呪印と刀と地味メガネと姉御
その一族に生まれた者は、赤子の時分に呪印を刻まれる。その血に刻まれた罪を、決して忘れることの無いように――
――キーンコーンカーンコーン
録音のチャイムがスピーカーから聞こえ、本日の授業の終了を告げる。広瀬夏樹は自由を取り戻した証明のように大きく伸びをした。高校生活が始まってすでに二か月が過ぎ、クラスにおける各々の立場は定まった感がある。集団を形成する者、孤高を貫く者、気配を消して目立たぬことに腐心する者――それぞれが学校生活を生き抜くために必要な手段を確保すべく、己にできるやり方を模索した結果なのだろう。世にこれだけ自由の価値が高らかと謳われていようとも、学校という名の監獄にはどこか息苦しさが漂い、誰もが少しだけピリピリとしている。
「アーネゴ!」
呼びかけられ、ぼんやりとしていた意識が現実に引き戻される。声を掛けてきたのはクラスメイトの三隈彩未。彼女はなぜか夏樹のことを「アネゴ」と呼ぶ。
「かーえりーましょっ! アネゴ好みのいい店、見つけたんだ!」
かわいこちゃんがいっぱいっすよ? と彩未は悪戯っぽい目を向けた。周囲がじゃっかん訝しい様子でこちらを見る雰囲気を察し、わざと怪しげな言い方をする彩未を軽くにらむ。彼女が言っている『いい店』とは、最近できた猫カフェだろう。
「今日はパス」
鞄に教科書を詰めながら夏樹はばっさりと提案を拒んだ。彩未の表情が驚愕に強張る。
「なんで!? 銀髪ショタを愛でまくりよ!?」
「今日はやることがあんだよ」
確かにロシアンブルーの仔猫を撫でる至福の時には心惹かれるものがあるが、それは今日でなくでもいい。夏樹は顔を上げ、一人の男子生徒に目を向けた。
――鬼無 蓮。
親しい者を作らず、いつも独りで、気配を消してただ学校での時間をやり過ごしている地味メガネ。勉強は中の中、運動は中の下、というところだろうか。特筆すべきところのない、休みであろうと気付かない、そういう男。今日は日直らしく、やる気のなさそうに日誌を書いている。そんなどこにでもいそうな男のことが、ここしばらく、夏樹の心を騒めかせていた。
(あいつ、怪我してねぇ?)
二週間ほど前だろうか、廊下を歩いていた夏樹は鬼無とぶつかりそうになった。直前で止まり、実際にぶつかることはなかったのだが、その際に鬼無は一瞬だけ顔をしかめた、ように見えた。それは何か痛みに耐えるような、そんなしかめ方で、しかし次の瞬間には鬼無は何事もなかったように小さく笑みを浮かべ、「ごめん」と言って去っていった。その後ろ姿は穏やかな拒絶を纏い、夏樹は彼を呼び止めることもできないままその背を見送った。
一度覚えた違和感は消すことができず、夏樹は彼を密かに観察するようになった。もし怪我をしているならその首根っこを掴んで保健室に連れて行かねばなるまい。いや、本来そんなことをする義理はないのだが、彼女は痛みを隠して無理をする人間の姿をよく知っている。そういう人間が辿る結末が、きっと幸福なものではないということも。
鬼無という男を観察し始めると、夏樹の中の違和感はどんどん膨らんでいった。授業で回答を求められたとき、彼は答えたり答えられなかったりする。それは誰にでもあることではあるのだが、彼に関して言うと、それがあまりに偏りなく起こる。現代文であろうが数学であろうが英語であろうが物理であろうが、科目に関係なく彼は同じような割合で答えを間違った。得意なものもなければ苦手なものもない。測ったように平均値。それは運動に関しても同じで、運動能力測定の値はクラスの、あるいは同年齢の男子の平均値にほぼ等しい。そんな人間が実在するだろうか? 彼は普通の男子を懸命に装っている、そう考えたほうがずっと納得できる。しかし、なぜそんなことをする必要があるのだろう? わざと能力のない振りをして、気配を消して、しかし毎日学校には来る。そうしなければならない理由が夏樹にはわからない。だから――今日、本人に問い質そうと決めた。
じっと鬼無の様子を見る。昨日あたりから、どうにも動きがぎこちない気がする。おそらくはまた怪我をしたのだ。服の上からでは確かめようもないのだが、これ以上座視していたら後悔する気がする。
「はっは~ん?」
何かを悟った顔で彩未が頓狂な声を発した。
「そうかそうか、アネゴにも遅い春が来たか。そういうことなら、ワタクシは退散いたしましょう」
明らかに何かを誤解した様子の彩未を乾いた目で見つめる。「おお、こわい」と夏樹から離れ、彩未はにっこりと笑った。
「玉砕したら一緒に行こうね、お店」
夏樹の返事を待たず、ケタケタと笑いながら彩未は身を翻し、教室を出ていく。呆れたように息を吐き、夏樹は立ち上がった。鬼無は日誌を書き終え職員室に向かうようだ。その帰り際に捕まえようと、夏樹も鬼無を追って教室を出た。
「あれ?」
教室を出てすぐ、夏樹はきょろきょろと左右を見渡した。ほんの数秒前に教室を出たはずの鬼無の姿がない。日誌を持って職員室に向かったはずなのに、職員室へと続く廊下には誰もいなかった。そんなバカなことがあるだろうか? 実は異常に足が速い、とか?
