7、燃えた後、波は穏やかだった。
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・組織などとは関係ありません。また、作者は軍事に関する専門家ではありません。あくまで創作物としてお楽しみください。
「はぁ~……ねえ、何か言う事があるんじゃないかしら?」
「……本当にごめん」
訓練が三週目に入り、ついに本格的な軍事教育を受け始めた。個人の戦闘技術熟達を目的とする『各個戦闘訓練』が終わった後、生活館に戻る途中小夜に呼び止められ、俺は心の底から申し訳ないと謝罪した。と言うのも、訓練中にある失敗をしてしまい、俺以外の皆が腕立て伏せをさせられたのだ。
今日だけじゃない。毎回誰かしらがミスをし、連帯責任で腕立て伏せを強いられる中で、俺は特にミスが多かった。筆記試験の点数もまた、お世辞にもいい点数とは言えなかった。
「大丈夫大丈夫、誰にでもそういう失敗はあるよ」
「照月、言わせてもらうけどね。もしさっきのが実際の戦場だったらどう思う? こいつは既に死体になってるし、私達だって危なかったわ」
「そ、そりゃそうだけど……く、訓練だし――」
照月がすかさずフォローを入れるが、むしろ小夜の怒りの炎に対して油を注いだに過ぎなかった。
「訓練だからって手を抜いて良いの? 私達が士官になるまであと一週間だけど、こんな調子じゃ全員死ぬわよ? 自覚あるの?」
「……ごめん」
小夜がどんどん詰め寄るところに凪が待ったをかける。そんな中で俺は床を見ながら俯いていた。俯いて謝罪するくらいしかできなかった。
「待って待って、流石に言い過ぎでしょ?」
「凪も訓練は手を抜いて良いっていうの?」
「そうは思わないけど、訓練は実戦だって少佐から耳にタコができるくらい言われてるし」
「じゃあこいつのあの行動についてどう思うわけ? 答えて」
「わ、私は……まあ、確かにちょっとダサいなとは思うけどさ」
「それにコイツの態度が気に入らないわ。自分が分隊長だからって偉そうにしてるし、優等生ですよって感じが滲み出てるのよ。才能も実力も無いのに何を――」
俺はこの四人をまとめる『分隊長』としてずっと教育を受けている。しかし偉そうにしているという気持ちなど微塵も無い。事実、俺は少しでも彼女達に追いつこうと、少しでも優秀な指揮官になろうと思い、体力鍛錬はもちろん、座学に関しても努力していた。ただ、その様子を誰にも見せた例がないため、ただの足手まとい程度に思われていることだろう。
「ちょ、ちょっと、それ言い過ぎだって!」
「照月は黙ってて。前から思ってたのよ、こいつ全然ダメ。テストの点もいつもギリギリだし、敵の位置を報告する時も曖昧な表現だし。そんなので士官になるって本気で言ってるの?」
俺に対する侮辱はエスカレートしていく。今まで溜まりに溜まった不満をここぞとばかりにぶちまけていた。そんな彼女に怒りを覚えないわけがない。全面的に俺に非があるのは確かだが、少しだけ反論することにした。
「……小夜、俺がまだまだ未熟だから皆に迷惑かけてるのは分かってる。反省してるし、もっと頑張ろうとも思ってる。でも、だからってそんな言い方は」
「あんた、なんでここに入って士官になろうと思ったのよ」
「……戦争で悲しむ人を増やさないためだ」
「この調子で士官になって部下を指揮したら全員殺すんじゃないの? 素質がないのよ」
段々俺も小夜もヒートアップしてくるのが分かるはずだ。南も、凪も、静かに見ている日照も――。
そもそもこの言い争いの発端となった事件と言うのが訓練中の事。敵に見つからないように匍匐で進み、銃剣突撃を行うという内容だったのだが、目の前に大きなクモが垂れ下がってきたことに驚いた俺が立ち上がってしまい、その行動を咎められたからだった。
「じゃあ小夜、お前は素質があるっていうのかよ」
「私は筆記試験全部九五点以上だけど?」
「少佐が言ってたじゃないか、教科書通りの戦いはほとんど無いって。状況に応じて臨機応変に」
「でも教科書通りの戦いを熟知していないと臨機応変にはできないわよね?」
「確かに俺は筆記試験がギリギリだったけど、だったらお前は素質があるっていうのかよ」
「参謀総長直々に勧誘してくるほどだからあるんじゃないかしら? 少なくとも射撃の成績が悪いあんたよりはね」
「自惚れるんじゃないよ。大体、勧誘されたから入った意思の弱い奴が何を言ってるんだよ!」
「はぁ!? 意思が強くても技術が伴わなきゃ意味がないでしょう! そもそもあんたは意思も弱いように見えるけど? クモにビビるなんて、男らしくないわね」
「だったら今すぐデカいクモ捕まえて目の前に差し出そうか!?」
「やれるもんならやってみなさいよこの腰抜け! すり潰してあんたに返してあげるから!!!」
一触即発どころか、既にお互いが爆発してる状況の中で、凪が恐る恐る収拾を図ろうとした。
「小夜……落ち着いて……まあ、確かに巡は分隊の中でも下の方だし、結構迷惑かけられたけど、お互い様ってのもあるよ。ていうか、巡が口答えしなければ――」
残念。凪は収集を図るのではなく、燃料を投下しただけだった。さらに南も反論し、全員の熱が上がってきている。
