王太子の婚約破棄宣言の出鼻をくじいて、オレの婚約者が楽しそうに婚約破棄をつきつけてきた
オレには同い年の婚約者がいる。
アニエスといい、幼い頃引き合わされて以来の付き合いであった。
貴族として婚約者がいるのは当たり前であり、彼女に恋愛感情を抱くことはなかったが、その関係は良好であると思っていた。
「わたくし、アニエス・ガリウスは、アルバート様との婚約を解消したいと思いますわ」
それは王立学園の卒業パーティーという晴れの舞台でのことだった。
彼女は衆目の中ではっきりとオレに向かって婚約破棄を口にした。周囲のざわめきの中、彼女だけがその口元にうっすらと楽しげな笑みが広げているのをオレだけが知っていた。
彼女の後ろでは困惑した表情の王太子殿下が所在なさげに立ち尽くしている。さきほどまで、殿下が衆目の視線をあつめようと声をあげかけていたのだから当然である。
またか……、と天を仰ぎたい気分だった。
アニエスには悪癖があった。
その性癖はやっかいきわまりないもので、幼い頃からアニエスにつき合わされ、巻き込まれ、フォローにまわった。
しかし、彼女に対する周囲の評判はオレの知っているものと真逆であった。控えめで楚々としたたたずまいは淑女の鑑と言われている。性質の悪いことに、大事にならないように立ち回る賢さも彼女は兼ね備えていた。
彼女の悪癖に振り回される日々を思い出していく。
最初に彼女と出会ったのは8歳の頃。我が家の応接室だった。
父から会わせたい相手がいると聞かされ、堅苦しい衣装を着させられ待つように言われた。扉を開けて入ってきたのは、小さい頃からよく見知ったガリウス伯爵家の当主であるレンブラント様だった。普段ならば気安く声をかけてくださり、父たちの会話に混じることもあった。だが、この日はちがっていた。
伯爵の大きな体に隠れるようにドレス姿の少女が部屋に入ってきた。彼女に視線を向けると、気恥ずかしそうに顔をうつむかせていた。
レンブラント様から彼女を紹介される。それがアニエスだった。
それから、後は子供同士仲良くしなさいと二人だけにされるが、彼女はもじもじとするだけでどうにも苦手なタイプだった。しかし、そのときの表情が何を意味するか後々痛いほどわかるようになる。
9歳のとき、父たちにつれられて森に狩りにでかけた。これまでずっとついていきたいと思っていた狩りだったのでとても楽しみだった。意外だったのが、あまり活発そうには見えないアニエスがついてきたことだった。
さあこれから始めるぞというとき、彼女が遠くの木の幹をじっと見つめていた。何かあるのかと思ったらハチの巣だった。
虫が苦手なのかと思っていると、その表情はうずうずと何かをがまんするような顔だった。それから、何を思ったのか手に持った石を投げつけた。一斉に飛び立つハチ。響くオレの悲鳴。
慌てて駆けつけた父たちがオレたちを抱えてその場を逃げ出した。
安全な場所につくと、アニエスは父たちの前で泣き出した。怖かったのだろうと慰める父たちを見ながら、本当のことは言えなかった。おかしいと思ったのはこれが最初。
それから、会うたびに何かが起きた。誰かに被害は出ない。彼女は危険にならないラインを慎重に見極め、できるだけギリギリを攻めた。年齢を重ねて知識をたくわえるにつれて、それはどんどん大胆になった。
そばにいたオレだけがすべてのことを知っていた。彼女の悪癖を父に相談したこともあったが、冗談を耳にしたように愉快そうに笑われただけだった。
15歳となったとき、貴族が多く在籍する王立学園にてアニエスと共に入学した。三年の在学中に教養を修めると共に他の貴族たちとのつながりも築いていかなければならない。
アニエスについては例の悪癖が出てしまえば悪評も立つだろう。彼女に動向により一層注意した結果、いつも一緒にいる仲のいい婚約者という評判が立っていた。
