〔三‐1〕 白頭翁メギィド
多くの国や軍がそうであるように、組織も上層部より下位は大きく七つの部署から構成されている。
戦闘に特化している作戦部。
諜報や内偵を行なう情報部。
負傷・罹患した構成員の治療、新薬の開発・管理などを行なう衛生部。
人事や事務処理全般を取り仕切る総務部。
資金を管理する財務部。
組織が独自に制定した、所謂“組織法”を維持する法務部……。
そしてもう一つ、この組織の本部マリアナ海底基地の最下階に、兵站部という部署がある。そこは新兵器の開発・整備・管理から、作戦行動の後方支援までを任されている、軍事力の大きな要だ。
それぞれの部署には特有のニオイがある。どんなに高性能な空気清浄機でも消し去ることは難しい、個性である。
それでいいと、一人の老人は考えていた。兵站部の花形、技術開発課の最高技術責任者であるメギィド博士だ。齢八〇を越えた仙人のような風貌の白頭翁で、その容姿はどことなく古代の偉人ソクラテスやらレオナルド・ダ・ヴィンチやらを髣髴させる。
早朝。衰えを感じさせない足取りで、彼は第一技術開発室を訪れた。薬品やオイルなどが混ざり合ったような独特の臭気は、彼に仕事への活力を与えてくれていた。いつものようにそのニオイに包まれていると、妙な光景を目にした。兵站部の研究員が皆揃って着ている白衣とは似ても似つかない戦闘服姿の女が、開発室と繋がっている資料室から現れ、颯爽と退室したのだ。ありがとね、などという呑気な声が聴こえた気がする。
彼女を応対していた研究員が、静かに閉じる自動ドアに向かって手を振り続けている。呆けた面で、すでに消えている彼女の後ろ姿を思い浮かべてだ。
「ベルノード。彼女は確か……」
「博士、おはようございます。はい、作戦部第一実行部隊のエリ・シーグル・アタミさんです。実行部隊随一の剣の使い手で、最も強く美しい女性です。しかしその内面はとてもチャーミングで――」
ベルノードという青年は鼻の下を伸ばしてそう答える。非常に優秀で、部下の中でも三本の指に入る頭脳の持ち主なのだが、こうして女に現を抜かしているのが玉に瑕だった。
「詳しいの」とメギィドが問うと、「ファンクラブの会員ですから。しかも一桁、しかも彼女のコールサインと同じ三番!」
鼻息を荒くする部下を横目に、メギィドは椅子に腰かけた。ボスが使っている物と同じ、脚がない、宙に浮く椅子だ。彼が空手を前に突き出すと、周囲にホログラム映像が出現した。
いくつも浮かび上がるポストカードのようなその立体映像は、それら一つ一つがディスプレイのようになっている。直に触れることはできないが、人の熱を感知するらしく、それぞれに手を翳すと引き寄せたり、そこにインプットされた情報を閲覧できたり、消し去ることも可能だ。
上司が業務を開始する傍ら、部下はまだくだらない話を続けていた。
「でも、会員番号一番の方が分からないんですよね。クラブの発起人のはずなのに会合に顔を出したことが一度もないんです」
「二番は誰なんだ」とメギィドは合いの手を入れてやった。
「ウヌバさんです、エリさんと同じ第一実行部隊の。でもまぁあの方も、単にエリさんから番号を貰っただけという話ですから、実際は会員の資格なんてないんです。今実質クラブを運営しているのはこの私と言っても過言ではありません。このファンサイトの管理がまた大変で――」
気楽なものだ。
口中でそう吐き捨てつつ、「それで、彼女は何をしにここへ?」とメギィドは問うた。
「覚醒因子についての資料をご覧になっていたようです。それも徹夜で」
「……ほぉ、あの彼女にしては珍しい」
「そんなことはありません。彼女が天才なのは言うまでもありませんがそれよりも彼女の本質は類稀なる努力の方でありあの美貌はその心の美しさの現れでありますから全ては運命と神のお導きと言えるわけでいやむしろ彼女は現世に降り立った女神と言うべき尊くかけがえのない奇跡にも等しい存在でありまたその存在の儚さたるや――」
「分かった、もういい」
立て板に水と言わんばかりに話し続けるベルノードを捨て置き、メギィドは扉のほうをちらと見た。データバンクの閲覧記録にアクセスして、一つの情報をホログラム・ウィンドウに投影した。
《韋駄天》。
表題にそう記された情報には、一人の東洋人の顔が掲載されていた。精悍な顔つきの成人男性で、二〇年以上前にこの世を去っている。
その真っ直ぐな瞳と視線を交わらせていたメギィドは、枯れ果てた胸の内に、奇妙なざわめきが沸き起こっているのを自覚した。