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ふたりの恋人  作者: 吉富カエル
8/14

さおり

 総司は再びこうして朝を迎えるなんて考えてもいなかった。いやむしろ考えたくなかった。あれほど自分に言い聞かせていたことなのに。


 横では夜を共にしたさおりが静かに寝息をたてていた。

(俺はもう自分の力ではどうすることもできないのだろうか。俺に千佳が必要なことはわかっている。だけど・・・、千佳は俺の傍にはいない)

 総司の心は罪悪感よりも虚しさの方が遥かに大きかった。つい三日ほど前に千佳に逢い、千佳と交わした約束。

「俺を信じて待っていてくれ」

(いったい俺のどこにそんな言葉を言う資格があるのだろうか。あいつはきっと俺を信じて待っている。何も疑うことなく俺の迎えを待っているだろう。なのに俺は・・・)


 総司は独り考えていた。今までのこと、これからのこと、そして千佳のことを。

「ねぇ、どうしたの。そんな怖い顔して」

 いつ起きたのだろうか。さおりが煙草に火をつけながら総司の顔を覗き込んでいた。

「・・・、なんでもない」

 総司はそれだけ言うと布団の中に潜り込んだ。まさか千佳のことを考えている自分の顔が怖く見られるだなんて思ってもいなかった。

「そう・・・、残してきた彼女のことを考えてたんだ」

 さおりには総司の考えていることがまるで見えているかのようだった。

「違う」

 総司はさおりの言葉に無意識のうちに否定してしまう自分が哀しかった。

「やっぱりそうなんだ。そっか・・・」


 さおりは他にも何か言いたそうな口調だったがその後に言葉は続かなかった。そしてしばらくの沈黙が続いた。その間、さおりは相変わらず煙草を吹かしていた。そしてようやく沈黙を破ったのはさおりだった。

「ねぇ、その彼女とはもう約束してるの」

 一瞬、総司はさおりの言う約束という言葉が何を意味しているのかわからなかった。だがそれはほんの一瞬でしかなかった。

「約束?」

 わかってはいたが総司はさおりからはっきりとその意味を聞き取ろうとわざと問い直した。

「そう、約束」

 そんな総司の心境もさおりにはわかっているのだろう。さおりははっきりとは言わない。

「約束って?」


 総司のその言葉に返事は返ってこなかった。その代わりに別の質問が返ってきた。

「あなたは本当に彼女のすべてを知っているの?」

 今まで考えたこともないことだった。総司は千佳と付き合い始めてからずっと一緒だった。少なくとも総司はずっと一緒だと思っていた。だが実際はいつも傍にいたはずの千佳について総司は何も知らない、知らないことが多すぎた。


 付き合い始めの頃はお互いいつも一緒にいた。そしてお互いがお互いの存在を毎日のように確かめ合っていた。だが時が経つに連れて徐々にお互いを確かめることも減っていった。時々、逢ってはお互いの存在を確かめ合う。そこには出逢ったときとまったく変わらない千佳がいる。それが当然のことだと思っていた。


 だがさおりの言葉を考えてみると総司は一種の不安に襲われた。俺は千佳の何を知っているのだろうか。俺が千佳の側にいないとき、千佳はいったい何をしているのだろうか。ましてや離れ離れになってからのこの三ヶ月間で、千佳が一体何をしているのかをまったく知らない。だから、考えてもいなかった。俺は千佳のことを何も知らないから信用できたのだ。


 さおりには総司のその表情から心の中がはっきりと見て取ることができた。

「やっぱり・・・」

 さおりの言葉で総司は我に返った。まるで総司はすべてをさおりに見られているような気がした。

「知っているさ。俺は千佳のすべてを知っている。だからこうして安心してこっちでやっていけるんだ」


 それが明らかな強がりであることはさおりにも、そして総司にもわかっていた。さおりはその総司の言葉をまるで聞こえなかったかのように総司に対してはっきりと言い切った。

「わたしはあなたのすべてを知っているわ。」

 ここに来て総司は初めてさおりの言いたいことが理解できた。


(さおりさんは俺のことを本気で・・・。)

 今まで気づかなかったのがおかしいとしか思えなかった。それほど総司は千佳のことで盲目になっていた。

 さおりの会社での接し方、優しさ、そして仕事以外での総司と一緒に過ごす時間。それが単なる先輩と後輩の間から来るものではないことは火を見るより明らかだった。

(俺はなんて愚かなのだろう。千佳だけでなく、さおりさんまで)


 さおりには総司のそんな気持ちもわかっていた。わかっているが故にどうしようもないことも知っていた。だが頭では理解していても抑えることのできない気持ちもある。それはさおりにしても例外ではなかった。


 さおりは総司の手を探し出し、その手の平にみずからの手の平を重ねてみる。総司のそれはさおりのそれより二周りほど大きく、やがてゆっくりと包み込む。それに呼応するかのようにさおりはその体を総司の体に重ね合わせゆっくりとそして大きく営みを開始する。総司はまるでそんなさおりの気持ちに答えるかのように、その大きな体をゆっくりと動かし始めた。


 慎吾は泳ぎ続けていた。永遠なる空間の中をただひたすらに泳ぎ続けていた。どれだけ進んだかすらもわからない。ほんの数ミリかもしれないし、何万キロと進んだのかもしれない。しかし慎吾にとっては進んだ距離など問題ではなかった。

