登校
雨が降っている。雨が降っている。
深深と雨が降っている。
意識が朦朧とする。体が揺れている。地震だろうか、誰かに呼ばれる声がする。
「おーい、コハク起きろ。遅刻するぞ」
「ん〜、、あと5分〜」
何も考えず反射的に答え寝返りを打ち、淡い桜色の枕に頭を埋めて声を背にする。うっすら目をあけると勉強机の上のぬいぐるみが視界に入る。5歳の誕生日にお兄ちゃんから貰った蛙のぬいぐるみだ。手触りが良く、これを抱いて寝ると目覚めが良くなる。今日の寝起きがわるいのはゲコゲコがなかったからだろう。
「カッコいいおにぃちゃんがやさしく起こしてやってんだから早う起きろ〜」
再び地震が起こった。かなり揺れている、こっちが本震だったのだろうか。揺れる時間が先ほどより長い気がする。まだ覚醒していない意識の中『これは夢、これは夢』と心の中で唱え桃色の毛布を頭まで被る。
「残念、ここは夢ではないぞ。今は午前8時18分9月31日月曜日だ。早くしないと遅刻するぞ。可愛い可愛い妹よ」
兄貴のウザい声がする、心の中で呟いたつもりが外に漏れ出ていたようだ。なんとなく腰に両手を添えて胸を張っている姿が想像できた。あれ?兄貴は遅刻する?とか言わなかったか?外はこんなに暗いのに遅刻なんてするはずない…不安のせいだろうか、心臓の鼓動が少し早くなる。
「兄貴、今なんて言った?」
「可愛い可愛い妹よ。」
「その前」
「早くしないと遅刻しちゃうぞ⭐︎」
「今何時?」
「午前8時18ふ…」
終わる前に勢いよく起き上がり部屋を出た。ドアプレートがドアに打ち付けられカラカラと音をたてている。外は雨なんだ。暗くて当然だ。雨雲が太陽を隠しているからだ。階段を駆け降り残り3段の所で飛び降りた。学校は8時半に点呼が始まるこれに間に合わないと反省文5枚と生徒指導の説教のアンハッピーセットだ。学校まで走って10分、ぎり遅刻するかしないかの瀬戸際。兄貴へのイライラを募らせながら、洗面台で顔をバシャバシャ洗い、歯を磨きながらミストボトルで化粧水をつけて、玄関を勢いよく駆け出た。ドアが閉まっていく途中から兄貴が何か言ってるのが聞こえたがそれどころじゃない。カバンすら持たず学校へ全力疾走で忙しいのだ。今日はテスト初日、提出物は放課後に家に取りに帰って提出すればいい。筆記用具は誰かから奪うとして、問題は学校に間に合うかどうか。間に合ってくれ。祈るように叫んだ声は雨音に乱されかき消された。
雨は体の体温を奪っいく。雨で湿った髪の毛が束となり重力の影響を受けて重く揺れている。一方、服は水気を帯びて靴は重くなり足の感覚がじわじわと寒さに侵食されていく。地面には水溜りがあちらこちらにありいつ滑ってこけてもおかしくない。恐ろしい。とはいえ、テストがあるので遅れるわけにはいかない。そして遅刻は出来ない。休むことなど論外。コハクが通う北第一中等学校ではいかなる理由があろうとテストを受けなかったら0点になるクソ仕様だ。追試ぐらい用意しろと切実に思う。やはり学校選びは失敗だった。制服が可愛く家から近場であるなどという安直な理由で選んだのが間違いだった。過去の選択に後悔しつつ腕をめいいっぱい振って走る。
間に合った。結論から言うとコハクは学校に間に合った。8時29分に校門に着いた。1分もあれば教室まで余裕なので8時半の点呼には間に合う予定だった。だがコハクがいるのはテストを受ける教室ではなく生徒指導室だ。正確に言うと生徒指導室と言う名の説教部屋だ。コハクはこの部屋を地下牢獄と呼んでいる。もちろん今適当に名付けたのでこの事を知っているのは人類でコハクただ一人だろう。ここは教室棟2階【地下】と付けるだけでダークな雰囲気になるから何となく付けている。これが意外としっくり来る。やはり【地下】には男の夢が詰まっている。コハクは女の子であるので正確には女の子の夢だ。ただコハクは将来の夢は何もない。あるのは冷たい現実だけだ。ここでの冷たいは多少の融通も聞かない先生と雨に濡れた私の体だ。ツッコミ役がいれば座布団一枚ほど持ってきてくれそうだが。知辛い世の中だ。目の前には竹刀を床に叩きつけ、務所にいそうな強面の教師が何か言っている。あまりに大きな声なので全く頭に入ってこない。馬が念仏を聞く気持ちが今なら分かる。馬ならテストを受けなくていいのにと無駄なことを考える。テストは8時45分からなのでそれまでには終わって欲しいと思いながら男の話を適当に流しつつ適度に相槌を打つ。
「全く、今日はテストと言うのに。その格好は何だ?」
急に一方的な説教から問いが飛んできた。
「パジャマです。」
そう、私は可愛い制服に着替えず可愛い寝巻きで登校していたのだ。素直に答えていて恥ずかしさが込み上げてくる。顔は熱を帯びて赤く染まっているかもしれない。髪の毛先から水滴が滴り落ちる。早くタオルが欲しい。せめて雨で濡れた髪の毛はどうにかしたい。髪は私の命だ。いや命より大事だ。
「そんなふざけた格好で学校に来てもいいと思ってるのか?」
っと先生の怒鳴り声が私の思考を遮る。思う訳ないだろ。と心の中で思いつつ「思い…ません。」と反省を装って答える。後半部分の声のトーンを少しさげるのがポイントだ。下を俯いていると扉の開く音がする。
入ってきたのは現代文の先生だ。
「水尾先生、生徒も反省しているようですしもうすぐテストが始まります。テストだけでも受けさせてあげませんか?説教が足りないなら私が後できつく言い聞かせます。なんでしたら反省文も倍にしますので」
「川西先生がそうおっしゃるなら、まあ仕方ありません。おい、川向コハク次の遅刻はこうはいかないからな。反省文10枚きっちり書いて明日職員室まで持ってこい。いいな。」
「はい。」
私は情けない返事しか出来なかった。説教していたちょめちょめ先生は10枚の原稿用紙を渡し部屋から出て行った。コハクが教室へ向かおうとすると、現代文の先生が話しかけてきた。
「びしょ濡れですね。本当は保健室でジャージに着替えて欲しいのですが、時間がないので教室に直行してテストを受けて下さい。一限目は現代文です。必ず受けて下さい。一限目が終わったら保健室へ向かって下さい。いいですか?」
「はい。」
私は情けない返事しか出来なかった。言いたいことだけ言うと現代文の先生は部屋を後にした。時計を見ると分針は43を指している。一呼吸置いてから、コハクは教室へ急いだ。