「いやいや、ありえねぇだろ」
思わずそう独りごちる。仮に教室を出てすぐ全力で走ったとしても、気配も残さず姿を消すなど不可能だし、全力疾走する理由もない。担任に一刻も早く日誌を届ける使命感に燃えているはずもないだろう。混乱する頭を首を振ってなだめ、冷静さを取り戻す。とりあえず職員室に行けばいいはずだ。彼の目的地も職員室であることに変わりはない。呼吸を整え、夏樹は早足で職員室に向かった。
「もう帰った!?」
担任の言葉に夏樹は思わず信じられないと声を上げた。鬼無はすでに担任に日誌を渡して帰ったというのだ。人の好さそうな中年男、といった風情の担任を夏樹は口惜しそうににらむ。この男が鬼無に雑談でも仕掛けてくれていればここで追いつけたのに。夏樹の視線に怯えるように担任は肩を震わせた。
「な、なに? 鬼無に何か用なの?」
じゃっかん怯えるような口調の担任に「失礼します」と告げ、夏樹は職員室を出る。その背を見送り、担任はぽつりとつぶやいた。
「青春、だなぁ」
正門を出て、夏樹はわずかに乱れた息で左右を見渡した。足の速さにはそれなりの自信がある。職員室から走ってここまできた以上、鬼無が姿を見失うほどすでに遠くに行っていることなどありえない。ありえない、はずだったのだが――
(なんでどこにもいねぇんだ!)
苛立ちに地面を蹴る。下校途中の生徒たちがギョッとした表情で夏樹を見やり、そそくさと逃げていった。ギリリと奥歯を噛む。鬼無が向かったのは右なのか左なのか。右に行けば商店街、左なら住宅街だ。まっすぐに家に帰るなら左、どこかに寄り道をするなら右の可能性が高いが、鬼無が放課後にどう過ごしているのか、その情報を夏樹は持っていない。
「くそっ! ぜってぇ見つけてやる!」
小さく吠えて夏樹は右の道へと駆け出した。彼がこちらに行ったという確証など何もないが、少なくともここにいては彼を捕捉できない。鬼無の住所を知っているわけではないから、この選択はただの消去法に過ぎない。勘と運にすべてを託して夏樹は走る。歩道を全力で走る女子高生の姿に周囲が「何事か」と言いたげな視線を投げかけた。そんな視線を振り切るほどに、夏樹の胸には焦燥に似た感情がある。
――私は大丈夫だよ
頭の中に懐かしい声が聞こえる。夏樹は知っている。世の中には二種類の人間がいる。頼ることができる人間と、頼ることができない人間。頼ることができない人間は、何も言わずに笑って、全部ひとりで抱えて、残された者の気持ちを考えない。こちらがどれだけ大切に思っていたのかを想像してもくれない。そうだ、今、わかった。なぜ鬼無のことが気になるのか。彼は、同じ匂いがする。
「私から逃げられると思うなよ!」
険しい顔で行く先をにらみつけ、夏樹はさらに走る速度を増した。
「見つけた!」
商店街の端、もはや所有者も分からない廃ビルの影に鬼無の後姿を認め、夏樹は拳を握る。鬼無はガラの悪い数人の高校生に囲まれ、廃ビルに連れ込まれようとしているようだ。鬼無と他の連中の関係は分からないが、仲の良い友達という雰囲気ではない。友達でもない人間に囲まれて廃ビルに連れ込まれる、というワードで楽しげな未来は想像できまい。つまりは、鬼無は連中に危害を加えられている可能性が高い。それも今回だけではなく日常的にだ。抵抗もせず廃ビルに入る鬼無の様子がそれを証明している。そう考えれば、彼が怪我をしている理由も、それをひた隠しにしている理由も合点がいく。
「くだらねぇことしやがって!」
怒りを滾らせて夏樹は廃ビルに駆け込む。内装をはがされコンクリートがむき出しになった寒々しい景色の中で、着崩した学ラン連中に鬼無が囲まれていた。
「おい、お前ら! 何やって――」