結局、特に彼女の周囲で何かが起きるということは無かった。問題も起こさず他の令嬢たちと楽しげに談笑している姿を見かけることもあり、幼い頃の悪癖も成長とともに収まったのかと思っていた。
アニエスが悪評で目立つことはなかったが、ある一人の女子生徒が目立っていた。彼女については、舞台裏で策謀をめぐらすアニエスとは対極というべき性格だった。
「ごきげんいかが、アルバート様」
階段の上からたおやかな声をかけてくるのは、男爵家息女のティアナ嬢だった。
彼女に関してはあまりよい評判を聞かない。貞淑をよしとする貴族の子女の中で、他の男子へ気安く声をかける姿を度々目にしていた。
現にいまも、彼女は階段の上から見下ろすという行為について何も感じていないようだった。よくいえば自由奔放、悪く言えば他人の感情に無頓着であるといえる。
一風変わった彼女に惹きつけられるのか、王太子や騎士団長の息子、大司教の孫などに囲まれている姿をよく見ていた。オレにも親しく話しかけてくることがあり、花から花へ移る蝶のようだというのが彼女への印象だった。
それでも、童女のように無邪気な笑顔を浮かべるティアナを無視するわけにもいかない。階段を上ろうとしたとき彼女の背後に人影が見えた。
腕を伸ばせば触れる位置に立っているが、ティアナ嬢は気づいていない様子だった。逆光になる位置でその顔は影になっている。危ないなと注意しようとしたときだった。次の瞬間、彼女の体がぐらりと傾いた。
細い悲鳴を上げながらぐんぐん落ちてくる彼女の体。衝撃を両腕と両足で受け止めると、顔を青くしたまましがみついてきて体を震わせていた。
「こ、こわかったです。アルバート様」
「怪我はないか?」
「はい、アルバート様のおかげです」
痛そうな素振りもなく怪我はないようだった。それから、まぶしさに目を細めながら階段の上に視線を向ける。
「お二人ともお怪我はありませんか」
聞きなれた声。アニエスのものだった。
「ティアナ嬢、どこか痛むところがあるようなら医務室にいくといい」
「えっ、あの?」
しがみつくティアナの肩をつかんで剥がすと、彼女は見捨てられた子犬のようにこちらを見上げてくる。その視線を無視して、一段飛ばしで階段を昇っていく。そのままの勢いで、アニエスの腕をつかんで人気のない場所に連れて行った。
「アニエス……、さっきのはどういうことだ」
「アルバート様、どうしましたの? お顔が怖いですわ」
上目づかいにオレを見上げてくるが、その口元に薄い笑みが広がっているのが見えていた。
「ティアナ嬢が階段から落ちる前に、なぜあの場所に立っていた?」
「彼女が足を踏み外してとっさに手を伸ばしたのですけれど、間に合いませんでした。お怪我がなくてなによりでしたわ」
目をみるが平然と視線を返してくる。こうして嘘か真実かわからないまま振り回されてきた。問い詰めたところで口を割ることはないだろう。
「もうすぐ、学園を卒業するんだ。それまではおとなしくしていてくれ」
「もちろんです。卒業パーティー楽しみですね」
素直にうなずくアニエスだったが、今の表情がなにか面白いものを見つけたときのものだというのはわかった。
あの日から、ティアナが話しかけてくる機会が増えた。お礼がしたいといっては茶会に誘い、授業中も隣の席を選んで座ってきた。
その度にアニエスの視線を感じた。視線を返すと何事もないように微笑みかけてくるだけだった。
約束通りにそれからもアニエスが何かを起こすことはなかった。そうして、最後に卒業パーティーを終えるだけとなった。
会場では卒業生たちが学園での思い出を語り会い、なごやかな雰囲気が流れている。
しかし、一部では雰囲気が違っていた。彼女達の視線は殿下の隣で楽しげに話しているティアナに向いている。
