7 昼下がりの情事
7 昼下がりの情事
立花理沙
「時々、用事でいないこともあるんで」
家政婦として通うことになると、わたしは澤田さんの家の鍵を預かることになった。
「泥棒とかされるかもとは思わないんですか?」
「そうですねぇ」
そのわたしの言葉に対して、澤田さんは律儀にきちんと考えました。
「そんなにパッと持っていってすごいお金になりそうなものはないと思うんだけど。強いて言うなら、やっぱりPC周りかな?」
「わざわざ何を盗んだらいいか教えてますよ。それ」
「あ、原書の本が実は、何冊かいいものがあるよ」
2人で笑った。会社の廊下の隅っこで。
「俺にバレるように泥棒したら、君、仕事失うじゃん」
「脅迫された」
「いや、わざわざ言わなくてもそのくらいわかるでしょ?だから、やるならバレないようにやって家政婦も続けるし、仕事も続けたほうがいいわけだ」
「なるほど」
「だから、ちょこちょこ掠め取るならさ、原書の本は俺、何があるかきっちり把握してるから、陶器にしたら?」
「カップとか?」
「そうそう」
「シルバーとか?」
「そうそう。あ、ごめん。でも、それも、安物ではないけど、びっくりするような値段はつかないわ」
「なんだ」
冗談を言ってまた笑い合った。
***
そしてことば通り、週末掃除にお邪魔すると、澤田さんはいなかった。主のいない部屋でわたしはのんびりと掃除をした。やっぱり部屋は綺麗で、そんなに時間はかからなかった。一通り終わるとまた本棚を眺めました。編集者の本棚と言うのに興味があったんです。
そこに並んだ本は難しそうなものばかりでした。澤田さんは文芸部の人で、だから、小説を編集して世に出してる人なのだけれど、そこに並んでいる本は現代日本の小説ばかりではなくて、歴史や宗教、神話、哲学書、それも古今東西の。そして、英語の本。
翻訳本を世に出しているわけではないのに、どうして外国のものも必要なの?
そして端っこにDVDがあるのを見つけた。白黒の古い映画が主だった。日本の物や、アメリカの映画。本を勝手に触るのはなんだか気が引けて……。でも、DVDなら汚したりしないしな。手に取ってみた。オードリーヘップバーンの映画だった。
昼下がりの情事(*3)
「君はいつも最後はこの部屋にいるんだね」
振り向くと澤田さんがいた。
「ごめんなさい」
「いや、別に怒ってはないけど。それ、見たいの?」
「どんな話ですか?なんか、やらしい話ですか?」
笑われた。
「そういうのは君の目に届くようなとこには置かないよ。それにオードリーがそんなのやると思う?」
「いや、なんかでも、タイトルが」
「本当はまともに恋もしたこともないようなうぶな女の子が、好きになった年上の男の人を振り向かせるために、昼下がりの情事って言うような言葉が似合うような魔性の女とでも言うのかな?ミステリアスな女性を演じて、男の気を引くんだよ」
「最後どうなるんですか?」
「それ、言っちゃったらつまんないでしょ」
「……」
「見たい?」
「見たい」
そう言った時、貸してもらうつもりでした。持って帰って家で見るつもりだった。でも、澤田さんはリビングに行くと、カーテンを閉め出した。一番内側のカーテンは分厚くて、閉めると部屋が薄暗くなった。
「あの…」
「ああ、映画はね、俺、テレビ画面で見るのあんま好きじゃなくって」
「……」
プロジェクターがあって、澤田さんの家。
「すごい。小さな映画館みたい」
「このくらいしないと、作品の世界にのめり込めないでしょ」
「凝りますね」
「ま、でも、映画見るのも仕事みたいな部分あるから、僕の場合」
ワクワクしてるわたしの横で、澤田さんはたんたんとしていた。ソファーに並んで座って映画を見た。暗い部屋の中で黙ってそばに座って画面を眺める。その時間はわたしにとってとても特別な時間でした。澤田さんがとても身近に感じられた。わたしは映画のその世界と同時に横に座っている人の鼓動に耳を傾けていたように思う。その薄暗さはとても心地よかった。心地よい時間でした。
「驚いた。こんな古い映画で、こんな楽しめるなんて」
「古いものの方が劣っていて、新しいものの方が素晴らしいというのは先入観。ま、でも、画質とかそういう技術は今の方がすごいかもしれないけど」
「どうして、こういう古い物、揃えてるんですか?」
澤田さんはわたしを見た。
「僕の仕事のノウハウの一部をばらすことになっちゃうな」
「わたしは経理だし、澤田さんのライバルにはならないですよ」
その言葉で、まぁいいかと思ったらしい。
「ありとあらゆる作品が世に出ていくとさ」
「はい」
「もう、一周巡っちゃってるんだよね」
「え?」