夏樹の怒声は尻すぼみになり、途切れて音を失う。目の前の光景を信じることができずに足が止まる。鬼無を囲む学ランたちの身体が盛り上がり、弾け、人の形を失っていく。鬼無が驚きの声を上げて振り返った。
「広瀬さん!? どうしてここに!」
鬼無の声には明らかな焦りがある。学ランたちは一人を残してその全てが異形――土気色の肌に黄ばんだ乱杭歯を持ち、ガリガリに痩せて肋骨が浮き出た、眼球を持たず落ち窪んだ目の奥に禍々しい赤い光だけが浮かんだ何か――に変じた。この化け物には見覚えがある。そう、近所の寺に行ったときに見た仏画に描かれていた、餓鬼と呼ばれる化け物にそっくりの姿だった。
「……想像してたんと、違った」
呆然と夏樹はつぶやく。餓鬼の一匹がこちらを振り向いて「ケケケ」と笑った。背筋を怖気が走る。
「逃げて、広瀬さん!」
切迫した鬼無の叫びに我を取り戻し、夏樹が身を翻す。同時に二体の餓鬼が夏樹を追って地面を蹴った。
「罪業滴り獄炎刃と為す。出ろ、烏枢沙摩」
鬼無が自らの左胸に握りこんだ拳を当てる。拳が赤黒く光を放ち、苦悶の表情を浮かべ、うめき声を上げながら、鬼無は何かを引き抜くように腕を振った。身体から引きずり出されるように彼の手には一振りの日本刀が握られている。炎のような刃紋を持つ黒い刀身は彼の血を啜って仄かに赤く光を放っていた。
「そいつが鬼無一族の『呪怨刀』か? なるほど、イヤな空気がビンビン伝わってくるぜ。そいつで俺らの仲間をどれだけ殺してくれたんだ、なぁ?」
正面にいる、おそらくはリーダー格の男がにやついた顔で言った。数に勝る、そのことが余裕を与えているのだろう。鬼無はつまらなさそうに小さく鼻を鳴らす。
「安心しろ。貴様もすぐに後を追わせてやる」
囲まれているにもかかわらず、鬼無に動揺の気配はない。クククと喉の奥で笑い、リーダー格の男は楽しげに言った。
「その余裕、いつまでもつかな?」
その声を合図にリーダー格の男以外の男たちが正体を現す。輪郭がねじれ、ゆがみ、人の形を失っていく。餓鬼――この世にいてはならない異形、その最下位に属する者どもだ。何十、何百と数がいればともかく、この程度の数なら問題にならない――
「おい、お前ら! 何やって――」
突如聞こえた声に鬼無は思わず振り返った。そこにはクラスメイトの女子が、驚きに目を見開いて立っている。
「広瀬さん!? どうしてここに!」
鬼無の問いかけに、広瀬夏樹は答えず、ただ立ち尽くしている。それはそうだろう、彼女はごく普通の一般人だ。異形の姿を見て平静でいられるはずがない。でもなぜ、彼女がここに? いや、そんなことはどうでもいい。今はとにかく、彼女を逃がさなければ――
「逃げて、広瀬さん!」
呪縛を解かれたように夏樹は身を翻す。同時に二体の餓鬼が彼女を追って地面を蹴った。
「行かせるか!」
鬼無は鋭く踏み込んで餓鬼との距離を詰め、刀を横薙ぎに払った。二体同時に餓鬼の胴が上下に分かれ、炎に灼かれて瞬時に灰となり、形を残さずに消える。広瀬夏樹はその隙に廃ビルから無事逃げ出したようだ。鬼無はわずかに安堵の息を吐く。次の瞬間、彼の脇腹に熱い感覚があった。
「この状況で俺に背中を向けるなんて、実は、バカなのか?」
鬼無の脇腹には錐のように鋭く伸びた爪が刺さっている。口から血が溢れだし、鬼無はその場に片膝をついた。
喉がひりつく。肺が悲鳴を上げている。全力で足を動かし、夏樹は逃走している。
(なんだよアレ。なんなんだよアレ! 冗談だろ、冗談じゃねぇよ!)
涙目になりながら夏樹は心の中で「ありえない」と繰り返す。
(あんなん無理だろ。人だと思ったら化け物でしたって? いやいや、そういうのフィクションだから。現実にはないから! あんなん死ぬから! ぜったい死ぬから!!)
