5 お茶の記憶
5 お茶の記憶
立花理沙
指定された週末の午後、澤田氏の自宅へ行きました。高円寺だった。駅からちょっと歩いた。そして、そんなに新しいマンションではなかった。ちょっと意外でした。なんかピカピカの新築のマンションとかに住んでいるイメージだったんです。この人、給料はそこそこもらってるはずだ。有名な編集者だし。
ま、いいか。
エレベーターで上がって、ドアの前まで行って、ピンポンを押した。
奥から足音がして、ドアが開いた。
そして、わたしはもう一度、ちょっとびっくりした。出てきた澤田氏もわたしを見て、びっくりしていた。
「いらっしゃい」
「どうも」
「その、なんでそんないっぱいなんか持ってるの?この後どっか行くの?」
「掃除用グッズです」
「え?」
「……自分のお気に入りじゃないとやで」
笑われた。ドアを片手で支えたままで大笑いされた。
「うちにも掃除用具はあるよ。そんな不思議な荷物抱えて電車乗ったの?」
モップの柄が荷物からにょきっと出てんです。
「ダメですか?」
「いや、ダメではないけど」
そう言った後で、キイとドアをもう少し開いて、彼は体を片側に寄せてわたしが通れるスペースを空けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
入った途端に、うわぁと思った。
先に言っておくと、わたし、外で透明人間してる分、家に凝る人間なんです。小さな部屋ですが、自分だけの部屋。それは、大切なお城。だから、もちろんお掃除も念入りにしている。
その自分が初めて自分の部屋ではなくて、他人の部屋を見ていいなと思った。
止められなかった。感情はいつも止められないんです。
そしてその部屋もとても意外だった。
澤田さんの会社でのイメージは文芸の編集者らしくおしゃれな世界の人というか、例えばわたしのような普通の人とは違う世界に住んでいる人というイメージだった。それで、その人の部屋というのも雑誌に出てくるようなスタイリッシュなお部屋なのかと思ってた。物が少なくて、高そうな家具が置いてあって、絵が飾ってあってのような……。生活感のない部屋。
澤田さんの部屋は少し普通の部屋より天井が高くて、壁はあの剥き出しのコンクリみたいな感じなんだけど床は全部木の床でした。玄関からちょこちょこと観葉植物が置いてあって、廊下を進んで中にはいると、リビングは床にラグが引いてあって他にもいくつか綺麗な色のクッションが。奥は一面ガラス張りになっていてベランダに続いている。そのベランダの前に木の背もたれのないベンチが物置がわりに置かれていてそこにサボテンとかなんか小さな植物が色々置かれてた。物は思っていたよりも色々あって、でも、ごちゃごちゃとした感じはなくて、一つ一つがそこにしっくり収まっている気がするのだった。薄い黄色のクッションと空色のクッション。床のラグ。窓辺の様々な形のサボテンや小さな緑たち。対面式キッチンの向こうにのぞいている色とりどりの食器。キッチンの壁にかけられた布巾の模様。壁にかけられた時計の文字盤の数字の形。
とても懐かしい気分になったのはどうしてなんだろう?
あの床のラグの上に座りたいなと思った。いろいろな落ち着く物たちに囲まれて、あそこに座りながらお茶を飲んでのんびりしたいなと。きっとすごくいい気分だろうなと思った。
「……」
「どうかした?」
「なんか……」
「なに?」
いい部屋ですねというその一言がうまく言えなかった。
嫌だなぁ。普通だったらここまで強烈なギャップを感じたりはしないのかもしれないけれど、その日の澤田氏とそして彼の部屋は、会社での彼とギャップがありすぎた。予想していた以上にプライベートな物を覗いてしまった気がした。それこそ、服を脱いで裸を見せられたと言ってしまってもいいかもしれないぐらい。
それに……
「澤田さん、眼鏡かけるんですね」
「目、悪いからね」
「普段はコンタクトなんですか?」
「眼鏡かけるとさ、すっごいお堅い人に見えるでしょ?」
「嫌いなんですか?お堅い雰囲気」
「どうでもいい。だけど、出版業界は若干ちゃらく見えないとうまくいかない場面もあるから、コンタクト入れてんの。それに、眼鏡かけると老けて見えるし」
「週末は老けて見えてもいいんですか?」
「目が疲れてんだよ。週末ぐらいは許して」
そう言って笑った。別人みたいでした。平日と。
平日の澤田さんはもっと、よく言えば話しかけやすい。悪く言えば軽い人に見える。
だけど、眼鏡をかけると真面目な人に見えました。真面目で頭が良さそうで、そしてちょっと近寄り難い雰囲気の人。
本当は、この人、どっちかって言うと、1人の時間を愛する人なのかな?
