第一章「チェリーと乙女と喫茶店」
稲波サンサイド商店街。
稲波市の住宅街に隣接した、地元の皆さまに愛される活気溢れる商店街――というのは遠い過去の話で、今ではかつての繁栄は見る影もなく、閑散としたシャッター街と化している。
そんな寂れたシャッターたちに混じって、カフェ「くりーぷ」は細々と営業していた。
カフェといっても、いわゆるス○バやドト○ルのような大衆チェーン店とは程遠い、よくも悪くもこじんまりとした喫茶店である。
店内にはテーブル席が四組。ブラウン系のインテリアで統一されており、ぼんやりとした間接照明に照らされて、どこか大人びた雰囲気を醸し出している。カウンターのわきでは、サイフォンがかぷかぷとわらいながら、香ばしいコーヒーの匂いを振りまいていた。
そして、そのサイフォンの横には、突っ伏して微動だにしない死体が転がっている。
僕だった。
「消えたい……いっそのこと消えてしまいたい……」
ああ、僕はどうしていきなりコクっちゃったんだろう……なんて。
思い返すたびに襲ってくる後悔によって、僕の絹ごし豆腐のようなメンタルはもうボロボロだった。
「なるほど。つまり簡単に言うとだね」
左隣から、キザっぽい気取ったしゃべり方が鼻につ……特徴的な声が聞こえてくる。
「今日、君のクラスには転校生がやってきて? その転校生は、かつての君の初恋相手に酷似していて? 君はクラス中の視線を一身に浴びるなか愛の告白を敢行して撃沈……いや轟沈した、と。そういうことだね?」
「そんな簡単に言わないでくださいよぉ……」
生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えながら、僕はなんとか上体をおこして、声のほうへと視線を動かす。
僕が女性だったなら、「この野郎。キスしてやるぞ」と唇を奪っていたであろう、チャーミングな美男子がそこにはいた。
線の細い中性的な顔立ちに、メタルフレームの眼鏡。インドア系女子の理想を具現化したような――少女漫画から抜け出してきた男キャラみたいなルックス。
「やれやれ、まったく……同じ男として情けない限りだよ。初恋相手との再会、そんなこの上ない万全のステージでまさかの黒星とはね。君、恋愛に向いていないんじゃないかな」
そう言うと、ずれた眼鏡を片手で軽くなおして、紅茶をすする美男子。カフェのシックな雰囲気も相まって、悔しいほどまでに絵になっている。
「く、黒星って……まだフラれたって決まったわけじゃ!」
「ほう。じゃあ、彼女はどんな返事をくれたんだい?」
「それは……」
“え、えーっと……ありがとうございます?”
お礼を言われた。
愛想笑いもサービスしてくれた。
しかし僕はそんな彼女に対して、どういたしまして、なんて上から目線な返答をしてしまったわけでありまして……
「消えたい……いっそのこと消えてしまいたい……」
再び、カウンターに突っ伏して死体へと返る。
「まあ、諦めたまえ。君は一生に一度のチャンスを逃したのだよ。運命の相手との劇的再会という、美味しすぎるシチュエーションをモノにできなかった時点で君の青春は終わったも同然――」
「死体蹴りはそのへんにしておきなさい、プリンセス」
今度は僕の右隣から、気だるげで低血圧……もとい、落ち着いた声が聞こえてきた。
「だいたい、あなたが偉そうに言える立場かしら? 少年くんは立派に戦って、きちんと負けたのよ。それを、一度も戦いを挑んだことすらないあなたが嗤うの?」
「ま、マキさん……!」
もう一度力を振り絞って、僕をかばってくれた声のほうへと顔を向ける。
僕が男性だったなら……って男性だけど、いや、男性だからこそ高いハードルを感じざるを得ない美貌の女性が座っていた。
ふわっとしたブラウンのボブヘアーに、出るとこは出て、引っ込むところはきちんと引っ込んだスタイル――いや、女性の体型についてあれこれ特徴付けて語るのはどうなんだろう。
顔立ちはというと、文句の抱きどころが見当たらないほどまでに整っている。渋谷の熟練ナンパ師ですら、声をかけるのを躊躇うであろうほどの美人。澄ました、とはちょっと違うけれど、感情表現に乏しい表情が、彼女の印象をより近寄りがたいものへと演出している。
「ふん、なにを言うかと思えば……僕が本気になったら、彼女のひとりやふたり、簡単に作ってみせるさ。女なんてチョロいものだよ。あと、プリンセス言うな」
「ジュール・ルナールというフランスの小説家の言葉よ。『恋人も作らずに女を知ろうなどというのは、ちょうど釣り人が糸を振り回しただけで魚を知った気になるようなものである』。あなたにぴったりだとは思わない?」
そう平坦な声で言い捨てると、軽く目を伏せながら、キャラメルマキアートをすする美人。うわぁ、まつ毛長いなあ。
「なっ――! し、仕方ないだろう? 少年くんと違って、僕はまだ運命の相手に出会えていないのだからね。つまりそれは、まだ本気を出すようなタイミングではないということで……!」
「プリンセス、確かあなた、今年で高三よね?」
「……それがなんだっていうんだい? あと、プリンセス言うな」
「いい? その年齢で未だに“運命の出会い”なんていうアニメやマンガやドラマやラノベやエロゲにしか存在し得ない奇跡を待っているようじゃ、童貞のまま青春が終わるわよ?」
「どうてっ――!? ふ、ふん、自分だって処女のくせに偉そうに!」
「処女? そんな陳腐で安い中傷では、私の心には傷一つ付けることなんてできないわ」
「……処女って中傷なんですか?」
「デリケートな部分に突っ込んでくるのね、少年くん。処女というのはね、ある一定までの年齢までならルイ・ヴ○トンすら霞むほどのブランドに、それを超えるとサンドバッグも同然の錘になるのよ……」
そう語る彼女の表情は、無表情のように見えるが、少し自嘲めいているようにも感じた。
それでも、これが大人の余裕というやつなのだろう。マキさんは、感情を表にだすことなく再びキャラメルマキアートを口に――
「……この行き遅れ処女が」
ぶふぅ~~~っ! と、飴色の噴水を盛大に噴射するマキさん。
「あらあらうふふ、いいでしょう、教えてあげるわプリンセス。世の中には言っていいことと悪いことがあるってことをね……っ!」
どこにいった大人の余裕!?
