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カレンの提案に執務室は更に温度が下がった。但し、これまでとはちょっと違う意味で。
そして、ここにいる者は口を貝のように閉ざしている。
カレンは言いたいことを言い切ったので、あとはヴァーリの出方を見るだけで。
そして他の人間は、カレンが説明した切腹なるものを、各々の感覚で理解に努めていて。
だから、衣擦れの音すらやけに大きく響くこの執務室は、実はわちゃわちゃと騒がしかったりする。
そんな中、最初に口を開いたのはヴァーリだった。
カタカタと小刻みに震えながら。でも尋常じゃない汗をかいて。
「……カレンさま」
「なあに?」
「えっと……ですね……」
「ん?どうしたの?」
「……」
かつてこれ程までに、この少女からにこやかに対応してもらえたことがあっただろうか。
ヴァーリは必死に記憶をさぐってみるが、ついぞ見付けることはできなかった。
ただ今、カレンの機嫌が直った訳でも、自分の人間としての名誉が回復した訳でもないことは、頭が良くないヴァーリにだってわかる。
なぜならカレンの目は、笑っていないから。
それでもヴァーリは再び口を開く。命知らずと言われても良い。だって言わなくても、死がまるで恋人のように寄り添っているのだから。
「恐れながら……今一度確認させていただきたいのですが……」
「うん」
「自分で腹を掻っ捌くことが、名誉を回復させることになるのでしょうか?」
「うん!」
「……」
いっそ無邪気といえるカレンの態度に、この少女が本気の本気であることをヴァーリは知った。
また、部屋の温度が下がった。
室温計がそこにあれば、測定不能でパリンと割れてしまう程に。
そして、カレン以外の全員は、異世界の文化の違いを見せつけられ、言葉を失ってしまった。
ハラキリ?え?マジで?イッツ・クレイジー!
なんてことを思っているかどうかは定かではないが、兎にも角にも、この華奢で年齢より幼く見える少女の口から、そんなことが紡がれた事実に驚愕を隠すことができない。
が、カレンは更に、切腹のお作法の補足を初めてしまう。
「あ、でもね。切腹って一人でやるもんじゃないんだ。介錯人っていう人がいてね、その人がお腹を切ったと同時に、首を切り落としてくれるんだよ。だから、安心してね」
何を、どう、安心すれば良いのだろうか。
これもまた、メルギオス帝国で生まれた者は同時に思った。
あと、介錯人は誰がやる?そんな疑問が浮かぶ。
ちなみにこの提案者からの指名は無い。ただ、選ぶならこの中からだ。これもまた同時に思った。
そして一人が、立候補をした。
「僭越ながらわたくしが、介錯人をやらせていただきとうございます」
凛とした声が部屋に響く。
予想通りといえば予想通り。そう宣言して一歩前に出たのは、カレンの侍女、リュリュであった。
手には既に剣を持ってはいるが、今日はその刃がいつもより鋭く光って見えるのは気のせいだろうか。
そして要はコレの首を切り落とせば、良いんですよね?と真顔でカレンに確認するリュリュは、義理の兄に刃を向けることへの葛藤は微塵もない。
ただ自ら名乗り出た以上、完璧に使命を果たさなければならないという無駄に強い責任感だけが伝わってくる。
「───……お、おい。マジかよぉ」
ヴァーリは、羽虫が集る音よりもっともっと小さい声で、そんなことを呟いた。
ちなみにヴァーリは、まだやるとは一言も言っていない。
なのに着々と準備が進んでいく。
今、ヴァーリは結婚に踏み切れないヘタレ男が外堀を埋められていく心境を身を持って知った。
義理の妹からも、自分が仕える主からも、背を預けることができる相方からにも見捨てられたヴァーリには、辞世の句を読むことしか残されていない。
と、思ったのだけれど、ここで状況が変わった。
「駄目だよっ、リュリュさん」
まさかのまさかで、ここでカレンがリュリュを引き留めたのだ。有無を言わさないような厳しい口調で。
ああ、なんだ。ちょっとばかし、おちょくられただけだったのかと、ヴァーリはほっと胸を撫でおろした。
他の人間からこんなことをされたら間違いなくマジ切れするが、なにせ相手は聖皇妃。過去になんのてらいもなく、自分の急所を蹴り上げる狂犬。この程度で終わったのなら、むしろラッキー。
そんなことまで思った。
……それが余計だったのかどうかはわからないが、ヴァーリが望む展開には、ならなかった。
「そんな汚れ仕事、リュリュさんがやるなんて駄目だよ」
カレンの真剣な声に、自分の運命が何ら変わっていないことにヴァーリは気付く。そして「俺の首跳ねるのが何故に汚れ仕事?!」と不満を抱きつつ、今度こそ詰んだなと遠い目をした。
ちなみに、今まさに人間としての名誉を回復するために命を散らそうとしている相方を、シダナは見ていない。「インクの補充をしなければ」と言いながら、いそいそと机を探る彼の血の色は何色なのだと聞いてみたいくらいだ。
ただ、そんな薄情な騎士にも天罰が下った。
「あの人がやれば良いじゃん」
納得できないリュリュを必死に説得していたカレンが、びゅんっと音がするほどの勢いで指さしたのは、政務に勤しむ騎士だった。
「───……え゛」
まさかのご指名を受けたシダナは、鶏が絶命するような声を上げて固まった。
鉄壁の善人スマイルは、見事に崩壊している。