「それで、どうする?どこから……」
「あ」
そう、わたしは掃除をしにきたんです。
「一旦一通りお部屋を見させてもらった後で、水回りから」
「あの、悪いんだけど、ちょっと出てきていい?1、2時間で戻ります。なんかあったら電話かけてもらって」
「あ、わかりました」
事務的にそうやり取りをする。澤田氏は出て行った。他人の部屋に1人置いてきぼりにされた。
澤田暎
別に特に用事があったわけじゃない。ただ、2人っきりで部屋の中にいるのは彼女がもしかしたら嫌がるかなと思って……。巧妙に距離を取らないと、すぐにパッと逃げ出すような印象があった。なんたって、自分のことをハサミと思えというような子だから。
だから、わざと出てきた。1人残して。
適当に買い物でもしながら時間を潰そうか。近くの商店街をぶらぶらしながら、ふと気付いた。自分の足取りが軽かった。
女の人を手に入れようと思って、どう攻めるかみたいなの考えてる時は嫌いじゃない。狩のワクワクするような気持ちを味わう。いつもと同じそういうワクワクなんだとその時も思ってた。
そして和菓子屋の前を通りかかって、なんか立花さんって洋菓子より和菓子が似合うなと思う。ふらりと入って、ショーケースに並べられた色とりどりの生菓子を見た。
これを買って行ったらどんな顔をするだろう?
九つ選んで絵の額を作るような気持ちで並べて包んでもらう。
もうそろそろいいかな?
自分の家に足を向ける。やはり自分の足取りが軽かった。
でも、その軽い足取りが期待を外されて一気に重くなるかもなというようなことまで考えながら歩いてた。口先ばかりで結局なんだかんだ言って彼女の掃除の腕がたいしたことなかったら、膨らんだ風船がぱちんと割れるようにこのウキウキしたものがまた萎む。
かつては自分もいいなと思った女性にそれなりの期待を抱いていて、求められるままに家にあげたこともあった。女の方にも結婚願望でもあったのだろうか。張り切ってそれぞれ料理をしたりするのだけれど、泊まった翌日に洗濯をしたりとか……。細かなやり方が気になる。口も手も出さずに見ているとイライラする。そういうのがきっかけで気持ちが冷める。
反対に口や手を出してみたほうがいいのかもと、思い切ってとある人に注意をしたことがある。印象と違ったと言われて今度は向こうの気持ちが冷めて終わった。几帳面な男というのはあまりモテないものらしい。
そういうことの結果から、女を家にあげなくなった。だから、自分があの部屋に女の人をあげたのは結構久しぶり。何年ぶりだろう?
