異世界一日目
記憶喪失。
正直、今の自分について全くわからない状況で、私は異世界からやってきてこの体に入り込んでしまったようなのです。などと言ったところで信用されないであろう。自分だって目の前の人間、ましてや自分の家族にこんな訳の分からない話をされても悪ふざけの様にしか思えない。
つまり、今の状況では、記憶がなく今までの自分がどんな人間だったか分からないとしておいた方が都合がいいと考えた。このアルという少年の家族には追々話していけばいいだろうか。
「僕の名前はアルというのですか。他のことも、もう少し詳しく教えてもらえないでしょうか?」
女性は戸惑いながらも僕自身、そして家族についても説明してくれた。まず、僕の名前はアルバート・グルーバーというらしい。歳は12歳。そして今話しているこの女性ニーナはどうやら僕の母親のようだ。父親の名はランドルフといい、鉱員として働いている。僕も含め三人家族でこのラトリアという町に住んでいるらしい。
父は鉱員として働いていると言ったが、このラトリアという町は石炭や鉄鉱で栄えている町であり、南側を除く三方向を山に囲まれた場所に位置する。北側にそびえる山を掘り進め、採掘した鉱石を商人を通じて外へ売り出すことで産業が成り立っている。人口はおよそ2000人。町の北側は鉱夫やその家族が住む居住区と採掘場、東側は鉱石の加工などを行う工業区、西側は一般の居住区、そして南側が外とのパイプとなる商業区となっている。外部との出入りは南側の門を通じてしかできないため、地形の恩恵もあって、ラトリアは自然の要塞とも呼ばれている。
そして、この町最大の産業品が魔鉱石である。魔鉱石とは、その名の如く魔法の鉱石のことだ。鉱石そのものが淡い青色の光を宿し、適切な工程を経ることで従来の金属を遥かに超える耐久性と硬度を持つようになる。この魔鉱石は産出される地域が限られており、とても貴重なものなのだが、ここの山はそれが多く採れるらしい。なんとも恵まれた土地である。魔鉱石の利益が町の住民へ還元されているため、生活の質は良く、保障も充実しているため治安はとても安定している。
12歳の子供が親に、町の産業やら立地などを熱心に聞くものだからニーナは少しばかり混乱したが、勉強することは悪いことではないため快く教えてくれた。
ある程度のことも分かったところで、今後の方針を決めねばならない。無事に自宅へ帰ることことが大事だが、これはあくまでも最終的な目標であろう。まず第一の目標としてはこの町を出ることだ、そして、然るべき場所で帰還方法を調べる。
言葉にするのは簡単だが、まず大きな難関があった。僕の体は12歳の子供。現代社会であっても外国から日本へ子供が一人で帰れるわけがない。ましてここは謎ばかりの異世界。この世界に順応してからでも遅くはないだろう。まずはこの世界について知るところから始めないといけない。道のりはとても長そうだが、なんとしてでも自宅へ帰るのだ。
「そういえば、僕が階段を落ちた後って……」
「目の前で突然走り出したと思ったら、次の瞬間には階段から滑り落ちるんだから本当にびっくりしたわ。それで、この部屋まで運んで治療をしたの。目が覚めたと思ったら記憶喪失なんて、無事といえるか分からないけどね。あ、今から容体を見るから少しじっとしててね」
ここで、ニーナが何か呟き念じながら手を頭に当てる。スッと目を閉じて、数秒の間何かを確認したところで手が離れた。
「怪我は大丈夫みたいね、しばらく安静にしてなさい。はぁ……ランディにはなんて説明したらいいのやら」
そう言い残すとニーナは部屋を出て行った。
しかし、今のは魔法だろうか。確かにニーナは何かを呟き、手を当てただけで僕の容体を確認したようだ。詳しいことなんかは後でもいいだろう、いまはとりあえず安静にして休んでいよう。
