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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第三章【雷鳴の暗殺者 -One-eyed REWBS-】
103/167

〔一〕

 右肘を、肩の高さまで上げる。その手の拳を握り、親指と人差し指の付け根を唇にあてがう。

 潜水艦のタラップから降りると、そのような格好で直立不動の者達が整列し、道を作っていた。その数、三百を越えている。

 コレは組織の最敬礼。〝語らず〟、〝語られず〟を重んじる彼らそのものを意味する。

 しかしそれが上辺だけの礼節であることを、出迎えられている第一実行部隊の面々は承知していた。だからこそあえて隊のリーダー――酒顛(しゅてん)ドウジは、事前に隊員らへ、〝堂々と胸を張れ〟と言い聞かせていた。

 隊最年少の早河誠(さがわ まこと)は、そう言うリーダーの背中について歩きつつ、ちらちらと視線を左右に振った。

 人垣は向かい合い、視線を少し上向きにしている。しかしそのしっかりと開いていた目蓋が、最後尾の誠が通り過ぎた頃には重くなり、すっかり冷めたものへと変わり果てる。

 誠はそれを見ないフリをして、当てつけがましい黒いカーペットの上で歩を刻んだ。

 そう。酒顛に言われるまでもなく、兵達の意思表示は明確だ。黒いカーペットは服喪を意味する。

 いけすかねぇな。

 サブリーダーの雪町(ゆきまち)ケンの足音が、そう唾棄しているように聞こえる。

 同意するつもりで、誠は握り拳を固くした。すると思わず足にも力が入った。一歩が大きくなった。そんな時に酒顛が急に立ち止まってしまえば、ぶつかるのは必至だった。

 何やってるんだと振り返った酒顛だったが、すぐに顔を正面に戻して敬礼した。

 鼻先を赤く腫らした誠は、隊の紅一点――エリ・シーグル・アタミに腕を引かれると、酒顛らと同じ位置で横列を成した。

 彼らを正面から出迎えたのは、久しい顔だった。


「作戦部第一実行部隊、ドウジ・シュテン以下四名、デヴォン島基地への転属命令を受け、参上いたしました」

「ご苦労様……と、言いたいところですが、このまま人に会ってもらいますわ」


 そう言って、眉間に多少の苛立ちをのぞかせるのは、組織の長――ボスの秘書官メルセデスという淑女である。また彼女は作戦参謀長官でもあり、総督補佐官でもある。だからと言って、彼女が次期の総督、つまりはボスの後任ではない。彼女の役目は、ボスが何らかの理由で指揮を取れない場合の臨時総督代理であり、後任の総督が選出されるまでのバックアップだ。