他愛もないことを考えているうちに家に着いた。
ドアを開けて中に入る。リビングに彼女はいなかった。買ってきたものをダイニングテーブルの上に置く。眼鏡が置いてある。あれと思う。それは自分のではない。彼女のものらしかった。持ち上げてレンズをのぞいて意味がわかった。それをそっとテーブルに戻すと、彼女の姿を求めて家の奥へと進む。
書斎兼仕事部屋にいた。ダスキン片手にぼんやりと本棚を眺めていた。いつもカーテンのように顔にかかっている前髪を、邪魔だったのだろう、落ちてこないようにヘアピンで止めていて、額と普段は見えない眉が見えていた。そして眼鏡を外した目元も。
「サボってんの?」
「あ」
声をかけられてこちらを見た。真正面から見つめあったときに、自分としてはこういうことは珍しいのだけれど、自分の感情が目に映って相手に悟られるのを恐れました。咄嗟にそのままの感情を表情に出しそうになった。
思わず見惚れた。相変わらず化粧っ気はなかったけど、それでもあまりあるくらい、立花さんは綺麗な女でした。
「伊達メガネなんだ……」
「見られちゃったな」
「ほんと意味がわからない。なんでメガネかけるの?その前髪も」
「あ、いや……、意味はあるんですけどね」
「顔を、隠してんの?わざと」
「……」
彼女は困った顔をしました。そして、自分はすぐにしまったと思った。
「あの、ごめん。言わないでいい。言いたくないなら」
そう言うとホッとした顔をして、そして、彼女はまた前髪を下ろそうとピンに手をかけた。
「おろしちゃうの?」
その時自分の声は残念そうに響いた。彼女はちょっと驚いてこちらを見た。
もう少し、もう少しだけ眺めてたかったんです。彼女の美しい顔だちを。それでつい自分のそのままの気持ちを言葉に乗せてしまった。
普通の人にとっては、別になんでもないことなんだろう。
近寄りたいと思ってる女がいて、その女に向けて様々な剥き出しの感情や表情を見せると言うのは。でも、自分にとってそれはとても特別な行為だったと思う。なぜって、自分は大抵の場面で自分を作ってる。作った自分を見せて生活している男だから。
彼女は結局、額をそのままにしたままでそっと手を下ろした。
「掃除、終わったの?」
「点検してもらって、足りないところがあったら追加します」
「随分速いじゃない」
すると彼女はぶっと笑った。
「なんで家政婦必要なのってくらいもともと綺麗だったんですけど。掃除必要な箇所見つけるのに苦労した。そこで時間取られた」
「そう」
「家政婦雇うならもう少し汚しといてくださいよ」
「一週間も汚い部屋に我慢できない」
また笑った。この人、笑う時は笑う人なんだな。
「ほんっと澤田さんってそんな人に見えないのに」
「え?」
「会社でもあんなに忙しくしてるのに、こんなに丁寧に掃除してたら倒れますよ」
「だから言ったじゃん。疲れてるんだって」
それから一部屋一部屋一緒に見て回る。自分はまるで厳しい姑のように彼女が掃除した後をチェックして回った。埃が残っていないかというようなチェックを。物の後ろや隅っこや陰。流石に普段は行き届かない見えないところを中心に全部綺麗になっていた。
「見えないところまで掃除するの、めんどくさいとか無駄だとか思わないの?」
「普通はそうなのかもしれないけど、わたしは気になるんです」
「そうなんだ」
「そこまで綺麗にした日の夜、ベッドに横になってると心地よさがさらにいいというか……」
キラキラした目をしていた。
「あ、すみません。つまらない話して」
「いや、別につまらなくはないよ」
「もしかして澤田さんも同類?」
そう言って僕の顔を見上げてきた。
「お茶、飲んでく?」
「あ、はぐらかした」
キッチンでやかんを火にかけていると、ダイニングにいた彼女がテーブルの上の自分のメガネに触れた。彼女が僕を見て、僕は彼女を見た。その後、何も言わずに彼女は眼鏡をかけなかった。
「わぁ、綺麗」
「三つでも四つでも好きなだけ食べていいよ」
「ええ〜」
買ってきた和菓子を一つ一つゆっくり眺めてる。
「今日、これから誰か来るんですか?」
「いいや」
「じゃあこれどうするの?置いとくと硬くなっちゃう」
「捨てる」
「ええっ、絶対ダメ」
「だめ?」
「こんなに綺麗なのに可哀想」