精神的な疲れのせいか、それとも階段から落ちたことが原因なのかはわからないが、再びベッドに横たわるとすぐに意識を手放した。
◆
時は夜のはじめ頃であろうか。
本日三度目の目覚めは、とても目覚めのいいものとは言えなかった。なにしろ、
「おい、起きろアル!」
いきなり布団を剥がされると、顔をバシバシと叩いて起こされた。まったく、怪我人になんてことをするのだ。
嫌々ながらも体を起こし、声の主に顔を向ける。身長はおよそ190センチ、短髪黒髪、彫りが深く、太い眉が印象的な厳ついおじさん。睨まれたら咄嗟に目をそらしてしまうような鋭い目をしている。仕事帰りなのだろうか汚れた作業着を着ていた。この状況から判断するに、この目の前の人物が僕の父親ランドルフなのだろうが、とてもこの人が自分の父親だとは思いたくはないな、怖すぎる。
ランドルフは目を細めて僕をジッと見る。そんな顔で目を細めたら、睨んでいるようにしか見えないぞ。
「ん……?まぁ元気そうなら心配いらんな。飯食うから席についておけよ」
何か気になる言い方だったが、僕は部屋を出てすぐ目の前のリビングダイニングらしき場所で待つことにした。
まだテーブルには料理が並べられておらず、特にやることもないのでキッチンを覗くと、ニーナが料理を盛り付けていた。今日の夕食は豆と何かの肉と煮込んだものであった。香りからはトマトのような酸味のあるものが入っていると思われる。キッチンの脇からチラチラと僕が見ていることにニーナは気付き、少し嬉しそうに作業を続けていた。ここで、ニーナが使用済みの鍋を水で流しているのだが、蛇口のような細い筒のようなものから水を注いでいた。一見すると現代社会よりも文化レベル低そうではあるが、水道のような現代のシステムが導入されているところを見ると、これからも生活様式の違いには何度も驚かされることになりそうだ。
テーブルに料理が並べられ、全員が席に着いたところで、ランドルフとニーナは見慣れない仕草で手を組み、目を閉じて祈りを捧げる。僕も真似してうっすらと目を開けながら手を組んだ。
「神の御恵みに感謝を込めて、いただきます」
食前の祈りは地球にもあったようなものと一緒だろう。食べ物への感謝は大事なことだからな。二人がスプーンに手をかけると僕も同じタイミングで食事を始めた。ここの主食はパンのようだ。少し硬いが食べれないほどではない。トマト煮込み風のスープを一口掬って食べてみると、香草のいい香りとトマトのような酸味が口に広がる。薄味かと思ったが、鶏肉のような出汁が効いていてとても美味しかった。一応、食材などの種類も覚えておきたいので聞いておこう。
「このスープはとても美味しいですね。何が入っているのですか?」
「材料ねぇ……トマトに大豆と鶏肉と、あと肉の臭み取りにローズマリーとかだったかしら?料理に興味を持つなんてどうしたの?それに家族なんだから敬語は止してよ」
驚いたことに、食材の名称が一緒であった。一から覚えなおす手間が省けていいのだが、不思議な気分だな。通りで見たことあるような料理が出てくるわけだ。
「あまりに美味しかったものですから気になったもので。参考になりました。ありがとうございます。それと敬語に関しては少しずつでいいですか」
いくらなんでも今日会ったばかりの人にため口で話すのは気が引ける。慣れてきてから考えることにしよう。
「まぁ良いじゃねぇか。元気になったなら何よりだな!わはははは!」
ランドルフが豪快に笑う。それに釣られてみんな笑ってしまった。このランドルフという男、こんな強面ながら内面は陽気な性格のようだ。見た目通りの怖い人ならどうしようかと考えていたが杞憂だったみたいだな。
その後は、ランドルフが話す今日仕事場で起こった面白い出来事や、同僚の話なんかで盛り上がった。元の父親はあまり話す人ではなかったし母親もそんなに喋る人ではなかったので、今日の食事は少し不思議な感覚だった。しかし、談笑を交えながら食事をするのも悪くはないと思った。