「さすがの凪でもそういう言い方は無いと思う。私も、凪も、小夜も、日照も深宙君もみんな同じようにミスしてきたじゃん! そりゃ戦場で失敗は命に関わるけど、それでも言い方っていうのがあると思う!」
「……蜘蛛はまぁ……仕方ないです」
日照は南と同じく俺の肩を持ったようだ。ここまで来ると収拾がつかなくなる。もっとも、この言い争いを収めようなどとは微塵も思っていなかった。誰もが連日の厳しい訓練で自分本位となり、苛立ち、肉体的にも精神的にも疲弊している。
「もう一回言っとくけどね! そんなんじゃ受け持った部下全員死なすから! なんなら私達まで死ぬ羽目になりそうなくらいだわ!!!」
「勧誘されたから入った奴が何を言ってるんだよ! どうせ給料もいいし辛い環境から逃げられるから入っただけなんだろッ!!!」
「馬鹿にしないでよ!!! 私はッ――!!!」
何かを言おうとして言葉に詰まった彼女は、俺の目をまっすぐ睨みつけていた。
「私は、何だよ!」
「私はッ……私はッ……ちゃんと意思があるの!!!」
俺を睨みつけていたその瞳からは、大粒の涙が零れ落ちている。その涙の粒を見て、俺は急に怒りがサァーっと収まっていった。
「私は……一人の人間だから……ちゃんと意思が……あるの……ちゃんと、意思が……」
怒鳴り声が響き渡っていた生活館には静寂が戻り、急にどっと疲れが体にのしかかってくる。自分の部屋へと向きを変え、彼女の顔を見ずに一言謝った。
「……ごめん」
そう繰り返し、今までの自分を振り返っていた。彼女は明らかに自惚れていたが、俺も幾分か自惚れていた。上達が早く、一切の軍事知識がない割にはサクサクと用語や知識を覚えていき、体力も見違える程に向上したことを褒められ、浮付いていたのだ。
はぁ、と溜息を漏らし、もう自惚れるようなことはせず、より努力しなければならないと強く感じていた。そして、小夜に謝らなければならないとも――。
* * *
「続いて申告します! 士官候補生 深宙 巡等 五名は、二〇一六年五月一四日より、少尉任官を命受けました。ここに申告します。参謀総長に対し、敬礼!」
申告式が終わり、ついに少尉の階級章を襟に付ける。状況が状況なだけに制服は調達出来ないらしいのだが、階級章はなんとか用意出来たとの事だ。この階級章がとても誇らしく思える。金属製で菱形の階級章――この重みは士官としての責任の重さでもあるようだった。
「四週間の厳しい教育を受け少尉となったあなた達に、参謀総長として伝えたいことがあります。ここにいる五人が、五体満足で戦争終結まで生き残っているかは分かりません。ですが、私はあなた達――いえ、諸君がリーダーシップを発揮し、部下を率いてこの地を守るという任務を、忠実に全うすると信じています。そしてもう一つ……命を無駄にしないでください。以上」
「気を付け、敬礼。必勝!」
五人の新任少尉達は荷物をまとめ、士官用の部屋へと移動する。これまで寝泊まりした部屋と広さは変わらないが、机や本棚も完備されていて中々過ごしやすそうだと感じた。
ベッドも二段ではなくシングルベッドが二つ置いてあり、この一部屋で二人の士官が生活出来るようになっている。今の所この部屋は俺一人で使うのだが、誰かに気を遣わなくて良いのは快適に思える。
「ねえ、深宙君。ブリーフィングって何分からだっけ」
教材を本棚に並べていると、扉の方から南の声が聞こえた。
「二〇分からだな。あと……一〇分か」
「ところでさ、小夜とは仲直り出来たの?」
「……いや、まだ」
小夜との言い争いの後、俺は謝らなければと思ってはいたが、中々声をかけられずにいた。心の中の自尊心が勝ってしまい、どうしても話しかけられずにズルズルと時間だけが過ぎていく――そうして今日の今日まで、小夜とは一言も喋る事が無かった。
「そろそろ仲直りしないと……ね?」
「ああ、分かってるんだけど……俺にもプライドってのがあるからさ」
「そりゃそうだけどさ、やっぱりこのままじゃチームワークにも支障が出るよ?」
「うん……そうだよなぁ」
軽くベッドメイクを終えて皆が集まっている作戦室に向かうと、部屋の中は薄暗く、ホワイトボードにはプロジェクターで近畿地方の地図が映し出されていた。
「もう揃ったか。少し早いけど始めようか」
扉を閉めると、ボード上の地図はひと際目立っている。
この部屋には新任少尉五名と浅嶋少佐――千歳さんは部屋の後方、真ん中の席に座っており、前に立って話しているのは瑞穂さんだ。
「ではこれより、現在の日本の状況と各国の戦況、今後の我々の行動計画についてのブリーフィングを始める。まず初めに現在の日本の状況だ」
画面が切り替わり、地図の所々が赤く塗られている画像が映し出された。それが敵に占領されたとわかるのに、そう時間はかからなかった。
「これが一四日現在の勢力図だ。五月五日に敵連邦軍は兵庫県尼崎市、神戸市に上陸。即座に陸上自衛隊第三六普通科連隊等の部隊は沿岸部へと展開し、防御戦闘を展開していた。だが敵の侵攻速度が速く、人口密集地なため火力支援を受けれないまま加古川市まで後退し――」
