5、暗い影を振り切ると、日が昇っていた。
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・組織などとは関係ありません。また、作者は軍事に関する専門家ではありません。あくまで創作物としてお楽しみください。
けたたましいラッパの音が部屋中に響き渡り、俺と南は同時に起き上がる。何が起きているんだと把握する前に、瑞穂さんが部屋へ入ってきた。
「二人ともおはよう」
「お、おはようございます」
南が目元を擦りながら尋ねるが、瑞穂さんは意地の悪そうな表情を浮かべてこう答えた。
「あの……瑞穂さん……これ何の音ですか? っいたたた……体いったぁ……」
「軍隊の起床ラッパってやつだよ。目覚まし時計代わりだ、いいだろ?」
「は、はぁ……」
そんなことよりも体中が筋肉痛なのは俺も同じだ。こんな状態で訓練を始めるのかと思うと、少し憂鬱な気分になる。
「メロディは自衛隊のと違うんだけどな。これさえあれば嫌でも起きれるようになってくるから、朝は安心しなよ」
「アハハ……とてもいい目覚めになりそうです」
苦笑いのまま答える南は、この状況を心底うんざりした口調で答えた。皮肉交じりでは無いと思うが、その嫌そうな表情を隠しきれていない。
「じゃあ二人とも洗顔を済ませてから朝食を食べようか。はい、君たちの洗面バッグ」
そう言ってビニール素材で出来たポーチを渡され、AAOでの生活が始まった。
* * *
「じゃあ敬礼のやり方から。右腕を四五度の角度で曲げて、中指が眉毛の端に来るようにする。注意点としては、手のひらを見せないようにすることだな。さあ、やってみて」
ふくらはぎ、太もも、背中、脇腹……体中至る所が筋肉痛なのだが、瑞穂さんはお構いなしに訓練を始めた。歩く方法からわざわざ教えてもらい、何時間も行進してやっとのことで次のステップに移行する。
右向け右、左向け左、回れ右、整列、休め、気を付け――それらが終わって今教えてもらっているのは『敬礼』という動作だ。
「もうちょっと腕下げて……うん、それを気を付けの状態から、はい」
敬礼などやったことがないのは言わずもがなで、こんなにも抑えるべきポイントがあるなんて知らなかった。帽子を被った時と被っていない時ではやり方も少し違う上に、誰にどういった時に敬礼をするという事まで覚えなければならない。
「ん~、最初にしては中々……じゃあ次なんだが、敬礼をする際に『必勝』と言う。これは軍の中でも特異な敬礼法なんだが、うちでは採用することにした。張りのある声でな、やってみて」
「ひ、必勝!」
映画の中でしか見たことのない動作はとても恥ずかしかった。敬礼をこうも大真面目にするとは思ってもいなかったのだ。
「二人とも恥ずかしがるなよ。君たち士官になるんだから」
「っは、はい!」
「さ、もう一度」
「「必勝!」」
「それを三〇回、実施」
瑞穂さんは容赦がなかった。訓練を少しでも甘くしたら一人前の士官にはなれないという事なのだろう。その後、一連の動作をテストしてもらい、ある程度目を瞑れるほどだと評価してもらった。
「君達上達が早いな……こういう仕事の素質あるんじゃないか? よし、じゃあ五分間休憩……っと、もうすぐ昼飯か。ちょっと早いけど食堂に移動しよう。もちろんさっき教えた動作でな」
「瑞穂さん」
「違う、瑞穂少佐だろ」
南が呼び方を咎められて言い直す。
「瑞穂少佐、軍服なんかは……」
「あぁ、昼過ぎに百合が到着するから、その時に」
「分かりました」
