#011 開かれた扉
戻る場所がある。信じる者がいる。それが、今のわたしの強さだった。
獣の姿で街の屋根の上を走り抜け、いまや懐かしく感じる宿へと向かう。
裏路地でミレイルの体と剣の組み合わせに擬態を切り替えたのち、かつて自分が飛び出した宿の扉を、静かに押し開いた。
うららかな日の光に照らされた部屋では、リシェラが窓の外にぼんやりと目を向けていた。
その眼差しがくるりとこちらに向いて、それから目が見開かれる。
「……ミレイル?」
頷くと、リシェラはぱっと立ち上がって、走り寄ってきた。
「ミレイル! あんな、急にいなくなって、何考えてるの!」
迷う間もなく、どす、と腰に抱き着かれ、顔をお腹に押しつけられる。
「わたし、心配したんだから! もしかしたら、帰ってこないんじゃないかって……!」
言葉が震えている。怒っているのに、泣きそうな声。
表情は見えないけれど、それですべてが伝わってきた。
「……ごめん。時間がなくて。それに本当に、必要なことだったから」
「……今回は、ちゃんと帰ってきてくれたから、許すけど。次は、許さないから」
「本当に、ごめん。今度から、気をつける」
なだめるように、リシェラの銀の髪を撫でる。
さらさらで、絹糸のような髪。
「けど、それに見合う成果はあった」
「……成果?」
「“碧玉”を、見つけた。今なら、それを確認しに行くこともできる」
リシェラが、涙を拭いてばっと顔を上げてくる。
「確かめたの? どうやって?」
「それは……とにかく、今そこにあることは間違いない。時間がないから、セイルを呼んできてほしい」
強引な話だと自分でもわかってるけれど、それでもそう伝えるしかない。
見上げるリシェラの碧の瞳のなかに、包帯で肌を覆った、表情の見えない女エルフの顔が映る。
果たして、それがどう見えるかは――リシェラ本人にしかわからない。
「わかった。セイルを呼んでくる」
そう言うと、切り替えたようにリシェラは扉に向かって走り――
「……わたしは、帰ってきてくれたミレイルを、信じてるから」
その言葉を残して、扉の先に駆けていった。
やはり、あの子にはかなわない。
リシェラの足音が遠ざかるなか、わたしは深く意識を沈めて、これから来るセイルにどう説明すべきか考えはじめた。
やがて、息を切らせたリシェラに連れられて、真剣な顔のセイルが入ってきた。
「ミレイル! リシェラから聞いたが、どういうことだ?」
「“碧玉”は、子爵の館の収蔵庫のなかにあった。敷地内の枯れた井戸が、そこに繋がってる」
「それは、確かなのか?」
こくりと、頷く。
「“碧玉”や集められた魔具がそこにあるのを、この目で見た」
「それで、君はどうやってその情報を?」
真正面からのセイルの問いに、いろいろな言い訳が頭をよぎる。
探っていたら“偶然”見つけることができたとか、“偶然”館のつくりに詳しい相手に話が聞けたとか。
だが、実際にその場を訪れたら、そんな“偶然”がありえないことぐらい、すぐわかる。
あの脱出路は古く、慎重に隠されたもの。
それなら、いっそ――
「悪いが、それは言えない」
嘘をつかないことを選ぶ。
「……なんだと?」
「悪いが、それは言えない、と言った」
まるで、セイルと初めて出会った夜のようだ。
空気がぴん、と張り詰めていくような感覚。
見る間に、セイルの顔が強張っていく。
「君は、自分が言ってることがわかってるのか?」
「わかってる。だが、嘘はつきたくない」
燃えるような金の瞳と、真っ向から視線を交わす。
「君が言ってるのは、理由は説明できないが信じろ、っていうことだぞ?」
「わかってる。だが、時間がない。収蔵庫に入ったことに、気づかれるかもしれない」
“碧玉”の場所が移されたら、すべてが終わりだ。
