市役所地下七階、うっかり管理課
誰にでもある「うっかり」。
もしそれを陰で管理する部署があったなら。
そんな少し不思議で、ちょっと優しいお話です。
どうぞ気楽にお楽しみください。
春にしては妙に湿った火曜日の朝、私は市役所の地下七階に降ろされた。
市役所は地下二階までしかないはずだった。
エレベーターに「地下七階」のボタンはない。地下六階で降り、
自転車のベルに似たものを三回鳴らすと、壁が横にずれる。
その奥の階段を下りた先に、うっかり管理課はあった。
入口には小さな札が貼られていた。
〈入室は三回。退室は四回〉
「なぜ回数が違うんですか」
案内係は即答した。
「昔からです」
それ以上の説明はなかった。
ドアを開けると、机に向かっていた課長が顔を上げた。
「来たか。君、消しゴムを冷蔵庫に入れたことがあるね」
「あります」
「採用」
「採用基準なんですか」
「十分だ。ちなみに、なぜ入れた」
「覚えていません」
「優秀だ」
何が優秀なのか、さっぱり分からなかった。
横から、眼鏡の男性が名札を差し出した。
「先輩の田村です。これ、森下さんの名札。失くさないでくださいね、本当に」
「失くしやすいんですか」
「みんな、一度は」
私は名札を鞄にしまった。
うっかり管理課の仕事は、市民のうっかりが社会に深刻な影響を与えないよう調整することだった。
財布を忘れてコンビニまで来てしまう案件。家の鍵を冷凍庫に入れてしまう案件。
メールで「お世話になっております」と書くつもりが
「お世話になっておりました」と送ってしまう案件。
最後のものは、取引先との関係が終わったと誤解される恐れがあるため、
警戒レベルBに分類されていた。
「大変な仕事ですね」
「うっかり自体は害じゃない」と課長は言った。
「害になるのは、気にした時だ。うっかりを気にすると、
次のうっかりを呼ぶ。我々の仕事は、気にさせないことだ」
課長はコーヒーを飲んだ。壁一面のモニターで、無数のランプが点滅している。
「これ、全部うっかりですか。大阪市内だけで?」
「そう」
「多くないですか」
「今日は少ないほうだ」
そのとき、サイレンが鳴った。
課長はカップを置いた。
「本町で、名前ド忘れ連鎖が始まった」
田村さんが椅子から跳ね上がった。
「ま、またですか。先月も本町でしたよね」
「現在三十七人、増加中だ」
「記憶補助チームを呼んでください、早く、お願いします」
私は二人を見比べた。
「名前を忘れるだけですよね」
田村さんは、信じられないものを見る目で私を見た。
「一人が誰かの名前を忘れると、気まずさが発生するんです。
気まずいから、思い出そうとして、余計に出てこなくなる。
それが周りに伝染して、全員が『あれ』『ほら』『その』だけで会話し始める」
モニターに現場が映った。会社の会議室だった。
「それ、あの人に渡しました?」
「えーと、あの人ですか」
「そう、あの」
「ほら、あれの」
「そうそう」
全員がうなずいている。誰も何の話か分かっていないのに、会議だけは進んでいた。
「最悪の場合は?」
「全員が自分の名前も忘れる」
「あるんですか、そんなこと」
「去年、一度あった」
「どう解決したんです」
「職員証を見せ合った」
「それだけ?」
「三時間かかった」と田村さんは遠い目をした。「あれは、本当に長かったです」
対策が地味すぎる。
奥のドアが開き、記憶補助チームが駆け込んできた。
十人ほどの職員が、全員、名札を額に貼っている。
「思い出そうとするから、思い出せなくなる。ならば、最初から見えるようにしておけばいい」
隊長が胸を張った。
「なぜ額なんですか」
「胸だと、相手が見落とすことがある」
「額なら見落とさないんですか」
「見落としたら、かなり問題だ」
それはそうだった。
三十分後、連鎖は収束した。ただし隊長は、自分の名札を見て首をかしげていた。
「この名前、誰でしたっけ」
「隊長です、隊長のお名前です」
田村さんが叫んだ。
「ああ、そうだった。ありがとう、田村君」
隊長は名札を胸に貼り直した。額に貼る意味は、結局聞けなかった。
*
昼前、休憩で一階に上がったとき、廊下に鞄が落ちていた。
誰かが忘れたのだろうと、忘れ物センターに届けておいた。
持ち主は今ごろ困っているだろう。
昼過ぎ、私は書類整理を任された。机には過去の事例が山のように積まれていた。
『傘を持って出たのに、雨が降るまで傘の存在を忘れる案件』
『電子レンジに弁当を入れたのに、温めずに取り出す案件』
『電話を切ったあとで、言うつもりだったことを思い出す案件』
最後の書類には、赤い判が押されていた。
〈対処不能。時間経過により自然消滅〉
「これ、管理する必要あります?」
「放っておくと、たまに大きくなる」と課長が言った。
「折り返しの電話をかけたが、何を言うつもりだったか忘れた事例がある」
「よくあります」
「折り返された側も、何を聞かれるのか忘れていた」
「平和じゃないですか」
田村さんが首を振った。
「二人は互いに謝り続けて、二十分間、電話を切れなかったんですよ。本当に気の毒で」
私は書類をそっと閉じた。
そのとき、紫色の警報が鳴った。
「靴左右逆事件だ。高校の体育祭、百二十七人」
モニターには、グラウンドで整列する生徒たちが映っていた。
全員が左右逆の靴を履いている。誰も気づいていない。