そのグループの中にはアニエスも立っていた。彼女たちとはあまり交流がないと思っていたので、意外に思うと同時に嫌な予感がした。
このまま、何事もなく終わればいいと思いながら、友人たちと談笑していた。しかし、最初に平穏を破ったのはアニエスではなかった。
「諸君! 皆に聞いてもらいたいことがある」
声を張り上げたのは、金糸をあしらった白い礼服に身をつつんだ殿下であった。
その隣に立つのは婚約者の公爵令嬢ではなくティアナ嬢だった。彼女は殿下に寄り添い、その距離はただの友人というには近すぎる。
何ごとかと会場の視線が集まる中、殿下は言葉を続けようとした。
そこに不意に言葉が挟まれた。
「殿下、その前にひとつよろしいでしょうか?」
「む、なんだ?」
出鼻をくじかれた不満そうにする殿下の前に現れたのはアニエスだった。
オレは見た。その口元にはこらえきれない愉悦のために唇の端が緩んでいることを。まずい……、あの表情をするときは大抵なにかをしでかす前だ。
「わたくし、アニエス・ガリウスは、アルバート様との婚約を解消したいと思いますわ」
オレは顔を手で覆って、天を仰いだ。こうなると、もうこの場所は彼女の遊び場となるのだろう。そして、オレを含めたみんなが彼女の遊びにつき合わなくてはなくなる。
「な、なに!? どうしたのだ、婚約破棄とは穏やかではないな」
会場の中で一番反応を示したのは、慌てたように声をあげている殿下ではない。その隣のティアナだった。まるで脇役にいきなり主役をとられた役者のようにうろたえている。
「わたくし、我慢できませんの。近頃のアルバート様はティアナ様と親密な様子ですごしているご様子。この前も階段の踊り場で抱き合っているところを見てしまいましたわ」
会場の視線が今度はオレの方に集まってきた。
さあ、早く釈明しろという雰囲気に急かされて、仕方がなく口を開く。
「あれは、ティアナ嬢が階段で足を踏み外したところを受け止めただけだ」
そうですよね、とティアナ嬢に同意を求めるとうなずいてくれた。
「でしたら、授業中にわざわざ距離をつめて座ってらしたのはどうしてですの?」
「あれは、ティアナ嬢の教本が読める状態になっていなかったから、オレのものと共有していただけだ」
それからもアニエスによる糾弾が続く。一定のリズムを刻むようにアニエスは間を置くことなく続けるので、さきほどから殿下が何かをいおうと口を開きかけては閉じている。その隣のティアナは今にも地団駄を踏み出しそうなほどいらいらした様子だった。
「ふう、どうやら、わたくしの勘違いだったようですわね。さえぎってしまって申し訳ありません、殿下。お続けになってくださいまし」
アニエスはオレの横にピタリとよりそい、殿下に続きを促す。
「む? ああ、うむ……」
ごほんと殿下は咳払いをひとつ。そして、周囲の様子を見まわす。そこには最初のころにあった緊張感はどこにも残っていなかった。
「皆の者、この3年間、机をならべ共に過ごした時間実に楽しかった。そなたらがいれば、王国の未来は明るいであろう」
それから、何事もなく卒業パーティーは終わりを迎えた。
後日、王都の屋敷でアニエスと二人きりになった。
「で、あの茶番はなんだったのだ?」
「なんのことですの? わたくし、本当に不安でしたのよ。あなたが私から離れていってしまうのじゃないかと」
アニエスは、目を伏せそっと涙をぬぐうフリを見せる。わざとらしい演技にため息を吐く。
「それなら、うなずかなくていいから答え合わせをしよう。あのときあそこで殿下は婚約破棄を口にしようとしていた」
同時に、ティアナ嬢を新しい婚約者とすることも発表しようとしたのだろう。その考えを口にすると、アニエスは口元に手をあてて驚いた振りをする。
「まあ、そうだったのですか!? なんということでしょう」