 そんな彼女がキッと兵達を睨むと、背後で幾人もが息を呑んだのが伝わった。

 誠は、やっぱり怖い人だと思う反面、良識のある大人だと再認識した。


「ここで話しても仕方ありませんわ。執務室へご案内します」

「……は」


 酒顛は脳裏にあの鉄仮面を被ったような無表情を過らせてから、短く答えた。


*   *   *


 ここは、カナダ北東、北極圏。東にバフィン湾を臨む、世界最大の無人島。

 デヴォン島である。

 島は標高が高く、年間を通して気温がほぼ氷点下である為、少数の動物しか存在しない秘境と言える。

 その島の地下に、組織は基地を建造した。

 基地へ入るにはバフィン湾から続く水路を通らなければならず、その水路は普段岩に擬態しているので、組織以外の者が進入することは不可能となっている。

 基地の規模は組織一の広さを有しており、マリアナ基地無き今、ここが本部となっている。

 その地下基地の通路で、メルセデスは口を開いた。


「雰囲気が変わりましたわね」

「四ヶ月前とは状況がずいぶんと違いますからね。余裕というものがありません」


 酒顛のその見当違いの返答に、メルセデスは顔を顰めた。視線を彼から外し、「マコト・サガワ、アナタの話をしているのよ」と少年に向けた。


「オレは何も……」


 何も変わっちゃあいない。

 誠は、メルセデスから顔を背けた。

 一同は無言のまま、人が待っているという執務室へ歩を進める。

 しかし十歩ほど足を動かしたところで、メルセデスが急に立ち止まった。

 するとまるでデジャヴ。誠はまた酒顛の大きな背中に鼻をぶつけることになった。

 いよいよ鼻血でも出るんじゃないかと呻いていると、メルセデスが彼の肩を掴んで肉薄し、「お待ちなさい。今、何と?」と冷や汗まじりに訊いてきた。

 目は血走り、ザパンザパンと波飛沫を立てて泳いでいる。瞳孔には疑問符が浮かんでいるようにさえ見える。

 彼女の意気に押されて、「何って…」と誠は口ごもった。


「でしょ? やっぱりみんな驚くんだって。私もビックリしちゃったもん」


 面食らうメルセデスに、エリはうんうんと深く同情した。


「またその話ですか」


 誠は鼻から嘆息を漏らすと、メルセデスの手を優しく解いた。

 〝あの日〟から、何度同じ質疑応答を繰り返させられたことだろう。その度に暗く澱んだ金の輝きが思い起こされ、途方もない悔しさが溢れ出す。


「先に行きますから」


 通路を独り進んでいく彼の背中をメルセデスは指差し、エリに意見を求めた。

「あんな感じでね、ドライになっちゃいました」とエリは肩をすくめた。

「ドライって。アレではまるで……」とメルセデスだけでなく、一同が銀髪男に注目した。


「そこで何で俺を見るんだよ。胸糞悪ぃな」

「そこのアナタ、ウチのマコトちゃんに何を吹き込んだのかしら。ねぇ、お母様からも言ってやってくださいな」


 またエリの悪い癖が出た。

 何やら良家の娘になりきって、お母様役らしいメルセデスの腕にしがみつく。その目はケンを軽蔑していて、人に向けるそれではない。

 メルセデスがこんな小芝居に付き合うわけがない。そう高を括るケンとは裏腹に、当人は眼鏡のブリッジを押し上げた。


「そうですわね。全くの別人ではありませんか。その内、アナタのように髪まで染めてしまうんじゃないかと思うと、ゾッとしますわ」

「乗っかるのかよ! つーか俺のは地毛だ、染めてんじゃねぇんだよ!」

「彼が染める染めないの話をしているのであって、アナタの地毛云々など聞いておりませんが」

「うぜーババアだなぁ、おい!」

「まだ婚期は残ってますわ!」


 メルセデスは顔を真っ赤にすると、ケンを平手打ちした。

 無防備だったケンは、「何の話だ!?」とツッこむのが精一杯だった。


「まぁまぁ。マコトの身に起きた変化は、コイツのせいでないことは確かなので、今日のところは許してやってくれませんか?」


 平身低頭でケンを庇うのは酒顛である。ケンの後頭部を掴むと、力ずくでお辞儀させた。

 しかし一度火がついたメルセデスは止まらず、「アナタ。何を他人ごとのように語っていますの?」


「はい?」

「元はと言えば、アナタがこの不良の育ての親なのですから、第一に責任を負うのはアナタでしょう!?」

「自分でありますかっ!?」

「だから私はあの時反対したのです。この子達をアナタに――」


 パンと大きな音が鳴る。

 メルセデスの目の前で、酒顛が合掌していた。瞠目する彼女に、「少しおしゃべりが過ぎたようです」とにこやかに言った。

 彼らの態度に、ケンとエリは少し居心地の悪さを共有した。過ぎた話であるから尚更だ。


「マコトの件は、後ほどお伝えします。と言いますか、報告書は送ったはずですが…」

「目は通しました。しかし人がああまで変わるだなんて、誰も想像できませんわよ」

「ヘレティックのセリフとは思えませんな」

「と、とにかく、行きますわよ!」


 室に入りて矛を操るのが彼女の論法なのだが、今日は一向に冴えないご様子だ。

 エリは彼女の動揺を体温から見てとると、この数ヶ月がどれだけ彼女を追い詰めたのかということを察することができた。

 あぁー、こりゃ面倒押し付けられそうだと、エリは横に顔を向け、「ねぇ、ウヌバ――ありゃ?」気付けば、横にいたはずの巨人の姿が忽然と消えていた。




 レーン・オーランドという少年と出逢った――出逢ってしまった。

 それが誠の人生の歯車を、また一つ大きく狂わせていた。

 かの少年は、誠と同じ十七歳、似通った体格でありながら、フェンシングの腕前は超一流。組織一の二刀流の使い手とされるエリをも圧倒し、肉弾戦ではケンをも凌駕する腕力で彼に大怪我を負わせた。

 聞けば酒顛も彼に、その巨体を投げ飛ばされたのだと言うから、その強さは常軌を逸している。

 出逢いはある意味劇的であったが、そこから交わした言葉は友人となるに足り得るほど、とても優しく温かいものばかりだった。

 そこに嘘は無かった。

 誠はそう断言できる。

 レーンも、熾烈を極めたカラコルム山脈で、出逢いの日を過ちだと言っていたからだ。気まぐれが、過ちを生んだのだと。

 山脈での戦闘で、誠はレーンの真実を知った。

 彼は父――世界屈指の資産家であるオーランド財閥当主シューベルの為に、その生涯を血で染めようとしている。自身を守ろうとする父の恩に報いる為に、アメリカを火の海にしようとしているのだ。

 山脈で交わした言葉は、悲しく冷たい水掛け論で終始した。

 馬鹿げているよ。

 誠は、白い自動扉の前で唇を噛んだ。目蓋の裏には、こちらに向かって何かを語りかけるレーンと白頭翁の姿が去来していた。


「マコト」


 俯く彼の背中を、太い声が打つ。

 あまりに唐突だったので、わずかに身じろぐ彼だったが、「解ってます」と顔を上げて声の主に答えた。

 振り返らない――振り返られない。合わせる顔が無いからだ。

 何せ誠は、そのカラコルム山脈でレーンを追うあまりに、ある男の死を誘ってしまったのだ。


「ウヌバさんの言うとおりです。オレは、強くならなくちゃいけない」


 ウヌバ――巨人という形容が似つかわしい黒人の隊員。

 誠は彼の師を、殺してしまった。


「アイツを止める為には、何としても」


 このデヴォン島へ訪れる前、彼らはバミューダ基地にて隠遁していた。先の作戦を理由に、出動禁止を命ぜられていた。そこでウヌバは明くる日も師の墓と向き合っていた。

 ばつの悪さから、それを遠くから眺めることしかできなかった誠に、ウヌバはただ一言だけ言葉を紡いだ。

 強くなれ、と。


「だから、誰に何と言われたって、同じ場所に留まってちゃいけないんです」

「俺モ、変わル。トモに、変わロウ」


 扉を前に、二人は横に並んだ。

「はい、変わりましょう。約束です」と誠は小指を立てて、ウヌバに差し出した。

 他国の文化に疎いウヌバは、見様見真似で指を立てる。

 誠はそこへ指を絡めた。

 が。


「マコっちゃん、どうしたのー?」


 真っ赤に腫らした小指を立てたまま蹲る誠の姿に、エリ達は首をかしげた。


*   *   *


 ――トトンと打つ。

 執務室。

 そこはホワイトハウスのオーバルオフィスのようなもので、最奥には組織の長が座する椅子と机が据えられている。

 実際、数名の男女を横に侍らせて、一人の男がそれに腰を下ろしていた。

 ロマンスグレーのオールバックと、微動だにしない態度。そこにある全体像は、噂に違わぬ鉄仮面。

 この人が、ボスか。

 誠は、初対面だった。

 しかし、「フッ」彼と目が合った途端、彼が笑ったように見えた。

 何だと思っていると、メルセデスが一歩前に出た。その頃には、面の皮は揺るぎない硬さを取り戻していた。


「今回貴様らを召喚したのは――」

「よぉーよぉーよぉー!」


 メルセデスの語次を奪ったのは、傍若無人という四字熟語が相応しい、躾のなっていない荒々しい声だった。

 男である。若く、ケンと同じ二十代前半か。赤毛で、アフロのような髪型がジャガイモのような顔立ちをよりいっそう引き立たせる。背格好もケンと似ているが、若干男の方に分があるように見える。

 彼は掻き乱した空気をさらに壊すように、ズカズカと第一実行部隊に近寄った。


「この俺様が待たされるほどの相手とは誰かと思えばぁっ、コレはコレは第一実行部隊のサブリーダー様じゃあありませんかぁっ!?」


 男が名指しで絡んでくると、ケンはたちまち面倒くさそうにそっぽ向いた。

 彼の舌打ちを気にも留めず、あるいは耳に入っていないように、男はペラペラと口を動かした。


「聞いてるぜぇ。天下のケン様ともあろう御方が、マデイラでもカラコルムでもREWBS如きに肩透かし食らっちまって、何の成果も出せなかったってなぁっ!?」


 その暴言といい、声量といい、ケンの繊細な鼓膜を刺激させるには充分な不快音波だった。すると彼は耳を塞ぐフリをして、中耳にインプラントされた弁を、耳の後ろのスイッチで閉めた。


「カズンくん、ひっどーい! 私達だって一生懸命頑張ったんだよぉ?」

「うぐっ。いやでもよぉ、戦場は成果主義だぜ、エ、エリちゃんよぉ~」


 急に言葉を濁す男――カズンは、ろくにエリと目を合わせず言い訳した。


「あれだけ毎日四六時中大見得切ってたコイツが、雪山で雪男死なせて帰ってきただけなんて、笑うに笑えねぇ酒の肴だろうよ」


 ――トトン、トトンと打つ。

 カズンのセリフに、緊張が走ったのは言うまでもない。

 ウヌバは勿論憤りを露にし、同じく参列していたカズンの同僚でさえ、言い過ぎだと頭を押さえていた。

 しかし誰より彼に怒ったのは、誠だった。

 誠は鼻息を荒くして一歩前に出ると、彼の胸倉に手を伸ばした。

 それをケンは、彼と向き合いながら手だけで封殺した。

 胸にあてがわれる頑丈な手に、誠は前に進めない。あと少し手を伸ばせば、無礼なこの男に届くというのに。

 檻に入れられた野獣を眺めるような態度で、カズンは顎を上げて偉そうに問うた。


「あぁん? 何だテメこら。俺様に楯突こうってか?」

「ネーヴェマンさんを侮辱しないでください……!」


 何だこのガキは。つーか何様だ……あ?

