第2話 アナスタシアの回想(前半)
アナスタシアの過去の回想です。
アルヴェール領主館別館の事情聴取室は、
夕暮れの光だけが静かに差し込んでいた。
アナスタシアは椅子に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。
(……終わったのね)
護衛の足音も、扉の向こうのざわめきも、
今の彼女には遠い世界の音のようだった。
ふと、胸の奥に沈めていた記憶が浮かび上がる。
アナスタシアの母が亡くなったのは、彼女が幼い頃だった。
覚えているのは、やさしい手で髪を撫でてくれた温もりだけ。
父は1年も経たずに再婚したが、
父も義母も華やかな場が好きで、
二人だけで舞踏会へ出かけることが多かった。
食卓でも会話は二人だけで、アナスタシアには関心がないようだった。
そんな彼女の居場所は、屋敷の図書室だった。
特に冒険物を読んでいる間は、
仲間がそばにいる気がして、寂しさ忘れられた。
ある日、新聞の束から一枚の記事が目に留まった。
――『若き冒険者、黒刃のライと閃光のハル』
写真には、鋭い眼差しの黒髪の青年ライと、
灰銀の髪で静かに微笑むハルが写っていた。
目元を覆うマスク越しでも、
ハルのどこか寂しげな微笑みに胸を掴まれた。
(この人も孤独なのかもしれない)
それからアナスタシアは、
ライとハルの記事を求めて、王都の図書館に通うようになった。
12歳のある日。
英雄伝記の棚で、一人の少女と同じ本に手を伸ばした。
「この本、お好きなの?」
「ええ……あなたも?」
それは、英雄ライとハルの魔獣退治シリーズ──
実在した二人のS級冒険者を題材にした、人気の伝記物だった。
アナスタシアは少し迷ってから、勇気を出して言った。
「私は……ハル様のファンなの」
「えっ、そうなの?私はライ様が大好き!」
少女はにっこり笑って言った。
少女は茶色のふわふわした髪に、薄い紫の瞳をした子だった。
その明るい笑顔に、アナスタシアの胸がふっと軽くなる。
それがフィーナとの出会いだった。
同じ年齢、どちらも子爵家の娘ということもあり、
二人はすぐに打ち解けた。
切り抜きを交換し、新しい記事を見つけては夢中で語り合う。
アナスタシアにとって、フィーナは初めて心を分かち合える友達になった。
ハルみたいに強くなりたいと、体術を習いにも行った。
身体を動かすのは、寂しさを紛らわすのにとてもよかった。
(私、好きなことが増えてる。
ハル様のおかげで友達ができたし、身体を動かすことも覚えた。
……私、生きててよかったかも)
毎日が初めて楽しいと感じられた。
ある日、号外が響いた。
――黒刃のライと閃光のハル、消息不明。
二人は階段に座り込み、泣きながら手を握り合った。
「何も見つかってないんだもの。きっと生きてるよね」
「うん……私たち、これからもずっと応援し続けよう」
その約束が、二人を支えてくれた。
15歳の春、アナスタシアとフィーナは王都学園に入学した。
授業の合間にお茶を飲み、図書館で推し活をし、
放課後は体術を習いにく。
学園が長期休暇のときは、伝記の旅をなぞるように各地を巡った。
幸い父も義母もアナスタシアに関心はないが、
お金だけは置いていってくれた。
推しの話をしながら笑い合える日々は、
アナスタシアにとって初めての普通の青春だった。
だが入学してしばらく経った頃、フィーナは婚約を告げた。
「アナ……私、バルメイン伯爵家のエドガー様と婚約したの」
「えっ……あの貴公子の?」
銀髪で完璧な立ち居振る舞いの青年――誰もが憧れる存在だ。
「すごいわ、フィーナ……」
「でも政略婚約なのよ」
そう言いながらも、フィーナはどこか嬉しそうだった。
「おめでとう、フィーナ」
祝福しながらも、
アナスタシアの胸には小さな寂しさが残った。
やがてフィーナは婚約の準備で忙しくなり、
二人で過ごす時間は少しずつ減っていった。
アナスタシアは、またひとりに戻ってしまったような気がした。
そんなある日。
エドガーが見知らぬ令嬢と仲良く腕を組んで歩く姿を目にした。
別の日にも、前回と違う女性と親し気に笑いあい、そのまま宿に消えて行く。
さらに、裏通りで怪しい男と話す姿まで見てしまう。
「フィー、エドガー様のことで話があるの」
アナスタシアが勇気を出して話すが、フィーナには届かない。
「アナ、心配してくれてありがとう。でもね……大丈夫よ。
これは政略婚約なんだから」
フィーナは、どこか吹っ切れたように微笑んだ。
「私は……ただ、フィーナが心配で」
「いいのよ。気にしないで」
その優しい声が、アナスタシアの胸に痛く刺さった。
(どうして……届かないんだろう)
自分の言葉を受け止めてもらえなかったことが、ちくりと胸に残った。
王都の図書館で一人静かに本を読んでいると、
ふいに背後から柔らかな声がした。
「アナ……久しぶりね」
アナスタシアは振り返り、思わず目を見開いた。
そこに立っていた女性は、どこか自分に似ていたのだ。
ピンクブロンドのふわふわした髪、濃い紫の瞳、背格好まで。
「……マリー叔母様?」
母が亡くなるまでは何度か会っていた、母の妹のマリー。