「……カレンさま」
「なあに?」
「えっと……で、ございますが……」
「んー?どーうしたのぉ?」
「……」
これをとばっちりと言わずに何と言おう。
かつてお茶を頭にぶっかけられた時とは真逆の表情を浮かべるカレンに対して、シダナは至極冷静にそんなことを思った。
ただ、シダナもヴァーリと同様に、口を閉じることはない。
「今一度、ご確認させていただきたいのですが……」
「うん」
「わたくしに、アレの首を切り落とせと?」
「うん!」
なんだかついさっき、似たような会話を聞いたなとシダナは思った。その時は他人事だったので、右から左で聞き流していたけれど。
でも、いざ自分がこの立場になってみればわかる。反論できる余地が無いということを。
シダナは、まるでどこかの馬鹿騎士と同じように自分の主に向かって、縋るような眼差しを送る。……返ってきたのは、全てを拒絶する書類を捌く音だけだった。
そしてその音は、誰がヴァーリの介錯を引き受けるのか決定する音でもあった。
「あああああっ。わかりましたっ。わかりましたよっ」
このやりとりを無言で聞いていたヴァーリは、もう、頭で物事を考えることを放棄した。
退路は断たれた。そして自分が進むべき道は一つしかないと決めつける。その進む道が、もっとも自分が回避したいものだというのに。
そして勢いよく、腰に差してある剣を抜く。シダナも机の横に立て掛けてあった剣を取り、嫌々ながらもヴァーリの横に立った。露骨に溜息を付きながら。
ただ、ヴァーリとシダナが手にしているのは、長剣であった。文字通り長い。それをどうやって逆向きにして腹に刺すのか……ヴァーリはしばし悩む。
その姿は、絵に描いたようなみっともない姿であった。
決意は硬いが、頭は緩い。そんなこんなで、ヴァーリは「え?あれ?あれれ?」と焦る声は上げるけれど、事は進まずオタオタとするばかり。
そんなどんくさいヴァーリを、カレンは呆れた表情を浮かべて見ていた。けれど───
「じゃあ、後は頑張ってね」
そう言って、突然すくっと席を立った。
その動作は、なんの迷いもないもの。いや、はっきり言ってしまうなら、ぶっちゃけもう興味を失ってしまったかのようだった。
さすがにこれまで徹底して空気と化していたアルビスも、ここで書類をさばく手を止めて、カレンに視線を向ける。
けれどカレンは、まったく気付いていない素振りで、リュリュに目線を送ると、廊下へと続く扉へと向かい始めた。
「ちょ、ちょっと待ったっ」
剣を握ったままのヴァーリは、中途半端な姿勢でカレンを引き留めた。
すぐさま執務室に緊張が走る。
こくりと唾を飲み込んだ音が聞こえたが、それが誰だったのかはわからない。
ただ呼び止めたところで、ロクなことにはならないことはわかる。
カレンとて、アルビスの私室に長居などしたくはないだろう。だからきっと無視する。そうに違いないと思った。
けれど予想に反して、カレンはきょとんとした顔を浮かべて振り返った。
「なに?」
そのカレンの口調は、慣れ親しんだつっけんどんもの。
機嫌は元通りになったとも言える。が、これは気軽に話しかけて良い空気ではない。良く見れば眉間に小さく皺も寄っている。
だが、ヴァーリはそれを無視して口を開いた。
「あ、あの……」
「は?なによ」
「……えっと」
「だからなに?早く言ってよ」
「わ、わたくしの切腹は……見ないんですかぁ?」
そう問うたヴァーリの目には涙が浮かんでいた。
けれど問われた側のカレンは、ちょっと困った顔に変えながら、こんな言葉をヴァーリに返した。
「あー……いいや。私、そういうグロいの苦手なんで」
「……」
「……」
「……」
コバエを払う仕草をしながら、そんなことを言ったカレンに、ヴァーリを始め、シダナもアルビスも閉口してしまった。
ただ皆こう思っていたに違いない。「言い出したのはお前だろ?!」と。
幸い極寒の地より凍えていた執務室の温度は元に戻った。
けれどヴァーリは、雪山で遭難するよりもっともっと激しい疲労感を覚えている。顔は青ざめ、頬は心なしかこけている。目元には、短時間で良い感じのくまもできてしまった。表情も、世界中の人間に見捨てられたように途方に暮れたもの。
そんな短時間で疲労困憊になってしまった騎士に向かって、カレンは小馬鹿にしたように鼻で笑うだけ。
ヴァーリの額に青筋が浮ぶ。わなわなと唇を震わし、何か言葉を紡ごうとした。けれどそれを遮るように、リュリュはカレンの為に廊下に繋がる扉を開けた。
「カレン様、お部屋に行ったら、お茶をお入れします。春しか飲めない花茶などいかがでしょうか?」
数分前まで義理の兄の首を本気で跳ねようとしていた侍女は、そんなことなど無かったかのように、聖皇后に向かってふわりと微笑んだ。
「うん。飲みたいです。お願いします」
カレンも、年上の青年に向かって腹を掻っ捌けと言ったことなど忘れたかのように、侍女に向かって、礼儀正しくぺこりと頭を下げる。
そして”んーっ”と小さく声を上げ軽く伸びをしながら、廊下へと向かった。
───……パタン。
吸い込まれるようにカレンが廊下へと消えた途端、扉が閉まる音が執務室に響いた。
「……えっと……俺は、これからどうしたら良いんだ?」
剣を鞘に戻すことも、自身の腹に収納することもできないヴァーリは、ポツリと呟く。
これもまた、小さな泡がパチンと弾けるように、執務室の壁に吸い込まれていった。