「ええっと、作品が世の中に出て大ヒットするとさ、みんな真似するじゃない。結構な数の物語が現代では生まれているからさ。目新しさなんてなかなか出せないでしょ?それに数が量産されることになってさ、なんか、最近は細かいところが雑に作られているものが多いんだよ。あんまり参考にならないんだよね」
「はぁ」
「少し昔の物の方が、細かいところが丁寧だし、それに、最近の流行からは外れてるのね。一周巡って戻ってきたというか、返って新鮮」
「新鮮?」
「そうそう、基本にかえると言うかさ」
「へ〜」
「あ、でも、言っちゃダメ。俺がこういうの実は参考にしてるってみんな知らないから」
「え、そうなんですか?」
「骨組みやポイントに入れるだけで、外側はちゃんと現代なの。だから、みんな昔の物を参考にしてるって気づかない」
「ふうん」
なんかよくわかんないけど、色々あるんだなと思いつつ、見終わったばかりの映画のパッケージを眺める。
「可愛かったな。特にラストシーン」
それまで背伸びして強がっていた女の子が、彼女の正体を知って身を引こうとした男を追いかけて、そのままの自分で涙をこぼすシーン。
「なかなかこういう存在感のある女優って最近はいないよね」
「なんでですかね?」
「一言では言えないけど、必死に生きてるかどうかなのではない?」
「必死に?」
「苦労した人っていうのは言葉にも重みがあるし、存在感が増すと思う。月並みかもしれないけど」
それなら、わたしは少しは存在感があるんですかね?そんな風に考えたことはなかったけど。
「あ、なんか、もう暗い」
カーテンを開けながら澤田さんがいう。
「冬は日に日に日が短くなるね」
「すみません。長くお邪魔しちゃって」
わたしは慌てて立ち上がった。ダイニングの椅子にかけてあったコートを着てマフラーを巻く。
「駅まで送ります」
澤田さんがそう言って、コートを羽織る。
「あ、いや、大丈夫ですよ。そんな遅い時間じゃないし」
「ちょっと歩きたいし」
そんなことないだろうと思う。だって、出かけて戻ってきたところなのに、また歩きたいだなんて。でもその言葉に甘えた。
そのまま、どっかでご飯でも食べようかと言ってくれないかと思いながら駅までの道を歩いていた。もう少し一緒にいたかった。この人と一緒にいると安心する。一緒にいて、自分にはよくわからない難しい話を聞くのが新鮮でした。
「あ、そうだ。これあげる」
てくてく歩く途中で、澤田さんはポケットから何かを出してわたしの方へ差し出した。
「冬に水仕事してると、手が荒れちゃうでしょ」
「これ……」
両手で受け取ってまじまじと見ました。なんということはない。ハンドクリームです。ただね、これ、フランス製。有名なフランス製のむっちゃ高いハンドクリーム。
「え、わたしにこれはネコに小判ですよ」
「嫌い?」
「いや、嫌いじゃないけど、すっごい高いやつじゃないですか」
「なんでこんな高いんだろうね。でも、人気あるし、役には立つんじゃないの?」
「……」
「返品きかないし、大人しく貰っといたら?」
「……澤田さんって人に物を贈るの慣れてそう」
ぽつりとそういう言葉が溢れた。するとあっさりと認めた。
「そりゃ、慣れてるね。仕事柄、いろんな人の機嫌を取らなきゃいけない立場だし」
「じゃ、これもわたしの機嫌を取ってるんですか?」
澤田さんはわたしをじっと見た。
「立花さんは難しいね。喜んでくれると思ったのに」
「あ、いや、嬉しくないわけじゃないです」
「ほんと?」
「ありがとうございます」
改札口で手を振って別れる。ご飯に誘ってはもらえなかった。そのことに少しがっかりしている自分がいた。帰りの電車の中で、貰ったハンドクリームを眺める。
物を贈られて、その物自体の価値よりも、どうしてこれをくれるのか、そこが気になってしまう。結局自分は、物が欲しいのではなくて気持ちが欲しくなっている。色々な人に色々なものを贈っている人だもの、彼にとっては大したことではないのだと思う。だけど、わたしは……
わたしは、父親を知らない。恋人がいたこともない。
自分で男の人を避けて生きてきた。男の人に優しくされることに極端に慣れていない。
今日見た映画を思い出す。
好きな男を手に入れるために、魔性の女を演じる女の子。
わたし、このまま無邪気なままで大丈夫なんだろうか。澤田さんみたいな人が、わたしに本気で興味を持つことなんて普通、ないと思うんです。ちょっと面白いと思ってるのかもしれない。だけど、それは、わたしの気持ちとは全然違う物だと思う。
寂しくて頑なな人間は、きっとのめり込んでしまうと思う。一旦火がついたらきっと。
その時に驚かれて、そして、引かれるだろう。その時、自分はどれだけ傷つくだろう?
