〔プロローグ〕
〔プロローグ〕
一九XX年某月某日。
――“そいつ”を見たら最期。ルビーのような深紅の目玉と出逢ったら諦めろ――
かつて、多くの人々が知らない世界の裏側では、そんな噂がまことしやかにささやかれていた。
“そいつ”からは決して逃げられない。音速を越えて迫りくる“そいつの足”からは何人たりとも逃げきれはしない。
遠く小さく見えた“そいつ”の姿がひとつ瞬きを終えたころにはすぐ目の前にあるのだ。そして遅れてやってきた一陣の風がすっかり怯えた身体が余計にすくませ、その場に縫いつけてしまうのだ。
そしてその常軌を逸した脚力でもって単身敵地に乗り込むと、わずか数秒後には敵の中枢区画を制圧――敵指揮官を屈服させている。その間、“そいつ”の仲間は置き去りで、仕事と言えば、運よく逃げ出した敵兵士を始末することくらいだった。
そうしていくつもの基地が“そいつ”一人のために壊滅していくと、いつしかその存在は恐怖と同義となっていた。
一方で、圧倒的な力を前に、“そいつ”が属する組織の軍門にくだる者も少なくなかった。命乞いというよりも、“そいつ”に心底惚れこんでしまったといったほうが正しいだろう。
何故なら“そいつ”は敵にさえも敬意をもって接していた。無下に命を摘みとることは決してなかった。どんな相手にも気さくで、親和的な態度を覆さなかった。
そんな“そいつ”と共に歩んでいきたいと、不思議と兵士達は思ってしまうのだった。
カリスマ。天から授けられた恵みであり、恩寵。あらゆる人を惹きつけ、魅了してはなさない最たる資質。
“そいつ”にはそれがあった。
英雄だった。
――そんな英雄が火の海の中、地べたに這いつくばっている。
一人の男が、ついに英雄に勝利したのである。
一九一四年に始まった第一次世界大戦を皮切りに、シベリア出兵、日中戦争や第二次世界大戦、その後の米ソ冷戦、果ては湾岸戦争と浮いては沈む世相の影で、男はその野望を叶えるために暗躍してきた。
全ては大義名分のため。自らの能力を世界に誇示するため。自分達を排除した世界を屈服させるため。そう、この英雄のように。
英雄は無様な格好のまま、そのおぞましく赤い眼球で男を睨みつけた。自慢の両足の腿から下を綺麗に焼き切られ、横っ腹までさっくりと裂かれた死に体を両手で一生懸命に引きずりながら。
まだだ。
そんなことを血反吐で染まった歯の奥でのたまっている。
男は腹の底から込み上げた恐怖を噛み殺して、諦めの悪い英雄を鼻で笑ってやった。
男が英雄の存在を知ったのは今から二〇年近くも前のことだ。当時の英雄はおそらく一〇代後半の少年。細腕で刀剣らしい物を構え、大の大人を薙ぎ倒している映像を監視カメラでとらえた。
その頃は恐ろしいとは思わなかった。少年兵の存在は特別なことでもなかったし、特異な才能があるのなら兵器として用いるのは当然の流れだと認識していた。可能であれば戦力にしたいとさえ頭の片隅で考えていた。
それを実行しなかったのは、少年兵なんてものには消耗品以上の価値を見出せないことを知っているからだ。それでなくてもどうせ先走って殺される、どうせ野垂れ死んでしまう。歩く手榴弾のようなもの。いくら洗脳してみても、その純粋さ故の危うさが雇い主をも脅かす。危険を冒してまで勧誘するものではない。
私を追いつめる狡賢いあの連中の手駒であれば尚更だと、男は断じて揺るがなかった。
しかし大方の予想を裏切り、あのときの少年は日に日に力をつけ、戦闘を、戦略を、戦術を学習し、遂にこうして王手をかけてくるまでになった。二〇余年にも及ぶ、一進一退の果てしない攻防だった。
しかし、すでに勝敗は決している。実戦は、盤上遊戯ほど単純ではないというイイ例だ。
男の全身がぶるりと震え、スイッチを握る手が否応なく力んだ。これを押せば、英雄を斃せる。そうすれば広告塔を失った組織は烏合の衆、男が台頭すればこれまで劣勢だったパワーバランスは一気に逆転する。
サヨナラだ。
男は顔面に脂汗を滲ませながらスイッチを押した。
しかし何も起こらなかった。作動するはずの機械に英雄の剣が突き刺さっていた。足を切断される直前に、苦しまぎれに投げた物のようだった。
やってくれると苦笑したのも束の間、男は腰を抜かした。男を睨みつけたまま、英雄はすでに事切れていたのだ。彼のルビーの瞳は見る影もなく色褪せていた。
失血死か。あの英雄が……。
その場に座り込み、うな垂れた。炎が空間を容赦なく消し炭に変えていく。逃げなくてはという思考がよぎりつつも、男は少しばかり感傷にひたっていた。
そこへ現れたのだ。幼くも恐ろしい野心を抱く小さな悪魔が、英雄の死を踏み台にして。
男は魅入られた。次の時代のカリスマに。
そう、この日を境に時代は変わった。決して歴史に刻まれない、〈裏世界〉の時代が。