◆
食事も終わり、食器の片付けも終えるとランドルフに連れられ浴室へ向かった。年齢で考えると中学生が父親と風呂に入るのは変ではないだろう。
水道があるのだからまさかとは思っていたが、浴室にはユニットバスのようなものがあった。その見た目は、大衆浴場の浴槽をそのまま個人サイズにしたような石を積み上げてできたものだった。よく見ると石と石の間にはセメントのようなものまで見える。しかし、この町の建築技術はすごいな。よく考えてみたらこの家は二階建てであったし、水道も通っていることから上下水のインフラまで完備とは中々凄いではないか。
そんなことを考えながら、体を流し湯船に浸かる。僕の体が小さいこともあるが、身長190センチのランドルフと一緒に入っても肩まで浸かれるほどの広さであった。
ランドルフは、仕事終わりの風呂は最高だなぁと呟き、顔をゴシゴシと擦っている。五分ほど浸かったところで、ランドルフは湯船から上り、石鹸を泡立てて体を洗い始めた。
「アル、背中流してくれよ」
特に断る理由もないのでゴシゴシと背中を流す。子供の手でこんな大男の背中を洗うのは大変であったが、よく背中を見ると鍛え上げられた筋肉が浮かび上がっている。それだけ鉱夫の仕事は大変なのだろう。労いも込めて力いっぱい背中を洗う。背中を洗い終わるとランドルフはシャワーで体を流し始めた。それから、僕も体と頭を洗い、再び向かい合って湯船に浸かる。
ここで、しばらく沈黙が続いた後、
「――なぁ、アル」
とランドルフが呟く。
しかしすぐに首を横に振り、なんでもないと言い残すと、先に上がってしまった。何か気になる言い方ではあったが、あちらから何の言わないのであれば聞かない方がいいということだろう。
風呂から上がり、寝間着に着替えてリビングの前を通ると、ソファに腰かけたニーナがこちらを向いて手招きをしている。おそらく呼ばれているのだろうから近づくと、隣に座るようにと言われた。
「髪濡れてるでしょ?乾かしてあげるわ」
そう言って、僕の髪を手櫛で梳くと、少しずつだが乾いていった。やはり、ニーナは魔法らしきものを使っているな。髪を乾かしてもらいながら聞いてみるか。
「さっきから思ってたんだけど、ニーナさんは魔法を使ってます?怪我の様子を確かめたり、髪を乾かしてますけど」
「そうよ、でもこれくらいの魔法なら誰でも使えるものね。そんなことまで忘れちゃったの?」
どうやら魔法とは、一般的に使われているもので誰でも使えるようだ。詳しく聞くと、魔法は古代魔法と現代魔法の二つに分けられるらしい。
まず、古代魔法とは、行使する魔法の構造を構築し、適切な魔力を込めることで発動するものである。つまり、大きさや方向、効果を決めてそれに見合ったエネルギーを消費すれば使えるようだ。ただし、この古代魔法には欠点がある。行使する魔法の構築なんて簡単にできないのだ。何故かというと、術者の知識が足りないと魔法を構築できず不発に終わってしまう。それどころか消費した魔力の行先は定められていないため暴発まで起こるらしい。そこで、そんな古代魔法のリスクを無くしたものが現代魔法である。
現代魔法とは、魔法のイメージによる構築をすでに終えたものを指し、簡単に言えば、魔力を込めて、意味を理解した上で言葉を発することで発動することができる。例えば特定の物体を燃焼させる魔法であれば、『イグニス』と詠唱することで発動する。イグニスという言葉自体に炎という意味があり、詠唱によってそのイメージを強く呼び起こし、構造を構築することができるのである。つまり、イグニスという言葉を発した結果が固定されることで暴発を防ぐのである。これは、魔法を習う際に術者の脳に魔法でイメージを固定することで『覚える』ことが出来るのである。『覚える』だけならば、物体を燃焼させる魔法を『イグニス』ではなく『すごくあつくなれ』として『覚える』ことも可能ではあるが、一般的には魔法の効果と言葉が一致していることが望ましいので、炎を意味する『イグニス』としている。