「全体、右向け右。前へ、進め! いち、に、いち、に――」
* * *
昼食として出されたサンドイッチを食べていると、見知らぬ女性が食堂へと入ってきた。皺一本無い綺麗な軍服には、アイロンがけまでされている。
「……君らがか」
食事中の俺たちを見つめ、独り言をつぶやきながら近づいてきた。
「あの、どちら様ですか?」
「あー? 階級が上のもんに対してどちら様やと~? お前中々ええ度胸しとんな」
目元は笑っているが、その如何にも軍人らしい姿勢や威圧感から思わず目を背けてしまう。
「え、えっと……」
「まだ教えてもらってないんか? 上級者にはまず敬礼と官等姓名やろ?」
官等姓名とは自身の階級と名前を表すことだ。つまり俺の場合は『士官候補生 深宙巡』となる。本来は上級者、階級が上の者に対して敬礼と共に官等姓名を言わなければならない。それを怠ったから不機嫌というわけなのだろう。
「い、いえ……士官候補生、深宙 巡!」
「士官候補生、南 照月!」
「……なんや、教えてもらっとったんかい。最初やから見逃すけど、二度は無いで、分かったな?」
「はいっ!」
「あははは! まだ訓練開始で半日も経ってないんだぞ、大目に見てやれよ」
厨房から瑞穂さんが笑いながら出てくる。
「お、瑞穂やん。ういっす」
「防衛大出身とは思えない挨拶だな、相変わらずか」
「友達同士やんか~、階級も同じ少佐やし」
「まあ……いいか。君達に紹介するよ浅嶋 百合少佐だ」
その言葉を聞いて俺と南は姿勢を正し、早速指摘された敬礼と官等姓名を名乗った。
「必勝! 士官候補生、深宙 巡! 先ほどは失礼致しました!」
「必勝! 士官候補生、南 照月! 宜しくお願いします!」
「必勝、少佐 浅嶋百合や。よろしくな」
また叱られないように大きな声で返事をすると、浅嶋という女性は少しふっと笑い、俺達の一挙手一投足を見つめていた。
「これからは私と百合で君たちの教育を実施する。厳しくいくから覚悟しろ」
「おー、瑞穂やる気あるんやなぁ」
「当たり前だろ? この子達が唯一の士官になるんだから――」
「それもそうやな……じゃあ、さっさと食べ終えて食堂の前に集合、分かったな?」
俺と南は大きな声で返事をし、残りのサンドイッチを紅茶で喉に流し込んだ。そこへ千歳さんがタブレットを見ながら駆け寄ってくる。切羽詰まった表情で、何か良くないことが起こったのは確かだ。
「お、千歳姉。どうしたん?」
「皆、ちょうど良かった。これを見て」
そう言ってテーブルに置かれたタブレットを見ると、ニュース記事が表示されていた。『ガスポツヴァ連邦軍が地上軍を投入』
「これは……本格的な侵攻が始まったって事か」
瑞穂さんはイスに座り、タブレットでほかの情報も探す。
「困ったお客さんやのぉ……そんで、どこに攻めたんや?」
「今公開されてる情報だけだけど、今日の朝六時、淡路島に上陸したらしいわ。自衛隊が四国と本州を結ぶ橋も完全封鎖したって――」
「また面倒なとこに攻めて来よったな……地上軍の投入は日本だけなん?」
「いえ、同時刻にロサンゼルス、バルセロナ、シンガポールに上陸……EMP攻撃も行われたそうよ。橋頭堡の確保と言ったところかしら……」
「何はともあれ、ホンマに戦わなあかん時が来たみたいやな。千歳姉、私は戦う覚悟を決めてるんやから、容赦なく扱ってほしい」
「えぇ、そう言う事であれば遠慮なく」
ここにいる誰もが戦う覚悟をしていると感じた。何度も何度も俺は自分に対して問いただしていた。俺は……敵を撃てるのか?