早速ブリーフィングが始まった。テーブルの上にはペットボトルのお茶が置いてあり、喉が渇いていた俺は手に取ろうとするが、浅嶋少佐の視線が少し気になる。
「一一日、自衛隊は姫路市への侵入を許してしまい、三七普連も堺市の西まで後退して、戦況は芳しくない。原因としては、人口密集地であることから爆発物の使用を禁じられた事。民間人の避難が遅れていて、避難誘導も同時にやっていること。敵の装備や戦闘力がかなり高い事が挙げられる。
瑞穂さんが傍に置いていたプラスチック・コンテナから、木製の長いライフルと数枚の布を取り出した。テーブルの上に金属製のヘルメットを置いた瞬間ゴトッという音が部屋に響く。
「これが敵連邦軍の装備だ。戦闘服はグレー寄りのODで、第一次世界大戦時にフランス軍が使用した用なヘルメット――武器はトグルアクションと呼ばれる構造を持ったライフルで、現代の自動小銃と比べると装弾数の面で劣ってはいるが、射程距離や威力は遜色ない性能だ」
南と凪がライフルを手に取って触っている。その内戦闘服が俺の方へと渡されたのだが、生地の質感は決して悪くなく、コットンのようでとても良い手触りだった。
「さて……空からの偵察は出来るが空爆は出来ず、敵は砲弾の雨を降らせているのに陸自は手榴弾さえも使えない。この状況で一三日、大阪湾に敵の水上艦隊が出現した。F-2戦闘機による空対艦ミサイルでの攻撃は駆逐艦二、補給艦一を撃沈させたが、出撃した四機の内三機が撃墜され、パイロットは全員死亡が確認された。このことから空自は、艦隊への航空攻撃に慎重になっている。地対艦ミサイルによる攻撃も考えられたが、西部方面隊――九州から輸送する必要があって、現在手続きが進んでいるのが現状だ。ここまでで質問は?」
凪が手を上げ、真剣な表情で質問を投げかけた。
「今の時点で民間人の避難はどこまで進んでいますか? それと、敵の航空戦力はどうなっているんですか?」
「現時点で民間人の避難が完了したとの情報はどこからも無い。敵の航空戦力については、第一世代ジェット機が確認されただけで、本格的には投入していない様だ」
「なるほど……敵の対空兵器はそれほど脅威なんですか? F-2戦闘機が撃墜されるって……」
瑞穂さんは画面を切り替えて海の上に浮かぶ艦隊の写真を見せ、徐々にズームしていった。
「うん、それが……対空ミサイルによる飽和攻撃があったとの情報がある。この写真を見る限りミサイル発射管を確認できないが、何か私達には想像もできない技術が運用されているのかもしれない。そこは分からんが……とにかく敵の対空兵装は強力で、艦隊に近づける航空機は少ない」
「分かりました。続きをどうぞ」
持っていた戦闘服を日照の方へ回し、俺は次に木製のライフルを受け取った。かなり重量感があって全長も長く、昔ながらのライフルというイメージでかなり魅力あるものに感じる。
「次に各国の戦況についてだが、ロサンゼルスに展開した敵上陸軍を迎え撃つために米陸軍と海兵隊は迎撃を開始した。しかし制空権の確保が出来ず後退を続け、現在はロサンゼルス封じ込めのためにオックスナードとカールスバッドにて敵と交戦している。スペインのバルセロナへと上陸した敵部隊は想像以上に手強く、既に首都マドリードに到達している。さらにフランスのトゥールーズまで前進しているとの情報もある。そして四月一八日にシンガポールは陥落――スマトラ島とマレーシアのクアラルンプールまで占領され、東南アジア戦線も状況は最悪だ」
世界地図が表示され、まるでカビのように侵食していく様は恐怖心を煽っている。
「さあ、今後の我々の行動計画について説明する。我々日本AAOは、九二名の新兵を四週間で教育し、早速陸自部隊――南大阪で戦っている第三七普通科連隊への補給任務に従事する。その際、車両を使うため普通免許を取得しなければならないが、これは和歌山市内へ出張し、ローテーションで教育と試験を受けてもらうつもりだ。言っておくけど、一発で合格しないと作戦に参加出来ないからな。じゃあ質問を受けよう」
その一言に小夜が手を挙げて発言をした。
「もし、もしなんですけども……南大阪が陥落したら、私たちはどこに行くのでしょうか……?」
「その場合は陸自と行動を共にする」
「そうですか……」
「今の所日本に投入されている戦力は他の戦線と比べてもかなり少ない。慢心するのは論外だが……だからと言って絶望するのはまだ早いぞ」
『瑞穂さん』と呼びかけたところで言いなおし、自衛隊が逆襲をしない理由を尋ねた。
「瑞穂さ……少佐、どうして京都から大阪と兵庫へ進まないんですか? 敵を分断することが出来ますし、そうすれば――」
「自衛隊――いや、首相は連邦と停戦をしたがっているんだ。せめて住民の避難が終わるまで、と」
「このタイミングでですか……? それは馬鹿げてます」
「ああ、その通り。しかも外務省や財務省の奴らまで自衛隊の行動にクレームを入れて、陸上幕僚幹部も中国地方、東海地方を担当している第一三、一〇師団の引き抜きを頑なに拒んでいる。なんなら、西部方面隊の地対艦ミサイルもダラダラと手続きなんかしているから、どんどん戦況が不利になっているんだ」
