1
真冬では天の恵みのように感じる午後の穏やかな日差しは、季節が移ればただの日常となる。
けれど宮殿の庭から見える花々がうららかな風を受けて心地よさそうに揺らめいている光景は、季節が何度巡っても心を癒してくれるもの。
けれど、このガラス一枚を挟んだロダ・ポロチェ城の一室、皇帝陛下の執務室では、真冬の雪山より凍えた空気に満ちていた。
年中葉っぱを茂らせているオリーブでさえも、枯れてしまうほどに。
「……あの……いや、もう本当に申し訳ありません。二度とあのようなことは口にしたりしません。騎士の名に懸けて」
「……」
「どうお詫びして良いのかわかりませんが、これだけは言わせてください。アレはわたくしの失言でございました」
「……」
「だから、申し訳ないって言ってるじゃないですかっ」
「───は?」
この場を完全に支配している少女は、足を組んだまま、たった一言そう言い放った。
途端に、この部屋の温度が更に下がった。もはや人が生きてはいけない領域に達している。
そしてもろにその冷気を浴びた剣を携え、床に跪いている青年は「ひぃぃぃっ」と情けない声をあげつつ、自身の急所をそっと庇う動きをした。
さてそんな騎士の名に恥じる行動を取っているのは、この部屋の主アルビス皇帝陛下の側近兼護衛のヴァーリである。
ちなみに、たった一言声を発したのは、この世界に一方的な都合で召喚されてしまった元JKのカレンである。
カレンは18歳。元の世界ではただの女子高生。
対してヴァーリは、26歳。このメルギオス帝国の法であり秩序である皇帝陛下の側近。騎士の中ではもっとも花形の職に付いている。
年齢もさることながら、単なる高校生であったカレンが、彼の誠心誠意の謝罪に対して、ぞんざいな態度を取るのにはいささか失礼ではないか。
いやいやいやいやいやいや、違う。それなりの理由があったりもする。
それは、カレンがこの世界に誘拐され拉致され続けている被害者だからというのもある。また以前、この騎士に、壁ドンされた挙句、耳を疑うような警告を受けたからというのもある。
でも今回、そんなことを抜きにしてもカレンはとても怒っていた。
カレンの後ろに控えている侍女のリュリュも、憤慨していた。露骨に義理の兄に対して「なんでお前、この世に存在しているの?」という目を向けている。
でも、ヴァーリはそれらを甘んじて受け入れている。彼には今、謝罪をすることと、自身の愚息を庇うことしか許されていないから。
そんなわけでヴァーリは再び謝罪の言葉を紡ぐ。必死に紡ぐ。
でも、かれこれ数十分、謝罪を繰り返していれば、同じフレーズの繰り返しになってしまう。
でもまかり間違っても「もうこれ以上謝罪の言葉などありません」とか、「あと何回謝ったら許してくれる?」など、口が裂けても言うことができない。
いつヴァーリが許しを得るのかなど、神にすらわからない。
そんなヴァーリが何をしたかというと、先ほどの謝罪にもあったように、カレンに対して大変な失言をしてしまったのである。
女性に対して、最大にして最高に失礼な台詞「あれぇ?ちょっと太りましたぁ?」と、神をも恐れぬ言葉を吐いてしまったのだ。
***
話はさかのぼること、1時間程前、カレンはリュリュを伴って図書室へと足を向けていた。
これまで離宮での監禁生活から、西の領地の城へと飛ばされ、そこでも軟禁生活を送っていたカレンだったけれど、今は違う。
カレンは2週間ほど前に、アルビスと結婚をした。
そしてこの国で2番目に尊い存在である聖皇后となった。だから宮殿内は好き勝手に移動することができる。そして、この宮殿内でカレンの行動を咎めるものは誰もいない。
とはいっても、カレンは贅沢三昧の暮らしをしたいわけでもなければ、夫であるアルビスに対して愛情の欠片も持ち合わせていないので、皇帝陛下の傍に近寄りたいとも思っていない。
カレンが望むのはただ一つ。元の世界に戻りたい。これだけ。
だから毎日、その方法を模索して図書館に通っている。知識を増やすために。
そしてたった今、読み終えた本を返却し、新たに本を両手に抱えて自室に戻ろうと歩いて歩いて、角を曲がった瞬間───。
出会ってしまったのだ。アルビス達、ご一行に。
「……あ」
最初に声を上げたのはカレンだった。
けれど、アルビスはそれより前からカレンに気付いていた。
議会を終えて、執務室に戻ろうとしていたところ、少し離れた場所からカレンとリュリュの話し声が聞こえてきたからだ。
内容は、力持ちのリュリュがかなりの量の本を抱えていることを気遣うもの。
言い換えると、普段カレンとリュリュがしている、とりとめのない会話。でも、アルビスにとったらとても心浮き立つもの。
なにせアルビスは、挙式が終わってからロクに顔を合わせていない。カレンが拒んでいるから。
……いや、はっきり言うと事実上、二人は夫婦であっても、カレンの中にはアルビスと共に時間を過ごすという発想はこれっぽちもない。