実に白々しい。
殿下がティアナ嬢に傾倒していることは学内では公然の秘密であった。それでも、しょせんは在学中での戯れでしかないと思っていた。それが、あの場で婚約破棄を強行するまでとは思わなかった。
公爵家と王家の関係を考えれば容易に婚約破棄はできない。だからこそ、周囲の目が多いあの場でならと思い切ったのだろう。
「婚約破棄を強行しようとするなら周囲を巻き込む必要がある。そのためには周囲に強い印象を与える必要があった。だが、それをキミが全部かっさらっていった」
「そのようなことなんて考えておりませんわ。アルバート様が私のことをないがしろにしていることを憤っていただけです」
怒ったふりをするがそれも本当かどうかわからない。その証拠に、さっきまでの表情などなかったように話を続けた。
「ですが、ひとつお教えしますと、私はティアナ様にあるお願いをされていましたの」
彼女は語る。雑談をするように。なんでもないように。
『アルバート様を取られたくなければ協力をしてほしい』
オレとティアナが親しげにしているところを見て、少し距離をとるように婚約者としてお願いにいったときに返されたのがその言葉だったそうだ。
アニエスが頷くと、ティアナ嬢をこころよく思わない連中を煽っていやがらせをするように指示した。 それだけで婚約破棄になどつながるとは思えないが、周囲の同情を買おうとしたのだろう。
そこまで語り終えると、アニエスはため息をついた。
「だめですわね。裏切りとはもっと一方的で胸がすくようなものだと期待していたのに……。ちっとも楽しくありませんでしたわ」
彼女の話をきいて、ようやく会場でのティアナ嬢の表情の意味を理解する。上手くいっていたと思ったらすべてを台無しにされたのだ。
「わたくしに主役は向いていないようです。脇役で彼らの活躍をながめている方がが楽しいですわ。きっと公爵家のご令嬢なら立派に主役をつとめられたでしょう」
どうしてここで殿下の婚約相手の名前がでるのかと不思議に思ったが、彼女はそれについては語ろうとしなかった。
公爵家令嬢がティアナ嬢に向ける視線は穏やかなものではなかった。もしかしたら、あのとき階段から彼女を突き落とした犯人は……。そこまで考えて詮索はやめておくことにした。
「それにしても、あの卒業パーティーのことが父上の耳にも入って大変だったのだぞ」
いつものアニエスであれば面倒ごとが起こらないようにうまく立ち回っていた。それが、今回に限って後始末がずさんだった。
「申し訳ありません。お詫びにわたくし達の仲が良好であることを証明するお手伝いをいたしますわ」
向かい側に座っていたアニエスが静かに席を立つ。
何をするのかと思っていると、テーブルを回りソファに座っていたオレのすぐ隣に座った。それから、肩が触れ合う距離で黙ってじっとこちらを見つめてくるだけだった。
「…………」
彼女の望むものを理解すると、自然に視線はその艶やかな唇に向く。二人きりのときにこうしたやりとりをするようになったのもアニエスからだった。
誘われるままにアニエスの頬に手を添えたとき、その瞳の奥にこらえきれない愉悦の光を見た気がした。
「アルバート、アニエス嬢が来ていると聞いたのだが……」
扉が開く音がしたときにはもう遅かった。
部屋に入ってきた父がオレたちの姿を見て口をつぐんだところで、すべてはこの瞬間のためだったのだと理解した。
慌ててアニエスと距離をとったところで、微妙な雰囲気を払拭するように父が咳払いをする。
「あー、うむ、二人とも仲がよさそうだな。これなら卒業後の式も問題なさそうだ」
「もちろんですわ。初めてお会いしたときからアルバート様以上の相手なんていませんから」
この状況を作った当の本人はうれしそうに父の言葉に返事をするだけだった。