9 姥皮
9 姥皮
立花理沙
曇り空のような気分で日々を過ごした。雨は降らない。悲しいというような決定打は起こらなくって、だけど、太陽が燦々と輝くような喜びはない。他人に関わって憂鬱な気分になる日が来るなんて、もし、去年の今頃の自分が見たらどう思うだろう?こんな日がわたしに来るなんて、思ってもみなかった。
わたしの毎日は、満員電車に乗って、いつもの会社、いつもの席に座って、変わり映えのしない仕事を黙々とこなす。いろいろな人が出たり入ったりする大きな箱の隅っこで黙々と働いて、そして、毎日がきちんと終わる。家に帰ってゆっくりとお風呂に入って、その後少し好きなものを食べたり飲んだりしながらお気に入りのテレビを見る。駅前のパン屋さん、新しいパンが出ていたな、あれを明日は帰りに買って食べたいなと思いながらベッドに入って足を伸ばして寝る。
安全で快適な毎日です。満足していた。
何百回、何千回と繰り返して、そして、いつか消えていきたいと思っていたのに。
どうしてなんだろう?
敢えて言うならばきっと、人生というのは意外と長い。
ずっと亀のように身を縮こめて、そのままずっと生きていくのには、人生という時間は長すぎるのだと思う。どんなに静かに過ごす人間にだって、一生のうちに一回か二回くらいは自分というものを根底から覆すような機会が訪れる。
それを掴むかどうかを決めるのは自分なのだと思います。
野中さんに話をいろいろ聞いてもらった後に、それでもズルズルとわたしは家政婦を続けていました。やっぱりもうやめます。来ませんと今日言おうか、この次言おうかと思いながら、先延ばしにしていました。
とある日の午後のことでした。
外は突然雨が降り出して、冬の雨。小降りになるまで帰れないねと言いながら、澤田さんが淹れてくれたお茶を飲んで時間を潰していた。昼間だけど、少し薄暗い日。
彼はわたしに絵本を見せました。
「なんですか?」
「読んでみて」
日本の昔話のようでした。表紙には姥皮(*5)と書いてあった。
それは、こんな話でした。
とある若くて美しい娘が、雨を降らせる代償として大蛇の嫁として嫁ぐことになった。娘は千の瓢箪と千の針を持って嫁ぐと、瓢箪を大蛇の住む淵に浮かべて全て沈めてみせろと言った。大蛇は全てを沈めることはできず、力尽きて岸にのびた。娘は針で大蛇を刺して大蛇を殺してしまった。村に帰るわけにもいかず、山中をあてもなく歩いていくと一軒の家があった。そこに住む老婆にことの次第を話すと、その老婆は実は大蛇に淵を追い出された大蝦蟇で、ことの次第を喜び、その代わりと言ってはなんだがと娘に「姥皮」を授けた。
それは被ると老婆の姿になる不思議な皮だった。
大蝦蟇は娘に道を行った先に優しいお金持ちの屋敷があるからそこへ行くように勧めた。お屋敷の主人は皮をかぶって老婆となった娘を雇ってくれた。娘はよく働いた。娘はいつも姥皮を被っていたが、とある日、周りに誰もいないと思って皮を脱いで髪を梳いていた。それを偶然見かけたお屋敷の若旦那は、どこの誰かわからない娘に恋焦がれ、ついに病に臥してしまう。やがて実は老婆がその娘だったことが知れ、2人は夫婦になった。
「なんかどっかで聞いたことがあるような気がする」
ぱたんと本を閉じて澤田さんを見上げると、彼はしんとした目でわたしを見ていました。
「なんかこの娘が立花さんに似てると思って」
「わたしに?」
「綺麗な顔を隠して生きているところが」
「……」
「何か理由があるんだよね」
それはそんな簡単に話せるものではない。確かにわたしには理由がある。俯いて絵本の表紙を見た。
「その理由を教えてくれと言うつもりはないんだけど、一つだけ教えてくれない?」
「なにをですか?」
「もうその皮は一生脱がないつもり?」
人生には、どんなに静かに生きていても一度か二度はそれを根底から覆すような機会が訪れる。雨が降る中でわたしは澤田さんの顔をじっと見つめた。今日も彼は眼鏡をかけていて、そして会社で会うときよりもっと真面目に見えました。
雨の音が濃くなった気がした。
彼はため息をついて、そして口を開いた。
「一つ提案があるんだけど、君に」
「提案?」
「かなりふざけた内容で、だけど僕としては大真面目です」
「……」
「どっから話せばいいのかな……」
澤田さんとしては珍しく言葉に詰まり、腕を組んで考え込む。わたしは大人しく彼のその先の言葉を待ちました。
「君は事情があって、きっと恋人を作ったり結婚をしたりするつもりはないんだよね?」
「……」
「でも、女の人が1人で支えもなく生きていくのは大変でしょう?」
わたしはこくりと頷いた。
「反対に僕の話をすると、僕は仕事がめちゃくちゃ忙しいんです。だから、家の中で掃除や洗濯をしてくれたりする人が欲しい」
澤田さんはそれを奥さんと言いませんでした。
「でも、問題があって、そこらへんの女の人だと僕より家事が下手なんです。気にいる人が全然いない」
「はい」
「あなたみたいに気にいった人は初めてなんです」
喜ぶべきだったのかも知れない。ただ、ちょっと何か素直に喜べないようなニュアンスを感じていた。魚の小骨のようなもの。
「君が普通の結婚をしたくないのなら、僕はその条件を呑むし、あなたの生活を支える。その代わり、君は僕の家を綺麗に整える」
これは一体なんの話なんだろう?
