中編
ファルスアレンではオーディエルという神が信仰されていた。
知識と真実の神とされるそれは魔術師の目指すそれと同じ教義を持ち、実際国王が司祭長の任を与えられていた。
教義上、オーディエルとルーンは兄弟神とされているが実際のところオーディエルなる神は存在せず、虚像の信仰であった。
さて、ルーンシティにおいて有名な建物といえば数あるも、三つと言えば恐らく筆頭候補にあがるのはこれだろう。
王城、魔術師ギルド世界本部、そしてルーン大聖堂。
「多くの事を学びなさい。それは喜びであれ、痛みであれ、幸いであれ、悲しみであれ……
決してより分けてはなりません。
喜びを知る事はそれを広く世界へ伝える事が出来るようになるということ。
痛みを知るということはそれを防ぐために考えることを許されるということ。
全ては知らずして始まる事ではありません」
一日に数度行われる説教の末席にティアロットは居る。
「今知らぬなら学びなさい。
明日知ったなら伝えなさい。
ルーン神の御心は広く伝う事で万人に幸福をもたらすのです」
声が響き渡るように計算された部屋に司祭の言葉がとうとうと響き渡る。
その言葉を、誰よりも冷めた心で聞き続ける。
知らなければ良かったことだってある。
知って始まった惨劇もある。
もしも知らなければ、自分はどこに居たのだろうか?
一人の姫君として、何も疑問に思わずに虚実とはいえ幸福な日々を送れたのかも知れない。
宗教はそのIFに答えてくれない。
自分がルーン信徒としてその疑問に答えるとすれば恐らく、
「あなたはこうしてここに居る。
それが一つの答えであり、その答えがあることが幸いなのです」
だろうか?
世界中全ての者が幸福になれるように世界は作られていない。
人は隣人の幸福と比べ己の不幸を嘆く。
人は誰かを指差し、それよりは幸福だと説く。
より幸福を知らなければ幸福で居られ、より不幸を知れば幸福と認識する。
果てしなく矛盾を孕む中で、ルーンの教えはこう告げる。
「知りなさい。
そうして悩みなさい。
その悩みこそが幸いであり、悩み続ける限り貴方は幸福へと近付きます。
学びなさい。
それは混迷の中で貴方の手を導き、世界を照らす光となるでしょう」
崩れ行く王国を幻視する。
全てを夢と消し去った結果は幸福なのだろうか?
悩みの先には悩みがあった。
それは幸いなのだろうか?
何処まで行けばそれは結果となり幸福となりえるのだろうか?
迷える者を導く教えは一人の少女に更なる迷いを与えている。
神は少女になんと語るか。
順調に復興を遂げようとしているルーンシティ。
物と人の流れは活気を生み、街に息吹を与えていた。
人混みにまぎれてはあっという間に視界を塞がれてしまうティアロットは大通りをのんびりと歩く。
市場へと続くこの道には時折馬車も走り、さまざまな地方の訛りが耳朶を打つ。
吟遊詩人が道行く人の足を留め、遠い国の物語を歌っている。
露天のオヤジが商品を声高々に謳っている。
日々を生きる者たちの鼓動の中を過去の遺物がゆるり歩く。
「あ、ティアロットさん」
後ろから声。
振り返れば若い少女が駆け寄ってきた。
手には紙袋、身にはローブ。
魔術師ギルドで司書のバイトをよくやっている少女だ。
「おう、珍しいのぉ」
「私だってお買い物くらいしますよ。
といっても、導師のお遣いですけどね」
そばかすの浮いた顔が愛らしく微笑む。
「ティアロットさんこそ、お散歩ですか?」
「ちぃとな。
大した理由なぞないわ」
「ふーん」
ティアロットの存在は一週間もしないうちに世界本部内にある程度認知されていた。
なにしろ悪目立ちする。
身長に合わない魔法杖に装飾だらけの服。
艶やかな銀の髪の幼女が新しく長となった大魔術師オリフィック・フウザーの元に居るのだから。
噂は当然多岐に渡った。
フウザーの愛妾だとか、隠し子だとか、実は凄い魔女だとか、先の一件の関係者だとか。
真実を知る者は誰も語らず、噂だけが加速していた。
そして彼女はその噂から彼女に興味を持った一人である。
「これからどちらへ?」
「特に決めておらぬ」
「そ、そうですか」
さらりと考えていた次の言葉を全滅させられて少女か口篭もる。
「え、ええと。
ティアロットさんってどこの出身なんです?」
ありきたりな質問で間を繋ごうとして、返事のない事に疑問。
隣を見ると難しい顔で黙りこくる少女がいた。
「え、えっと……」
「悪いが記憶喪失というやつでの。
昔のことはようわからん」
「記憶喪失……ですか?」
さらに予想を三段跳びに越えた回答に困惑。
「興味を持つは結構じゃが」
じゃあ、と口を開く前にティアは静かに告げる。
「わしに余り深入りせぬ方が良い。
ぬしのためにもの」
自嘲と苦笑。
その顔を見て少女は完全に言葉を失った。
言葉の響きが全てを封じてしまった。
一体、どうすればこんな言葉を紡げるのだろう?