語気を強めて発言する瑞穂さんは、どうしようもない状況に苛立ちを隠せないでいた。バンッとホワイトボードを手のひらで叩き、話を続ける。
「そもそも正常性バイアスがかかっている状態でまともな判断ができるわけないんだ。地上軍投入から一ヶ月の間、ずっと東京が安全だからって現実を見ていないんだよ。前線で命を落としてる自衛官がどれほどいるのか分かって無い奴が多すぎる。これは自然災害でも伝染病でも無い、戦争なのにッ……!」
士官としての教育を受けていく過程で、当然日本の憲法や自衛隊についても学んだが、彼らを取り巻く環境は想像以上に厳しいものらしい。特に手榴弾の一発でさえも使用許可が出ないとは、本当に国民の事を案じての事だろうか? せめて民間人の避難が確認された地域であれば、使用を許可させることは出来るのではないか? 俺はまだ素人とは言え、その考え方が理解できなかった。今前線で戦っている自衛官が気の毒で仕方がない。
「……でもな巡、逆襲って言うのは誰だって出来る。お前が想像も出来ない事を偉い奴等が不眠不休で続けてるって事を忘れるな。分かったな?」
俺の自信過剰な態度は不適切だと言われたような気がした。確かに瑞穂さんの言う通りで、優秀な人材が何年も何十年もキャリアを積み、俺とは次元の違う仕事をしているのだ。確かに傲慢で現実が見えていない、とても馬鹿げた発言だと反省した。
「さあ、少し落ち着きましょう。参謀総長である私から報告したいことがあるわ。まず、弾薬の調達ルートが確実になった。今までは仁川から羽田空港まで航空便を使っていたのだけれど、日本の会社から契約を取れたから弾薬が安定して手に入る。それと車両もね、兵員輸送トラックを一〇台と装甲SUVを五台。どちらも納車は再来週で、各自それまでに整備方法等を習得しておくこと。私からは以上よ」
「……うん、ありがとう。新任少尉五名は百合から新兵教育に関して注意点がある。残って聞いてくれ、以上!」
状況は良くないと断言できる。この一ヶ月、世界中で侵攻が始まっていたとは――。
それにしても、どうして敵は東京へ攻撃を行わずに大阪と兵庫に向けて侵攻を始めたのだろうか。本来であれば首都を目指すはず……それがどうして大阪なのか。アメリカの場合はロサンゼルス――西海岸攻略のためと分かるが、日本の狭い国土の中でわざわざ大阪から攻めるメリットが分からない。
「――やから、絶対に手は出すなよ。新兵一人一人が貴重な戦力やからな、絶対に手は出すな。暴力は何一つええことない。注意は以上、なんか質問あるか?」
「士官候補――いや、少尉 深宙 巡」
「なんや」
「少佐、敵が東京ではなくわざわざ近畿地方を狙う理由は何でしょうか?」
「それは……さっき瑞穂に聞いたら良かったのに」
「すみません、状況を整理するのに手一杯でして」
補給品目の中にメモ用紙がある理由が分かったような気がした。あの情報をすべて頭の中に詰めておくのは、かなり苦労する……というより現実的では無いだろう。
「俺――あぁ、いや。自分としては近畿地方の占領ではなく、別の目的があると思うんです。それが恐らく……舞鶴ではないでしょうか?」
「舞鶴か……海自基地があるとは言うてもやで? 敵の艦隊がおる大阪湾から直接日本海に渡ることは出来へんし、そもそも舞鶴は四方を山に囲まれていて、相当な戦力を投入せなアカンやんか」
「はい、確かにそれはそうですが」
そこへ凪が口を挟んだ。彼女は戦略の試験でそこまで点数が高かったわけではないが、戦史の知識を活用して教育中も評価が高かった。
「浅嶋少佐、もしかすると敵が中国大陸側に上陸することも見据えてのことかもしれません。太平洋に展開している海自艦隊が壊滅した場合、敵は紀伊水道から太平洋に出てきます。そうすると今度は沖縄、台湾――中国本土への上陸も考えられます。さらに対馬海峡や関門海峡を通って日本海側に出る事も出来ますから――」
「そうやな……そうしたら当然韓国を橋頭堡として確保して、中国東北部に進む……東日本は後回しって事を言いたいんやな」
「はい、その通りです」
「西日本を優先的に狙う理由なぁ……さっき瑞穂が言ってたけど、自衛隊はウチらよりしっかり分析して、敵の意図が何かを把握してるはずや。私らへの情報共有は最低限やから、それを知る方法は無いんやけど」
「それでも、ヒントも無しにこうやって考えが出るっていうのはすごい事ですよね」
日照も照月も凪の事を褒めちぎるが、俺は少しずつ気が付いていた。結局は素人である俺達でさえも思いつく事なのだから、情報も頭脳も最高の環境が用意されているであろう自衛隊なら、敵の意図を分析することなど造作も無い事だろうと。
「……それもそうやな。確かに、青葉少尉は将来有望やな」
「いえ、それほどでは――」
「そしたら君らは予定通り一一時二〇分から補給品の搬入やな。以上、解散」
「気を付け、敬礼。必勝!」
「必勝」
とにかく敵が西日本を占領した段階で大陸への上陸も十分有り得る。自衛隊と俺達の役割は相当なものになると感じていたのだった。常に最悪の状況を頭の中に入れておく事が最も重要な事なのだが……中国・四国地方を占領されないように死ぬ気で戦うのはもちろんの事、その上で占領された時の事を考える事が大事なのだと、教育期間中に伝えられていた。
