プロローグ
「えー、もう知っている人もいるとは思うが――」
知っている。僕は、彼女を知っている。
「――というわけで、今日からこのクラスに新しい仲間が加わることになった」
普段ならば気だるげな空気が充満しているはずの教室に、いつも通りの男性教諭の間延びした声が響く。
朝のホームルーム。担任の語る、どうでもいいわけがない割りには割りとどうでもいいことのように聞こえる連絡事項に、真面目に向き合う生徒なんてそう多くない……はずの、そんな時間。
でも、今日ばっかりは“イレギュラー”で。
「早速で悪いんだが、瀬乃川さん。軽くでいいから自己紹介をお願いできるかな?」
誰もが担任の話に注意深く耳を傾け、それでいて、誰もが息を呑みながら“イレギュラー”へと視線を向けていた。
軽くウェーブのかかった、亜麻色のミディアムヘアー。華奢で小柄な体躯に、白磁を思わせるような肌。子犬のような茶目っ気を秘めた、ぱっちりとした大きな瞳。端麗でありながら、どこか親しみを感じさせる顔立ち。
「みなさん、はじめまして! 瀬乃川雛奈と申します」
ついに“イレギュラー”が声を発した。小鳥のさえずりのような、あどけなく、そして優しい声音だった。
「今まで星野峰女学院に通っていました。恥ずかしながら、共学の学校に通うのは今回が初めてです」
クラス中にざわめきが走る。星野峰女学院。誰でも一度は聞いたことがあるだろう、生粋のお嬢様学校の名前だ。そのネームブランドは、うちのようなありふれた公立高校とは比べるまでもない。
でも、今はそんなこと、どうでもよくて――
「えーっと、他には……とりあえず、以上になります! 今日からよろしくお願いします」
ぺこり、と一礼。とたん、割れんばかりの拍手が巻き起こる。いきなり美少女が自分たちのクラスに転校してきたのだ、浮き足立って然るべきだろう。
その喝采のボリュームに少し戸惑いながらも、にこやかに手を振る、今日から加わる新しいクラスメイト。
「よし。じゃあ瀬乃川、適当に空いてる席に……って、昭和じゃあるまいし、必要最低限の数しか置いてないよなぁ。委員長、悪いんだが机と椅子を運んできてくれないか?」
……落ち着け、僕。まだ、確証があるわけじゃないだろ。
「委員長? 聞いているのか。ちょっと準備室まで机と椅子を……」
深呼吸だ、間違ってもこの高揚感が暴れださないように。
「……おい、委員長! 聞いてるのか守本!」
呼ばれた声に応えるように、僕こと二年二組の委員長、守本絢斗はふらーっと立ち上がり、
「好き、でした」
ずっと秘めていた想いを、口の端から、ぽろ、と零してしまった。
零れた言葉は、しかし誰に拾われることもなく、静まりかえった教室の床に転がった。
クラスメイトたちが僕を、口をあんぐりと開けて、どうしちゃったのこいつとでも言いたげな目で睨んでいる。
「あなたのことが……ずっと前から、好きでした」
だが、僕の口は止まらない。零すどころか、数年間ずっと抱き続けていた恋心を、とうとう丸っきり吐き出した。
運命、なんていうのは陳腐な言葉で。
それでいて、自分とは無縁な言葉だと思っていた。
運命的に出会った男女が、運命的な別離を経験し、そしてまた運命的な再会を果たす。そんなドラマチックなストーリー展開が、僕のような月並みで、凡庸で、ありふれていて、無味乾燥な高校生の人生に組み込まれているだなんて、夢に見たことすらなかった。
でも、彼女の姿が視界に入った瞬間に。
なんの確証もないまま、確信した。
あのときの彼女の、僕をどん底から救ってくれた微笑みが、脳裏にフラッシュバックしたのだ。
そう、彼女の、明らかに対応に困って、面食らった顔を見た瞬間に――
「あ……」
彼女の、明らかに対応に困って、面食らった顔。
そこで、やっと冷静になる。
「え、えーっと……ありがとうございます?」
誰がみても愛想笑いだとわかるような笑顔で、彼女は告白の返事をくれた。
「ど、どど、ど……」
どうしよう、これ。
「ど、ど……どういたしまして!」
なに言ってんだ、僕……。
「……机と椅子、とってきます」
クラスメイトたちの視線が背中にザクザクと突き刺さるのを感じながら、僕はこの場を逃げ出すことにした。
さようなら、運命の再会。
さようなら、ドラマチックな人生。
守本絢斗、高校二年生の春にして、華やかなはずのハイスクールライフにピリオドを……
「あー、なんだ、守本」
教室を出ようとドアに手をかけた瞬間、僕を呼び止める間延びした声。
振り返ると、中年の担任が、恥ずかしそうにぽりぽりと頬をかきながら、
「なんていうかなぁ……先生はなぁ、守本のこと、好きだぞ」
……ありがとうございます、先生。