格好をつけているわけじゃない。
底の見えない闇が微笑んだような錯覚を覚える。
「あ、はい。
すみません……」
どきりとした。
そして次に湧き上がってきたのは魔術師としての探究心。
今は無理だけど、いつかまた問える時が来る。
少女は初めて魔法に出会ったときのような奮えをなんとか胸の奥に押し込んで体裁を取り繕う。
と────────
異変は突如降り注ぐ。
「ま、まてぃ!」
慌てた声。誰もが何事かと振り返る横を疾風のように走る男。
その手には財布が握られていた。
「スリ?」
そばかすの少女が呆けた声でその事実を口にしたとき、すでにティアロットは動いていた。
「我が力は万物を支配する」
まるで処刑鎌のようなフォルムの杖、はめ込まれた赤の宝玉が鈍い光を浮かべた。
「浮舟」
「うぁっ!?」
男が急につんのめる。
それは右足だけを見えない泥沼に突っ込んでしまったような無様な転び方。
とてもスリを行うような男がやるような失敗ではない。
「な、何だっ!?」
すぐに立ち上がろうとする男の前にティアは立ち、杖を向ける。
「無様な真似をするでない」
「こ、小娘がっ!」
身のこなしは鋭い。
焦りと怒りが魔法のように手に現れたナイフを一閃させる。
事態について行けず見守る者たちから安易な未来予想の悲鳴が挙がる。
「我が力は万物を支配する」
少女は刃を見ずに手を突き出す。
迷いのかけらもなく、男の手が止まる事を知っているから。
「プロテクションっ!?」
魔法の守りに阻まれた一撃はティアロットを一ミリも動かす事は出来ない。
そして少女の手は男に触れた。
「げがっ!?」
弾かれる。
背中が膨らむ錯覚の後、男はごろごろと転がりそのまま珍妙な姿勢で停止する。
「手加減するのも一苦労じゃな」
男は脂汗を浮かべ、漏れ出すような浅い呼吸をかすかに繰り返し、動けない。
おおぉという喚声。
遅れてやってきた自警団が男を確保するが、男に抵抗のそぶりはない。見れば上着が広く吹き飛んでいるのが見て取れた。
「凄い……」
少女は溜息と共に呟く。
自分だってプロテクションの一つは使えるし、マジックミサイルだって使える。
やろうと思えばあの男を止められた。
けれどもティアロットは殺さぬために相手に踏み込み、そして威力を無理やり減衰させた一撃で止めたのだ。
それは彼女の魔力が強すぎることと、彼女が場慣れしている事を示している。
終わりまで見通し、射程の短いのであろう魔法のために相手の攻撃を誘った。
はっきり言って愚かしい。
IFを考えれば彼女が死ぬ可能性は多大にあった。
そして冷静に考えれば彼女は自分の見た目、そして態度を全て計算に入れた上で、安直な行動を誘ったのである。
「何者なの?」
つまらなそうに衛兵と話す少女に彼女はじっと熱い視線を送る。
それは真理に手を伸ばすための好奇心と言う一つの才能なのだから。
「……ぐぞぉ……」
息をするだけで胸が悲鳴を挙げる。
昼間、約束通りにスリを働いた男は牢屋の中で歪んだ声を漏らす。
流れ込んでくる夜気を吸い込み痛みにうめいて、朝のことを思い出す。
遅い朝。
昼前になって起き出すのが朝の習慣だった。
いつも通り彼は行きつけの裏酒場で朝飯兼昼飯を注文したところ、一人の優男が前の席に陣取った。
追い払おうとしたその目の前に金貨を置いて言葉を遮るとにこやかに言う。