 カズンはふと頭を擡げて、第一実行部隊のメンバーらを見渡した。

 酒顛ドウジ、雪町ケン、エリ・シーグル・アタミ、ウヌバ……。

 数年前、ある事情により実行部隊が大々的に再編成されたことがあった。それ以来、酒顛の意向によって第一実行部隊は四人編成であったはずだが、目の前には五人目がいる。

 一つの噂が思い出されると、カズンの止まりかけていた思考が駆け足で大声を生成した。


「あぁ! あーあーあー! お前か! そうかお前がアレか! 最近第一に贔屓で配属されたクソガキっつーのは!」


 ケンでなくとも耳が痛くなるような大音響に、「早河誠です」と苛立ちを抑えた静かな

声音で、誠は答えた。

 カズンはそれを話し半分で聞き流し、彼の頭の先から爪の先までをジロジロと値踏みするように眺めた。

 野暮ったい顔立ち。細い腕。薄い胸板。筋肉質なのは足くらいで、それも見た目はサッカー選手以下にさえ見える。

 しかし外見とギャップのあるヘレティックなんてのはザラにいる。

 カズンはとりあえず、上下関係をハッキリできる一言を彼にぶつけた。


「で、何人殺した?」

「え……」

「だから、スコアだよバカ。あの《韋駄天》を使って、何人のバカREWBS共をぶっ殺したんだって訊いてんだよ」


 ――トトン、トトトン。リズムが乱れる。

 誠には《韋駄天》と呼ばれるセンスがある。発動すれば莫大な脚力を生み、その疾走による最大スピードは亜光速にまで達するとされている。さらに発動中は皮膚と骨は金属のように硬質化し、筋肉はより柔軟になる。治癒能力が高まり、たとえ大怪我を負ってもつぶさに細胞が修復される。

 人智を超えた、規格外の身体能力を発揮する。それが《韋駄天》というセンスだ。

 だからカズンは思うのだ。

 そんな便利な力があるのなら、REWBSを一捻りすることも容易いと。

 しかし当人は、「何なんですか、その言い方は…!?」と愕然とした顔を向けるばかりだった。

 まるで、壊れたDVDプレイヤーのように、その動きを止めている。


「やめろカズン。コイツはまだ誰も殺しちゃいねぇーよ」


 ケンが口を挟む。

 次に驚嘆したのはカズンの方だった。


「は? おいおいおいマジかよコイツ!? それお前実行部隊にいる意味あんのかよ! そんなんじゃ童貞と変わらねーじゃねぇーか!?」

「このっ…!」

「顔真っ赤にして挑発乗る前によぉ、相手の技量を確かめろよバーカぁ」


 カズンに掴みかかろうとする誠だったが、その手はまたも彼に届かなかった。

 ケンが止めたのではない。

 誠の身体が、どういう理屈か宙に固定されてしまったからだ。「な、この!」と手足をバタつかせてもがいて見せるも、体の芯がその中空の――座標の一点から動こうとしない。

 《念動力》ねと、メルセデスは目を細くしてその光景を眺めた。

 それは今のカズンのように、対象物に手を翳すだけ、あるいは対象を思い浮かべて念じるだけで、それを自在に操ることができるセンスである。地に這い蹲らせることもできれば、きっと天井に押さえつけることもできるだろう。目に見える範囲か、あるいは彼の空間把握が許す限りで、それは可能となる。

 バミューダ基地のドルコフ司令や、第十一実行部隊のステナも同じく発動できるが、カズンのそれは格が違う。自由自在と言ってもコントロールは難しく、集中が途切れれば浮かせてていたものも、再び重力に縛られて落下する。その点カズンは正確無比で一心不乱。第二実行部隊のリーダーに相応しい高位の力量を有する。


「うるせーな。おいアリィーチェ、黙らせろ」


 キーキーと喚きたてる誠を片手で浮遊させるカズンに呼ばれ、第二実行部隊の隊員が一人、短くもハッキリと言った。


「降ろせ!」

「《緘黙》」

「降ろ――! …! …!?」


 ゴシック・アンド・ロリータ系の黒いドレスに身を包んだ、小柄な少女の一言だった。

 直後、誠は金魚のように口を開く。開いては閉じる。懸命に喉を震わせて、声という音を奏でてみるが、呻きすら上げられない。まさに緘口令を布かれたように、一言も発することができない。

 酒顛は少女に目をやり、「ほぉ。コレが噂の、《ネガティブ・コントロール》か」と心得顔で言った。

 聞き覚えのないセンスに、「何ですか、《ネガティブ・コントロール》って」とエリは首をかしげた。


「簡潔に言えば、〝言霊〟というやつだ。彼女の言葉、特に負の要素が強いそれを聞いた者は、その言葉に従ってしまうんだ」

「でも私も、リーダーだって聞いたでしょ?」

「全方位じゃねぇのさ、アタミ」

「バラージュじゃん。おひさっ♪」


 バラージュという長身の女は、相変わらず暑苦しいスキンシップを求めてくるエリを片手で制すると、アリィーチェを親指で指した。


「コイツの便利な所は、対象をピンポイントに狙えるところだ。コイツは頭の中で、〝聞かせる対象〟と〝そうでない対象〟を選択してから洗脳波を投げかけるんだ。今はそこのガキにだけ、洗脳波をぶつけたのさ」

「相変わらずザックリしてるよねー。何か理屈っぽく無さ過ぎて、さっぱり分かんない。センノーハって何よ」

「わ、悪かったなぁ、説明下手なくせに出しゃばっちまって!」


 ――トトトン、トン、トトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトト

 ぷんとむくれる彼女に代わり、メルセデスが補足する。


「バラージュが説明できないのは無理もありませんわ。何故なら、《ネガティブ・コントロール》……いえ、使い手のアリィーチェについては未知の領域が多過ぎるの。彼女の発する言葉と強力な脳波、対象への身体的負荷という三点の、科学的な因果関係がまるで解明されていない。その上彼女も、研究に非協力的ですし……」


 ちらと目をやるが、アリィーチェはまだ一定の間隔を置いて〝緘黙〟と呟いては、誠の声を拘束していた。


「どうだガキ、喋れねーだろ。うっひゃひゃひゃひゃひゃ!」

「っ!!」


 嘲り笑う男に、いよいよもって怒りが爆発した。

 地に足が届かないのなら、ここから術者であるカズンに直接攻撃するほかない。右足に力を籠めると、そこからは速かった。

 速過ぎた。

 質量を持った物質が、空気を掻き分ける。それだけで衝撃波が生じて、室内を爆心地のように震わせる。

 巻き起こる突風に皆が身を屈める中、ボスは無表情のまま、わずかに乱れた髪を整えた。

 一同が呆気に取られていると、「……効かねぇよ」とカズンの声が、宙で足を伸ばしたまま固まる誠の肌を粟立たせた。


「俺様はなぁ、その雪男部隊のアッサーラ相手に、アームレスリングで負けたことすらねぇんだよ。しかも俺様は、小指一本でアイツの腕をぶっ潰した!」


 ゾウの足のように膨らんだ左腕で、誠の強烈な右足を受け止めていた。大きな手が誠の足首を掴んでいるのだ。

 アッサーラと言えば、《ヘラクレス》という怪力のセンスを持つ、第八実行部隊のサブリーダーだ。カラコルム山脈で、分厚い岩石をも軽々と抛る様は、まさに神話の英雄の名に相応しい姿だった。