「仕事をしたいならしてもらって構わない。もちろん寝室は別でいいです」
「あの……」
「はい」
「なんの話?」
一瞬黙った。澤田さん。
「僕と一緒に住みませんか?というか、特に支障がないんだったら結婚してほしい」
ぽかんとしました。
「わたしのこと、全然知らないのに……」
「掃除が上手いことは知ってる」
「わたしだって澤田さんのこと全然知らない」
「試しにしばらく一緒に住んでみて、それでオッケーだったらでいいけど」
ため息が出ました。
「家政婦が欲しいんですか?給料を払わないでいい」
「本当いうと家事の上手い奥さんが欲しいんだけど、あなたが嫌なら、家事の上手い同居人が欲しい」
「……」
「出ていかれると困るから絶対に君の望まないことはしないから」
「そんなこと言ったって……」
なにをペラペラとこの人は奇妙な話をしてるのだろう?
「澤田さんって実はゲイとかなんですか?」
「はぁ?そんなわけないでしょ?」
「それなら……」
一緒に暮らしてなにもないなんてあり得る?
「いや、証明のしようはないけど、誓う。なにもしない」
「老人ならまだしも。無理があると思いますけど……」
「いや、外で済ませますから」
その言葉を聞いたときに傷ついた。頭で考えるより先にわたしの心は反応してしまった。普通の女の人ならすぐにその場で怒ったんだろうなと思う。でも、わたしはなにも言えなかった。
「突然こんなこと言われてもわけわかんないよね」
澤田さんはそう言って笑った。それから、窓の方へ歩いて行って外を覗いた。
「雨、もう止みそうだ。傘、貸すよ」
澤田さんは駅まで送ってくれた。わたしに貸すための傘ともう一本の傘を彼は持っていた。でも、その2本目の傘をささずに、大きな方の傘を開いてわたしにさしかけた。2人で一つの傘をさしながら小雨の中を黙ったままで歩いた。彼は無理に話しませんでした。
改札で傘を渡された。わたしはその傘をじっと見た。
「今日はちょっとびっくりさせちゃったかな」
「びっくりしました」
「でも、冗談じゃないから、ちょっと考えてみてもらえないかな?いいにしてもダメにしても、その傘を返しがてら、返事しに来てくれない?」
「いつまでに?」
「一週間でも、二週間でも、君の答えが出るまで、待つから」
それではと言って、澤田さんは大きい傘をわたしに渡して、小さな傘を開くと小雨の中を帰っていった。背中をしばらく眺めていました。
1人になって電車で家へと帰る途中、だんだんただただ驚いていた気持ちが落ち着いてきた。
そして、思った。
わたしのこの気持ちは、一体どんなものなのだろう?
わたしは本当に澤田さんのことが好き?お父さんみたいな存在なのではないのかな?お父さんってほど年齢が離れてるわけじゃないけど、でも一回りは上で、自分より全然大人な人だし。
そう思った後に先程の、外で済ますと言われた時のあの衝撃を思い出す。
お父さんに対しての思いだったら、果たしてここまで衝撃を受ける?
ため息が出た。完全に混乱してしまいました。
自分はお父さんがどういうものかを全く知らない。だから、そばにいて落ち着くのも、自分を庇護してくれる存在、男の人というのがずっといなくてそしてそれを求めていたからで、だけど、それが所謂男と女になった時にどうなるのか、全くわからない。その時に自分がどう感じ、どう思うのか予測ができない。
*5 参考まんが日本昔ばなしデータベース
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=1237