自分のつぶやきにハッと気づかされ、夏樹は足を止めた。勢いを止めるために踏ん張った靴がジャリジャリと地面を削る。
「……死、ぬ……?」
そう、死ぬのだ。あんな化け物を相手にすれば。誰だって死ぬ。私だって、鬼無だって。
「……死にたく、ない」
まだ十五年しか生きていない。これからのことなんて考えたこともないけれど、今終わることは想定していない。漠然と未来はあると信じていた。当たり前のように大人になるのだと。
「……死にたく、ねぇよな?」
夏樹は廃ビルを振り返る。あの場所にはまだ化け物と、鬼無がいる。足が震える。冷たい汗が背中を伝う。戻りたくない。あんな化け物、二度と見たくない。それでも――あの場所にはまだ、鬼無がいる。
――バシンッ
夏樹は自分の頬を自分の手で叩いた。怖気づいてる場合じゃない。今、この瞬間にも鬼無は死んでしまうかもしれない。「逃げろ」と言ってくれた彼を見殺しにしていいはずがない。
「死なせらんねぇだろ」
身体中から勇気をかき集めるように、夏樹は大きく息を吸った。
「死なせて、たまるかぁーーーっ!!」
鼓舞するように天に吠え、夏樹は廃ビルに向かって全力で走り始めた。
「おぉ、すげえな」
リーダー格の男がニヤニヤと嫌な笑いを浮かべたまま、感嘆の声を上げた。鬼無は荒く息を吐き、その額にはじっとりと脂汗が滲んでいた。彼の周囲の床には黒い灰が薄く降り積もっている。さっきまで餓鬼だった者の、それがなれの果てだ。
「腹に穴開けてそんだけ動けりゃ本物だ。今までに何体殺してくれたのか知らないが――」
リーダー格の男の身体がゆがみ、膨張し、バキバキと音を立てて形を変える。鬼無の顔が驚愕を示した。人の形を完全に失ったその異形は、牛の頭を持つ鬼――
「――阿傍羅刹!」
牛頭の鬼は舌なめずりをして、その巨体から鬼無を見下ろした。
「お前を殺して食えば、さぞ美味いだろうぜ」
鬼無の腹の傷口がじくと痛み、血がにじむ。ぐっと奥歯を噛み、阿傍羅刹をにらみ上げて鬼無は強く刀の柄を握った。
暴風のような圧力を伴って阿傍の蹄が振り下ろされる。鬼無は横っ飛びにそれをかわした。打ち据えられたコンクリートの床に蹄の痕が刻まれ、破片が飛び散る。転がった勢いを利用して鬼無は器用に立ち上がり体勢を整えた。床に血痕が這う。
「憐れだよなぁ。お前の一族はよぉ」
侮蔑と嘲笑を乗せ、阿傍が鬼無に笑いかける。
「『呪怨刀』はお前の血を啜ってんだろ? 使えば使うほど命を削ってんだ。誰に知られることも、誰に褒められることもなく、お前らは戦って死んでいく」
「黙れ」
冷たく射抜くような目の鬼無をバカにするように「まあそう言うなよ」となだめ、阿傍は言葉を続ける。
「戦うことしか許されねぇ。逃げることも、愛することも、未来を望む権利すらねぇ。お前らはこの世に何も残せねぇ。可哀そうになぁ。しかもそうなった理由が、バカな先祖の尻ぬぐいなんだからよぉ」
左胸に刻まれた呪印が鋭く痛み、鬼無はわずかに顔をしかめた。その様子に意を強くしたのか、阿傍はさらに言葉を重ねた。
「『鬼』の『無』き世を願うゆえに『鬼無』ってか? バカらしい。もう諦めろよ。全部投げ捨てちまえばいいじゃねぇか。どうしてお前らばかりが責められなきゃならねぇ。先祖が何をしたところでお前らのせいじゃねぇだろ? お前らが必死になって助けてるそこいらの人間は、お前らのことなんざ何一つ知らねぇじゃねぇか。それなのに戦う理由がいったいどこにある?」
呪怨刀『烏枢沙摩』の刀身が赤く炎を放つ。鬼無は燃える刀の切っ先を阿傍に向けた。
「貴様らをすべて斬れば、僕たちの役目は終わる」
阿傍はカカカと声を上げて嗤った。
「夢見てんじゃねぇよ。俺たちがこの世から消えることはねぇ。なぜなら俺たちは、『人の業』そのものだからさ」
鬼無は呼吸を整える。阿傍は余裕の笑みで鬼無を見ている。刀身の炎が輝きを増し――鬼無は阿傍に斬りかかった。
すねを狙った横薙ぎの斬撃をかわし、阿傍は鬼無を踏みつけようと大きく足を上げる。一歩下がってそれを避けた鬼無を砕かれた床の破片が襲い、追撃の気勢が削がれた。一拍の隙が生まれ、阿傍は右腕をハンマーのように振り下ろす。たまらず鬼無はさらに後退した。阿傍の右の蹄はコンクリートを深く穿ち、めり込んだ手を引き抜くためにほんのわずかの時間が生まれた。攻守逆転の機会を得て鬼無が再び阿傍に斬りかかる。阿傍がニヤリと口の端を上げた。
(しまっ――)
鬼無の右側頭部を、明確な死の気配を伴って、鋭利に尖った牛の尾が狙う。同時に鬼無の耳に、ひどく場違いな雄たけびが届いた。
叫ばなければ心が折れる。足を止めれば動けなくなる。この目の前の不条理な現実に膝を屈する前に、届かなければ意味がない。だから叫ぶ。だから踏み出す。
「うおぉぉぉーーーー―っ!!」
目の前で鬼無が化け物と戦っている。とても戦いに向くとは思えない華奢な身体で死と対峙している。化け物の右手が床を穿つ。鬼無が斬りかかり、彼の死角から牛の尾が迫る!