 そんな彼に、このカズンは無敗を誇ると言う。


「その俺様相手にぃっ、クソガキの蹴りなんて通用するわけぇーだろぉが!」


 そう語気を強めて、カズンは誠の足から手を離した。すると、さながら横方向に重力がかかったように、誠は扉へと真っ逆さまに自由落下していった。

 何の対処も抵抗もできなかった。背中と扉が磁石のように引き合って、打ちつけられると同時に磁力は解かれた。

 呻きを上げ、ぐったりと倒れてしまった彼に、カズンは無慈悲にも追い討ちをかける。ボスの机の上に置いてあったグラスを、魔法のステッキのような人差し指一つで宙に浮かせた。そこから誠を指差すと、グラスは一直線に彼の方へと飛んでいった。

 だが途中、グラスは酒顛の手の内に収められた。彼の腕に、飲みかけだった水が降りかかった。


「まだ悪戯癖は抜けないか、カズンくん」

「そう思うんなら、さっさと仲裁に入ってくださいよ。スルー決めといて言うセリフじゃないっしょ」


 カズンは顎を引き、悪態をつく。

「技量を確かめていた。しかし期待外れだったな」と言って肩をすくめる酒顛に、「……そういうの、節穴っつーんですよ」と減らず口も叩いた。

 睨むカズンに、酒顛は柔らかな目を湛える。

 先程の衝撃波の名残か、痺れた空気が連中を麻痺させ、身体の動きを鈍らせる。しかし動けぬ中、誰もが思うのは、カズンが引き下がることこそが事態を収束に向かわせる最善の方策だということだ。

 しかし、「いつまで待たせるのだ! このクズ共が!!」という雷声が、この空気を一息に切り裂いた。


「貴様も何を黙っておる、ボスならば一喝せんか!」


 騒いでいるのは、ボスの机の隣で、車椅子に座っている老人だ。齢は八十代後半か。薄っすらと残る色褪せた金髪と、青い瞳。酒焼けのようにしゃがれた声はこの部屋の誰よりも高圧的で、耳に残る。

 事実その意気はボスにさえ通じたようで、「申し訳ありません。では諸君、本題に入る」

 謝った!?

 エリ達下級隊員らは唖然となった。

 あのボスが、他人に頭を下げる様など一度も見たことがなかったのだ。

 しかし動揺する一同を差し置いて、彼は酒顛に問うた。


「まずはドウジ・シュテン。この方をご存知か」

「えぇ、イーサン・プライズ。現代の石油王にも数えられるプライズ財閥の元当主。しかしそれは表世界の顔。裏世界における通名は、ユーリカ・ジャービル。組織の三大出資者の一人」

「久しいな、鬼の小僧」


 ジャービルは肘掛の上で頬杖を突くと、にたりと笑った。

 酒顛は静かに一礼し、「十年ぶりでしょうか」


「細かいことは忘れたわ。それより、次へ進めろ」


 そう急かすジャービルは、あろうことかメルセデスの尻を触った。触ったと言うよりも、素早く揉みしだいた。

 反射的に悲鳴を上げた彼女だったが、立場上逆らえず、振り上げていた極薄のタブレットPCを泣く泣く脇の下に挟んで戻した。

 彼女の足下を見ているジャービルは、甚くご満悦だ。

 エリは、こりゃストレスも溜まるわねと同情の色を隠せなかった。

 息を整えたメルセデスは、冷静を装って言った。


「…諸君らも知ってのとおり、我々組織はこの方無くして超法規的な活動を繰り返してはこれなかった。我々を支える三本の柱の一つ、それがこの方、ジャービル氏だ」


 ジャービルはふふんと鼻高々に胸を張った。


「今回は諸君らに、そのジャービル氏の護衛任務に就いてもらう」


 えーヤだなぁ、こんなエロジジイのお守りなんてー。

 モノローグで不満を並べたエリだったが、以前フランスのセーフハウスで受けた報告を思い出した。


「って、ちょっと待って! フリッツ君から聞いてるけど、それって第二の仕事でしょ!? こんなお爺ちゃん介護するのに私達まで必要無いでしょ!」

「アナタ、何て口を――」


 メルセデスが複雑な顔で一喝しようとしたその時、「何じゃいド貧乳! 文句でもあるのか!?」とジャービルが声を荒げた。


「ひ、貧乳じゃありませんー! Cはありますから!」


 だいぶ盛ったな。

 酒顛とケンはおくびにも出さなかったが、同じように思った。


「なら見せてみんかい。それともワシ直々に確かめてやろうかいの?」


 ジャービルは両手を伸ばし、まるでイソギンチャクの触手のように指をわきゅわきゅと巧みに動かした。

 これで幾多の女どもを泣かせてきたぞと言わんばかりにだ。


「すみません、Aに近いBです」


 土下座かよ。

 エリの掌返しに、ケンは呆れて物も言えなかった。

 当人は半ベソだった。彼女の視界に少女の姿が入り、その顔がほくそ笑んでいた。


「あぁ! 今笑ったでしょ!?」


 指摘すると、少女は冷めた顔に戻って、視線を逸らした。


「アナタもそんなに変わらないでしょ! どっちかって言うとAでしょ、Bに届かないAでしょ!」

「アナタ、子供相手に何をムキになって……」

「《緘黙》…!!」


 コレちょーズルいんですけど!

 図星を突いたからか、声を縛られてしまった。

 黒と白のフリルが揺れる。エリは口をパクパクさせながらそれを追いかけるも、少女はチョコチョコと逃げ回る。

 いつまで経っても大人気ないエリに、メルセデスは深い溜め息をついた。だがまたトトトトンと、ジャービルが指先で肘掛を鳴らすので、酒顛に話を戻すよう目で促した。


「やはり、バーグの捨て台詞が原因ですか。もしや実際に襲撃を受けたとか」


 バーグ。国籍、年齢、性別さえも不明の、やり手の情報屋である。

 つい最近まで、組織とは協力関係にあった。バーグの提供する情報はどれもが正確無比で、組織の利益になるものばかりだった。しかしそれ故に複数の疑問が浮かんだ。

 何故、提供料を請求しないのか。目的は何なのか。組織さえも知らない情報をどうして取得できるのか。一体何者なのか。

 正体不明の怪人物に対して、いつしか組織の者達は不安と恐怖を胸に抱えるようになった。そしてバーグと一向に手を切ろうとしないボスに疑念を孕むようにもなった。

 そんな某日。ボスはある決断をした。それは組織の誰もが待ち望んでいた、バーグの捕縛である。バーグの通信電波から逆探知を繰り返し、ようやく居場所を特定した彼は、現地に滞在させていた第二十二実行部隊に任務を遂行させた。

 しかしそれは、バーグの巧妙な罠だった。部隊が乗り込んだ先にはバーグのスケープゴートが独りいるだけだった。その上、部隊は彼が仕掛けた爆弾の爆発に巻き込まれて全滅してしまった。

 ボスが怒りに震える中、バーグは電波に乗せて言った。


〝私から、最後の情報提供です。あぁ、もちろんこちらも無償ですよ。ネイムレスの出資者の一人――ユーリカ・ジャービルに忠告してください。寝込みには気を付けろと〟


 この話を酒顛らが聞いたのは、ひと月後のフランスでのことだった。

 三ヶ月以上、ボスと接触していなかった彼らは、それ以上の情報得ることができていなかった。

 その彼に事実を告げる為、メルセデスは、「いいえ」と答えた。

「はい?」と酒顛が首をかしげるのは無理もない。何せ第一実行部隊と言えば、言わずと知れた実行部隊のトップチームだ。その彼らが追加召集を受けるということは、他の部隊では対処しきれない不測の事態が発生したということに他ならない。

 では、どういうことなのだ。

 酒顛がボスに一瞥をやると、ジャービルが言った。


「ワシが要求した。どうもコイツらだけでは不安だ。何せ若造二人に女子供が三人だ。それに対して貴様らは、そこのド貧乳以外は男だと聞いた。まぁ今見た限り、そこに蹲っているガキは使い物にならんようだがな」


 〝ド〟を付けるなエロジジイ!