もちろんその理由はアルビスが一番良くわかっている。だから妻として云々などとカレンに説き、それを要求するつもりもない。
とはいえ、アルビスはカレンを愛している。それは一途に、大切に。
だからこの思わぬ邂逅は、アルビスにとってご褒美的なものだった。
そしてそのご褒美を辞退することなどできるわけもなく、アルビスはカレンの声がする方に自然と足が向いてしまったのだ。
でも、これまで説明をした通り、カレンはアルビスの顔を見た途端、巨大な蛾の死骸を見てしまったかのような表情になった。
不快に顔を顰めたのは一瞬。カレンの簡素なドレスの裾がふわりと舞う。勢いよく回れ右をしたのだ。
そしてそのまま、この場を去ろうとした。けれど───
「あ、こんにちはっ。カレンさま」
ヴァーリが去っていく聖皇后とその侍女を呼び止めたのだ。
けれど2人の足は止まらない。いや、歩く速度は競歩に近いそれ。
ヴァーリは、アルビスの為だけの騎士だ。
そしてアルビスがカレンの声を聞いた瞬間、僅かに口の端が持ちあがったことをしっかりと見ている。
なのに、顔を合わせた途端、それはないだろうと思ってしまったのだ。そしてついカレンを引き留めたいあまり、先ほどの失言をしてしまったのであった。
ヴァーリの肩を持つわけではないけれど、彼はカレンに深い感謝の念を抱いている。
孤独な皇帝陛下にとって唯一無二の存在だということもちゃんとわかっている。
だからかつてカレンに壁ドンをかましたときのような感情はなかった。
悪気はなかったのだ。怒らせたいとも思っていなかったのだ。
ならなんで「太った?」なんていう大変無礼なことを言ったのかというと、カレンはこの世界に召喚されてから災難続きで、ガリガリに痩せてしまっていた。
けれど今日見たカレンは、召喚された時と同じまではいかないけれど、少し頬に膨らみが戻っていた。素直に、ほっとしていた。
と、そんな気持ちを持っていたのだけれど、ヴァーリはあまり頭がよろしくない。また規格内のイケメンであるが、女性にあまりモテない。
なぜモテないのかというと……言葉を上手に選ぶことができないからで。そしてこれは、主であるアルビスも同様だった。
長々と説明をしてしまったが、兎にも角にも、ヴァーリはただただアルビスとカレンが会話をする時間を取りたかっただけ。
ま、万死に値する行為を取ってしまったのは、変えることはできない事実だけれど。
さて失礼千万な台詞を背中に受けたカレンは、聞かなかったことにして自室に戻ろうと思った。……そう、一度は思ったのだ。相手にしたら負けだと。
でもあまりの発言に、気付けば振り返っていた。
そこでまず最初に視界に入ったのはヘラヘラと笑う騎士の姿。すぐにこれが発言者だとわかった。
次いで、相方の失態のフォローを放棄して、片手で顔を覆うこれまた騎士の姿。
そして最後に、この失言を諫めることをしない役立たずな聖皇帝。
カレンはそれらを順番に見つめ、結局、最初に緩んだ口元を更に緩ませる、馬鹿騎士に向かって口を開く。
「あのさぁ、今、何て言った?」
このぞっとする程低いカレンの声音で、ヴァーリはようやっと自分が失態を犯したことに気付いた。
そして、馬鹿正直に答えるのも言い訳をこくのも、命を差し出すのと同等だということを直感で感じたヴァーリは賢くも口を噤んだ。
けれど、時すでに遅し。
現在、ヴァーリの命は、カレンの手中にある。
***
ここはアルビスの執務室。
もう少し補足すると、以前、ルシフォーネから去勢を進められた場所でもある。
そんなある意味いわくつきの場所でもあるけれど、執務室である事は変わりがない。
なのでアルビスとシダナは、ヴァーリがどれだけカレンに謝罪の言葉を紡いでいても黙々と淡々と、粛々と書類を捌いている。
「陛下、春祭りの予算案をまとめましたので、ご確認を」
「わかった。あと、今日の議会でセリオスが提案した特別減税の対象領地をすぐ抜き出してくれ」
「かしこまりました。では、それと同時に納税が芳しくない領地も合わせて報告いたします」
「ああ、急ぎ頼む」
「了解です。本日夕刻には報告致します」
ちなみにこのアルビスとシダナの会話は、全てアイコンタクトで行われている。カレンの邪魔にならない為に。
本当なら、宮殿の廊下でヴァーリに死ねと命じるはずだったカレンを、この執務室に移動させたのは他でもないアルビスなのだ。
無論、激しい耳鳴りよりも不快なアルビスのこの提案にカレンは最初は頷かなかった。けれど「執務室でなら、何をしても良い」というアルビスの言葉により、嫌々ながらもここにいるのである。
だからこの部屋の持ち主であり、この帝国の法であり秩序であるはずのアルビスは必死に自分の存在を消して、政務に励んでいたりする。
ただ時折、ヴァーリから縋るような眼差しを受けてはいるけれど、もちろん気付かないふりをしている。