「と・ど・けぇーーーーっ!!」
夏樹はとっさに地面を蹴り、飛びつくような形で鬼無に身体をぶつけた。思わぬ方向からのタックルは彼の身体を吹き飛ばし、命を奪う牛尾の一撃が空を切る。もつれあうように倒れた鬼無は何が起こったか理解できないように目をしばたたかせた。夏樹は気合の咆哮を上げてすぐさま立ち上がり、鬼無を横抱きに抱えて全力で逃走を始める。
「ひ、広瀬さん? どうして!?」
いるはずのない同級生の女子が自分を抱えて走っている状況に混乱した様子で鬼無は言った。夏樹は返答する余裕もなく顔を引きつらせて走り続ける。
「逃げろって言ったろ! どうして戻ってきたんだ!」
「うるっせぇーーーっ!!」
怒ったような鬼無の声をさらに大きな夏樹の怒声が遮る。
「冷静になったらせっかく搔き集めた勇気とか覚悟とか全部ぶっ飛んでくんだよ! こちとら怖くて泣きそうなんだよ! 何なんだあのバケモン! バーチャルリアリティですか? バーチャルリアリティだと言って!」
うっすらと目に涙を浮かべて夏樹は叫ぶ。背後からは阿傍が追いかけてくる足音が聞こえる。勝利を確信しているのかその足は相当に遅い。じっくりと追い詰め、なぶり殺す腹積もりだろうか、などと考えるとさらに泣きそうになる。鬼無はムッとした様子で夏樹に反論した。
「だから、怖いんなら逃げればよかっただろ! どうして戻ってきたんだ!」
「お前が逃げねぇからだろうがぁーーーっ!!」
意外な言葉を聞いた、というように鬼無は言葉を失った。それに気付かず夏樹はさらに叫ぶ。
「あんなバケモンに高校生が素手で――」
ふと鬼無の手にあるものに気付き、夏樹は目を剥いた。
「じゅ、銃刀法違反ん―――っ!!」
「そこは今は目をつむって!」
脱線する方向を修正するように鬼無が夏樹を制する。我に返ることを恐れる夏樹は路線を戻した。
「私がこえぇんならお前もこえぇだろうが! だったら私だけ逃げらんねぇだろうが! 察しろ! この複雑な乙女心をぉーーーっ!」
鬼無は珍しい生き物を見る目で夏樹の横顔を見つめる。夏樹はゼイゼイと息を切らしながら走り続けている。鬼無はふっと笑った。
「何笑ってんだてめぇーーーっ!!」
怒る夏樹に「ごめん」と謝り、険の取れた表情で鬼無は頼んだ。
「降ろしてくれる?」
「今止まったらもう走れません!」
身体が疲労を思い出せば動けなくなる。しかし鬼無はその心配を打ち砕く一撃を繰り出した。
「同級生の女の子にお姫様抱っこされるのは、さすがに恥ずかしいんだ」
あっ、と小さく声を上げ、夏樹は今の状況を客観的に認識した。化け物うんぬんを横に置けば、夏樹は同級生の男子をお姫様抱っこして走っているわけだ。これどういう状況? 略奪愛? 略奪愛ですか?