「はんっ、そっちこそ覚悟したまえ! 運命の出会い――つまりはボーイ・ミーツ・ガールがどれだけサブカルコンテンツを、ひいてはクールジャパン経済を支えているかということを、みっちりと教え込んでやる! あと、プリンセス言うな!」
なんか論点ずれてないですか!?
「ふ、ふたりとも、そのへんにしておきましょうよ……」
僕のか細い制止の声もむなしく、ぎゃあぎゃあと言い合いをはじめるご両人。
そんなふたりに挟まれている僕としては……なんともいたたまれないというか、何度も見てきた光景なので、さすがにそろそろ慣れてきたというか
慣れてきたとはいえ、僕とこのふたりとの関係は、そこまで密接的なものとは言いがたい。密接的どころか、実は、お互いの名前すら知らなかったりする。
「運命の出会いを信じてなにが悪い!? 待ちの姿勢のどこがおかしい!? 『果報は寝て待て』という諺を知らないのか、君は!」
この傲慢不遜なしゃべり方の男性は、通称プリンセスさん。……といっても、プリンセスさん自身は、このニックネームをあまり良くは思っていないようだ。まあ無理もない、女性に対してならまだしも、男性に対してプリンセスって……もはやあだ名というよりは蔑称の域である。
ルックスだけで判断するなら、恋人のひとりやふたり――って、複数人いたらまずいけど、恋愛関係で悩むことなんてまずありえないであろう美男子。
しかしながら、自分でも言っているように、運命の相手との出会いを待ち続けているため、恋愛経験はゼロらしい。
“いつか王子様が”ならぬ“いつかお姫様が”系男子。だからプリンセスなのだそうだ。
高校三年生。つまり、僕よりひとつ年上。通っている学校も違うため、僕が彼に対して知っていることはこの程度である。
「あなたこそ『蒔かぬ種は生えぬ』という諺を知らないのかしら、プリンセス。なに、あなたの恋って相手のほうから言い寄ってこなければ始まらないわけ? 待ちキャラの代名詞であるガイルですら、ソニックブームを撃って相手を飛ばせてから落とすというのに?」
この比較的マニアックな比喩を用いて的確(?)にプリンセスさんをディスる美女は、通称マキさん。こちらももちろん本名ではなく、キャラメルマキアートばかりをオーダーしているため、マキさん。
市内の文系大学に通う現役女子大生で、三回生。完全な偏見だが、文系大学は性に対して極端に寛容的というか、悪く言えば乱れているイメージがある。新歓コンパで出会った先輩と成り行きで……なんて話を、ネットで見たことあるし。ネットの話を鵜呑みにするのはどうかとも思うけど。
「ほ、ほぉーん? そこまで言うなら、是非ともご教授賜りたいものだね、マキさん。僕のことをプリンセスだの童貞だの待ちガイルだの散々口汚く罵るからには、君はさぞ出会いに関して不自由を感じたことがないんだろうねぇ」
「そ、それは……っ!」
しかしながら彼女もまた、恋愛経験はゼロ。なんでも高校まではずっと女子校に通っていたため、そもそも男性と関わる機会がなかったとか。
「そりゃあ大学生だもんなあ、飲み会だとか合コンだとか、出会いの機会にはこの上ないほどに恵まれている立場だ。いやはや憧れるよ、羨ましいなぁ」
「ぐ、ぐぬぬっ……!」
飲み会、合コン。その言葉を聞いて、マキさんの表情が苦い薬を飲み干したかのように歪む。
「僕たち未成年とは違って、君たち大人は酒の――アルコールの力が借りれるもんなぁ? ねえ、マキさん?」
「かはっ……」
効果は抜群だ。マキさんは戦闘不能になった。
聞くところによると、マキさんは壊滅的なまでの下戸らしい。アルコールをほんの少し口に含んだだけで、その場でリバースしてしまう程度には。
それでもめげずにコンパに参加していたものの、飲んでは戻しを繰り返しているうちに、次第に呼ばれなくなるどころか、参加を希望しても断られるようになったのだとか……悲しすぎる。
「ふふふ、あなたは今日一日だけで、二度も私の逆鱗に触れたわ。生きて帰れるとは思わないことねガン待ち童貞プリンセス……!」