俺は作戦室に戻って地図を見直し、敵がどこまで進んでいるかを拡大して把握した。そこである事に気付く。
敵が堺市の西まで来ているとなると、休暇を使って母の墓へは行けそうにない。いや、休暇すらあるか分からない。まさか大阪も他の国の都市と同様、結果的に陥落するのだろうか? そんなことはないと言い切れる自信がなかった。
やがて五人の少尉は倉庫へと向かい、明後日から入営となる新兵九二名のための装備や被服を段ボールから出す作業を始めていた。OD色の軍用品からは独特の匂いがし、タグを切り離したりビニールから取り出す作業は非常に面倒だった。ゴミをまとめて捨てに行くのも手間がかかる。
「これは……中々骨が折れる作業だな」
「そうですね。あれ? ヘルメットバンドはそっちですか?」
「えっと、これだな。こっちに全部ある」
「ありがとうございます。納入数は……三〇〇ですね、あってますか?」
「一〇本の束が一、二……ちゃんと三〇〇本だ」
「分かりました。三〇〇本異常なし……」
士官候補生の時から、日照とこうやって話をするという機会があまりなかった。凪と小夜は銃器を保管庫に収め、南も銃剣の数を確認しに行っているので、被服や装備の整理は日照と二人きりでやっている。
日照は最初に会った時よりも遥かに健康的になり、血色がよくなったというべきなのだろうか、表情も少し明るくなった気がした。
「日照は……生きるためにAAOに入ったんだよな」
「そうですね、もうそうするしかないと思ったので。ただ、今も思うんです。本当にこれでよかったのかと、現実から目を逸らしているだけなんじゃないかと……逃げているだけなんじゃないかと」
彼女は持っていた段ボールを折りたたみ、丁寧に壁際へと積み上げた。元々几帳面な性格をしていたおかげで、ゴミは端の方に
丁寧に寄せられている。
「いや、俺はそう思わない。逃げる事も時には必要だよ」
「じゃあ、家もお金もない状況に逃げることが賢明な判断だと言えますか?」
「それは……」
「周りの人間はみんな逃げなさいって言うんです。でも言う事は簡単ですよね。逃げ場があればとっくに逃げているんです、簡単に言うんですよ。でも私は逃げ場なんてなかった。先生、警察、近所の人達――どこにも逃げ場がなかったんです。私は今でも思います、本当にこれでよかったのかと」
虐待を受け続けていたのにそういう思考になってしまったのは、もはや洗脳と言っても過言ではない。生まれてきてからずっとそういう扱いを受けて来たんだ。それが当たり前として一六年を生き続けて来たんだ、無理もないだろう。彼女にとってそれは幸せではないはずなのに。
「日照……」
「分かっています。重いですよね、こんな話。やめましょうか」
彼女は逃げる事に対して異常に抵抗感を表している。だが、そんな日照でも逃げ出したくなるようになったのは、やはり繰り返された暴力が原因なのだろう。
「……小夜さんとは和解しましたか?」
「あぁ、いや……まだ」
「早く謝ってしまえば楽だと思いますよ」
なんて鋭い指摘だろうか。俺も日照の言う事に同意するが、行動に移すのは中々難しいのだ。彼女の言う通り、さっさと謝ってしまえば楽になれるものを。
「そう言えば、学校に居た頃はどんなだったんだ?」
「はい? 学校ですか?」
痛いところをつつかれた所で、かなり無理に話の話題を変えた。小夜との喧嘩の事について、色々と言われたくないというのもあるのだが、彼女の生活について気になることが多すぎる。しかし迂闊に聞くわけにもいかない。辛い過去を背負った子に対し、あれやこれやと詮索する事が良いはず無いのだ。それでもお互いの事を知らなければ友情は育めないと信じ、今までも失礼に当たらないよう少しずつ聞いてきたのだった。
「あぁ、中学までは行ってたんだろ?」
「巡さん、逃げましたね……まあいいです。ただ、思い出という思い出はありませんよ」
「そうか……友達とかは?」
「面倒な事に巻き込まれたい子なんていますか?」
ふふっと笑いながらそう言う彼女に、俺は悲しい気持ちを隠せなかった。親切心から彼女を気にかけてもいいものを、一切関わらないなんて――。
「それは……確かに言われてみればそうだな。そんな子滅多にいないもんな」
「誰もが私を避けていました。それだからか、妙に学校は居心地がよかったんです。勉強は楽しかったですし……先生が進学校も十分合格するレベルだと言っていました。でも私はとにかくあの家から逃れたい一心だったので、高校は受けずに……」
「でも、家を出たことに関して本当にあれで良かったのかって思っているんだろ?」
「えぇ、今でも思っています」
その苦しい状況でどうして逃げるべきだと考えないのだろうか。どうせ耐え続けても、体か心が壊れてしまう事に変わりはないだろうに。
「どうして逃げる事が良くないと思うんだ?」
「そう言われ続けて来たからです。逃げるような弱い子だと言われ続けて来たからです」
「……失礼な言い方かもしれないけど、それはその――」