 エリの罵声は未だ封じられている。

 跪き、後頭部を押さえていた誠は、老人を睨んだ。


「おい、爺さん待てよ。俺様の何が不満なんだ」


 問い質すカズンの頭を、「お前の物言いは好かん! 目上を敬えバカモンが!」とジャービルは容赦なく叩いた。


「殺すぞジジイ!」

「護衛しろと言っとろうが!」


 また一発殴る。

 ストレスが最高潮に達したカズンは、もう我慢ならねぇと腕を捲った。

 その腕を取り、羽交い絞めにして、「この辺にしとうこうぜ、カズン」と宥めたのは、彼と同年代の男だった。


「ファルクてめー、また善人ぶりやがって」


 ファルクという爽やかな風貌の男は、二人を仲裁すると酒顛の前で敬礼した。


「どうも第一の皆さん、自分はファルク。お目にかかれて光栄です」

「話には聞いている。その名に恥じぬ働きに期待するぞ」


 ファルクが組織に参入して一年。その間、酒顛とは面識が無かった。

 だが酒顛は、たったの一年で第二実行部隊に入隊した実力者として、彼の名を聞き及んでいた。

 ファルクは彼に認知されていることに感激すると、上機嫌でケンにも握手を求めた。

 ケンは挨拶もそこそこに、「おい、ボス」とカズンに負けず劣らずの口振りで、ボスに訊いた。


「エリの意見に賛成だ。第二が頼りにならねぇのは解るが、だからって俺達まで駆り出しちまって良いのか? 今の組織はそんなに手が余ってるのかよ」


 何だとと、カズンのプライドという名のセンサーが敏感に反応する。

 ファルクはまた彼を宥めすかして、二人の視界から離れるように誘導した。


「ジャービル氏を失うリスクの方が高い。これは、組織の存亡に関わる任務だ」

「マリアナの二の舞は御免だって言ってんだよ。これ以上留守の間に余計なことされちまったら堪らねぇ」

「父母の遺品ならば、こちらに移送済みだ」


 酒顛の手からコップを奪うと、ボスに投げつけた。

 しかしぶつかる寸前、コップはまたもや手の平に収まった。医療班長――清芽ミノルの手の平に。

 先生カッコイイー! と、剣の師匠に黄色い声援を送ろうとしたエリだったが、アリィーチェはそれも許さないので追いかけっこを再開した。

 一つの部屋の中で、様々な温度が混在している。それらの手綱を引くように、「よし、そうと決まればワシは帰るぞ!」とジャービルは電動式の車椅子を走らせた。


「お、お待ちください! 今からですか?」


 慌てるメルセデスに、「そうだ」と彼は即答した。


「ワシにもワシの都合がある。それに合わせても構わんと言ったのは、そこの男(ボス)だ。異論はあるまい」


「よろしいのですか?」とメルセデスは当惑した顔を向ける。

 ボスは鉄仮面を歪めずに、「両部隊、ただちに出港準備に取り掛かれ」と令した。

 それを聞くと、温度は瞬く間に一つになった。


「シュテン、アナタは残りなさい」


 メルセデスに呼び止められた酒顛を一人置き、一同は退室していく。

 誠は閉まりゆく扉の外から、ボスをジッと見つめた。

 また鉄仮面に感情が宿ったように見えたのは、錯覚だろうか。


*   *   *


「以上が、カラコルム山脈における戦闘の全容です。全ては私の独断によるもの。何なりと処罰をお申し立てください」


 ひっそりと静まり返った執務室で、酒顛は姿勢を正したまま、ボスの裁断を待った。

 マデイラ諸島の無人島で遂行した任務から今日までの経緯を、口頭で伝えたのである。報告書は送っているが、ボスが酒顛の口から聞きたいと言うので従った。

 嘘は一つも交えていない。REWBS――いわゆる〝|国境なき反乱者《Rebel without borders》〟が関わる三つの任務の詳細を、ありのままに腹蔵無く語った。

 無人島では、〈ユリオン〉と呼ばれるハイパーコンピューターを破壊する為に全力を尽くした。しかし時既に遅く、何者かにそれを持ち出された後だった。〈ユリオン〉の生みの親だと自称する組織の裏切り者――メギィドさえも、まんまと出し抜かれていたようだった。

 誠は独り、メギィドと対峙した。そこで何を語らったのかは不明だが、逃亡する彼を追い詰めたようだ。しかし彼は、第三者に首を刎ねられてしまった。

 誠は気絶させられ、その第三者の正体を突き止めることは叶わなかった。

 その間、ボスはバーグを捕縛する為に、第二十二実行部隊を動かした。失敗に終わると、バーグにマリアナ本部基地の場所を特定されていることを考慮し、当基地を自爆させた。表世界へリークでもされれば、組織が危険に晒されるからだ。

 帰る場所を失った酒顛らは、フランスにあるセーフハウスに身を隠すことにした。組織の一員が経営するベーカリーだ。

 ひと月近くが経過した頃、彼らの下へメッセンジャー――諜報員のフリッツが現れた。

 彼の――ひいてはボスの指示に従い、隊は豪華客船への潜入任務を行なった。それは〝先行き不明の任務〟――〈MoD〉と呼ばれる類の作戦だった。メギィドが組織に残していたデータに、この船の名が残されていたことから立案されたのである。

 一抹の不安を胸に船内を捜索する一行だったが、今思えば当然と言うべきか、それはREWBSによって仕組まれた罠だった。首謀者であり、フランスで誠と関わりを持ったレーンという少年の掌で、彼らは踊らされていたのである。

