#002 継承
獣の記憶どおりに道をたどると、外につながる出口には、あっさりとたどり着くことができた。
ずっと壁と天井に囲われていた圧迫感のある空間が切れて、その先からまばゆい光が入りこんでくる。
外との境界までたどり着くと、視界がおおきく開けて、目に入るものすべてが緑で埋め尽くされていた。
空を見上げると葉っぱの網を透かすように日の光が差しこみ、それが地表近くで生えた勢いのいい藪や下草を照らしている。
けれど、どう見ても日本の森とは感じが違う――日本?
そう、自分は日本という国で暮らしていたはずだ。
それが思い出せたことに、妙に胸がほっとする。
迷宮のなかと違って外の地面は凸凹があり、どう見ても転がるには向いていなかった。
そこで、迷宮にいた耳の長い猫の情報を使って、自分の体を構成してみる。
偽ネズミのように伸びた先の“端末”として、ではなく“本体”として。
結果は――情報のない人型とは違い、今度は成功。
手足はちゃんと思いどおりに動くし、視界も鮮明。音も聞こえる。
ただ、なんとなく疲れるというか、核に溜まっている“色”が燃料のように、少しずつ使われている感じがする。
どうやら、生き物の形をずっと模し続けるには、この“色”が必要になるらしい。
ただ、そんなことは今はどうでもよかった。
見えて、聞こえて、自由に動ける体!
生きてるってなんて素晴らしいことか!
そんな感慨にふけっていると、ふと、風で草がざわめく音にまぎれて、かすかな呼吸音が聞こえてくることに気づいた。
優れた聴覚をもつ耳長猫の体でなければ、気づけなかっただろうちいさな音。
集中して聴くと、それは途切れ途切れで今にも止まってしまいそうな、不安定な息づかいだった。そして、それに続いてゆっくりと、とす、とす、と草を踏みしめ歩く音。
その音の間隔は、とても四足歩行のものとは思えない。
――人がいる!
そのことに気づくと、嬉しい気持ちが湧き上がってきて、止まってなんていられない。
さっそく耳長猫に擬態した体を使って、木々を飛び伝いながら音の響いてくるもとへと向かった。
そして、たどり着いた先で目に入ってきたものは。
期待していたものだったけれど、期待していたものじゃなかった。
そこには、体の要所をしっかり覆った革鎧を身にまとって、よろめきながら歩く、耳の長い美しい女がいた。
エルフ、という言葉が自然と思い浮かぶ。
エルフは想像上の種族のはずだけど、とりあえず広い意味ではヒトと言えるだろうから、これは期待していたものと言ってもいいだろう。
ただ、期待していたものじゃなかった点は、その体が深い傷をいくつも負っていて、今もなお血をぼたぼたと地面に垂らし、しみこませていることだ。
木の上から様子をうかがうと、もはや視界もおぼろげなようで、倒れてないのが不思議なぐらいだ。
それでもなお、何かをつぶやきながら、憑かれたようにふらふらと前に足を進めている。
見てる間に張り出した木の根に足を引っかけて、とうとう、ばたりと地面に倒れ込んだ。
――せめて人の体があれば、助け起こすこともできるのに!
そう思うも、あいにく今の体では助け起こせない。
それでも放っておけず、木から飛んで、目の前に降りる。
すると気配を察したのか、切れ切れの苦しそうな呼吸のすき間に、顔をこちらに向けて、口を開いた。
「……ル・ネア、リシェラ……イェハール……」
ささやくような、異文化の言葉。
まったく意味はわからないけれど、それでも何かを乞うような、願うような、痛切な響きが込められていることだけは伝わってくる。
視線は定まっていない。それでもなお、何かを訴えかけるような瞳。
見ている間に瞳から、そっと、命の光が失われていく。
そして、こひゅー、と最後の長い吐息が、風に溶けて――
死んだ。
亡くなった。
息をひきとった。
表現はなんでもいいが、あっさりと彼女の命は失われた。
どうして?
それはわからない。
最後に何を望んだのか?
それもわからない。
今はもう、知るすべはない。
――ふつうなら。
浮かんだ恐ろしい考えを、ぶんぶんと振り払うように首を振る。
――このひとを、取りこむ。
そうしたら、彼女の最後の訴えを理解することができる。
けれど、人を取りこむなんて、そんなことが許されるのか?
冷静な部分が、するべきじゃない、と大声で叫んでいる。
――けれど、このひとは必死に何かを伝えようとしていた。
それを知ることこそが、このひとが望んでいることじゃないのか。
もう一度、瞳孔がゆっくり開きつつある彼女の顔と正面から向き合う。
きっと、平和な日本で見たら、目を離せなくなっただろうと思うほどに、整った顔。
その最後の顔は、決して穏やかなものではなく、何かを訴えかけているように見えた。
だから、決めた。
「……ニャァ」
ぺこりとお辞儀をしてから、本能的にではなく、自らの意思で触手を伸ばす。
死してなお、すぐにはなくならないようで、彼女のなかに暖かな“色”の塊を感じる。
――それを、自らの意思で、貪る。
瞬間、獣とは比べ物にならない、圧倒的な記憶の奔流が流れ込んできた。
花畑。幼い姉と手を取り合って遊んだ。
小さな村。狭い世界で生きるのがイヤで、家族の反対を押し切って飛び出した。
冒険者になって、いろんな仲間と危険を乗り越えた。宿での祝杯。
姉が女の子を産んだと聞いて、ひさびさに村に帰ったら大喜びされた。
姉が病で亡くなったとき、姉のかわりにこの子を守ると誓った。
握ったちいさな手と、抜けるように青い空。
そして今日、村へ帰る途中で、怪しい集団に襲われた。
――わたしは腐っても銀級だ! お前らごときに負けるものか!
そう啖呵をきって引きつけたが、敵があまりにも多すぎた。
少しずつ手傷が増えるなかで、敵の頭領のような男が退屈そうに部下たちに言う。
「おい、俺たちは耳長どもを皆殺しにして、お宝を頂くためにここにいんだろ? こいつにずっと構ってるわけにゃいかねぇぜ」
十人足らず残して、村に向かわれた。
追いかけたかったが、そんな余裕はもはやない。
重い傷と引き換えに、なんとか残された相手は倒しきったが、もう村へは向かえない。
あの子を守れない。
血を流し過ぎた。
もう、前も見えない。
それでも、守らなければ。
この体が、立っているか倒れているかもわからない。
それでも、まもらなければ。
だれかの気配が、ちかくにある気がする。
ああ、どうか――
「……どうか、あのこを……まもって……」
それが、彼女、セラフィーナ・リュナメルの最後の記憶。
我に返る。
村が、あの子が危ない。
じりじりと、焦燥感に苛まれる。
知らない村、知らない人のはずなのに、守らなければ、と強く思う。
これは、自分の意思なのか?
それともセラフィーナの意思なのか?
わからない。
わからないけれど、今はどっちでもいい。
彼女の記憶が、進むべき道を教えてくれる。
擬態した体をしならせ、木々を蹴って駆ける。
目的地は、彼女が守ろうとした、小さな村、リュナハル。
そして、そこにいる彼女の亡き姉の忘れ形見、「リシェラ」だ。