言葉に詰まってしまった。いくら彼女に非道な扱いをしていたとは言え、他人の親なので十分に言葉を選ぶ必要があると思った。しかし、どうにも表現をぼかすことが出来ず、言葉に詰まってしまったのだ。
「ええ、分かっています。ですが人の考えというのは……価値観というものは簡単には変えられないものですね。今も私の心の中には、逃げる事がいけないことだという気持ちが根付いてしまっています」
「ここで俺たちと生活する中で、変えられると……いや、変えたいと思うか?」
「まだ分かりませんね。価値観と言うものは……根付いてしまったものは簡単には変えられませんから」
扉を開け、外へゴミ捨てに行く時に彼女はこう言った。振り返って軽く微笑んで話す彼女の表情には、少しだけ希望の光を見たような印象を受ける。
「ただ、私は変わりたいと思ったから、あの家を出て来たんだと思います。だから……巡さんも小夜さんと和解してくださいね」
俺は多くを言わず、そっと一言を伝える。
「日照なら……きっと変わるよ。俺も変わる努力をする」
『ありがとう』と言いたげにこちらを一瞥した日照は、多くの段ボール携えて静かにその場を離れていった。
* * *
夕食の後、入浴を終えて『隊列』を復習していたところ、放送で招集がかかった。急いで指定された作戦室に入り、席へと着く。
「皆休んでいるところ申し訳ないが、非常事態なため集まってもらった。本日二〇時より、敵の海上戦力は太平洋側の米海軍と交戦状態に入り、和歌山県近海で警戒していた護衛艦四隻を急派させると共に、瀬戸内海の自衛艦隊に追撃を命令したが、米海軍と海自は相当な被害を受けて撤退した。さらに岐阜基地より出撃したF-4戦闘機六機の内二機が撃墜されたとの情報もある。敵の被害は確認中だが……期待は出来ないだろう」
瑞穂さんが深刻な表情で淡々と報告するのを聞いて、俺はショックを受けた。まさか海でも敗北するとは――しかもアメリカ海軍と海上自衛隊が共に戦ったというのに、相当な被害を受けて撤退したという事が信じられなかった。
「瑞穂少佐、それは事実でしょうか?」
小夜が立ち上がって尋ねる。無理もない、アメリカの軍事力が強力なのは誰もが知っているほどなのだ。簡単には信じられないはずだ。現に俺はその情報がデマなのではないかとも思っていた。
「あぁ、全部事実だ。もうメディアでも報道されてる」
「敵の海上戦力の写真を見ましたが、明らかに旧式のもので……」
「防衛省による発表によると、全ての誘導兵器が使えなかったらしい。嘘か真かは分からないが、可能性は大いにある」
「それはEMPでしょうか?」
「いや、EMP攻撃にも耐えられるように保護してあるはずだ。ミサイルが使えなかったという事は……つまり、妨害電波か何かを出していた可能性があると海上幕僚監部は睨んでいる。正直言って、私達の想像を遥かに超える技術を運用している奴らだ。何があるか分からない」
小夜は黙ったまま座り、視線を床に移す。
「せやけど、今の敵の狙いとしては明らかに大阪やろ。まだ四国に侵攻せず、岡山方面に進んでるのを見る限り、九州も標的やろうな」
「ああ、百合の言う通りかもしれない。日本海側へ攻撃を仕掛ける場合、必ず瀬戸内海を通って関門海峡を通過するからな。そうでなければ、わざわざ迂回して米海軍や中国、韓国海軍から攻撃を受けるリスクを負うことになる。どちらにしろ、朝鮮半島と台湾に上陸するつもりなのは目に見えているな」
「ただ一つだけ疑問があるんやけど、敵の航宙駆逐艦とか海上戦力とかは突然現れたわけやろ? なんでわざわざ大阪湾に出てきたんかなぁ……」
瑞穂さんが眉をしかめてまた話を始めた。隙間に小さな物を落とした時、あと数センチ手を伸ばせば届きそうなくらいのもどかしい気持ちになっていることだろう。
「……正直に言うけど、分からん。本当に何も分からない状況だからね。こちらの世界は既にアナザースペースに対する研究を二〇〇五年から封印しているんだ。中には抹消した研究データも多くある。当時研究していた人たちをかき集めても、すぐには分からない。研究していた頃も情報が極端に少なかったのに……」
「確かに言われてみればそうやな……けど、大阪南端に直接上陸して来やん理由も分からんままやんか」
そういえば、淡路島と大阪府南端の距離はほんの10kmほどだ。その気になれば北から降りてくる部隊と挟み撃ちにすることができるはず――。
「ああ、挟み撃ちにできる絶好のチャンスなのにと思うだろう。だが、少し考えてみてほしい。大阪府南端に上陸してくるはずと思いこませておけば、当然上陸阻止のために陸自の部隊を集結させるだろう? 本来北大阪から南へと降りてくる敵を迎撃するための部隊が、動こうにも動けない訳だ。そうすれば敵は上陸のためのリソースを割かず、大阪を陥落させることが出来る……っていう、そういう話もある」
「ちょっと待ってください瑞穂さん! だったらどうして陸自はわざわざ南端を守っているんですか! 上陸して来ないと分かっていて、どうして」
「……瑞穂『少佐』だろ」
「す、すみません少佐……」
俺が立ち上がって発言したものの、いつもの癖から少佐を付けていなかった。ここは家でも外でもない準軍事組織の『AAO』の中なのだ。