魔法を『覚える』ということを簡単に言うならば、ゲームなどで魔法屋に行き、魔法を買って、勇者は魔法を覚えた!という感じである。たくさん『覚える』ことで様々な魔法を行使できるようになる。電気回路なんかに置き換えると、魔法の構造自体を一つの回路として、それを頭にいっぱい詰め込む。そうすることで毎回一から回路を作る必要がなくなり、特定の回路を用いることで入力に対する出力が決定される。
これだけ聞くと現代魔法の方が優れている様に感じられるが、そんな現代魔法にも欠点はある。まず、細かい指定ができないことだ。例えば、炎の壁を周囲三メートルに展開したいとする。そんな状況があるかは置いておくとして、炎の盾を表す現代魔法には、『イグニスシールド』というものがあるが、指定方向に三メートル四方程度の炎の壁が展開するだけであり、同じような効果を得るためには周囲に四枚の『イグニスシールド』を発動する必要がある。つまり、現代魔法は融通が利かないという欠点があるのだ。それに、『覚えていない』魔法は使えない。
ここまで聞けば、どちらの魔法にも利点、欠点があることがわかるだろう。魔法使いとはこれらの魔法を上手に使い分けて利用することが賢いやり方とされているそうだ。
「今の話を聞くに、髪を乾かす魔法なんてあるように思えないのですが、どうやっているんですか?」
「えーっと……物を乾燥させる魔法に、『ドライ』という魔法があるのだけれど、それに威力を弱めるイメージを合わせて……?みたいな感じかな……?」
自分で使っていてよくわかっていないようだが、おそらく古代魔法と現代魔法を複合させた魔法のようなものらしい。現代魔法の乾燥させるという結果を古代魔法で弱くすることで適度な乾燥をさせているのだろうか。
「ニナ、その説明じゃアルには分からんだろ。それにアルにはまだ魔法のことなんか早いんじゃないか?まだ12歳なんだぞ」
ふらりとランドルフが目の前にやってきた。その手にはワインボトルが握られている。やはりワインも存在していたようだ。ワインボトルは、地球では18世紀頃にワインの品質を保持するために使用されたとか聞いたことがある。一般の家庭にも流通していることからも想像するよりも魔法チックな世界ではないのかもしれない。
「それよりアル、お前も飲むか?魔法なんかよりもこっちの方がいいだろ」
「ランディ!アルはまだ子供なんですからお酒を勧めるのはいけません!」
ニーナがランディに説教を始めた。なんだかランドルフがさっきよりも小さく見える。どこの世界も母は強し、といったところか。晩御飯も食べて風呂に入ったら眠くなってきたし、そろそろ寝るか。
「僕はもう疲れたので、寝ることにします。おやすみなさい」
「寝室はわかるかしら?階段を上がってすぐの部屋だから案内するわ」
ニーナに連れられて部屋まで案内されるが、本当に記憶を失ったわけではない僕からすればこんなに印象的なことが起こった場所を忘れられるわけがなかった。思い出すと少し頭が痛くなってくるな。
部屋の前まで案内すると、ニーナは、おやすみと言って下へ降りて行った。
さて、魔法やら町のことやらいろいろ知ることができたが、攻撃に利用できる魔法があるってことは戦争やら、魔物やらで外は危険に満ち溢れているだろうな。実際に魔法を使ったりするのは明日のお楽しみとして今日はしっかり休むことにしよう。なんだか寝てばっかりの一日だったけど。
――こうして、異世界に来てからの一日目を終えることができたのだった。