まれたのです」
「それはまた、因果なもんだな」
「一つお伺いしたいことがあります」
そう言って近付いてきたのはネーレイである。その隣にはセットのようにアリィーチェがいる。
「何でしょうか」とアレハンドロがにこやかに答えると、彼女は訊いた。その口調に、いつものおっとりとした彼女はいなかった。
「こちらの情報によれば、その事件を引き起こしたテロリストグループは、実はREWBSだったとか」
「え、そうなのっ!?」
驚くエリに疲れたのか、「お前なぁ、仮にも第一だろ? 少しはらしくしろよ、割とマジで」とバラージュは蔑むような視線で釘を刺した。
その目やめて。エリが彼女に懇願する中、アレハンドロは答えた。
「そのようだと私も伺っておりますが、真相までは解りません。そう断定し、主に接近してきたのはアナタ方組織の方だと聞いております」
「まったく組織も抜け目が無いよな」
バラージュは肩をすくめた。
かねてから組織が金策の為にジャービルを狙っているのは明白だと思えたのだ。
ネーレイも同意見で、「となると、ジャービルさんにはその時に証拠となる物証を見せたということになりますよね」
「と、仰いますと」
「テロリストが、ヘレティックであるという証拠です。十五年前には、ジャービルさんは私達の存在を関知していた」
「そうなりますね。でなければ存在非公開の組織とやらが主の前には現れることはない。それに主は非常に聡明なお方でございますから、見ず知らずの者の言葉だけでこんな与太話を信じることはありません」
そこで区切ると、鋭利な眼光を忍ばせてから、「人には無い力を持つアナタ方が、主に何らかの行為に及ばない限りは」
「どういう意味だ、そりゃあ? アタシらが脅したって言いたいのか」
冗談じゃねぇよ!
侮辱されたような気分になったバラージュはそう叫びそうになったが、「私も同じ意見です、アレハンドロさん」と言うネーレイに愕然とした。
「お、おい、ネーレイ!?」
「どうも納得がいかないのよ。十五年前のテロ事件のことが」
眼鏡の下のぷっくりとした唇を指先で抓みつつ、彼女は頭を悩ませていた。
「どういう意味だ」とバラージュが問うと、彼女は手振りを加えて答えた。
「だからね、REWBSがそう簡単に表世界に干渉してくるかしらってことよ。しかも、普通のテロリストになりすましてね」
そう言われてみればバラージュにも、濡れた髪をタオルで拭いてるエリにも思い当たる節があり過ぎる。
「別に、これまでそうしたケースが無かったわけではないわ。でもほぼ全てにおいて、組織の存在が彼らへの抑止力となって暴走を未然に防いできたのが実際よ。それがよりによって、ジャービルさんのように、世界経済に主立って影響が出そうな人がいる晩餐会でテロが起こった。こういうのを偶然と呼ぶには、釈然としない点が多過ぎるわ」
「じゃあ何。組織が資金集めの理由付けに、REWBSを野放しにしていたってこと?」
ネーレイへの反論に、アリィーチェが逸早く反応する。殺気立つ彼女だったが、エリの目から先程までのおちゃらけた雰囲気が消えていたので、逆に腰が引けてしまった。
「気を悪くしたのならごめんなさい。それも一つの推論というだけなのよ。でもそれは、今私が知りたいことではないわ」
彼女は部屋の隅の喧騒に目を向けた。
ジャービルが酒顛を邪険にしている。
「私が本当に知りたいのは、当時ジャービルさんが何かしたんじゃないかってこと」
「主がREWBSとやらを煽ったから、あのテロが起きた。そう仰りたい?」
「考え過ぎでしょうか?」
「ええ。私としましては、古傷を抉られるような思いであります。正直に言えば、あの事件はテロリストによる独善であり、主は私の恩人であったと思いたい。ですが、一理あります。確かに当時の主は、あることに関してとても過激な発言を繰り返しておられましたから」
「あること?」
エリの問いに、アレハンドロは唇を結んでは噛んでを繰り返した。逡巡した彼だったが、観念したように口を開いた。