「今度は、気にしなさすぎですか」と私は尋ねた。
「そうだ。違和感が違和感として認識されない。保護色現象だ」と課長は言った。
「先月、私が命名した」
「初めて聞きました」
「ただし、気づかせ方を誤ると、生徒が『自分だけ変なのか』と気にし始める。
気にさせずに気づかせる。作戦Dを発動する。犬だ」
十分後、グラウンドに犬が放たれた。
犬は元気よく走り回った。生徒たちは競技を中断して犬を追いかけ、
そのうち一人が、自分の足元を見た。
「あれ、俺の靴、逆じゃね?」
生徒たちが次々と靴を履き直していく。笑いながら直している。警報が止まった。
「犬の成功率は高い」
「もっと高度な方法はないんですか」
「専門家を呼んで、靴の履き方を指導してもらう。犬より費用がかかる」
「犬でいいです」
「そうだろう」
課長は得意げだった。
私は、ここで働き続けられるかどうか、少しだけ心配になった。
*
夕方、黒いランプが点灯した。
課内から物音が消えた。
課長がゆっくりと立ち上がった。
「伝説級案件だ。冷蔵庫を開けたのに、何を取りに来たか忘れる現象」
私は思わず笑った。
「それ、誰でもありますよ」
課長は笑わなかった。
「今回は違う」
モニターの数字を見て、私も笑うのをやめた。
同時発生率、八十七パーセント。大阪市内の住民の大半が、
冷蔵庫の前で立ち尽くしていた。
原因調査班が駆け込んできた。
「判明しました。昼のラジオで『最近、忘れっぽくないですか』という話題が流れています」
課長が頭を抱えた。
「意識してしまったか」
「それだけで?」
「それだけだ。『忘れっぽいかも』と思った瞬間、
冷蔵庫の前の『あれ、何だっけ』が、ただの度忘れから『自分はおかしい』に変わる。
だから一斉に立ち尽くす」
「そんなことで」
「だから言っただろう。気にした時が、一番危ない」
「面倒ですね、人間」
「面倒だから、我々がいる」
そこは少し格好よかった。
課長は金庫を開け、古びた紙を一枚取り出した。太い文字で、こう書かれている。
〈最終対処指針――忘れたことを重大事にしない〉
「うっかり管理課に伝わる最終兵器だ」
「紙一枚ですけど」
「紙一枚だからいい」
課長は真顔だった。
「市内放送を流せ」
数分後、街じゅうのスピーカーから声が流れた。
『冷蔵庫を開けて、何を取りに来たか忘れてしまった皆さん。
いったん閉めて、ほかのことをしてください。思い出せなくても、たぶん大丈夫です』
モニターの数字は動かなかった。
八十七。八十七。八十七。
「効いていないのか」
「放送を聞いている人も、冷蔵庫の前にいるんじゃないですか」
田村さんの声が裏返った。
「その可能性、高いです。ど、どうしましょう」
私はモニターを見つめた。扉の向こうの卵や牛乳。何かを取りに来たはずなのに、
それが分からない人たち。
あの人たちは「忘れたこと」を見ている。見るのをやめさせるには、
別の何かを見せればいい。
「課長、もう一度、放送してもいいですか」
私はマイクを受け取った。
『冷蔵庫の前にいる皆さん。扉を開けたままにすると、電気代がもったいないので、
いったん閉めてください。何を取りに来たかは、あとで思い出せば結構です』
数秒後、数字が動いた。
八十七。七十五。五十二。二十八。
冷蔵庫の扉が、ひとつ、またひとつと閉じられていく。
「収束しました」
課長は私を見た。
「なぜ電気代だった」
「忘れたことより、電気代のほうが気になるかなと」
課長はしばらく黙っていた。
「君、向いているかもしれん」
初めて、仕事のことで褒められた。
そのとき、モニターの隅に新しい警告が出た。
〈冷蔵庫を閉めたあと、何をしようとしていたか忘れた事案――増加中〉
「課長、これも対処するんですか」
課長は時計を見た。
「定時だ」
「放っておいていいんですか」
「明日やる。今から帰れば、少なくとも我々は忘れずに済む」
課長は鞄を持って立ち上がった。
「全員、退勤」
*
出口のベルの前で、課長がベルを三回鳴らした。
壁は動かなかった。
「壊れているな」
田村さんが、私にそっと耳打ちした。
「退室は四回なんだよ。今日は、しっかりしているほうなんだけどね」
私は黙ってベルの前に出て、四回鳴らした。
壁が横にずれた。
「さすがだ」と課長は言った。「覚えておこう」
地上に出て、駅へ向かって歩き始めたところで、私は足を止めた。
肩が軽い。
鞄がない。
しばらく考えて、思い出した。
昼前、廊下で拾って忘れ物センターに届けたあの鞄は、私のだった。
引き返した市役所の窓口に、見覚えのある鞄が置かれていた。
「こちら、ご本人が届けられた鞄ですね。お名前をお願いします」
私は口を開いた。
名前が出てこなかった。
職員は少しも驚かなかった。
「大丈夫ですよ。ゆっくり思い出してください」
焦るほど、出てこない。名札を失くすなと、今朝あれほど言われたのに。
私は鞄を見つめた。中に名札が入っていると思い出すまで、あと三分かかった。
額に貼っておけばよかった。
翌朝、うっかり管理課の机に、私の初日の報告書が置かれていた。
課長の赤い判が押してある。
〈新人・森下 研修、修了〉
その下に、手書きで一行。
〈消しゴムを冷蔵庫に入れた経験は、伊達ではない〉
私は報告書を引き出しにしまい、消しゴムを机の上に置いた。
念のため、冷蔵庫から一番遠い場所に。




