永遠
千佳が慎吾のもとへ着いたとき既に陽は暮れかかっていた。窓から差し込む日光が慎吾の体を照らしている。
慎吾はみずからの力で呼吸を続けるのも困難なのだろうか、その体には幾つもの人工物が取り付けられていた。それらの力によって再び千佳と共に過ごせる日を想い、戦い続けていた。
千佳はそっと慎吾に近づくとその手を握り頬に顔を近づけた。
「ごめんなさい。わたしが、わたしがあなたの側にいなかったから。本当にごめんなさい。これからはわたしがずっと守ってあげるから。これからはずっとあなたの側を離れないから。お願いだから。帰って来て。お願い・・・、慎吾」
千佳はまるで慎吾ではなく自分に言い聞かせるように何度も何度も謝り、そしてお願いを繰り返した。
慎吾は依然として深い闇の中を泳ぎ続けていた。どれほどの時間を泳ぎ続けていたかはわからないが、一度、闇に包まれたその世界には何の変化も見出すことができずにいた。
(千佳、待っていてくれ。俺はここから必ず抜け出してみせる。そしてまたお前の傍に行く。だから俺を信じて待っていてくれ)
千佳の想いが伝わったのだろうか。慎吾の覚悟は決して揺らぐことのないものとなっていた。そんなとき、慎吾は感じたのは今まで経験したことのない違和感だった。
(・・・風?)
ほんのかすかではあるが、それを感じるには何もない世界だった。その風はどこか懐かしい匂いを漂わせていた。温かいようであり、それでいてどこか寂しげな匂いのする風。
(この風はどこから吹いてくるのだろう)
慎吾はあたりを見渡してみた。しかしその視界に映るものには何の変化もみることはできない。慎吾はゆっくりと目を閉じるとその全神経を集中させた。
(あっちか)
かすかではあるが確かに感じることができた。今の慎吾にはほんの小さなものでもいい、なにかのきっかけが欲しかった。この風がなんなのか、そんなことは関係ない。ただひたすらに風の吹いてくる方向に向かって進みだした。慎吾が進むにつれてその風は確かなものへと変わっていった。そしてその風の意味するものも。
(ああ・・・、なんて懐かしいのだろう。これは俺が守り続けてきたものだ。俺はこいつを守るために、必死になって戦ってきたのだ。はやく・・・、もっとはやく。俺に力を・・・、俺に力をくれ)
慎吾は既に確信していた。この風の先に千佳がいるということを。千佳が待ってくれているということを。慎吾は必死になって泳いだ、泳ぎ続けた。暗い闇の中、目に映るものは何もない。ただ孤独と不安との戦い。その中を必死になって泳ぎ続けていた。その先には千佳が待っていることを、ただただ信じて。
だが慎吾が風に向かって進むにつれその強さは増していった。最初はかすかに感じることができた程度の風も、今ではその進路を阻むかのように慎吾の身に襲いかかっていた。
(どういうことだ?この風は千佳ではないのか。千佳が俺を呼びに来たのではないのか?いや、確かに千佳だ。この風のぬくもり、あたたかさ、そしてこの寂しげな匂いは千佳以外の何者でもない)
慎吾の脳裏をほんの一瞬よぎった不安もその強い意思によってかき消されてしまった。そして再び慎吾は力強く進み始めた。
(待っていてくれ。待っていてくれよ、千佳。俺は必ずそこへ行く。必ずお前の元へたどり着いてみせる)
千佳は相変わらずその手を握り続けていた。そしてそれはほんのかすかな振動だった。そのかすかな振動は千佳を眠りから呼び戻し、現実の世界へと導いた。総司からの電話だったのだ。
「・・・もしもし。あ、総司。・・・うん、・・・ごめん、今病院の中だから、・・・うん、わかった、・・・後から、かけ直すね」
それは一瞬の出来事だった。千佳が携帯にでるために慎吾を握っていた手を離した瞬間、風は一気に勢いを増したのだ。その勢いは、再び歩みを始めた慎吾の行方を遮るには十分過ぎた。
(・・・な、なぜ?千佳?)