* * *
その日の午後、駐屯地を出てランニングをしていた。基礎体力を作るためだが、筋肉痛と慣れない運動で既にバテきっていた。
「す、すいません! はぁ、はぁ……きゅ、休憩をッ!」
「敵に追われててもそんなん言えるんか! ほら速度上げろ! 情けない声出すなや!」
浅嶋少佐は全く容赦がなかった。少しでも遅れを取るようならば、女の子である南でもぐいぐいと腕を引っ張っていくのだ。それで毎日計三kmのランニングを実施するというのだから、考えただけでも憂鬱になる。吐き気がするほどだとも思ったが、息が上がって本当に吐き気がしていただけだった。
「よし! ここが一・五km地点だ。一分間休憩!」
その言葉を待っていたとばかりに、俺たち二人は道路の脇に座り込み、呼吸を整える。相変わらずこの辺りは車の通りが全くない。府外から入る車は高速を使う上、わざわざこの道を通る車は付近の住民くらいだが、その住民すらも大半は避難をしたようで、今まで一台も見る事が無かった。
ある程度落ち着いたところ、スポーツタイプの自転車に乗った女の子が道路に沿って向かってくるのを見つけた。ヘルメットを被ってはいるが、その顔には見覚えがあった。昨日コンビニに寄った時、武装工作員の男から命を狙われていた女の子だった。名前は確か――。
「あ、こんにちは」
目を合わせながら声をかけると、不思議そうな表情のまま俺達の前で自転車を止める。
「あれ? あなたは……昨日コンビニの……?」
「えぇ、あれから大丈夫でしたか?」
「まあ、変わりはないですけど……何してるんですか?」
「AAOの訓練ですよ。今ランニングの途中でして」
浅嶋少佐はそんなやり取りを見て、俺達を友達と思ったようだった。
「この子、候補生の友達なんか?」
「いえ、昨日の事件に巻き込まれた子です」
「は、初めまして。春風 日照です」
「訓練教官の少佐 浅嶋百合です。ご丁寧にどうも」
「あの……昨日はありがとうございました。私、変な人達かと思って、お礼も言わずに逃げちゃって……」
軽く頭を下げて謝る彼女に、俺は気にしていないと声をかける。
「いえいえ、いきなりあんな事になったんですし、無理もないですよ」
「ありがとうございます。訓練ってことは、軍人? なんですね」
浅嶋少佐は俺の肩を叩き、笑いながら話していた。
「この子らはまだ候補生です。四週後には立派な軍人になってるはずなんですけどね」
「あぁ、はい」
対して興味もなさそうに答える彼女の様子は、あまり健康的とは言い難かった。顔や手には泥汚れが付いており、着ている衣服もかなり汚れているし、何より痩せている。そんな彼女の身なりから不審に思ったのか、少佐は駐屯地に彼女を誘ったのだった。
「あ、そうや。知り合いって言うんやったらお茶していきます? 自転車乗ってるんやったら、ここから十分もかかりませんよ」
「ええ? あぁ……いえ、その……」
「ええやないですか、なんか用事あるんですか?」
「そういうわけでは……」
「じゃあ行きましょうや、ね?」
浅嶋少佐の圧力により、渋々駐屯地へと寄り道することとなった。これがいわゆる『任意同行』というものなのだろうか。
「春風さんは自転車が趣味なんですか?」
「いえ、趣味と言うほどではないです。最近買ったんですけど、せっかくだから乗ろうかなと」
「かっこいいですね」
俺はそう呟きながらライムグリーンで塗装された自転車を見つめた。ロードバイク……いや、クロスバイクと呼ぶべきか。一目見ただけでも高価なものだと分かる、自転車に詳しくない人間が見たとしてもだ。
まじまじと見入っていたところで、彼女が自慢げに答えた。
「えぇ、いいでしょう?」
「これ高いやつでしょ? なんぼくらいしたんです?」
浅嶋少佐が値段の話を始めた。自転車の趣味がない人間にとっても、やはり気になるのは値段なのだろう。事実、俺もどれくらいなのかが非常に気になっていた。
「えっと……一一万円くらい」
「うわぁ~、ええ買い物しますね~」
「ははは……」
苦笑いする彼女へいくつか質問をした。
「春風さん、ご自宅はこの辺りですか?」
「ここから……自転車で三〇分くらいです。飛ばせば二〇分ですけど」
「歳が一六でしたよね? 俺も南も今年で一六なんですよ」
「はぁ、そうですか」
大して興味も無いようだが、彼女の服が泥でとても汚れていることに気が付き、少々不審に思ったので詮索を続ける。
「高校はどこに通ってるんですか?」
「……私、高校行ってないんです」
「あ、あぁ。そうですか、今は何をされてるんです? もう働いてるんですか?」
「今は……バイトを……一人暮らしなんですけどね、結構厳しくて――」
彼女がそう口にした瞬間、南の鋭い言葉の刃が矛盾点を裁ち切った。
「へぇ~、その割には高い自転車買ってるんですね」