 沈みゆく豪華客船に失望感を映しながら、一同はバミューダ基地に身を寄せることとなった。

 レーンを危険視した酒顛は、かつての戦友ネーヴェマンの協力の下、基地司令ドルコフの制止を振り切って、レーン討伐任務を立案した。

 諜報部の決死の追跡により、レーンの居場所を特定した彼らは、一路カラコルム山脈へ飛んだ。

 しかし彼らは、そこでレーンを取り逃がしておきながら、三名の男達を失ってしまった。

 それからさらに二ヶ月が経ち、今に至る。

 酒顛の罪悪感は、未だに拭えていない。

 隊員らには胸を張れと言ったのは、彼らに責任は無いからだ。

 全ては上層部の判断を仰がなかった自分の罪。

 酒顛は割腹する覚悟で、ここへ来た。

 だが。そうなのだが、事は彼の思うように運ばなかった。


「私はジャービル氏と、ある取り引きをした」


 ボスは酒顛の目をジッと見据えながら口を開いた。


「護衛にお前達を追加することで、私やお前の不祥事の一切を擁護するというものだ」

「な…!?」


 組織における三大出資者の権限は絶大である。大権と言ってもいい。

 彼らがイエスと言えば全てイエスとなるし、ノーと言えばノーとなる。

 彼らの前では、ボスは攻性を殺がれた傀儡だという声もあるが、組織が機能している背景に彼らがいるのだから、致し方ないことでもあった。

 ただボスにも、彼らへ武力を行使できるケースが一つある。

 それは、〝出資者は何時如何なる時も、世界人類の守り手である組織の良き理解者でなくてはならない〟という条文を破った時である。

 酒顛は長年コレを、〝両者が等しく正当でなくてはならない〟ということだと解釈していた。

 だから、「不服か」と問うボスに対して、「……不服であります」と声を震わせた。


「容易く揉み消せるものではないでしょう」


 ボスの隣で、四角い顔の男が、「生真面目な奴だな」と腕を組んで言った。


「それが彼の長所ですよ、ビルケラン司令補佐」


 相変わらず中庸な清芽のセリフに、ビルケランは肩をすくめた。

 酒顛は頭の凝りをほぐさぬままに訴えかけた。


「ボス。アナタが今尚そこに座しておられる理由は解りました。アナタの役目は、自分などよりも責任の質が違う。本部基地一つよりも遥かに重いことも理解できます。しかし自分は一兵士であり、盟友の命さえもむざむざと戦場に捨て置いた敗軍の将であります。何の処罰も無く新たな任務を受けるなど、自分には到底できません」


「なるほど」とボスは背凭れに身体を預けると、「セロン・ネーヴェマンは、貴様に何も残さなかったのだな」

 酒顛の網膜には、ある光景が焼き付いている。

 ネーヴェマンの散り様である。


「死して尚、哀れな英雄だ。友と交わした無償の契りを、こうも容易く破られるとはな」


 拳が震えて止まらない。

 悔しくてたまらない。

 腹立たしくて仕方ない。

 悲しくて遣る瀬無い。


「シュテン、貴様も組織の礎となれ。それにな、貴様も知っているだろう。貴様の意思でその職を辞することができないことを」


 ビルケランに次いで、メルセデスが言う。


「ボス同様、実行部隊総隊長の任命・解任権限のほとんどは、ジャービル氏他二名――いわゆる三大出資者が握っておられます。本件において、お一人のみがボスとアナタの解任を求めていましたが、他二名の同意を得られず、白紙に戻すことになりました」

「自分はそれでも納得できません。そもそも、自分のような小舟には荷が勝ち過ぎたのだとさえ、最近は思うように――」


 バチンと鳴り、視界が揺らいだ。

 メルセデスが、酒顛の頬に平手打ちしたのだ。


「コレはネーヴェマンの代わりです」


 懐かしい熱が、頬をくすぐる。

 確か、エリが実行部隊に入ると言って、それを止めなかった時にも……。

 酒顛は少し俯くと、胸ポケットに仕舞ってあるデバイスの重さを感じた。


「ならば、身勝手ながら自分からも条件を出させていただきます」


 鼻から深く息を吸い込むと、「ボス」臍を固めて言った。


「自分はある者と約束しました。もしもアナタが、組織を裏切るようなことがあれば、その時は自分がアナタを殺すと」


 彼の血迷った発言に騒然となったのは言うまでもない。


「何を言っているんだ、ドウジ君!」

「無礼な!」

「馬鹿も休み休み言――」


 しかし、「自分はあっ!」と酒顛は彼らの反論を掻き消した。


「自分は組織の兵士です! 兵士の長であります! 組織が世界の為にあるのだからこそ、ここに籍を置いているのです! その組織がアナタの舵で誤った方へ進むのならば、私にはそれを是正する義務があります!」

「そんなものは無い!」


 ビルケランの否定の声を無視して、酒顛はボスと視線をぶつけた。

 ボスはそれを正面から受け止めると、「有事の際、私を殺してもいいという弑逆の許可が欲しいのか」と問い質した。

 その言葉、その脳裏に、何を想っているのかは不明だが、酒顛も自分の正直な心を彼に伝えた。


「それが、哀れな英雄達に報いる、自分の使命であります!」


 静寂が訪れる。

 ビルケランはまだ鼻息を荒くしているが、ボスは目を瞑ったまま動かない。

 想いを噛み締めてくれているのだろうか。

 それとも、呆れ果てているのだろうか。

 酒顛はさらに拳を固めた。


「……良かろう。その権限、ドウジ・シュテンの名においてのみ承認する」


 ボスの言葉に、酒顛は唖然とした。

 メルセデスは目を瞑っている。

 ビルケランは眉間を押さえている。

 清芽はジッとボスを見つめていると、天井を仰いだ。


「お前にだけは、私は殺されてもいい」


*   *   *


 一方。

 自身の思うように事が運んでいるジャービルは、鼻歌混じりに先頭を切っている。電動車椅子までもが軽快なリズムを奏でているようにさえ聞こえる。

 通路をワガママな出資者について歩きながら、第二実行部隊の女が言った。


「アタシはバラージュだ。こっちがネーレイで、このチビがアリィーチェだ」

「よろしくね、マコト・サガワ君」


 ネーレイというブロンドヘアーに眼鏡をかけた女は、誠に手を差し出した。

 しかし誠は、「どうも」と素っ気なく会釈だけを返した。

 おっとした風貌の彼女は、その対応にキョトンとした顔で小首をかしげた。

 すかさず、「愛称は〝マコっちゃん〟なの♪」とエリがフォローを入れた。

 すると、アラアラまぁーまぁーと、ネーレイは合わせた両手を胸の前に置き、にっこりと微笑んだ。


「可愛らしいわね。それじゃあマコっちゃん。改めまして、ようこそデヴォン島へ」


 それでも誠は、彼女から顔を背けて、歩幅を大きくした。

 早足の彼を追いかけて、ファルクは言った。


「おいおい、まだあの馬鹿のこと根に持ってるのかい? あんなの一々気にしなくていいんだぜ」

「ごめんね、マコっちゃん。彼、他人に無頓着なところがあるから」

「アナタの謝罪なんていらないんですよ!」


 あの人が謝るのが筋でしょう!?