「てめぇで走れやド畜生がぁ!!」
「急にひどい」
羞恥に頬を染めた夏樹が半ば放り投げるように鬼無を解放する。ズザッと音を立てて鬼無はコンクリートの床を滑り転がった。体力の限界を迎えた夏樹が地面に座り込み、天井を仰いで荒く息を吐いた。
「広瀬さん、聞いて」
ずれた眼鏡を直しながら立ち上がり、鬼無は真剣な目を夏樹に向けた。その声音の持つ深刻さに飲まれ、夏樹は無言でうなずく。
「信じられないだろうけど、あの化け物は『鬼』だ。放っておけば人を喰う。ここで斬らなければ沢山の人が命を奪われる」
戦いの意志を示す鬼無の腹部は赤黒く染まり、平気な顔の額はじっとりと汗ばんでいる。夏樹は迷いながらも彼の言葉を遮った。
「でも、お前、怪我してんじゃん。そんなんで戦っても」
「うん。僕一人じゃあいつに勝てない」
鬼無は夏樹の目を覗き込む。吸い込まれるように夏樹は鬼無の目を見つめ返した。
「だから、力を貸してほしい」
鬼無の提案に夏樹はぽかんと口を開けた。力を貸す、って、一緒に戦えってこと? いや、急にそんなこと言われても、ほら、いろいろ準備とか。
「た、戦うとか、無理じゃね?」
「大丈夫。必ず勝てる」
自信ありげに断言し、鬼無は犬歯で親指を噛んで血を滲ませ、刀身に擦り付けた。血を得た呪怨刀が帯びた光を強める。鬼無は刀を夏樹に向かって差し出して言った。
「僕を、信じる?」
もう何年も前に打ち捨てられた廃ビルの中は壁が取り払われてコンクリートの柱だけが等間隔に並んでいる。だが、おそらくは解体の途中で資金が尽きたか何かなのだろう、解体用の機材や廃材などがあちこちに放置され、視界を遮るものは意外と多い。ゆっくりと歩みを進めながら、阿傍は姿の見えぬ鬼無に声を掛ける。
「そろそろ出てきてくれよ。それとも、鬼相手に隠れ鬼、なんてシャレのつもりか?」
出てこい、という割に、阿傍の足の運びには迷いがない。おそらく血の匂いをたどり、鬼無のおおよその位置を把握しているのだろう。柱の陰に隠れながら、鬼無は阿傍に向かって声を張り上げる。
「悪いが、鬼が気に入るシャレなんて考えつかないな」
言うと同時に鬼無は柱の影から飛び出し、別の柱の陰に走る。阿傍が大きく息を吸いこみ、鬼無の隠れていた柱に向かって強く吹き付けた。コンクリートの柱が容易く折れ砕け、破片が散らばる。飛び散った破片が鬼無の顔をかすめ、眼鏡を弾いて落とした。
「無理するなよ。腹の傷はふさがってねぇだろ? 食欲をそそるいーい匂いがここまで届いてるぜ」
舌なめずりをして阿傍が鬼無のいるほうに向きを変える。鬼無は再び柱の影から声を上げた。
「鬼に心配される謂れはない」
阿傍が手近にあった放置された鉄骨を掴み、勢いよく投げつける。鬼無は素早く別の柱の陰に飛び込んだ。鉄骨はコンクリートの柱を砕き轟音を立てて転がる。
「どうせ喰われて死ぬ運命だろう? 諦めて出て来いよ。苦しまずに死ねたらそのほうがいいだろうが、なぁ?」
阿傍が歯をむき出しにして下衆な笑みを浮かべる。すでに鬼無を喰うことを想像しているのだろうか、口からはよだれが滴って地面に落ちた。ジュッと何かが焼ける音がして地面から酸性の不快な臭いが立ち上る。
「もう分かってんだよ。お前、呪怨刀を持ってないだろ? さっきの女に渡してんだ。で、女は俺の後ろに回って、俺を斬る機会を窺ってる。浅はかな作戦だよなぁ。呪怨刀の気配なんざ目ぇつむってても分かるぐらいビリビリ感じてんだぜこっちは」
心の底から蔑むような目で阿傍は鬼無が隠れている柱を見る。逡巡を示すわずかな沈黙の後、鬼無は観念したかのようにゆっくりと柱の陰から姿を現した。阿傍が意外そうに笑う。
「ようやく勝てねぇと悟ったか? そうさ、人間は鬼には勝てねぇ。さっさと諦めて来世に期待するのが賢明ってもんだ。そう思うだろ、姉ちゃんよぉ」
阿傍が振り向きざまに腕を振る。弾き飛ばされた空気の塊が天井を砕き、夏樹の隠れていた場所の真横にコンクリート片が落下する。小さく悲鳴を上げ、夏樹はおずおずと阿傍の視界に身を晒した。その顔は血の気を失い、自分を支えるように抜き身の呪怨刀を抱きしめている。もはや正常に意識を保てていないのか、覚束ない足取りでフラフラと横に移動する。
「安心しろよ。お前らの仲を引き裂くようなマネはしねぇ。二人仲良く喰ってやるから、浄土だか天国だかで睦まじく暮らしなよ。そんなものがあれば、の話だがなぁ」
