表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

妻の思い

 ――一年前


「子どもができたの」


 私は彼に告げた。

 彼は私の言葉に大喜びした。


 私は彼が好きだった。

 何事にも真剣で、そして真っ直ぐなところに惹かれた。

 ビシッとした芯があると感じ、そんなところが大好きだった。


 しかし、私は彼が段々分からなくなっていた。

 お互いに余裕のある生活をしているわけではないので、きちんと先のことを考えて、結婚はお金を貯めてから。だから、避妊もきちんとしてほしいとお願いして、それに同意していたのにどうして……。

 私は大喜びする彼に、きちんと避妊具をしていたのか聞いてみた。驚いたことに、時々避妊具を外していたという。外に出していたから大丈夫かと思っていたと。それは避妊じゃないと唖然とする私に「いずれ結婚するつもりだったんだから、ちょっとそれが早まっただけ」だと言いのけた。

 大きな不安に覆われたが、自分の中に小さな命が宿っていると思うと諦めるという選択肢はない。


 私は、彼と結婚することとなった。


 彼の両親へ挨拶。とても優しそうなお義父さんとお義母さんだった。順番が逆になってしまったことを謝られたが、そこは前向きに考えましょうと告げ、とても和やかに顔合わせは終わった。特にお義母さんは娘が欲しかったらしく、私が嫁いでくれることにとても喜んでくださった。

 私の両親にも彼が挨拶。彼の真っ直ぐなところに父も母も安心したようで、ふたりとも涙ながらに私を送り出してくれた。


 ところが、いざ式をどうするかという話になった時、彼はあまり貯金がなく、私も言う程持っていなかった。借金するなりローンで、という提案を私がしてみたが、彼が借金は抱えたく無いとのことだったので、自分たちの出来る範囲で小さなウェディングパーティを行うことになった。この時、父と母がドレスのレンタル代を負担してくれたので、私はウェディングドレスを着ることができた。小さな頃からの夢だった花嫁さんになれたのだ。私は必ず幸せになるからねと父と母と抱き締め合った。


 私たちは少し広めのマンションを借りて、新婚生活を始めた。

 私が自分で花嫁道具のひとつとして持ってきたのが、鉄製のフライパンだった。これを使い続けて、いつか産まれた子どもに受け継ぎ、幸せな家庭を受け継いでいってもらう……そんな気持ちを込めたフライパンだ。


 でも、そんな幸せな家庭とやらは、まるで白昼夢のように霧散することになる――


 私は重いつわりに苦しんだ。まるで常に強烈な船酔いをしているかのようで、まともに立ち上がることすら難しい。

 そんな私に彼は言った。


「甘えるな! つわりは病気じゃない!」

「先輩の奥さんは『つわりは大した事ない』って言っていた!」

「掃除もしていないのか! 一日中寝ていて、何もしていないなんて妻失格! 早く夕飯作ってくれ!」

「そうやってだらけているからつわりも酷くなるんだ! 怠け病なのか?」


 妊娠していること自体が通常とは違う状態であることが分かっていないらしい。その先輩の奥さんとやらも『つわりは大した事ない』と言ったのではなく『私はつわりが軽かった』と言っているのだろう。

 つわりを「怠け病」とまで言い切った彼。どうしてこんなにも思いやりのない言葉を吐けるだろうか。愛が冷めていくのを感じる。

 でも、産まれてくる子どもには父親が必要だ。子どもが産まれれば、彼だって変わってくれるはずだ。きっと。


 彼の無自覚なモラルハラスメントにひたすら耐え続け、何とか無事出産。娘だ。とても苦しくて痛い思いをしたけど、この世に私の子どもとして産まれてくれた小さな小さな命の姿に、そんな苦い思いはすべて吹き飛んだ。母親として、愛と優しさに溢れた家族を築いていくことをこの小さな命に誓った。


 体調が中々戻らず、出産から二週間後に退院。初めての育児にてんてこ舞いの状況だ。ほぼワンオペ状態で寝る暇も無く、体力的にも精神的にも限界の淵にあった。彼は自分の気分でちょっとあやす位で育児には参加してくれない。

 彼は言った。


「専業主婦は楽でいいよな。ちょろっと子どもの世話してるだけだろ。せめてもうちょっと家事をしっかりやってくれよ」

「髪もボサボサじゃん。母親になると女を捨てるのか? もっとシャンとしてくれよな」


 夜泣きも無視して布団をかぶっている彼の言葉。

 私にはもう言い返す気力も無かった。


 そんな彼が育休を取得するという。私は大喜びした。父親としての意識が芽生えてくれたと。大切な育児を夫婦ふたりでできるのだと。きっと私の苦労を理解してくれたのだと。


 そんな私の喜びはすべて裏切られた。

 何と育休を利用してセブ島へ短期語学留学に行くというのだ。育休制度はそんなもののために存在するわけではない。私は大反対した。しかし、彼はスキルアップと収入アップを見込めるという主張を繰り返す。今の仕事で外国語が必要になる場面はないはずだと言うと、夫の頑張りを妻として応援できないのかと自分を正当化するばかりで、話がまったく通じない。そもそも留学するお金なんかあるはずがない。

 ところが、彼は留学費用として五十万円をサラ金から借金して、すでに申し込みを済ませていた。借金はしたくないとあれほど言っていたのに。


「こんなの留学後に、あっという間に取り返せるから!」


 悪びれることなくそう言った彼。

 私はここで目が覚めた。

 彼は「真っ直ぐで芯がある」のではない。

 彼は『他人への思いやりがなく、自分のことしか考えていない』のだ。

 他人の意見に耳を傾けず、自分の意見を無理やり押し通そうとする姿が、芯があるように見えていただけだったのだ。


 もう彼に一欠片(ひとかけら)の愛情も無くなった。


 数日後、大きなキャリーケースを持って彼はセブ島へと旅立っていった。

 その後、彼から毎日のように送られてくる写真の数々に、私は呆れ返った。朝から晩まで遊んでいるのだ。真面目に短期留学をする人たちは、その短い期間に外国語やスキルを身につけるべく、毎日必死で勉強をしている。もちろん、時には海で遊んだり、夜の街に繰り出すことだってあるだろう。でも、あくまでもメインは勉強だ。時間が限られているのだから必死にもなる。しかし、彼にその様子は見られない。


「現地の人たちとの触れ合いに、新しい価値観を感じる」

「この素晴らしいセブの海よりも美しいものはない」

「日本では味わえないこの空気感は、俺を大きく成長させてくれる」


 馬鹿かと思った。

 語学留学のはずが、なぜか自分探しの旅のようになっている。

 五十万も支払って、やっているのは豪華な観光旅行だ。


 私は彼が留学している間に義両親へ、彼からの妊娠中のモラルハラスメントや、育児にまったく参加していないこと、さらに育休を利用して長期の海外旅行中であること、そのために多額の借金を勝手にしたことを訴えた。そして、これ以上婚姻関係を継続できないことを説明。義両親は泣きながら土下座で謝罪。全面的に私の味方になってくれることを約束してくれた。


 私は荷物をまとめ、迎えに来てくれた両親の車に乗り込んだ。

 あまりに短い結婚生活。自分の見る目のなさに涙が出そうになったが、腕の中で眠るこの子を見ると、泣いている場合じゃないと力が湧いた。


 彼が海外から帰ってきた時、私と娘はもういない。

 自分のしたことを省みるだろうか。いや、彼は何も変わらないだろう。

 私は居間のテーブルの上に、結婚指輪と署名済みの離婚届、そして弁護士の名刺を残して、部屋を去った。


「さようなら」



挿絵(By みてみん)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