 振り返り怒鳴る誠の意気に押され、ネーレイは所在無く目を泳がせた。

 実行部隊所属とは思えないその弱々しい反応に、誠はばつが悪くなって再び踵を返した。逃げるように歩き出し、もはや走るように通路の奥を目指した。

 すると、「《不動》」無意識に出していた右足が動かなくなり、床から離れようとしている左足も動かなくなった。まるで歩いている格好の人形のように固まって、前のめりに倒れてしまった。当然受身は取れず、鼻先やら額やらを床に強打した。

 今日は、厄日なのかもしれない。


「っつぅ~~~! 何で…」

「《不動》」


 悶絶躃地すら許されないらしい。

 声で解る。犯人はアリィーチェだ。

 しかし石のように固まった身体では首さえ曲げられず、彼女を一睨みすることさえままならなかった。

 珍妙な格好で倒れたまま動かない――動けない彼にファルクは中腰で言った。、


「まぁ、マコっちゃんよぉ。コイツの前で、ネーレイを無碍に扱うのは止めときな。ネーレイはコイツの姉代わりなんだからな」

「マジで!? じゃ、じゃあネーレイ様、お肩でもお揉みしましょうですありますか?」

「《盲目》」

「ぎゃああっ! 見えない! 何にも見えない! これヤバイ! シャレになんない!!」


 帳が下ろされたように一瞬にして暗闇に包まれた視界に、エリは一人混乱した。目を開けているはずなのに、光も届かない洞窟を彷徨っているようだ。ネーレイの肩に伸ばしかけていた手を投げ出したまま、さながらゾンビのようによたよたと動いた。壁を見つけるとエリは安堵して、おいおいと泣いた。


「《サーマル・センサー》使えよ、アタミ」

「あ、それだ!」


 バラージュの助言で、エリは目を閉じて意識を凝らした。すると脳裏に、周囲の熱分布が投影された。エリのセンス《サーマル・センサー》は、目や空間把握で赤外線を感知できるのだ。

 近くにウヌバがいたので、子供のように彼の腕にしがみ付いて、「ウヌバー! あの子がイジめる~~~!!」


「アリィーチェに狙われて、声まで聞いちまったら最後だ。コイツの強制力は並じゃない」

「じゃ、じゃあ何よ。この子が私に向かって《死ね》って言えば、私は死んじゃうってこと…?」

「極端な話、そうなるな」


 エリの顔から血の気が引いた。

 バラージュの話を聞いたジャービルは、車椅子を止めて言った。


「言霊とは、昔の東洋人はよく言ったものだな」


 全く、恐ろしい小娘だ。

 言外にそう言ったように聞こえ、アリィーチェは鋭い目を彼に向けた。まるでサボテンかヤマアラシのような彼女は、今度は護衛対象にもセンスを使おうとした。

 そこへ、《不動》が解かれたあの少年が問い質した。


「言葉だけで、そんなことをしてきたのか?」

「!?」

「自分の手を汚さずに…!?」


「《緘――」と言いかける彼女の口を右手で塞ぎ、「そうやって思い通りにして、ワガママで人を殺したのか!?」両目に怒りを湛えて、彼女に詰問した。


「ちょっ、マコっちゃん!?」

「おいアタミ! どうなってんだコイツ!?」


 動転する一同をよそに、誠は厳しく問い続ける。

 エリに呼ばれ、我に返ったウヌバが彼を羽交い絞めにすると、ようやく二人は離れた。

 アリィーチェは痛みと妙な熱を孕んだ口元に手を当てるが、横暴な少年に仕返すことができなかった。

 戦慄を、覚えたのだ。


「落ち着きなさい! 落ち着きなさいよ、マコっちゃん!」

「だってエリさん! こんなの間違ってるでしょ!」

「何が!」

「あの子は不満一つで、人を服従させるんですよ! それをあの人達は赦しているんですよ!? そんなの、あの子が可哀想じゃないですか!」


 指差された彼女はビクリと肩を震わせる。白黒する瞳では、彼をまともに睨むこともできない。


「何が姉代わりですか! 妹のワガママを見過ごして、どうして叱らないんですか!」


 図星を突かれたような顔になったネーレイは、顔を俯けてアリィーチェの肩を抱いた。


「ウヌバ!」

「離してくださいよ! あんな小さな子にまで、この組織は人殺しをさせているんですよ! ヘレティックという理由一つで!」

「《心――!」


 堪らず、アリィーチェはネーレイの手を振り解いて、遠くへ連れられていく少年に叫ぶ。

 しかし、「ごめんなさい、アリィーチェ。悔しいのは解るけど、今は我慢して」とネーレイに後ろから抱き締められて、声が出なかった。

 ネーレイの腕が、身体が、震えていたからだ。腹立たしさや悲しみのようなものが伝わってくる。


「こっちもゴメンね。あの子は優しいだけなの。まだ、優しいだけなのよ」


 互いの事情なんて知らない。穿鑿なんてしたくもない。

 しかしヘレティックとして生きているエリには、誠よりも彼女らの都合の方が胸に染みて理解できた。

 慰め合う彼女らを、「滑稽だな」とジャービルは秘かに鼻で笑った。


*   *   *


 また一方。

 基地内の通路脇に据えられたトイレには、ケンの姿がある。

 異臭から敏感な鼻を守る為、普段はこういった共用空間を使わない彼だが、今回は事情があった。


「よぉ、カズン様。具合はどうだ?」


 問いかける先は個室だ。

 先程、彼がここへ入るのを見たので、追いかけたのである。


「は?」

「言っていいのか?」

「意味分からねぇよ」


 扉越しでやり取りしている彼らの姿は、傍から見れば珍妙である。そこにマナーも無ければエチケットも無い。

 ケンは彼の不機嫌そうな声に口角を上げると、洗面台に腰掛けた。どこかへ行ってほしければ出てこいよと言わんばかりに居座った。


「テメーのストーキング対象がマコトに移ったのはありがてーよ。一々テメーのちょっかいを相手にしなくて済むんだからよ」

「何ペラペラ喋ってんだ。気が散って出るもんも出ねぇだろうが」


 いかにも踏ん張っているようなカズンの声に耳を貸さず、「お前じゃあ、マコトには勝てねぇぞ」とケンは話頭を転じた。

カズンが「は?」と聞き返すのは無理も無かったが、彼は相手を待たずに口を開いた。


「安心しろ、お前だけじゃねぇ。俺も誰も、もうアイツには勝てねぇよ」


 その言い草に、カズンは開いた口が塞がるのに時間を要した。脳内でもう一度彼の言葉を再生して、ようやく我に返った。


「おいおいおい! あのケン・ユキマチともあろう方が、ずいぶんと殊勝な物言いをするじゃねぇか! あのガキに弱味でも握られちまったかぁっ!?」

「アイツは、有言実行を地で行くタイプだ。きっと死んでも、アイツは人を殺さねぇよ」


 見ないうちに、湿気ったタバコのようになりやがった。

 浸るような語り草に苛立ちを覚えたカズンは、「だから何だ?」と鼻で笑った。


「人に等しくあるのは死という敗北だ。たとえ崇高な志を持ったところで、死んじまえばそれは負け犬の遠吠えだ。誰かに勝つには、誰かを負かす他にない」


 生きるということは、殺すことだ。

 カズンの脳裏に、心根に、そのたった一つの真理が染みついている。幾度の戦場で実感し、導き出した答えだ。


「誰も殺さないだぁ? イーブンのまま勝敗を引き摺って、戦渦を広げるのがアイツの目的なんじゃねぇのか。だとしたらとんだドSだ、尊敬してやるよ」


 生かされた敵兵士が、ぬけぬけと再び戦場に赴く様が目に浮かぶ。

 カズンは思う。マコト・サガワはその手伝いをしたいと言っているのも同然だと。

 戦争で問われるのは数だ。兵士に問われるのは質だ。

 強い兵士が戦争の勝敗を左右するのだ。

 そこに戦術も戦略も関係が無い。強ければ、それでいい。

 そんな真理をマコト・サガワは引っ掻き回したいらしい。こういう偽善的な輩は目障りで仕方が無い。


「悔しいのか」


 ケンの声が耳を打つ。


「分からねぇでもないぜ。アイツはどこよりも過激な戦場でさえ、まだその意思を曲げなくていいんだからな。もう俺達にはできないことを、アイツはまだできるんだからな」


 彼が紡ぐ女々しいセリフの数々に苛立ちが募ってくる。


「勘違いすんなよ。俺様の目的は、お前含めた全ての兵士をぶっ殺して、最強のヘレティックになることだ。あのクソガキに人殺しができないなら、俺様の勝ちは決まったようなもんだろ。腑抜けになっちまったお前と違って、こちとら歯牙にもかけちゃあいねぇんだよ、ターコ!」


 ハハハハハハハッ!