「確かに深宙少尉の意見も一理ある。だが絶対という保証はない。敵が今日太平洋側の艦隊と戦って勝利したという事実は、上陸の可能性をより高くさせる。それに今も言った通り、絶対という保証は無いんだ。もし全部隊を北から来る敵に割り当てた場合、その隙をついて後ろから攻めてくる可能性だってあるんだ。もちろん、敵も分かっていてまだ上陸させていないんだろう」
「そ、それは……そうですが」
「まあ、今日から少尉として活躍するんだ。緊張しすぎは良くない」
俺は瑞穂さんから、指揮官としての能力を否定されたような気がしてならなかった。確かに俺は少尉になってまだ一日も経っていない。だがしっかりと勉強はしたはずだし、素質もあると言われてきた。自惚れるのは良くないが、それでも十分努力してきたと自負していた。
「話を戻して、沿岸部からは交戦している様子がしっかり見えたそうなんだ。SNSや動画投稿サイトにもかなりの数がアップロードされていて、それがこの映像なんだが……」
プロジェクターから映し出された動画には、赤や緑の光の筋が飛び交っていた。いくつか爆発も起こり、撮影者は『マジの戦争やん……』と呟き、ショックを隠せないでいる。
「この通り、敵の戦闘力はかなりのものだ。現代の艦艇はミサイルを使用することを前提として運用されていて、二次大戦の様に艦砲で派手に戦うという戦術は廃れている。対艦ミサイルは艦砲の射程外から撃つことが出来るからな。しかしそのミサイルを取り上げられた今、装甲が脆弱な現代の艦艇は……言わずもがな、敗北と言う結果を残している。そして無誘導爆弾による対艦攻撃も行われたが、対空砲の弾幕の前に二機が墜ちた。私達の行動計画は昼に伝えた通りで変更はない。状況は最悪だが……絶望しないで欲しい。以上だ」
「気を付け、敬礼! 必勝!」
必勝――その言葉に重みがのしかかる。必ず勝つと言う意思があったのだが、こうも敗北ばかり見せられると、上がる士気も上がらないというものだ。
ベッドに横たわりブランケットをかけ、目を閉じても楽観的な気持ちには絶対なれない。ただ、海の底に沈んでいった人々の苦しみが――炎に焼かれて死んでいった人々の無念さが、俺の階級章に重くのしかかっているように思えた。
それまであった勝利への自信は、やがて現実的な問題として心の中にひっそりと佇んでいた。
* * *
新兵受け入れの始まりである五月二一日。
春の暖かさは何処へ、最高気温二八.五度の最中、駐屯地の正面ゲートは人々でごった返していた。新兵教育のために訪れた一六歳から一八歳までの男女は、ほんの数日前まで高校に通い、友達とくだらないことで笑い合っていた、ごく普通の高校生だった子が大半だ。
家族との別れに涙する者、心配しないでいいと声をかける者、何も言わずにゲート内へと踏み入れる者もいる。そんな様子を『助教』の腕章を付けた少尉らが見守っていた。
「そろそろ時間です。新兵教育希望者は、ゲートから出ないでください!」
俺はゲートを超えてまで見送ろうとする親や兄弟を押しのけ、教育希望者に整列の号令をかけた。既に訓練は始まっているのだ。
「全員、三列で並ぶように!」
お互いの様子を伺いながらダラダラと並ぶ様子はとても兵士とは言えない。だが、俺は浅嶋少佐からこう言われ続けてきた。
「皆さんに一つだけ言っておきます。兵士と言うのはなるものではありません! 作られるものです! 正直言って、かなり厳しい訓練を経験することになるでしょう。それでも訓練を受けたいという者のみ、私の後についてきてください」
新兵教育は『受けたい』と希望する者なのだ。今後どれだけ文句を垂れようと、自分が選んだ道だということを忘れさせてはいけない。
助教である俺は教育希望者に最後の別れの挨拶もさせず、後ろを振り向くことさえも許さず、ただひたすら歩かせていた。日差しが強く、額には汗が浮き出る。とても暑い日だった。
* * *
「じゃあ、特に不足しているものもないんだな」
「はい、訓練は明日から始められます」
瑞穂さんと訓練についての最終確認を行う。戦況が切迫しているので、出来るだけ早く訓練を終わらせる必要があった。
というのも敵は岡山県県境まで進み、トルコのイスタンブルにも上陸したという状況から、もう一ヶ月以上も待っていられないというのが、千歳さんの本心だそうだ。だが訓練が不十分だと実戦で足手纏いになるだけなので、全員に同じ教育を施すのではなく、得意不得意に応じた個人別の教育メニューを用意することになった。
例えば敬礼や回れ右等の基本動作は出来ていても、銃器の扱いが不得意な訓練兵の場合は、その苦手な分野を集中的に教育するというもの。教育教官やそれを補佐する助教にとってはかなりの負担となるが、短期間で実力をつけさせるためにはそれしかない。
「うん……じゃあ、暴力だけは無いように頼むよ」
「ええ、もちろんです。頑張ります」
「あと……日照ちゃん――じゃなかったな、春風少尉のご家族から捜索願が出ていると警察から連絡があったんだが」
「捜索願?」
「うん。AAOとしては保護をしたに過ぎないと主張しているが、向こうのご家族が……かなり吠える人間でね」
吠える人間――なるほど、詳しく聞かなくても想像ができる。