初めて、ここのところ進んできていた道を戻ろうかと思った。
***
とある週末のある日、わたしたちは本棚の前で本の話をしていました。
「これが父親を殺す話。マザコンの原型になったと言われる物語だよ」(*4)
「へ〜」
「興味あるなら、貸そうか?」
「え、いや、買います」
「読んでみて気に入れば買えばいいじゃん。来週までに返せるなら、全然いいよ」
ぽんと渡されてしまった。ギリシャ悲劇の話。
「こんなの、わたしには難しくてわかんないんじゃないかな」
「本を読むのに資格なんていらないでしょ?」
「でも、こんなの読んで、わかった気になっても偉そうというかなんというか」
自分みたいな学のない人間が、インテリぶっているような気がする。
「本なんて人のために読むもんじゃないんだから自分がその本を読んでいることを周りがどう思うか考えるなんて無駄だよ」
「……」
「読んでも読まなくてもいいけどさ。でも、人の考え方に触れて自分の考え方が変わることもある。すると、世界が変わるよ」
「世界?」
「そう。世界。大袈裟ではない。考え方が変われば世界が変わる」
自分の世界が変えられる?
そんなこと、考えたこともなかった。生きるのに必死で。やっと人並みの生活ができるようになった。そのことに感謝もしたし、ずっと満足もしていた。これ以上の何かを人生に望む日が来るなんて、誰が思ったろう。
わたしと普通の人は違うんです。普通の人にとっては別になんでもないような毎日がわたしにとってはかけがえのない物なんです。これ以上なんて、望まない。望んでも他の人には当然手に入るようなものがわたしにはきっと手に入りません。
最初から諦めてしまえば、人生は安全で楽しいもの。これ以上傷つきたくない。
それでも、わたしはその本を読んだ。よくわからないままに、その本を読んだ。
自分の父親を殺し、母親と結婚する男の話。
男の心の底に隠された欲望の話。どうして男の心の底にはこんな欲望が隠されているのだろう?それがわかれば、わたしは楽になるでしょうか?
不思議だった。そんなことを考えたのが初めてだったからです。どちらかといえばわたしは、男の人もそして、男の人の欲望についても触れることも考えることも避けてきたから。ただ切り捨てて自分の世界にできるだけ入ってこないように、遠ざけるようにしながら生きてきた。
でも、本当はそれでは救われないのかもしれません。
非常に混乱しました。悩み始めたと言ってもいい。
もともと自分は父親を知らないせいで、庇護してくれる男の人に飢えていた。本当は普通の女の人よりももっともっと男の人に飢えている女です。
かつては信じていました。自分には父親がいなかったけど、だけど、この世界にはきっと自分を庇護してくれる男の人がいるって。子供の時にはそれは新しいお父さん。大きくなってきてからは、恋人や夫。いつか出会うことができると信じていた。
でも、今は期待して、裏切られるのが怖いんです。
*3 昼下がりの情事
1957年アメリカ 原作クロード・アネ 監督ビリーワイルダー
出演者 ゲイリー・クーパー オードリー・ヘプバーン
探偵の父を持つパリ娘アリアーヌは父の事件の盗み聞きを通して浮気男フラナガン氏を知る。アリアーヌの機転で危ういところを助かったフラナガン氏は明日の午後を約束する。楽しい午後を過ごした後に氏はパリを去る。アリアーヌは世馴れた遊び人のように別れたが、その後悲しげに去る。数ヶ月後、再会した2人。今度はフラナガン氏がアリアーヌに夢中になってしまう。彼女がことあり気に話す男たちのことに気が揉め、探偵であるアリアーヌの父に調査を依頼。父は相手が自分の娘であることを突き止める。探偵はアリアーヌが口にしたことは全て作り話で彼女は全くの箱入り娘であることを告げ、愛しいと思うのならパリを離れることだと告げた。ラストシーンは……、よければ映画をお楽しみください。(参考Wikipedia)
*4 父親を殺す話。マザコンの原型になったと言われる物語
オイディプス王 古代ギリシャ三大悲劇詩人の1人であるソポクレスが、紀元前427年ごろに書いた戯曲。テーバイの王オイディプスの物語を題材とする。ギリシャ悲劇の最高傑作であるのみならず、古代文学史における最も著名な作品であり、後世に多方面にわたって絶大な影響をもたらした。(参考Wikipedia)