その時、自分は生命のないお菓子を可哀想だと言った君の、その、心の美しさを見たのだと思う。生命のないものに生命を込めたいと願いながら作る職人がいたとして、その声にならない声を拾うことのできる君の心の美しさを。
「じゃあ、半分こしようか」
「奇数は割り切れません」
「4.5個で、一個はきっちり半分こ」
「流石にそんなに食べたらうっときます」
「わかった、わかった。三つずつ食べて、残りは硬くなるけど取っといて明日必ず捨てずに食べるから」
そう言うと、少し甘えた顔で微笑んだ。驚いた。普通の女の子だった。会社ではあんなに暗いのに。
「あれ、これ……」
僕が淹れたお茶を飲んで、彼女はつぶやいた。
「烏龍茶だよ」
「茶色くないのに」
「茶葉によっていろんな色があるんだよ」
「苦くない」
「ペットボトルのお茶のイメージが強いんだね」
そういうと、そっと器の中のお茶を見ている。
「その育った山の環境によって、一口に烏龍茶といっても香りが違うからね」
「そうなんですか?」
「目をつむってごらん」
素直に両手で茶碗抱えたまま目をつむった。
「それで香りをかいでみて」
「……」
「その茶葉がたどってきた記憶が見えるような気がしない?」
「記憶?」
「香りに綴られる生きたという記憶」
「まるで、お茶も人間みたい」
「お茶の記憶に触れようとするとき、自分が人間であるということを忘れてとても自由になれる気がするんだ」
彼女はぱちりと目を開けて微笑んだ。
「すっごい疲れた大人みたい」
「みたいじゃなくてほんとに疲れてるんです」
「大丈夫ですか?」
本気で心配されてしまった。
「なんでだろう?変だな。いっつもはこんなに疲れた疲れた言わないのに」
自分が疲れているということを忘れてた。或いは、疲れたと言って聞いてくれる人が自分にはいなかった。
「ちゃんと休んでくださいよ。病気になっちゃいますよ」
「じゃあ、また掃除に来てくれる?」
自分はまたあの声を出していた。普通の男が近寄りたい女がいて出すような声を。
出してからまたしまったと思った。
どうして綺麗な顔を彼女が隠して生きているのか。なぜ彼女は彼氏もいらなくて結婚もしたくないのか。何か理由がある。慌てて近寄ればきっと逃げてしまう。
僕は立ち上がって、仕事用の鞄の中から彼女が合格なら渡そうと思ってた封筒を取り出した。
「バイト代」
「中身を見るなんてしちゃってもいいですか?」
「どうぞ」
彼女は封筒を開けて感嘆の声をあげた。
「多いです」
「それならわざわざ休日を返上しても見合うかな?」
「そうですねぇ」
「続けてくるのは嫌?」
立花理沙
お金が欲しかったのではない。本当は最初の最初からどっかでちゃんとわかってました。
でも、自分で自分を許すために、割りのいいアルバイトだなと思うようにしてた。交友関係の極端に少ない自分は時間も有り余ってるんだし。
たった数時間、無防備に見せられた男の人の素顔に惹かれていた。あの部屋といつもと全然違う素朴とも言えるような彼の顔。そして、どうしてそれをわたしに見せるのか。
どうしてそれをわたしに見せるのか。その意味をどうしても考えてしまう。
言葉にされないその行為の意味を。
そして、いつもは人に晒すことのない顔を見せてしまった。わざと見せたわけではないのだけれど、でも、つい気が緩んでしまって。帰ってくるまでにもう一度眼鏡をかけて髪を下ろそうということをそこまで気にしてなかった。
戻ってきてわたしを見た彼の目の色を見て、きっと本当はそういう目をわたしは見たかったんだと思うんです。だから、忘れたふりをして眼鏡を外していた。
ずっと、ずっと、自分から遠ざけていたのに。ずっと静かに生きていこうと、わたしの世界から外へと放り出してしまったものを、うっかりと入れてしまった。
男の人を
「来てもいいです。いつまで続くかは保証できないですけど」
部屋に入り込んで、まるで裸を見せられたような気分になって、お返しに素顔を晒す。透明人間だなんて嘘ぶいてたくせに、自分は少しはしゃいでいた。はしゃぐ自分を止められませんでした。
バイトだなんて言いながら、肝心なことは言葉には何もせずに、だけどこれはバイトなんかじゃない。そんなのわたしだってわかってた。もちろん澤田さんにも。わかりながら来てもいいと答えるときに、体の芯が熱くなる気がした。
嫌だな……。
それは一生自分に訪れるはずのなかった感覚でした。