セイルは両手で頭を抱えると、怒りを抑えるように大きく息を吐いた。
「急に飛びだしたかと思ったら、証拠を掴んで帰ってきて、その理由は言えない、か」
やはり、無理があったか。
どう話せばよかったのか――そう自問しはじめるわたしに、セイルは続けてくる。
「……だが、俺はもう、あの見習いの頃のように、後悔はしたくない。ミレイル、俺が今日まで見てきた君を……信じさせてくれ」
驚いて顔を上げると、そこには真摯な瞳を向けてくる、セイルの顔があった。
胸の奥に、温かいものが静かに広がっていく。
「……ありがとう」
深く、礼を言う。
信頼を預けてくれた、そのことに。
「いい、俺が選んだことだ。だが、これで俺が職を失ったら、責任とってくれよ?」
「もちろんだ」
珍しいセイルが叩く軽口も、不思議と心地よく感じる。
「それじゃあ、これからどうするの?」
「ミレイルの話を信じるなら、俺が“碧玉”を確認すれば、それをもって証拠が揃う。動くなら早いほうがいいだろう」
やりとりを見守っていたリシェラの問いに、セイルはこちらを振り仰ぐ。
「これから、すぐにでも。ミレイル、案内してもらえるか?」
頷いて、扉に向かう。
思えば、“碧玉”を追いかけて長かった。
けれども、ようやく決着がつく。
そんな予感と共にふたりを連れて、今度は人の姿で、収蔵庫へと繋がる枯れた井戸へと向かった。
井戸へとたどり着いたときには陽が傾いて、空は燃えるような紅に染まっていた。
そこはすでに子爵の領地で、つまりは、取り返しがつかない一線を越えている。
人の身で井戸に入ると、あらためてその狭さに辟易とする。
収蔵庫に続く地下道はひとりずつしか順に入れず、わたし、セイル、リシェラの順に、壁に体を当てないようにゆっくりと進んだ。
息遣いすら響き渡る、狭く息苦しい静寂。
その果てに、収納庫に続く扉があった。
その表には簡単な閂がついていて、あのときのままであれば、内からの錠は開いているはず。
閂をつかんで、扉をゆっくり引くと――やはり鍵はかかっておらず、抵抗なく開いた。
狭苦しい通路を抜けると、目の前に広がるのは魔具の山。
その圧倒的な存在感は、二度目であっても息を呑むほどだった。
「これは……驚いたな。これほどとは」
独り言のようにつぶやくセイルをそばに、部屋を見まわす――新たに仕入れて置かれた箱はなくなっていて、すべて分類されたのだろう。
その緑の区画に、変わらず“碧玉”は転がされていた。
「セイル、ありました!」
それをちょうど見つけたリシェラが、声を上擦らせてその場に駆け寄り、手を伸ばしかけて――途中で、そっと拳を握りしめた。
ようやくたどり着いた、彼女の村が確かに存在し、繋いできた証。
「……確かに、過去の資料に残っていた情報とも合致してる。これは、リュナハル村で管理されていた“リュナハルの碧玉”と断じて、間違いないだろう」
慎重な口調だったが、もはやそれを疑ってないことは、彼の態度からも明らかだった。
「これで、君たち証人に加えて、証拠も揃った。ここからは、俺たち教会の出番だ」
これで、ようやく。
そう胸を撫でおろしたとき、カツ、カツ、と聞き覚えのある足音が響いてくる。
既視感。隠れるにしても、今はセイルとリシェラがいる。
入り口の扉の錠が開かれるまでの時間で、何ができるか――考える間もなく、入り口の扉が開かれる。
つまり、その扉の鍵は、あえて開かれていた。
そして、そこから姿を見せるのは、エルグレイド子爵。
冷酷で自信に満ちた、魔具収集家の、貴族。
「おやおや、鼠のお戻りとは思ったが、まさか三匹とはね。しかも、一匹は鼠ではなく、教会の犬ではないか!」
その灰色の瞳には余裕と愉悦が浮かんでいて、どうやら、今日の潜入劇はまだ終わらせてもらえないようだった。