「うちの娘を返せと言ってはいるんだが、虐待の件を問い詰めると黙るんだ。近々こっちに伺うって話だけど、こちらとしてはあの子をまた地獄に放り込むのは何としても避けたいんだ」
「それはそうです。日照は正直、その……ひどい環境に居たときの刷り込みが強すぎて、こうやって士官として生活する事が本当に良かったのかと悩んでいます。なんとか自分から変わりたいとは思っているようですが、価値観は簡単には変わらないと」
十数年間ずっと虐待され続けて形成された彼女の価値観が、そう簡単に変わるはずがない。少しずつ、本当に少しずつ彼女に寄り添い、精神的な苦痛を取り除いてあげるほか無いのだ。
「うん……あの子を失いたくないんだ。少尉としてではなく、一六歳の女の子として」
「俺も同じ気持ちです。今まで一緒に乗り越えて来たんですから」
「それと両親のカードを無断で持ち出してお金を下したことについては、罪に当たらないみたいなんだ。血の繋がった家族間での事だからね」
「じゃあ、特に罰則とかはないんですね?」
「あぁ、何もない。でもあんな気の弱そうな子が大胆なことをするもんだ」
俺もそう思っていた。だがその大胆さや勇気が士官としていい方向に作用するかもしれないと思うと、決して悪い話ではない。劣悪な環境にいたことは確かだが、その環境が意図せずとも彼女に成長を呼び覚ませていたのもまた事実だった。
「それくらい追い詰められていたんですよ」
「そういえば……巡、お父さんとは連絡付くのか?」
「……いえ、分かりません」
「そうか……余計なお世話かも知らんが、生きてるかどうかだけ調べても――」
「必要ありませんよ。母が死んだと知っても何も感じないでしょうし、お金をくれるわけでもありませんから」
父親は俺が中学一年生の時に母と離婚している。理由は教えてもらえなかったが、父が数日間全く眠らずに何かに没頭していたり、妙に怒りっぽくなって母に暴力を振るっていたのは、ただの夫婦喧嘩と言う訳では無かったのだろう。
「……そうか。分かったよ、無理にとは言わないけど、それでも血の繋がった――」
「瑞穂さん、その言葉は聞きたくありません。俺の体の中にあの人間の血が流れていると思うと虫唾が走ります。今すぐあの血を抜き取ってやりたいッ……すみません、一人にしてください。それと二度と父の話はしないでください」
「……うん、分かった。伝達事項はさっきので全部だからな」
「はい。必勝」
敬礼をして部屋を出る。近所付き合いが長かったためか、大体の事情は千歳さんと瑞穂さんも知っている。そのためよく気にかけてくれたのは本当に有難いのだが……。
母が苦労するようになった原因が父にある以上、俺は父と会いたいとは思わなかった。実際、母からも『あんなロクでもない人間、ああはならないで』と言われ続けていた。父がどこで何をしようと全く気にならない、関わりたくないというのが俺の気持ちであり、これからも変わりはしないだろう。
瑞穂さんと別れてから、廊下でバッタリと出会ってしまったのは、言い争いがあって以降一言も言葉を交わしてこなかった小夜だった。お互いが気まずいままですれ違おうとしたとき、俺は日照との会話を思い出した。
『俺も変わる努力をする』
彼女とそう約束をしたのだから、破るわけにはいかない。それにこのまま作戦に投入され、小夜に死なれでもしたら俺の気持ちが晴れないままだ。
今この場で謝ろう。そう決心し、ついに彼女の名前を口にした。
「さ、小夜」
驚いたようにこちらを見つめ、やがて落ち着いた口調で『何か用?』と答える。そんな彼女がとても優しく思え、これまでの愚かな自分を反省した。
「本当にごめん。ミスしてたのは俺なのに、逆に怒ってしまって……それに早く謝らないといけないのに、変なプライドのせいで謝れなくて……本当にごめん!」
謝罪の言葉を言った数秒後、なんと小夜から頭を下げられ『ごめんなさい』の一言を伝えられていた。
「私こそごめんなさい。完全に自惚れていたわ……本当にごめんなさい、あなたにひどいこと言ってしまって……ごめんなさい」
「いやいや、完全に俺が悪かったよ。そうだ! せっかくだし、何か飲み物奢るよ。それで仲直りして欲しいんだ」
「え? そ、それでいいの? 本当に?」
俺の言葉に小夜の表情が少しだけ明るくなった。どうやら彼女もずっと気になっていたらしく、タイミングさえ見つければ謝ろうとしたらしいのだが、中々決心がつかないまま今日まで来てしまったらしい。今更ながら早く謝罪してしまった方が良かったと痛感したのだが、何はともあれ仲直りを出来たのが何より嬉しかった。これから一緒に戦っていく仲間なのだから――。
「それで何が飲みたい?」
「ん~、そうね……スポーツドリンクを五本」
「え? 五本も!?」
「馬鹿ね、残り四本は照月達とあなたの分よ。ほら、仲直りするんでしょう?」
「あ、あぁ! もちろん!」
自販機から出てきた五本の缶飲料を二人で分け、共に歩き出した。
俺達だけじゃない、誰もが未来を見据えて歩みだしていた。
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