 カズンの高笑いがトイレに反響する。そこに見え隠れする一抹の虚しさが、二人の隔たりを大きくしているようだった。

 ケンは歩き出し、「一つ助言しといてやる。マコトはトリックスターだ。気にかけていると、得意の人殺しも疎かになるぜ」と言い残して去っていった。

 彼の足音が充分に遠退いた頃、カズンは人が変わったように笑うのを止めた。眉間にシワを刻むと、個室のドアを手も足も使わず《念動力》で弾き飛ばした。

 爆発を受けたようにひしゃげたドアが、大きな鏡に突き刺さっている。

 割れた鏡には、澱んだ目を湛えるカズンの姿があった。


*   *   *


「絶か」


 ポートエリアに一隻の潜水艦が浮かんでいる。そこから港に降ろされたタラップに身体を預けるような格好で、絶という男はいた。

 細い身体を包む大きな襟のトレンチコート。縁がやけに広いソフト帽からは、触手のように伸びた長い髪が生えている。髪の毛の奥にある顔の白さと、薄い唇の赤さえ除けば、ほぼ全てが黒一色で構成されている。

 その異様さは影そのもの。その奇怪さは陰そのもの。その胡乱さは翳そのもの。

 声をかけた酒顛でさえも、思わず身構えてしまうほどのずば抜けた存在感を持つ男。それが作戦処理部隊(リセッター)所属の、累差絶(るいさ ぜつ)だ。


「久しぶりだねぇぃ」


 一度聞いたら耳から離れないような独特の口調で絶は答えた。


「あぁ。だがまたしばらく、お前と顔を合わせなくて済みそうだ」

「そうかぃ、そうかぃ。それは残念なことだねぇぃ」

「ではな」


 今は妙に気が立っている。ただでさえ関わりたくない彼と、呑気に話し込む気分にはなれない。

 酒顛はタラップに足をかけた。一段、二段と上り、三段目を踏んだところで、「早河誠」と絶は呟くように言った。

 ピクリと足を止めた酒顛は、彼の罠に掛かったことを察して、しまったと悔やんだ。

 その胸中を覗いたように、「面白い成長を遂げているようだねぇぃ」と絶は続けた。

 酒顛は彼を警戒しつつ、「……不愉快か?」と訊いた。

 すると彼は頭を振った。


「いやいや。ただねぇ、あのバーグが選んだ子だ。このまま順調に、純真を貫ける保障は無いんじゃないかぃ?」


 先程、執務室から出る寸前に言われた、ボスの一言がリピートされる。


「西遊記に語られる斉天大聖のように、緊箍児(きんこじ)で縛り付けられているだけじゃないのかぃ?」


 絶は酒顛に背を向けたまま舌を動かした。


「その箍が、いつ外れるか」


 出逢ったばかりの誠の顔。


「その情緒が、いつ乱れるか」


 カラコルムで変わってしまった誠の顔。


「あの子の失った記憶とやらが目覚めた時、牛魔王のように、返り討ちに遭わないことを祈っているんだねぇぃ」


 それらが去来する中、絶の言葉が酒顛の心を掻き乱す。

〝マコト・サガワから目を離すな〟とボスは言った。

 言われるまでもないとその時は思ったのだが、絶の奇天烈な物の見方に妙な戦慄を覚えた。


「それではまるで、バーグが観音菩薩か三蔵法師のような物言いじゃないか」


 バーグに正義があるなど、そんなことはあってはならない。

 誠がその彼の操り人形であるなど、もっとあってはならない。

 振り子のようにゆらゆらと揺れ動く彼の心を嘲るように、「今更なことを言うんじゃないよ」と絶は肩をすくめた。


「歴史は勝者の為にある。敗者に正義は無く、絶対的な悪というレッテルを貼られることを余儀なくされる。全ては都合なのさ、世界はそういう風に創られているんだ」


 いずれの戦勝国も、自身を悪だと言わないことが、彼の言葉を証明している。

 スポーツと違い、どのような行為で勝利しても、正義を騙ることができるのが戦争の最大の利点なのだ。


「今の組織では、奴に寝首を掻かれるのも時間の問題さね」


 組織の存在はすでに表世界に漏洩している。それが上層部の見解だ。

 下手を打てば、世界各国から包囲網を敷かれる可能性さえある。

 バーグによって、貫いてきた正義が悪へと色を変えてしまうかもしれない。

 酒顛は腹の底が冷えるような感覚に襲われながら、タラップの手すりを掴んだ。そして不愉快な思いをさせてくれる相手に反抗した。


「自虐が板についたな、累差絶。いや――」

「あの清芽でさえも人目を憚り、その名で私を呼ばないんだ。お寒い話は蒸し返すものじゃない」

「よく言う」


 絶の背中から悪寒がする。殺気とも言えないような、感情の高ぶりを感じられる。

 二の句は無い。言えば殺すと言外で伝えているのだ。

 酒顛は彼から視線を外すと、「ラキと言ったな」

 絶の傍には、いつも一人の男がいる。李螺葵(リー・ラキ)という、屈強そうな男だ。絶のせいですっかり存在感が薄い彼は、「は!」と慌てた様子で背筋を正した。

 彼に生真面目な印象を受けた酒顛は、目に憐れみを湛えながら笑顔を向けた。


「リセッターの仕事に嫌気が差したら、いつでも実行部隊に志願しろ。俺直々に取り立ててやる」


 螺葵はあまりに突然の勧誘に言葉を失ったようだ。

 そのやり取りに何を思ったのか、絶はタラップから離れて、酒顛と向き合った。


「リセッターの総隊長の目の前で……。面白いじゃないかぃ、〝大江山の暴れ鬼〟」

「しばしの別れだ、〝更地のルイーサ〟。次会う時は、もう少しまともな男になっていることを祈っている」


 そのセリフを置き去りに、酒顛はその巨体を潜水艦の中に姿を隠した。

 タラップが回収されて、気密扉が閉じられる。ブザーが鳴り響いて、潜水艦は港から離れていく。

 十メートルほど進んだところで潜水すると、それっきり見えなくなった。

 波間に浮かぶ泡沫を見つめながら、絶は言った。


「正道語りし者に、正無し。悪道語りし者にもまた、正無し。人もヘレティックでさえも、所詮、性悪説から逃れられんのさ」


 この世界に、正義など無い。

 もう、正義などどこにも存在しない。


「心根に抱えたズレはお見通しだよ、我が盟友よ」


 恨み辛みなどよりも根の深い因縁が、鎖となって彼らの背中に繋がっている。

 螺葵の目には、そう映った。


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