「これでスリを働いていただけないでしょうか?」
まず理解できなかった。
それから特殊なものを盗ませるつもりかと訝しがった。
「これは前金です。ターゲットはこの方で、すった物は貴方の懐に入れて構いません」
「……美味しすぎる話だな。何が目的だ?」
「この方に恨みがありまして」
ふと陰るその表情は笑っていても何か辛い事があったのだと思わせるには十分だった。
女のそれならぐっと来るのはわかるが、男でそうあっさり思った事にまず驚いた。
スリはいつもの事だ。
街を歩く能天気な野郎からちょっとばかり金をいただく。
そうして俺は生きている。
「わかったよ。乗ってやる」
いつもの事だ。
そう、いつもの事。
そしてスリには成功した。
完璧だ、気付きもしない。
けれども異変は直後に起きた。
三歩離れたところで急に男が騒ぎ出したのだ。
おかしい、俺のスリは完璧だった。
そりゃぁ偶然気付いたってこともありえる。
けれども今回に限ってという事に胸騒ぎがして俺は全力で逃げ出してしまった。
通りには人は山ほどいたんだ。
訝しげな顔をして隙を見て逃げればよかったのに。
その上、あの小娘が現れた。
急に足が前に進まなくなって、焦ってた俺は無様に転んでしまった。
何かと理解する前に小娘が俺に杖を突きつけて挑発しやがったのだ。
焦りとが怒りを加速させた。
逃げなければならないという思いが俺を突き動かした。
小娘一人なんてことはない。
そう、杖を持っていたのにも関わらず、こんな小娘が魔法使いだと思考が直結しなかった。
ちょっと考えるだけの余裕が俺にはなかったんだ。
その結果がこのざまだ。
肺を潰されたような衝撃にまともに息も出来なくなって聴取を諦めた役人にここに転がされた。
コツン。
ブーツが冷たい石畳を踏む音がした。
見張りが様子を見に来たんだろう。
しかしまだ俺はまともに話せない。
また呆れ顔で立去るに違いない。
「お疲れ様です」
ずきりと胸が痛んだ。
「お……」
その声に跳ねるように見上げる。
あの優男だ!
「思ったよりも軽症のようですね。
喋れなくて何よりですが」
「で…… め……え……」
「無理して喋らなくて結構ですよ?
苦しいでしょう?」
にこやかな声。
そうして始めて気付く。
男の口は全く動いていない。
「どうかしましたか?
幽霊を見るような顔をして……
ほら、心拍数が跳ね上がってますよ。
随分と胸が痛いことでしょう」
男は笑顔のまま無言で語る。
「苦しそうですね。
では残りの報酬として貴方を楽にして差し上げましょう」
叫ぼうとして声が出ない。
痛みに蹲り、そして見上げる先に自分のナイフがあった。
「ご苦労様です」
すとんと、意識は暗転する。
「……うわぁあああ!?」
その一時間後、見回りに来た衛兵は己の喉を貫いて死んでいるスリの死体を発見する。
ただ、そのナイフは押収品として詰め所に安置されていたはずのものであったが─────────
「ねぇ、ティ─────」
すっと差し出したティアの手がフウザーの体をぽんと弾き飛ばす。
無論腕力でなく掌に集まった魔力によって。
「死ぬじゃないかっ!」
「懲りぬからじゃよ」
崩れた本棚から這い出てきたフウザーに冷たく一言。
読んでいた本を畳む。
「ひっどいなぁそれっ!?