けれど、こうして向き合うのは本当に久しぶりだった。
マリーは優しく微笑んだ。
「ええ、マリーよ。覚えていてくれて嬉しいわ」
アナスタシアは自然と身構えた。
母の葬儀以来、カルマン侯爵家とは距離があったからだ。
「どうして……ここに?」
マリーは少しだけ表情を曇らせた。
「アナ。あなたに話さなければならないことがあるの。
あなたのお母様のことよ」
「……母の?」
「ここでは話せないわ。個室を取ってあるの。来てくれる?」
案内された個室で、マリーは震える指で一冊の古びた日記帳を取り出した。
「数週間前に見つかったの。……あなたのお母様の日記よ」
アナスタシアの胸が強く脈打った。
そこには、結婚後の父の冷たい態度、母の不安、
不自然な金回り、そして──最後のページに綴られていたのは…
『夫の後を追った。
倉庫で見た麻袋が……動いた。
形が、人だった。
あれは荷物なんかじゃない。
こんなこと、絶対に許されない。
アナスタシアには……こんな闇を背負わせたくない。
あの子だけは守らなければ。
私は……知らないふりはできない』
震える筆跡で書かれたその一文が、
アナスタシアの胸を強く締めつけた。
さらに、母が集めていた証拠の紙束――
港の裏通りの地図、倉庫番号、商人の名、帳簿の写し。
どれも、ヴェルディエ家が何を扱っていたのかを示すものばかりだった。
「姉は馬車の事故で亡くなったのだけど……」
マリーは震える声で続けた。
「当時は疑わなかったわ。
でも……日記の最後の日付の翌日に亡くなったの。
気になって調べてみたら、やっぱりおかしかった。
本来、馬車で出かける予定なんてなかったはずなのに……」
そこまで言うと、マリーの目から涙がこぼれた。
「何も知らなかった。姉は幸せに暮らしていると……本気で思っていたわ。
あなたが一人でいるのも、気づいていたのに……
あなたを見ると、姉を思い出してしまって……それがつらくて……
向き合う勇気がなかったの。
本当にごめんなさい。あなたを一人にしてしまって……」
アナスタシアの視界が揺れた。
胸の奥が痛むほど締めつけられる。
アナスタシアはそっとマリーの手を握った。
「叔母様……謝らないでください。
叔母様がこうして向き合ってくれたことが、私は嬉しいんです」
マリーは涙を拭い、アナスタシアをまっすぐ見つめた。
「アナ……あなたは……どうしたい?」
アナスタシアは一度目を閉じ、
胸の奥に沈んでいた思いをゆっくりと言葉にした。
「母を死に追いやった父を……許せません。
母が集めた証拠と、叔母様が集めてくださった証拠を持って……告発します。
私の手で、ヴェルディエ家の闇を終わらせたいです」
マリーはしばらく黙ってアナスタシアを見つめていた。
その瞳には、どう言葉を選ぶべきか迷う影があった。
「……本当のことを言うと、この日記をあなたに渡すかどうか、ずっと迷っていたの。
読めば、あなたが傷つくと分かっていたから」
マリーはそっと視線を落とし、続けた。
「でも……あなたには姉の真実を知る権利があると思ったの。
知らないまま生きていくことの方が、きっと残酷だと思って」
そして、苦しげに息を吐いた。
「でも……あなたにこんな重いものを背負わせたくないの。
告発なんて、カルマン家がやればいい。
あなたは巻き込まれなくていいのよ」
アナスタシアは首を振った。
「カルマン家の力ではなく、私の意思で告げたいんです。
母が命をかけて集めた証拠を……私が届けたい。
母の仇を、私の手で討ちたいんです」
マリーは息を呑んだ。
姉の面影が、アナスタシアの瞳に宿っていた。
「……分かったわ。でも条件があるの」
アナスタシアは真剣に耳を傾けた。
「一つ。告発は匿名で行うこと。
二つ。ヴェルディエ家の者とは絶対に行動を共にしないこと。
三つ。あなた一人では絶対動かないこと。
この三つを守れるなら……あなたの意思を尊重するわ」
アナスタシアは強く頷いた。
「はい。叔母様と一緒に進みます」
マリーはそっとアナスタシアを抱きしめた。
「あなたのことは、私が必ず守るわ。もう一人にしないから」
その言葉に胸が温かくなる。
「ありがとうございます。
……叔母様、もう一つ、お願いがあるんですが……」
「ええ、何でも言ってちょうだい」
「バルメイン伯爵家のエドガー様を調べてほしいんです」
マリーが小さく首を傾げる。
「バルメイン伯爵家の……次男のエドガーかしら?」
「はい。大切な友達の婚約者なんですが、気になる噂があって……
彼女に伝えても取り合ってくれなくて。それでも、放っておけないんです」
「アナは本当に優しい子ね。分かったわ。任せて頂戴」
マリーはふっと柔らかく微笑んだ。
「カルマン家は昔から調べごとが得意なの。王家にも頼られるくらいよ。
だから安心して。必ず真実を掴んでみせるわ」
アナスタシアは深く頭を下げた。
マリーが「一人にしない」と言ってくれたことが、胸に沁みた。
けれどアナスタシアは、自分が背負ってきた闇を思い出す。
ヴェルディエ家の闇の中で育った自分。
その重さを、誰にも背負わせたくなかった。