「コレはおそらく、主に関する一般の記事で目にできる情報です。主はあらゆる宗教的観念に対し、一貫して否定的な立場を公言しているのです」
「テロリズムの多くは宗教に由来しているからな。セプテンバー・イレブンが解りやすい」
「それでテロリストがあのエロ爺さんを狙う理由にはなるだろうけど、ヘレティック的には無関係なんじゃないの?」
人間よりも突出した生態を手に入れた彼らに、神への信仰心などあるように思えない。と言うのがエリの見解だ。
「いや、関係はあるだろ。テロリストに成りすましちまえば、組織は関与してこないと考えたんじゃないか? 何せREWBSってのは〝国境無き反乱者〟だ。世界を標的にするなら、経済活動をストップさせるのも最善の策だ」
実際にREWBSは過激派宗教テロリストに扮し、スイスの国営放送局にテロ予告を収めたビデオを送付していた。
思考に耽っていたネーレイは頭を擡げた。
「バラージュ、それよ」
「あ?」
「解ったのよ、違和感の理由が」
アレハンドロは彼らの会話に耳を傾けることしかできない。手持ち無沙汰になっていたので、とりあえず紅茶を彼女らに行き渡らせた。
その間、ネーレイは続けた。
「もしもこの推理が合っているとして、どうしてそのREWBSは組織の法を知っていたのかしら。組織が表世界の事情には関与できないってことを」
「確かに……。そいつはそうだな」
バラージュは妙に納得させられてしまった。
組織法では、例え目の前でノーマル同士が殺し合っていても看過せよと定められている。それは表と裏という二つの世界が不干渉でなくては、互いの生存圏を守ることができないとされているからだ。
毒をもって毒を制す。ノーマルにはノーマルを。ヘレティックにはヘレティックを。互いの問題は、互いで解決する。
それができないREWBSは、組織が止めなくてはならない。不干渉を貫く為に。
――世界の為に。
確かに、ジャービルを襲ったREWBSの動きを考察するに、そうした大いなる志が見透かされてしまっているようにも思える。
「つまりネーレイは、組織の情報がダダ漏れしてるって言いたいのね」
「エリはどう思う?」
「可能性は高いと思うわよ。実際にメギィドやリーダーの先任なんかが離反しているし。でもね、こういう話をしてるとさぁ、どうしても思い浮かんじゃうんだよね。バーグって名前が、さ」
絨毯のシミ取りに炭酸ソーダのスプレーを使っていたアレハンドロは、「その名は確か、主の暗殺を仄めかした張本人の……」と片膝を突いた格好で言った。
ネーレイは彼を気にする素振りを見せると、「どうして?」とエリに向き直った。
「あんまムツカシーこと解らないんだけどね、何だか聞いてると予定調和的だなぁーって思ったのよ」
「そりゃあ推理だからな」
「そうなんだけど、全員がジャービルさんをそれぞれの思惑で狙っていたのだとしたら、この任務は私達が思っている以上に奥が深いかもしれないわ」
「答えになってない気がするけど、少し分かるわ」
「えっへへ」とエリは頬を掻いた。
ネーレイは褒めたつもりは無かったのだが、こうしてすぐにあっけらかんとできるエリのことが嫌いではなかった。
「とりあえずさ、みんなで頑張ってエロ爺さんとセバスチャンを守ろうよ。じゃなきゃいくら考えても仕方ないわ」
男はおもむろに立ち上がると、「アレハンドロと申します」と真顔で訂正した。
* * *
それはエリが熱湯地獄に喘いでいる頃であった。
司令部となった邸宅から九百メートル南下した位置で、〈フェリズ〉の兵士が一人巡回任務に就いていた。彼は他と変わらないくたびれた格好で、朽ちたアパートの物陰から周囲を窺っていた。五分ごとにHQに定時連絡をし、当方の指示に従って徐々に西へと移動していた。
巡回経路は、HQを中心に時計回りである。巡回に充てられた二十名が一定の間隔で全方位に配置されているので、異変があれば近くの兵士が報告者のカバーをするという手筈になっている。
そしてその兵士は今、報告者となってしまっていた。
「メーデー、メーデー。こちらキムリック、現在地6‐B3。HQ、至急応答されたし」