真面目な話だよっ……神学論?
また妙なものを読んでるね」
「何を読もうと勝手じゃ」
「一応ボクの保護観察下って覚えてる?」
忘れたいと思って口にしない。
不毛だと割り切る。
しかしフウザーは言葉を続けた。
「分かってないでしょ?
昨日君が伸した男、死んだよ?」
ぴくんと眉根があがる。
「まさか。致命傷なぞ与えておらぬぞ」
「ああ、牢屋の中で自殺してたんだってさ。
取り上げていたはずのナイフでね」
面白そうにニヤニヤ笑う青年を睨むように見遣る。
「わしが呪殺でもしたと言うて来たか?」
「だったらその場で殺してるでしょ。
ティアちゃんは」
失礼な物言いだが、あながち間違いではない。
策は弄しても己の行為に覚悟があり、誇りがあるのだから。
殺すべき相手ならその場で裁きを下していた。
「まぁ実際、自殺でなく他殺でしょ。
不自然ですよって全力で表現してるし。
けれどもそう割り切れば自警団の失態ということになる。
目下原因究明をしつつ迷宮入りさせてお蔵入りというところかな」
「……わしに関係があると?」
「ボクはそう思うね。
まぁ、陰険なマルフィックもここまで無意味に回りくどいことはしないだろうから別の何か、かな。
心当たりは?
ああ、ありすぎて分からないか。
そりゃ仕方ない」
「ぬしは人を何だと思っておる?」
ジト目で睨むものの、確かに恨みには事欠かない気がする。
この一年やたら大きな事をしでかしてきているのは確かだ。
「まぁ、というわけでとりあえず外出は控えてくれないかな?
聞き分けのない子供じゃないんだから」
「ぬしが相応に大人であらばな」
「ボクは大人だよ?」
わざとらしく下賎な含みを持たせたので魔弾を一発叩き込んでおく。
「ティアちゃんっ!
それ、普通死ぬから!」
再び復活してくるフウザーの批難を無視。
部屋を出ようとする背中に視線を感じ嘆息。
「書庫でゆるり過ごしておるわ」
返答を待たず彼女は部屋を後にした。
気が付けば随分と時間が経っていた。
積み重なった本は6冊。
どれもが辞書片手に読み解く必要がありそうなそれをティアは淡々と読みふけていた。
「ん……」
珍妙なデザインの掛け時計が夕暮れ時を指していた。
ティアは本を手に取るともとの場所へと戻し、最後の一冊を手に書庫を後にする。
真っ赤な夕日が廊下を照らしていた。
まぶしいとは思わないが、鮮烈な赤の光景に目が眩む。誰一人いない廊下を歩く。
「……何者じゃ?」
背後から伸びる影。
足音は無く、それは故意に己に示した警告と知る。
「こんにちは、ティアロットさん」
随分と昔に聞き覚えのある声。
確か吟遊詩人だったか。
「……術士にないぬしがこのような場所で何をしておる?」
「無論、貴女に会う為に」
逆光の中、ピエロのような『笑み』がそこにある。
「わしはぬしになんぞしたかえ?」
「はい」
声が響く。
決して大きな声でないのに、廊下という空間に染み渡るように、はっきりと。
「今夜、スラムにいらっしゃってください」
「何故に?」
「理由を所望ですか?」
じゃらりと、鎖の音がした。
素早く口は防陣を紡ぎ、胸元のリリエンクローンを意識する。
「では、これが理由と言う事で如何でしょうか?」
しかし敵対的行動はない。だが警戒は解かない。
彼はわざと自分に警戒を促した、つまりどういう積もりであれ敵対行動の可能性を示唆している。
沈み行く夕日。次第に姿を鮮明にする中で、鎖とその先にある物に息を飲む。
「ぬ……ぬし、それは!」
「左様にございます。
スティアロウ様。これは貴女の親友の忘れ形見」
「何故ぬしが持っておる!」
ルビーに直接細工を施したそのペンダント。
ティアが戯れに買い、そして友に渡した品。