シダナも徹底して、無視をしている。その華麗な無視っぷりは、良心など少しも痛んでいないようだ。
シダナはヴァーリより頭が良い。カレンに食えないヤツと言わしめるほど、ずる賢い一面を持つ。
だから一度でも、カレンとヴァーリの間に入ってしまえば、とばっちりを喰らうのは間違いないことを知っている。そんな愚かな行為を、この男が好んでするはずもない。
シダナはヴァーリと同様に、アルビスの側近兼護衛である。
そして事務処理が苦手なヴァーリに代わって、アルビスの右腕として政務の補佐をしている。とても忙しい身なのだ。
彼の机の上には、ちょっとの振動でも雪崩が起きてしまう程の書類の山。これは今日のシダナのノルマでもある。
アルビスの机も同じように、書類の山脈ができている。これも同じく今日のノルマ。
だからせっせと書類を捌く二人は、また懲りずに救いの手を求めてくる脳筋騎士の視線を感じた途端、手にしていたそれをそっと持ち上げて拒絶の意を示したのだった。
それから30分程経過してもカレンの怒りは治まらない。
でも、ヴァーリの謝罪は既に同じフレーズを繰り返すだけのポンコツ蓄音器と化している。
堅っ苦しい言葉を紡ぎ続けているヴァーリの舌は既に限界を迎えていて、噛むはどもるわと聞くに堪えない。
そんな訳でカレンは、ちっと舌打ちをしてから口を開いた。
「ねえ、ヴァーリさん。あなたにとって誠心誠意の謝罪ってこんなもんなの?」
ソファのひじ掛けに頬杖を付いたカレンは、うんざりした表情を浮かべてそう吐き捨てた。
けれど、何かをひらめいたようで、その表情は場違いな程ゆったりとした笑みに変わった。
でも、目は笑っていない。「さっさと答えろよ。このウスノロ」と訴えている。
カレンのすぐ横に控えているリュリュに至っては、とうとうスカートに仕込んでいた剣を取り出す始末。
ヴァーリは今すぐ答えなければ、命は無かった。
さりとて、この少女の怒りを静めるようなユニークかつ、真っ当なことを言えるボキャブラリーは、ヴァーリには無い。そんなわけで彼は無言を貫く。
それはカレンにとって予想通りの行動だったのだろう。苛つく様子はない。それどころか、笑みを深くして更に問いを重ねる。
「教えて欲しい?」
「……オネガイシマス」
何を言っても、墓穴を掘ってしまうことはわかっているヴァーリは、抑揚ゼロ。感情も完璧に押さえ込んで、深々と頭を下げた。
2拍置いて、カレンの目が猫のように細くなった。
「その前に確認だけど、あなた悪気があったわけじゃないのよね?」
「モチロンデゴザイマス」
「そんなつもりじゃなかったんだよね?」
「ソノトオリデゴザイマス」
「今あなたは、騎士として……ううん、人間として地の底に落ちているんだけど」
「うげっ」
「あ゛?」
うっかり素が出てしまったヴァーリは、すかさず首を横に振った。
次いで、どうぞ続けてください。お願いですから続けてください。どうか平に平にお願い奉ります。と懇願する。
本来ならここで死ねと吐き捨てて席を立っても良いところ。
でも、カレンは気持ちを落ち着かせるために小さく咳ばらいをして、言葉を続けた。
「ヴァーリさん、人間としての名誉を回復したい?」
「はい。是が非でも」
「そう。なら、とっておきの方法を教えてあげる」
カレンはここで一旦口をつぐんだ。
それは次に放つ言葉が、ヴァーリにとって嬉しくないものだと予告するかのよう。
しかしヴァーリは、自分から教えて欲しいと言った手前、逃げることなどできない。
どうか自分の四肢が無事でありますように。ヴァーリは、そう神に祈った。
けれども、神はとことん人間に対して平等だった。異世界から来たカレンに優しくないように、ヴァーリにだって優しくはない。
「私が生まれて育った世界だとね、この方法しかないんだ。─── 切腹よ」
「セップク?」
ヴァーリは初めて耳にしたそれを、カタコトで呟いた。
もちろん、知っていては逆に怖い。なのでカレンは、ちょっとほっとしつつも、簡潔にそれを説明する。
「自分で、腹を、掻っ捌くこと」
瞬間、ここにいた誰もが息を呑んだ。
完璧に存在を消していたはずのアルビスとシダナですら、手にしていた書類やペンを落としてしまう始末。
そしてそれらを拾うことすら忘れ、カレンを食い入るように見つめている。
カレンとて、アルビス達の視線に気付いている。でも、今回ばかりは「こっちを見るな」と騒ぐつもりはない。
むしろ聞かせてやりたい気持ちだった。
だからカレンは、ちょっとだけ声量をあげて、ヴァーリにそれはそれは丁寧に説明を始める。
「私の国の人達は、お腹には魂と愛情が宿っているという思想があるの。だから、真心と潔白を示すためにお腹の中を見せて、腹黒いところなど何もなかったんだ証明するんだよ」
一気に言い切ったカレンは、最後に「今のあなたにぴったりでしょ?」と付け加えて笑った。
内心、眠くて退屈な歴史の授業だったけれど、ここだけは聞いておいて良かったと思いながら。