南にとっては全く悪意のない発言だったのだろうが、春風さんの発言に矛盾があったことについて、俺と浅嶋少佐は気まずさに飲み込まれた。春風さん自身もばつの悪そうな表情をして黙っている。
「……えっと、あ! この子が南です。ほら、挨拶」
「南 照月です、よろしくね」
「えぇ、改めてよろしくお願いします」
「ついでに俺は深宙 巡です、よろしくお願いします」
「はい、どうも」
駐屯地へ到着し、俺達は休憩することにした。浅嶋少佐が千歳さんを呼びに行く間、気になったことを恐る恐る聞いてみる。
「あの……自転車って、どうやって買ったんですか?」
表情一つ変えずに俺の目を見つめ、淡々と話を始める。
「前に住んでいた家から持ってきました」
「……えっと」
堂々と答える彼女に思わず目を背けてしまった。こんなにも堂々と答えられると困惑する。俺が次に何を言うべきかと考えを巡らせていたところ、今まで黙っていた南が頬杖をついてわずかに微笑みながら、部屋を出るように促した。
「深宙君、ちょっと席外してくれる?」
「あぁ……わかった」
* * *
深宙君に部屋を出るように促し、私は出されたコーヒーに砂糖とミルクを入れた。ゆっくりと混ぜながら彼女の核心へと迫る。
「春風さんの自転車、盗んだの?」
「いえ、前にいた家から持ってきました」
「でもさ、自転車は最近買ったって言ってたよね?」
「……いえ、前にいた家から――」
矛盾点を指摘しても一向に認めようとしていない。彼女は身の潔白を証明するかのごとく堂々とこちらを向いており、私は相手のペースに流されないように気をつけた。
「そっか……お父さんとお母さんは?」
「市内に住んでます」
「一人暮らしした理由は?」
「……関係ないでしょう?」
「ふ~ん、そっか」
私はほんのりと温かいコーヒーを少し口に含んだ。彼女の堂々としたペースに流されると、本当に知りたい事を聞くことができなくなる。明らかに彼女の発言は矛盾しているし、犯罪に関与している可能性もある。関与していたところで私達に逮捕する権限はないはずだけども――それでも何かの縁で知り合った仲なわけだし、放っておくわけにはいかない。私は髪を耳にかけ、次はどうやって彼女を攻めようかと悩んでいた。
「ッ!」
私が髪を耳にかけようとして上げた右腕に明らかに過剰に反応する。もはや恐怖を感じているほどに見えた。すこし腕を上げただけでここまで過敏に反応するというのは、やはり何かあったに違いない。
「……春風さん、もしかして……何かあったの?」
「そ、そんなことないです。そんなことないです……」
その口ぶりからすると、明らかに何かあったようだ。自分に言い聞かせるように『なにもない』と言う彼女の表情からは、明らかに何かあったとわかる。みるみる顔色が悪くなっていき、私は心配になって彼女の隣に座る。手を握るとひどく震えていた。
「……話していいよ? 誰にも言わないから」
「な、なにも……話すことはないです」
「何かあったのはわかるから、ね? 安心して、ここには私達以外居ないんだから」
「ぅっ……わ、私は……」
涙をぽろぽろと流しながら話す彼女を見て、私はいたたまれなくなった。
彼女は幼いころから食事を与えられない日が続き『この子は失敗作』と罵られる事も日常的にあったようだ。直接的な暴力は数えるほどしかなかったようだけども、最近になって物を投げつけられたり殴られたりすることが増えたそうで、これ以上耐えると死んでしまうと感じ、親のカードを使って現金を下ろし、家を出たのが二週間前とのこと。
バイトをしてるとは言っていたが、しばらくは下ろしたお金で静かに生活をするつもりだというのだ。下ろした金額は五〇万円で、警察に通報されるかもしれないと嘘をついていたのだった。
しかも家はなく、テントを山に張って寝泊りしているという信じられない現状――。
「大丈夫、大丈夫だよ。大丈夫だから、ね?」
「うぅ……わ、私……逃げる事ばかりで……うぅっ……でも、死んじゃいそうで……」
「うん、大丈夫大丈夫、大丈夫だから……つらいよね」
彼女は私の胸の中で泣いた。異変に気付いた深宙君が部屋を覗いたが、私は首を横に振って入らないように合図した。彼女の人生の中で、こうやって自分の気持ちを吐き出せたのは今が初めてなのだろうと直感で感じる。それくらい彼女の心の傷は奥深く傷ついていた。人情という消毒液をかけてあげなければ、その傷はいずれ膿んでしまい、命を蝕むことになる。
そうして十分という時間が過ぎ、私は事情を説明すべく部屋を出て行った。
* * *
部屋の前で待っていた俺に何故部屋に入らないのかと問いかけてきたのは千歳さんと瑞穂さんを引き連れた浅嶋少佐だった。俺は軽く事情を説明し、今はそっとしてあげて欲しいと伝える。
「そうか……虐待か」
深刻な声色の瑞穂さんは、この事を深く受け止めている様だ。