「ふん、受けて立つさ。そっちこそ今さら泣いて謝ったところで許してなどやるものか行き遅れ下戸処女……!」
口論がだんだんと子供の喧嘩染みてくる。
「あの、ふたりともそろそろ……」
「いま忙しいから後にしてくれないかしら、『賽は投げられた』……いえ、自らぶん投げた少年くん!」
「そうだそうだ、君の出る幕じゃないぞ、『ルビコン川を渡る』……いや、もう渡ってしまった少年くん!」
「あなたたち、本当は仲いいんですよね、そうなんですよね!?」
ちなみに、少年くんというのは僕のことだ。なんとも特徴のないニックネームだが、僕に特徴らしい特徴がないのが悪い、とのことらしい。失礼極まりない。
「あの、その辺にしておきませんか? 他のお客様にも迷惑ですし……」
と、いっても……。
店内をさらーっと見回してみる。カウンター席に座る僕たち三人の他には、窓際の席で本を読んでいる女の子がひとりだけ。その女の子はこちらの喧騒には目もくれず、黙々と読書を続けていた。
「他のお客様もなにも、いつも通りの面子じゃないか」
「そうね。まあ、いつも通りというには、ひとり足りないような気がするけれど」
このカフェ「くりーぷ」における主な利用者は、僕ら三人と、そこの窓際の席の文学少女と、今日は姿が見えないようだけど、もう一人の計五人。そんな常連客だけで成り立っている、アットホーム極まりない喫茶店なのだ。
僕はなんだかんだ、この空間が好きなのだろう。だから放課後になると、ついついここを訪れてしまうのだ。
しかし、常連客同士とはいっても、みんながみんな茶飲み仲間というわけではない。
例えば窓際で本を読んでいる女の子。思えばあの窓際の席は、僕がこの店に通い始めた頃から、ずっと彼女の定位置だった。
見てくれは典型的な文学少女――とは間逆のギャル系である。
ブロンドというには無理がありすぎる、ところどころ焦げ茶が混じったプリンのような金髪。おおかた、自分で染めようとして失敗したのだろう。
顔立ちはというと、整っていることは間違いないものの、目つきが妙に鋭いこともあり、フレンドリーな印象は皆無だった。マキさんとはまた別の意味での近寄り難さを感じる。マキさんに感じるのは敷居の高さだが、彼女から感じるのは閉鎖的というか排他的というか、警戒色チックな髪色も相まって危なそうというか……
「少年くんはああいうのが好みなのかい?」
ふと、僕の視線を汲み取ったのか、プリンセスさんが耳打ちしてきた。
「いえ、そういうわけでは」
好みどころか、できればあまり関わりたくないタイプの人種である。
同じ「くりーぷ」の常連客でありながら、彼女とは一切会話をしたことがない。
“心理学の講義で習ったけれど、顔は良く知っているものの、挨拶や会話を全くしたことがない他人のことを、『ファミリア・ストレンジャー』と呼ぶらしいわよ”
って、マキさんが何かのときに言ってたけど、僕と彼女の関係はまさにそれだった。さすがは大学生、博識である。
「彼女のことが気になるのはわかるわ。あんないかにも遊んでそうなルックスなのに、毎日あそこで本を読んでるものね。ギャップ萌えでも狙っているのかしら?」
「ですから別に気になるってわけじゃなくて……あと、萌えってそろそろ死語じゃないですか?」
「死語ですって……? それは、あれかしら、私の世代の価値観が現代ではもう通用しなくなりはじめてる、とでも言いたいのかしら!?」
「いやいやいやいや!? そういう話じゃなくてですね!?」
「フッ、語るに落ちたね。いいかい、最近では『萌える』ではなく『ブヒれる』が主流なのだよ。『萌え~』ではなく、『ブヒィ!』さ。おっと、マキさんの世代に合わせるなら、主流というより『ナウい』といったほうが伝わりやすいかな?」
フフン、と勝ち誇った表情で、プリンセスさんが髪をかきあげる。
「いいわ、久々にキレちまったわ。表に出なさい、プリンセス。その減らず口ばかり叩くお口にチャックしてあげるわ……!」
「このまま騒いでたら表に出るまでもなく追い出されちゃいますよ……」
お口チャックも死語ですよ、なんて言えない。それこそ、口が裂けても。