長い髪に隠れたイヤフォンマイクで連絡する。それは組織とやらの情報部から支給された量子通信機で、現状表世界に傍受される心配の無い通話を可能としている。
『こちらHQ』と随分とクリーンな音声が鼓膜を叩く。
相手の落ち着き払った応対にキムリックは安堵したのか、早鐘を打っていた心拍を留めながら、「侵入者あり」と伝えた。
『数は』
「1。HQに向かって北上中の模様」
侵入者――対象は建物と建物の間の細い路地を歩いている。日の光が届かないそこは洞窟のようで、足音に耳を澄まし、目を凝らさなければ分からなかったかもしれない。
『カメラの死角か』
「はい、私の位置がココです」
GPSで位置を知らせると、『確認した。B3なら距離はある。対象の容姿を撮影し、こちらに送れ』と指示が下りた。
「念の為、救援を求めます」
『すぐに向かわせる。その為にも急げよ』
6‐B3とは、六時方向のB区三時方向を意味している。
キムリックは神の悪戯のように突然舞い込んできた面倒に嘆息を漏らしていた。あと少し東へ行ってくれていれば、今の自分の管轄から外れ、ヘレティックという人外に任せられたものを、と。
しかし、「了解」と応じたのは、コレがトマスと同じく自分の生き甲斐なのだと思い直したからだ。
キムリックはゆっくりと腰を上げた。
相手の足取りは特に焦りも無く、そぞろ歩きのようにゆったりとしている。ただ遮蔽物の合間をすり抜けることだけは徹底しているようで、決して日の下にその姿を晒さない。
こちらに気付いている素振りは無い。感知しているなら一度でも足を止めるはずだからだ。これなら先回りをして正面から撮影に踏み切れるかもしれない。
キムリックは同じく支給品のスマートフォンを取り出した。これにはシャッター音を解除できる機能があるばかりか、暗視カメラの役割も果たせるから、相手に悟られる心配も無い。
組織か。
不意に過る別世界の超越的な存在の大きさに生唾を飲み下しながら、キムリックは広いファインダーに対象を収めた。
「顔が映っていないぞ」
『すみません、フードが邪魔で…』
「もう一度だ。もう一度やれ。その後第一防衛ラインにおいて催眠ガスで対応しろ」
『増援は…』
「すでに付近に到着しているはずだ。お前は任務を果たせ」
ここHQから半径八百メートルが第一防衛ラインだ。そこを越えられると、武力行使もやむを得ない。ノーマルが相手の場合、そのような手段に訴えることだけは避けたい。
その為にも、相手の外見から判断できる情報があれば、一つでも多く入手しておきたい。
HQにてキムリックと通話しているトマスの肩に、「どうした」と酒顛が手を置いた。ジャービルと言い争っている最中、彼にこのセキュリティルームに呼び出されたのだ。
室内には初めに酒顛らが集められた寝室にあったような、巨大なスクリーンが用意されている。加えて複数のコンソールとヘッドセットが据えられており、監視カメラの映像や戦闘員らの位置情報を即座に引き出すことができる。
トマスはそれを操作しながら、酒顛に答えた。
「総隊長。6‐B3にて侵入者があったようで、現在その姿を確認しております」
「コートを着ているのか」
「そのようです」
スクリーンには廃墟跡の空撮映像と、一から十二まで割り当てられた区分が記されている。またその横には、別ウィンドウで侵入者の画像が貼られている。
画像は、路地裏を歩く対象を正面から撮影した物だ。暗視機能のおかげでシルエットが浮き出ており、確かにロングコートを着ているように見える。しかし頭はフードで隠されているので、性別すら確認できない。
ただ分かるのは、〝廃墟コレクター〟ではないということだけだ。
酒顛は現時刻と場所を見て、「報告者はキムリックか」
よく把握できていることに感心したトマスは深く頷いた。
酒顛は彼の隣の席に着くと、ヘッドセットを装着し、トマスの物と周波数を同期した。
「キムリック、聞こえるか。こちらラッシュ1。対象は何か背負っているように見えるが、確認できるか」