「百合、春風さんには今晩照月ちゃんと一緒に過ごすように言ってみて。一人で静かにとはいえ、不安なこともあるだろうし」
「せやな……ウチもそれがええと思うわ」
「じゃあ、私達はまたあとで来るから――」
「百合は引き続き教育と……春風さんを」
「分かった、任しとき」
その後南が部屋から出てきて事情を説明し、彼女の扱いをどうするのか問われた。俺としては春風さんの意思を尊重したいところではあるが、精神状態を鑑みるに誰かと一緒に居るほうがいいのではないかとも思う。南に関しては詳しい事情を打ち明けてあるので、しばらくは共に生活するのも良いかもしれない。
「春風さんはどうしたいって?」
「まだ聞いてないけど……私は一緒に居てあげたいなって思う。家からお金持って逃げ出して、山でテント暮らしするくらいなんだから……」
「そうだよな……なあ、春風さんをAAOに勧誘するのはどうだろう?」
ただの思い付きだった。しかし、まだ一六歳の少女が山でテント暮らしというのは危ないどころの話ではない。彼女を保護できる最善の環境がAAOにはあった。
「えぇ~……やる気あるかどうか分かんないよ?」
「給料もしっかり出るし、衣食住保証してくれるっていうんなら意外と入ってくれるかも……というか、一六歳の少女が山でテント暮らしってのは危ないし――現実的に考えてもそっちのほうがいいと思うんだよ」
「うーん……確かにそれはそうだけどね。わかった、提案してみる」
部屋に入るときに扉の隙間から見えた春風さんは、心なしか会った時よりも顔色が良くなっているようにも見えた。
* * *
私が部屋に入ると、先ほどと比べて明らかに表情も顔色もよくなっていた。今まで溜め込んでいた物を吐き出した効果があるのだろう。
「春風さん、もしよかったらなんだけど……AAOに入らない?」
「え……でも、AAOって戦争するんでしょう?」
「まあ……うん、そうなんだけど……でも給料もいいし、寝るとこも服も食事もくれるし、悪い話じゃないと思うんだよ。まあ戦争はするんだけど……」
おそらく最も悩む部分の一つに、戦争という要素が入っているのだろう。命がかかっているのだから当然といえば当然ではあるが、お金が尽きると山で餓死寸前になるかもしれないと思うと、さして状況は変わらないのではと思いもした。快適さで言えばAAOの方が上だろうけども。
「……ちょっと考えさせてください。明日までには答えを出します」
「……そっか、分かった。今日はどうするの? 晩御飯食べて行ってもいいし、お風呂も――」
「えっ、いいんですか?」
「うん、もちろん。その……お風呂入ったのっていつ?」
「……五日前に」
そう言う事だろうと思った。明らかに入浴をしていないと匂いでわかる。失礼かもしれないが、一刻も早くお風呂に入れさせてあげたいと思った。
「じゃあ今日お風呂入ろうよ! 服も洗濯したいでしょ?」
「それはそうですけど……本当にいいんですか?」
「うん! じゃあ、浅嶋少佐に伝えてくるから、ちょっと待ってて」
「あ、ありがとうございます……!」
* * *
「ほら、タオルで隠してたら背中流せないよ?」
「で、でも……」
「大丈夫、女の子同士じゃん……あっ、これって……」
そう言ってタオルを捲ると、背中に青紫色のアザが無数にあった。もちろんこれも虐待の結果なのだろう。彼女の痩せ切った体に、そのアザはあまりにも痛々しく見えた。
「……なんで背中だけかわかりますか?」
「……なんでなの?」
「見えないからです。腕とかは見えちゃうので、いつも背中なんです」
「そっか……痛い?」
「治ってる方なので、そんなには――」
彼女の心の傷は一切治らない。いくら表面の傷を癒やしてあげたとしても、心に深く残った傷が回復しないのは分かっている。
「……本当、辛い思いしたね」
「でも、まだ分からないんです。こうして逃げることが正解なのかどうか」
「それは……私は正解だと思うけど」
「私には分からないんです……分からないんです……」
私はボディーソープを泡立てて優しく彼女の体を洗った。肌に触れるごとにわずかに震えるのを感じる。
「……しんどかったね。もう大丈夫、大丈夫だよ」
優しい言葉をかけながら体の汚れを落とし、最後にお湯をかけ流す。彼女が負った心の傷も泡のように流れてしまえばいいのに――。
「……綺麗な体なのに」
「そんなことないです。骨と皮しかないし……」
「ねえ、日照……だよね」
「はい」
「本当、よく頑張ったね」
* * *
翌朝、春風さんが居るにも関わらず、起床ラッパは容赦なく俺達を眠りから覚ました。背中全体に嫌な悪寒を感じ、ストレスが溜まるのがよくわかる。
「起床! 六時一〇分までに洗面と点呼準備! 春風さんは寝ててもええぞ、以上!」
起床ラッパのおまけに大声で伝達事項を伝えておいて寝ててもいいとは、これほどまでに矛盾している事があっただろうか?