風は先程までとは違い、冷たく、重く慎吾の体に吹きつけた。慎吾の想いを断ち切り、そしてその肉体に重くのしかかった。
慎吾にはその風に耐え抜くだけの力が残されていなかった。戦い傷ついたその体は再び暗い闇の奥深くへと吹き飛ばされてしまったのだ。
千佳を信じ、そして千佳を守るために孤独と不安に打ち勝とうと戦い続けた慎吾。その戦いはここに終わりを告げる。あの瞬間、慎吾の脳裏によぎった千佳への疑惑。それを感じ取ったとき、慎吾には再び立ち上がるだけの力は残されていなかった。誰も知らない静かなる戦い。それは終わりを告げた。
千佳が再び慎吾の手を握りしめたとき、その手には既にぬくもりは残っていなかった。
慎吾に最後の別れを告げる。何一つ変わっていない。千佳の横で寝息をたてていたときとその表情は変わらない。
千佳は、小さいとき、どこかで読んだことのある物語を思い出していた。その物語には一組の男女が登場する。
男は難病にかかり余命のない生活を送っていた。女はその体内に男の種を宿し将来を思い悩んでいた。消え行く男のこと、生まれ来る子供のこと、そしてみずからの将来のことを。やがて春が来るころに男は静かに逝き、それと時を同じくして女の元に新しい命が生まれた。
女はその子と共にその一生を男との想い出の中で過ごした。女の愛を一身に受けて育った子は父に恥じない強さを見につけ母を守り続けた。
その物語は真実の愛を描いたものとして世間で賞賛されていたことを覚えている。しかし千佳にとってそれは違っていた。
(確かにそれが人としての理想の形であるのかも知れない。だけどわたしにとって、それは数多く存在する形の中での一つでしかない・・・。一生を通じて一人の人しか愛すことがなかったのであれば、それは素晴らしいことであるのだろう。だけどわたしは二人の人を愛してしまった・・・)
千佳はその瞳にあふれ出る涙を隠そうとはしなかった。
(二人を愛してしまったものにとって、そのどちらかを選ぶのが本当の姿なのだろうか?その気持ちのどちらかを捨て去ることが本来の姿なのだろうか?)
フロントガラスに小粒の雨が当たり出した。ライトを消したその車内には、小さい頃に慎吾と聞いた懐かしい曲が流れている。
千佳はシートを倒し横になった。その瞳には闇夜の中を上空から降り注ぐ雨の一粒一粒が映っていた。はるか空の上で生まれた一粒の涙が夜の闇を疾走する。時には光を屈折させ、時には微生物を飲み込み、やがて地上へと激突する。そして誰にもその軌跡を知られることなく大地へと消えていく。
だが決してそれで終わりではない。大地へ激突した後はその身を隠し大きく成長させる。そしてやがて河となり海へと流れ出す。海へと進化を遂げるとそれは何者よりも深く大きく成長する。そして再び上空へと還って行く。
その営みはまるで千佳の中で生まれ育つ想いのようでもあった。小さい頃は思い出の一部でしかなかった慎吾への想いも、慎吾との再会と同時に大きく成長し、千佳の中では海よりも深く大きく成長した。そしてその想いは今、慎吾の死と共に想い出の中へと帰っていった。
直美と千佳が喫茶店に入って来たのはもう二十分近く前のことになる。しかし二人とも口を開いてはいなかった。そんな空気に業を煮やしたのかやっと直美が口を開いた。
「ねぇ、千佳ってさ、慎吾君のことが好きだったの?」
その問いに千佳は首を横に振ることはできなかった。直美から慎吾のことを聞かされたときのその行動がたんなる幼馴染でかたづけられるものでないことは千佳自身よくわかっていたのだ。
「・・・うん」
千佳の口からはっきりと聞き取れたかどうかはわからない、だが直美には千佳のその態度から理解できた。
「そう、でもまさか、慎吾君とも付き合ってたわけじゃないよね?」
千佳は首を横に振ることができない。
「でも、それって・・・、総司先輩とは?」
直美はまさか千佳がそんなことをするはずがない、というような表情をしていた。だが千佳はそんな直美の顔もまともに見ることもできない。しかしそんな千佳の態度がすべてを物語っているようであった。
「そう、総司先輩とも続いてたんだ・・・」
直美は明らかなショックを受けていたようだ。高校のときから知っている千佳がその幼馴染の慎吾と、そして大学の先輩である総司と、二人と付き合っていたなんて思ってもいなかった。もちろん直美には千佳の二人に対する想いの強さを知ることなどできない。
「ねぇ、それでこれからどうするの?」
直美にとっては千佳の気持ちより慎吾と総司の二人への同情の想いの方が遥かに強かった。
「まさか、慎吾君が亡くなったからって、これからは総司先輩と続けていけばいい、なんて思ってないでしょうね。」
千佳にとっては慎吾がいなくなったからなどという理由ではなかった。千佳にとって、総司は今までも必要な存在であり、そしてこれからも必要な存在である。別れることなど考えられる存在ではなかった。
「別に・・・、慎吾がいなくなったからってわけじゃ・・・」
直美は千佳の話を最後まで聞いてはくれなかった。その先程までより少し大きな声が千佳の言葉を遮った。
「千佳は勝手すぎるよ。千佳は総司先輩の身になって考えてみたことあるの?千佳を想う総司先輩の気持ちがどれだけわかってるっていうの?そんなの、そんなの総司先輩がかわいそ過ぎるよ・・・」