『確認しています。長い竿状の何かを背負って……ちょっと待ってください』
キムリックは通信を切ることなく、何かを確かめているようだ。
酒顛らは顔を見合わせたが、キムリックの行動を予測できなかった。
トマスのサポートをしていた兵が、スクリーンに6-B3付近の監視カメラの映像を拡大した。しかしそのどれもに人の姿を見つけることはできなかった。
『何だコイツ、何wo……xtt……!?』
キムリックの声が届くや、一部のカメラがスノーノイズを映したの皮切りに、6-Bの全てのカメラも沈黙した。
「キムリック応答しろ、何があった!」と酒顛が慌てて問いかける。
返事が無い。そこへ、「電波障害です!」と兵士が叫ぶ。
電子マップを見上げると、確かに6-B一帯に不可解な磁場が発生していることを伝えていた。
「まさか、電磁パルス爆弾か…!?」
「そんな物、まだこの世にあるわけ――!」
はっとして、口を閉じた。
もう常識なんて通じないのだと、トマスは拳を握った。
もうここは、裏世界なのだ。
* * *
『Emer……y. ……gency. 第一……戒警報発令。総員、至急戦……備に取り掛……。繰り返す――』
肌が粟立つ。全身の毛が、意に反して逆立っている。
動悸がする。腹の底まで響いて、締め付けられるような痛みに襲われる。
耳から奔る恐怖が、誠の足を急がせた。しかし何故か思うように走れない。膝が笑ってしまっていて、階段を上手く上れない。直線でなくても、こんな段差の連続なんて、《韋駄天》を使ってしまえばあっさりと上り切ることができるのに。
あんな、あんなものを見てしまったから……。
『いよっし……ああああっ! 場所はどっ……ぁっ、六時方……ぁっ! もっ……付いてきやがれえぇっ! そした……様のテリトリーだ! 速攻で捻り潰……やるぜえぇっ!!』
誠を我に返したその声はきっと、マイクに向かって叫ばれたものではないだろう。優れ過ぎた集音性が、不必要で不愉快な音までも拾ってしまったらしい。
思わず止めていた足を踏み出した。
階段を上ると、先程見かけたあの凄惨な場所に辿り着いた。
まだいるか。アレはまだ、いるのか…?
壁に背をへばり付けて、足を忍ばせる。
窓が全て割れてしまった、煤だらけの集合住宅。造りが質素で、まるで学校のようにも見える。通路とぽっかり空いた空間が壁に仕切られているだけの建造物だ。
学校?
誠は眉間を抑え、頭を振った。今は余計なことに囚われている場合ではない。
ここだと足を止めた。
誠はこの階のこの場所で恐ろしい光景が起こったのを目撃した。
人の上半身が、黄色や青い光を纏いながら、窓の外へと飛んでいったのだ。
『…コト! ……に……!?』
イヤフォンから酒顛が呼んでいる。電磁波の影響か、もはや何を言っているのか聞き取れない。
誠は電源を切ると、部屋の中を覗いて――目を疑った。
最悪だ。そんな短絡的な感想が、とても適格だと思えた。
暗い部屋の中央に誰かが立っている。窓枠から差し込む光が当たらないギリギリの位置に立っている。黒いコートを着て、フードで頭を隠している。背には細い鉄パイプのような棒を担いでいる。
その窓枠の下の壁から対象の足元にかけて、赤が広がっていた。その赤は光に照らされて、より一層鮮烈さを増していた。
あぁ、最悪だ。
赤の中央に、下半身だけが座り込んだ格好で残っていた。兵士の下半身だけが。
焦げた臭いがプンと漂ってきて、誠は思わず鼻と口を手で覆った。
どうする。
どうしたらいい……!?
迷い、逡巡している彼の脳裏に、カズンの声が過った。
あの男ならきっと迷わないだろう。迷わず、殺すだろう。
兵士を殺された仇討ちでもなければ、腹いせでも、義務でも、快楽を得る為でもなく、ただ自らの名声の為だけに、殺すのだろう。
やらせるか。
誠は、担いでいる二振りのエッジレスを握った。
やらせるか。
たとえ、兵士が無残に殺されたのだとしても、俺は。
「俺は、人殺しにはならない」
その声に気付いたのか、対象は振り向いた。その目深に被ったフードの下で、左目が無機物の輝きを放っていた。