「ふわぁ……おはよ~」
「おはよう。南は筋肉痛どう?」
「ちょっと治ったかなぁ……そうでもないか」
春風さんは二度寝をせずに起き、綺麗にブランケットとシーツを整えている。あの習慣もまさか家で――いや、考えすぎだろうか? 下手に同情するとむしろ傷つけてしまうこともあるため、気を付けようと意識した。
歯を磨き、顔を洗ってベッドメイクを行い、不動の姿勢で点呼の用意をする。数秒後に浅嶋少佐が入り、俺は大きな声で敬礼をした。
「必勝!」
「必勝」
「早朝点呼人員報告! 総員二名! 現在人員二名! 以上、早朝点呼人員報告終わり!」
「うん、ええ感じやな。一回で覚えるって中々素質あると思うわ。じゃあ今日の教育日程について説明するで。今日は三kmランニング後に筋力トレーニングを行った後朝食、そして昨日と同じく基本教練実施や。昼食を済ませたら補給品を受領して着用法を教育するって感じやな。質問は?」
「ありません!」
「そしたら三〇秒以内にランニングシューズに履き替えて生活館前に集合!」
* * *
待ちに待った昼食の時間だ。ステンレスのトレーに盛られた食べ物はあまり美味しそうに見えないが、体を動かすためのエネルギーと考えれば全く気にならない。俺は席に座り、二人が来るのを待った。
そう、二人なのだ。
南だけでなく、そこには春風さんもいる。彼女は朝のうちにAAOへ参加することを決め、正式に訓練に参加する『士官候補生』となったのである。本来であれば各種書類や両親の同意、そして試験が必要だが、どのみち帰る場所はないという事で訓練を進めながら学力試験を実施し、書類は役所が復旧してから速やかに提出することとなった。両親の同意はというと、家庭内の状況が劣悪なため、特例措置として対処するらしい。法に触れるなんて事を言っている場合ではないと千歳さんが言っていたのを覚えている。
「食事開始」
「いただきます!」
ご飯に焼き魚、味噌汁に小松菜と油揚げの炒め物、たくあんがついており、栄養としては十分だ。こうしてみると、刑務所の食事に見えなくはないが、環境としては似たようなものだろう。自由がないのはどちらも同じだ。
「んん……美味しい……美味しい!」
春風さんは夢中で料理に箸をつけている。時々口から溢れるのは『美味しい』という言葉。その表情と小柄な体格から、食事を与えられていなかった環境が想像できた。
「春風さん、お水いりますか?」
「あ、ありがとうございます……それと、私の事は日照でいいですよ。敬語じゃなくてもいいです、同い年ですから」
「そういう春風さ……じゃなかった、日照も敬語のままじゃないか」
「私のは……どうにも変えることが難しいです。なんとかしようとは思いますけど、敬語じゃなかったら蹴られていたので」
現実的で具体的な虐待の経験に、俺は思わず言葉を失ってしまった。そんなに辛い環境でよく耐えてきたなと、驚きを隠せない。
「あぁ……そっか」
「ご、ごめんなさい……食事中に変な話してしまって……」
「いや、大丈夫だよ。自分の楽な方でいいと思う」
「深宙君の言う通りだよ。自分の楽な方で、自分のしたい方でいいからね」
「はい……本当、ありがとうございます」
「こちらこそ、AAOに入ってくれてありがとう」
俺たちは普段なら十分以内に食べ終えなければならないのだが、日照に配慮して三〇分延長することとなった。お互いにお互いの事を知り、ゆっくりと楽しみながら食事をする。彼女が望んだものが、この食堂の一角には存在した。俺達にとっては簡単に得られる物――当たり前の事と言っても過言ではなかったが、彼女にはそれが掴み取りたい幸せというものだった。
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