自分に似合わないと戸惑う顔は今でも覚えている。
「理由は簡単です。
私は彼女と彼の直系ですから」
喉が凍りついた。
「疑う必要はありません。
そんな事はどうでもいいのですから。
貴女はこれを求め、今夜私の元に来るでしょう。
それだけが必要な事実です」
「……なんのつもりじゃ?」
「理由はもう告げたはずです」
「なればこの場で伏せようか……?」
廊下は長い。
追尾能力を持った魔弾であればどうあろうとも彼を止めるだろう。
「やめてください。貴女の魔術を受けたら死にますよ」
苦笑。
その瞬間光がティアの視界を塗りつぶす。
「くっ」
足音。
凄まじい速さで間近に迫るそれに背筋が粟立ち、反射的に呪が紡がれる。
「防陣っ!」
身を守る光がティアを包む。その横をすり抜ける音────
「しまっ……我招くは魔王の指先っ!」
振り返る。
「なっ!?」
いない。
長く伸びる廊下の何処にも男の姿はない。
黄昏の薄明かりに照らされた廊下に底冷えする静寂だけが居座る。
「……どういう、ことじゃ……?」
すぐに魔法の力を感知してみるも余りにも反応が多すぎる。
緊張を解かないまま、ティアは改めて周囲を見るときらり床に光るそれを見つける。
「……鏡、か」
それが光の正体だろう。
わざわざ残していく理由をいぶかしみ、足先で蹴飛ばす。
からんと音が響き壁に当たって回る。
鮮烈な赤を撒き散らして。
「……」
吐息。
一瞬のうちに起きたさまざまな事が思考を落ち着ける事を阻害する。
ヒントは余りにも少なく、内容は衝撃。
彼女と、彼と言った。
それはつまり、あの二人なのだろう。
改めて思い出す。
この世界は自分にとっては虚像。
────否、自分はこの世界に現れた虚像なのだと。
自分が知らない『その先』があり、その一つと自分が邂逅した。
それはまるでウロボロスの輪のように。
ならば尾である自分は頭に食われなればならないのだろうか?
思い出したように数人の話し声と足音が廊下に響く。
遠い……遠い残響のように……
命じられるままに人を殺め
命じる者を失ってもなお殺め
その手が奪った命は屍の山を築き
なお死血求めて彷徨うが如し
声が響く。
先のバール侵攻の際に被害を受け、行政上の問題から後回しにされたこの区域はしんと静まり返っている。
彼の知る限りこれを期にスラム街を全撤去し、いくつかの保護施設の建設と新規事業の立ち上げが模索されていると言う。
未来に迫られ過去を失う街。例え朽ち寂れたゴミ溜めであっても、ここは一つの世界なのだ。
物陰から人が見上げる。廃墟の上に座り、リュートを奏でる人物を。
意味はすでに朽ち果てて
闇は必ず舞い降りる
千の刃が雨となり
千の嘆きが地を染める
それはかつて『ブラド・メイカー』とも『オーダー・オブ・マローダー』とも呼ばれた殺人鬼のサーガ。
夜闇に紛れ、刃を操り、ただ殺すために死を重ねる悪鬼。
その体が朽ちてなお殺すために世にあり、百人からなる法師によりその魂魄を砕かれたという伝説の狂人。
耳澄ませば響く静寂
かの者迫りて笑み漏らし
瞳開ければ闇の天幕
かの者死を尊ばん
夜の闇には気をつけろ。かの狂人はいつでもお前の首を狙っている。
渇く喉に痛みを覚え、潤すために彷徨い歩く。
子供に夜遊びを諌める言葉としてどこかで使われ、長く夜の伝説が一端を担う存在となった者。
かの邪教は彼をこう評する。
『彼は最も死を尊ぶ偉人である。
死を尊ぶ故に、無為なる死を嫌ったのだ。
そう、彼の手は死を司る聖なる物
かの手によって齎されるのは意味のある死。
そう、無為に死に行く愚者達よ彼の伝説を称えよ
お前の下らぬ魂すらも恐怖と言う聖句に変えるのだ。
そう、日々を惰弱に生きる者よ彼の行いを伝えよ
恐れ、敬え、死を、信望せよ!