自分でも気付いていたことではあるし考えもした。毎晩悩み眠れない夜が続いたこともある。それでも答えの出すことのできなかったことなのだ。そんな千佳にとって、直美の言葉は千佳の悩みなど知りもしない軽率なものに聞こえてならなかった。
「総司先輩、総司先輩って。・・・じゃぁ、直美にわたしの何がわかるって言うの」
直美に釣られたのだろう、千佳の声も大きくなっていた。
「わたしは総司のことが誰よりも好きなのよ。その気持ちは付き合いだした頃から変わっていないし、誰にも負けない自信がある。でもそれと同じくらい慎吾のことが好きだったのよ。わたしだってどうしていいかわからないくらい好きだったのよ」
まるで感情がその意思とは関係なく一人で走り出してしまったかのような口調だった。だがそこまで口にすると千佳は急に大人しくなり蚊の鳴くような声で言葉を続けるのがやっとのようだった。
「ほんとに好きだったのよ・・・」
そう呟いた千佳には直美の視線を受け止めることができなかった。しかし直美もそれ以上の言葉を千佳にぶつけることができないでいた。慎吾の事故のことを聞いた千佳の態度、そして今さっきの慎吾と総司への想いの激しさ。それを目にした直美にも千佳の二人への想いの深さがなんとなく頭では理解できたのである。
深い静寂だけが二人の間に漂っていた。二人がお店に来てからだいぶ時間が経ったのだろう。最初はサラリーマンらしきスーツを着た男性がいただけだったが、今は待ち合わせをしているのか、学生らしき姿も見える。
お互いのグラスの中には既に何も残っていない。長い沈黙をようやく破ったのは直美だった。
「そう・・・、千佳の気持ちはなんとなくだけど・・・、わたしにもわかった。」
直美は口ではそう言いながらも、まだどこか完全には納得できないでいるような表情である。
「ただ、きっと・・・、わたしには千佳の気持ちは一〇〇%理解することはできない。でも、だからと言って、千佳の気持ちの邪魔をすることもできない」
直美は優しくもあるが、寂しげな視線で千佳を見つめている。千佳はそんな直美の視線から逃げるかのように通りを行き交う人々を眺めていた。
「だから、何も言わない。本当は・・・、本当はどれだけ、総司先輩に教えてあげたいか。でも・・・、わたしには・・・」
直美の最後の言葉は涙で歪んでいた。それでも直美には耐えることしかできなかったのだ。
直美の本当の気持ちは誰も知らない。直美が隠し続けていたのだから当然と言えば当然のことだ。直美が総司に対する自分の気持ちに気づいたのは、千佳が総司と付き合い始めるほんの数日前のことだった。それ以来、直美は自分の気持ちを抑え続けることしかできなかった。どんなに恋焦がれても、その相手は親友の恋人なのである。直美にとって自分の気持ちを隠し続けることが、気持ちを殺してしまうことが自分のため、千佳のため、そして総司のためになると信じていた。
「先に帰るね」
直美はそれだけ千佳にいうと、千佳の反応を確かめもせず、まるでその涙で濡れた顔を隠すかのようにお店を出て行ってしまった。
千佳がお店を出た時、直美の姿はなかった。その代わり千佳の目の前を見知らぬ人々が通り過ぎていった。
慎吾は時々千佳の元へと還って来る。それも必ず千佳が独りで部屋にいるときを狙って。だが千佳の元へ還ってきた慎吾は何も語らない。ただ遠くから千佳を見つめているだけだ。その瞳は千佳に見せたことのない色をしており、まるで千佳の行動を監視しているかのようでさえある。
千佳はそんな慎吾に声をかけたことがある。だが慎吾はまるで千佳の声が届いていないかのように何の反応も示さない。ただじっと千佳を見つめているだけである。その瞳に変化はなく、視線が変わることもない。千佳の前に還って来た時と同じ表情、同じ格好、同じ瞳をしている。
千佳はそんな慎吾に触れようと試みたことがある。しかし慎吾はそんな千佳の気持ちを受け流すかのように、千佳との距離を縮めることはない。千佳が慎吾に近づこうとすると、慎吾は表情を変えず後ろを振り向く。千佳が慎吾に近づくと、慎吾は千佳を振り返ることもなくその距離を一定に保つ。千佳が歩みをとめると、慎吾は千佳を振り返り先程までと同じ瞳で千佳を見つめ続ける。
しかし僅かでも千佳の中に慎吾ではない別の誰かが侵入を試みると、慎吾は千佳の前から姿を消す。それが総司からの電話であろうと、母親の千佳を呼ぶ声であろうと関係ない。ほんの一瞬でも千佳の中に慎吾以外の誰かが侵入を試みると姿を消してしまうのだ。それはほんの一瞬の出来事であり、千佳が慎吾の消えていく姿を見たことはない。
千佳にとってそれは苦痛であり喜びであった。例え幻影であれ慎吾が側にいてくれることで千佳は独りでいる時間がなくなったのだ。だがそれと同時に千佳は四六時中慎吾によってその行動が監視されているかのようだった。
慎吾が逝ったあの瞬間、千佳は総司の電話を受け取った。まるでその事を恨むかのように慎吾が千佳を監視しているかのように感じられてならなかった。
そのような考えが千佳の中では何度も繰り返されていた。そう、慎吾と共に生活しているかのように思える程に。