鬼無はうつむき、小さく肩を震わせる。夏樹はフラフラと移動する。阿傍が足を踏み出し、鬼無の前に立った。愉悦を浮かべる牛頭が大きく腕を振り上げ――鬼無、阿傍、夏樹の三者が直線状に並んだ。
「死ねや」
「広瀬さん!」
阿傍の終わりを告げる声と、鬼無の未来を手繰る声が交錯する。夏樹は抱いていた呪怨刀を空中に放り投げた。間髪を入れずに鬼無は叫ぶ。
「来い! 烏枢沙摩!」
呼び声に応え、呪怨刀が迅雷の速さで一直線に鬼無を、その呪印を目指して空を裂く。その間にある全てを貫いて。
――グォァァァァーーーーッ
この世のものとも思えぬ咆哮を上げ、阿傍が目を血走らせる。己の背から胸を貫いた刀の切っ先を見つめ、しかし歯をむき出して嗤った。
「よぉく考えた、と褒めてやりてぇが、猿知恵だったなぁ! 呪怨刀は鬼無の血を啜ってこそ力を発揮するんだろ? お前が握って斬ってくれなきゃ、俺を殺す威力は出せねぇよなぁ!」
「よく知ってるな。だが――」
鬼無は素早く両手で印を結び、鋭く呪を放った。
「浄炎以て悪業を断つ! 滅せよ!」
烏枢沙摩がその刀身から赤き憤怒の炎を上げ、阿傍は身の内から焼かれる。
「――術の一つ分の力を塗りこめるくらいはできる」
やがて阿傍の全身が炎に包まれ、その輪郭が崩れ始めた。不浄を灼くかすかな蓮の花の香りが広がる。
「バカ、な――俺が、お前らみたいな、カスに――」
浄化の火は鬼の身を焼き、骨を焼き、その断末魔も、影すら焼き尽くして消えた。この世ならざる者にはわずかな痕跡も許さぬと、そう言うように。烏枢沙摩がカランと音を立てて地面に落ちる。同時に夏樹は糸が切れた人形のように地面に座り込んだ。
「し、しぬかとおもった」
夏樹が呆然とつぶやく。鬼無は大きく息を吐き、緩慢な動作で烏枢沙摩を拾うと、刃の切っ先を自らの胸に当てた。刃が光を放ち、吸い込まれるように鬼無の身体の中に消えていく。彼が刀を納めた、ということは、戦いが終わったのだということを示している。夏樹はもう一度つぶやいた。
「じぬがどおぼっだぁーーー」
涙と鼻水が同時に出る。生き延びたという安堵が先ほどまでの恐怖を思い出させ、いまさら身体がガタガタと震え始めた。別に特別何かをしたわけでもないが、そもそもあんな化け物の前に立っているだけで怖いに決まっている。だから泣こうが鼻水を垂らそうが誰からも文句を言われる筋合いはない。
鬼無は突然泣き出した夏樹に驚いた様子で、慌てて彼女に駆け寄ると、どうしたらわからないと言うように無意味に手を動かした。
「ご、ごめん、泣かないで」
「むーりーだー」
夏樹の涙も鼻水も止まることを知らず、鬼無は自分のポケットをまさぐってハンカチとポケットティッシュを探り当てた。その両方を視界に収め、一瞬考えるような表情になり、鬼無は夏樹にポケットティッシュを渡した。夏樹は泣きながらそれを受け取り、思い切り鼻をかむ。鬼無は自らの判断の正しさを確信したように拳を握った。
「こんなんおかしーだろー。ばけもんとかいちゃダメだろー。だれだってなくわー。ゆめにみるわーもー。トラウマなるわーもー」
ようやく涙の勢いが止まり、時折しゃくりあげながら、夏樹はようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだ。誰に対して言っているのか、ひたすらに不平を並べているようだが、体の震えはすでに止まっていた。ぐずぐずと鼻をすすり、夏樹は初めて存在に気付いたように鬼無の顔をまじまじと見る。急に見つめられ、鬼無が戸惑いを顔に浮かべた。
「……眼鏡外したら美少年とか、ベタな設定背負ってんじゃねーぞ」
何を言うかと思えば、と鬼無は脱力したようにうなだれる。しかしすぐに顔を上げ、
「設定を背負ってるつもりはないけど」
鬼無は少し意地悪な表情を作った。
「美少年だと思ってくれたなら、僕は広瀬さんの好みに合致してるってこと?」
鬼無の言葉の意味を把握しそこねたのか、夏樹はぼんやりと彼を見る。だが、その意味が脳に浸透するに従い、彼女の顔は徐々に赤みを帯びる。
「だんっじて、違う!」
まなじりを吊り上げる夏樹に、鬼無はこらえきれない様子で吹き出し――腹部の痛みに小さく呻いた。夏樹はハッと息を飲む。
「おい、大丈夫か!?」