死ね、死ね、そう、恐怖となれ! お前の無駄な死は伝説のカケラとなるのだ!
死ねコロセ殺されろ、殺されろ、死はシはシは美しくキョウフ夜を飾りお前ガクルエ殺せ死ぬのダ!!』
不吉な歌が捨てられた街に響く。
「悪趣味じゃな」
澄んだ声が打ち砕き、そうして得られたのは不気味なまでの静寂だった。
「ようこそいらっしゃいました。
歓迎いたします。
スティアロウ・メリル・ファルスアレン皇女」
「言うべき言葉があるならば先に聞こう」
男───『雑音』の名を冠した暗殺者は不安を掻き立てる歪な曲をゆるり夜闇に紛れさせる
「どんな言葉も意味がありません。
ただ結果だけが伝承されるでしょう」
「なれば、ぬしがあやつらの結果と称すか?」
瞳は鋭く射抜くように言葉が追随。
「それは一つの回答です。
ここに私がいて、そして貴女が居る事が」
指は的確に。言葉に合わせ心を乱すように。
「ジェルドは騎士じゃ。
そしてメイアは優しき娘じゃった。
暗殺者。何がその結果を招いた?」
「彼らが400年を生きるならば、私の結果もまた違ったでしょう。
ですが、所詮人の身。
時という暴風に忘却と言う濁流に、想いなど跡形もなく削り取られたに過ぎません」
声は距離を置いて鮮明に。風の音すら掻き消せない。
「思いの残滓は私へと受け継がれ、私の欲望を掻き立てました。
生まれて全ての心を閉ざし、笑みと言う名の仮面を着けて、生を刈り取る一振りの刃。
その私の」
「欲望……?」
飛躍した言葉に返すは怪訝。
けれども雑音は気にすることもない。
「端的に言えば貴女は私の憧れなのです」
銀嶺の中、優しい声音が廃墟に凍みる。
「静にして荒々しき心の持ち主。
狂乱の崩壊劇のヒロイン。
忘れられた楽園の王。
私はあなたが羨ましい」
喉が渇く。
気付いた、これは狂気だ。
ティアロットは自分を否定する。
愚かだと自称する。
それは自虐でなく真実であり、全ては自らが招いた惨劇だったのだから。
彼は恐らくそれを知っている。
知ってなお、自分を羨ましいと言った。
「勇ましき皇女。
私は感謝します────因果が巡りあわせた奇蹟を」
切る聖印はオーディエルの物。
喜劇じみた動作、びりびりと体を奮わせる声量。
ティアだけではない。
廃墟に潜む者達が心を呑まれて彼を見詰める。
彼は役者ではない。
そう、彼へと惹きつける物は『演技』ではない。
演技などではありえない。
それは魂の震撼。
隠された物への欲求。
そう、些細なカケラだろうとも誰もが胸の内に秘める狂気。
表に出る事のないはずのそれは今彼の言葉に共感し、その重い戸の隙間から彼を見詰めている。
想いは想いに共感する。
触れえぬ場所へと触れた時、ただ呆然と彼を見上げる。
それはもはや現実でありえなかった。
狂える曲が、声が、この場所を舞台に変える。
彼の狂気が役者へと変貌させる。
だから、打ち砕かねばならない。
「黙れ」
小さな体から迸る怒りの声。
全ての歪みを打ち祓い、銀の髪が魔力の奔流に踊る。
裂帛の気合が大気を震撼させ、見守る瞳は凍りつく。
「なればわしに構う物などない」
魔杖レーヴァティンが煌き闇を裂く。
その切っ先を嘲笑する道化に向けて夜気を掻く。
「その狂気が世を惑わさぬうちにわしが刈り取ろう」
「私のこれが狂気ならば……」
一切の音が消えた世界に、朗々とそれは広がる。