軽く手を上げて夏樹を制し、「大丈夫」と鬼無は微笑んだ。そこには静かな拒絶が、立ち入りを禁ずる境界線がある。夏樹の顔に苦しげな色が浮かぶ。
「巻き込んで、ごめん。でも本当に助かった。きっと僕一人じゃ勝てなかった」
鬼無は夏樹に頭を下げる。夏樹は慌てて首を横に振った。
「やめろよ。ぜんぜん大したことはしてねぇし」
「そんなことないよ」
顔を上げ、鬼無は夏樹をまっすぐに見つめた。
「戻ってきてくれたでしょう? さっきはどうして戻ってきたんだって言ったけど、嬉しかった。戦う意味を思い出させてくれたから」
夏樹はわずかに眉を寄せる。
「戦う、意味?」
鬼無は大きくうなずく。
「僕は、あなたみたいな人を助けたかったんだ。普通に生きている善良な人たちを守りたいと思ったんだ。誰かの苦しみに共感できる、悲しむ人に手を差し伸べることができる、そういう人たちを、鬼なんかに奪われてたまるかって」
鬼無は居住まいを正し、もう一度夏樹に頭を下げた。
「だから、ありがとう」
夏樹は鬼無の言葉に口ごもる。この「ありがとう」はたぶん、別れの言葉だ。この後に「さよなら」が続くような、そういう言葉。夏樹は表情を険しいものに変えて口を開く。
「どうして、お前が戦う――」
都合の悪い問いを遮るように鬼無は勢いよく顔を上げ、夏樹の顔の前に人差し指を差し出した。その爪の先に小さな火がともる。夏樹は思わずその火を見つめた。なぜだろう、目が、離せない。
「化け物なんていちゃダメだってさっき言ったよね? その通りだ。あんな化け物はこの世にいてはいけない。化け物なんていないんだ。今までも、これからも」
鬼無の声が、なぜか反響して聞こえる。視界が徐々にぼやけていく。
「だから、今日見たことは全て夢だ。鬼も、クラスメイトが刀を持って戦っていたことも、全部夢。少し怖い夢を見ただけだよ。目が覚めたら、何も怖くはないんだ」
夢? 夢、だったのだろうか? 確かに、鬼だのなんだのなんて、いるはずが、ない。高校生が、刀を振り回したら、捕まる、だけだ。高校生が、化け物と戦って、勝つとか、バカバカしい……あれ? でも、鬼無は、怪我して――
「お前、は、どう――」
混濁する意識の中、夏樹は鬼無の腕を掴む。鬼無は夏樹の手に手を重ね、
「僕は、大丈夫」
そう言ってそっと夏樹の手を離した。ゆがみ、回る世界の中で、その言葉が夏樹の中に鮮明に響く。
――私は大丈夫だよ
鬼無の言葉に懐かしい声が重なる。遠ざかる意識をつなぎとめるために夏樹は強く奥歯を噛み締めた。
(ふざっけんな! 大丈夫じゃないから、大丈夫じゃなかったから! 私は――!)
揺らめく火が意識を侵食し、今日の記憶を焼き尽くそうとしている。抗いがたい力に抗うように夏樹は声にならない言葉を叫んだ。頭の中心で何かが弾ける音がして――夏樹はそのまま意識を失った。
――キーンコーンカーンコーン
録音のチャイムがスピーカーから聞こえ、本日の授業の終了を告げる。夏樹は自由を取り戻した証明のように大きく伸びをした。
「アーネゴ!」
呼びかけに応えて振り返る。声を掛けてきた彩未は、どこか遠慮がちに言った。
「……今日は、思う存分仔猫を愛でましょう。私がおごりますから」
つまりは玉砕したと思っている、ということなのだろう。半眼で睨み、席を立つと、夏樹はスタスタとクラスメイトの鬼無蓮の机に向かう。少しゆがんだ眼鏡をかけた鬼無は、座ったまま怪訝そうな顔で夏樹を見上げる。夏樹は挑むように鬼無を見下ろした。
遠い遠い昔の話。愚かな男が愚かな願いを叶えるために、愚かにも鬼をこの世に呼び出した。
「な、何か用? えっと、広瀬さん?」
鬼は愚かな男を喰い殺して自由を得、この世の各地に散らばったという。
「めんどくせぇのはやめにしようぜ。時間の無駄だから」
愚かな男の血縁は、愚かな男の罪を贖うため、鬼を討滅する運命を負った。その一族に生まれた者は、赤子の時分に呪印を刻まれる。穢れた血を力へと変え、世を鬼から守るために。しかし数百年の時を経ても鬼の討滅は成らず、愚かな男の一族は過酷な戦いの生を、その果ての死を、強いられ続けている。
「記憶力はいいほうでね。忘れろったっておとなしく忘れるような可愛げはないんだ」
鬼無は信じられないものを見るように目を見開く。夏樹は、バン、と鬼無の机を叩き、彼にぐっと顔を近づけた。
「話せ。お前が抱えてるもん、全部」
新たな歯車を得て、運命が、動き始めていた――