「きっと世界は狂気に満ちている事でしょう」
歌劇のような魅せるための大仰な動き。
それが死を運ぶための準備と知ってティアは走る。
矢が放たれる。
ひゅと貫くための音を撒き、大地に突き刺さる。
「月の光は人を狂わせると言います。
ならば、この銀嶺の中で人は等しく狂乱する」
あらゆる建物が、あらゆる大気が、彼の声を響かせる触媒となって空間を支配する。
「願わくば、我が心にもその乱れを」
「不要じゃっ!」
生み出したのは必殺の一撃。
すでに足は地に着かず、中空へと舞い上がる。
「氷槍っ!」
構えた杖の先に蒼の意志。
錐状のそれが大気を引き裂き、悲鳴のような旋律を奏でる。
だが『雑音』の動きは放たれると同じ。
瓦礫の頂から舞い降り、冷たき死の槍はスラムの大地を深く穿つ。
凄まじい轟音の中、夜の大気が混乱の漣を生み出す。
魔力感知はすでに行使していたが、あの男はマジックアイテムを一切持っていないらしい。
ただ、代わりとばかりにスラムのいたるところに魔法の小さな反応がある。
(罠?)
宙に舞ったのも警戒しての事だ。
マジックアイテムはどんな効果を持っているか分からない。
必殺の効果すらありえる。
目まぐるしく視線を動かし《魔弾》を生み出す。
放たずに中空に固定し続いて《浮舟》を詠唱。
軽い衝撃。
《防陣》が防いだのは矢だ。
方向から推測するが姿が見えない。
上空からでは潜み走るアサシンの姿を捉えることは不可能と見て思案。
第ニ撃を待つ。
決定とともに『ひゅぅぅいいいい』と凄まじい音が響き、ティアの服に矢が弾かれる。
音が鳴るように改造された鏃と思考の隅で理解しながら動く影を捉える。
「行けっ」
死の一撃が放たれる。
魔力を追う目は凄まじい速度で、《魔弾》から逃げ続ける影を追う。
(ありえぬ!?)
《魔弾》────コモンマジックで言うマジックミサイルの速度は矢よりも速い。
ならばあれはフェイク。
思うと同時に影に命中。
マントが熱に焦がされ燃え散る。
つまり意識を引かれた。
四方に広がるそれに舌打ち。
一気に下降して投網を避ける。
(どれだけ準備しておるのじゃっ!?)
意識が焦りを感じた。次が読めない。
投網はぶつかり合い追うように落下してくる。
それよりなお早く魔力の翼で地へ降り方向転換、右へ逃げたところに影。
「なっ!?」
詠唱が崩れる。
痛みはないが体を包む光の膜が一気に薄くなる。
それが何だったのかさえ理解する前に圧倒的な質量がティアの体を安易に吹き飛ばす。
いわば今のティアはボールに過ぎない。
自身へ至るダメージは減少したとしても、彼女という個体への慣性の法則は適用される。
「浮舟っ!」
咄嗟に自身のスピードを緩め、《天翼》のベクトルを反対に向ける。
それでも脆くなった木の扉を砕くには充分の衝撃に少女の体は投げ出されるように薄汚い床に転がる。
かろうじてダメージを受けきった防御膜を見て再度《防陣》を展開。
続く呪文を口ずさみ、跳ねる心臓を宥めすかす。
「なんという先読みじゃ……」
呟き、立とうとして絶句。
着いた手が離れない。
「くっ」
視線を走らせる。目立つのは瓶と小麦の袋、鼻につくのは油────
虚ろに開く窓の外を見る。
オレンジの光が飛び込む様を。
咄嗟に大きく息を吸い込み、目を閉じる。
何を願ったか。
何を思ったか。
刹那の空白────────
スラムの一角が吹き飛んだ。