 今の慎吾にとって孤独と不安だけがその気持ちを弱めていた。それは進む以外、選ぶ道のない慎吾にとってとてつもなく苦しく、そして辛いものとなって襲い掛かってきた。

(本当に出口はあるのだろうか。俺はこのままこの世界で独り永遠に泳ぎ続けなければならないのだろうか。)


 慎吾には時間を感じることさえ許されていない。事故に遭ってからもう何年も経っているようにさえ感じられた。

(あれからもうどれくらい経ったのだろう。マスター、マスターは俺がいなくてもお店は大丈夫だろうか。かあさん、かあさんは元気でやっているのだろうか。千佳は、千佳はどうしているのだろう。俺がいなくなったことを知っているのだろうか。逢いたい、早く千佳の顔を見たい。そして千佳を抱きしめたい。千佳・・・)


 だが慎吾がどれだけ早くこの世界から抜け出ようと焦ってみても出口らしきものは見当たらない。母親が慎吾を助けようとしたあの青白き太陽もあれ以来、慎吾の前に姿を見せてはいなかった。

 病院のベッドの上、慎吾の横には既に母親の姿はなかった。


 講義を受けていてもその内容はほとんど残っていない。すぐ横で話をしている直美の言葉さえ聞こえていないようだった。

(慎吾。いったいどうしたっていうの。なぜ連絡もくれないの。今いったいどこで何をしているの)


 慎吾に起こった出来事など知らない。千佳にはただひたすらに慎吾からの連絡を待つ以外方法がなかった。いやない筈だった。

「・・・で、・・・、それが・・・・・・坂・・・慎吾・・・」

 僅かに直美の言葉が千佳の脳裏に届いた。

(え・・・、慎吾。慎吾のことを話してるの)

 それが慎吾以外のことだったら千佳には届いていなかっただろう。実際、その名前以外の内容は何一つとして千佳には届いていないのだから。

「慎吾。今、坂本慎吾って言わなかった」


 千佳は思わず直美の肩を掴みその顔を凝視した。直美はさっきまで何を話し掛けてもなんの反応もなかった千佳の態度の豹変振りに驚きを隠せなかった。

 直美のその表情に、千佳はハッとして我に返った。

「あ、ごめん。なんかさっき直美の話の中に慎吾のことが聞こえたものだから、つい・・・」


 直美は千佳のそんな態度に奇妙な疑問を感じながらもそれを口にはしなかった。千佳は直美のそんな疑問にまったく気づく様子もなく言葉を続けた。

「で・・・、さっきの話なんだけど、慎吾がどうかしたの。ほら、わたし幼馴染だからちょっと気になっちゃって」

 千佳は精一杯、普通に振舞おうと努力して見せた。

「う、うん・・・、でも千佳はまだ坂本君のこと知らなかったんだ。てっきり母親同士とかで聞いて知っているものだと思ってたんだけど・・・」


 直美は千佳が慎吾に起こった出来事を知らないはずがないと思っていた。慎吾とは直美よりも千佳の方が遥かに親しい存在だったのだ。それに母親同士が仲の良い子ことも直美は知っていた。そのためか意外な驚きを隠すことができなかった。

 そんな直美の態度にもどかしそうに千佳は答えを促した。

「で、なにがあったの・・・」


 その態度にはどんなに隠そうとしても隠すことはできない気持ちが現れていた。そんな明らかにいつもと違う千佳を直美にははっきりと見て取ることができた。それでも直美は疑問を口にすることもなく千佳の様子を伺うようにゆっくりと話を始めた。

「ほんとに偶然なんだけど。高校の知り合いで看護士になった友達がいてさ。その子に聞いたんだけど、一昨日の夜、坂本君が事故で運ばれて来たんだって。」


 千佳に一昨日の夜のことが思い出された。

(一昨日の夜と言えば、わたしが慎吾の家の前でその帰りを待っていた夜だ)

 千佳は声には出さずに黙って直美の話を聞いている。だがその顔色は先程までとすっかり変わっていた。


「で、それがね、千佳にはすごく言いにくいのだけど、容態的には良くないらしいの。なんか、打ち所が悪かったのと発見が遅くなったのが重なって。一応、命は取り留めたらしいんだけど、まだ意識が戻ってないって・・・」

 直美は明らかにその先を続けていいのかどうか迷っていた。既に千佳を見て話すことなどできはしない。

「そ、それで・・・?」

 千佳にはその一言を言うのがやっとだった。そして、その一言に促されるように直美は話を続けた。

「う、うん。ここからは、もしかしたらの話なんだけど・・・」

 直美は言い難そうに、やっとのことで千佳の表情を見つめながら口を開いた。

「もしかしたら・・・、もしかしたらこのまま意識が戻らない可能性もあるかもしれないって先生が話してるのを聞いたって。」


 そこまで聞いた千佳にはもう自分の気持ちを抑えることができなくなっていた。

「どこ?そこはどこの病院なの?」

 千佳のその口調は荒く、今まで見たこともないような勢いで直美に向かってきた。そんないつもと違う取り乱した千佳を目の前にした直美には病院の名前を告げることしかできなかった。なぜ千佳が慎吾にそこまでこだわるのか、なぜ千佳が必死になっているのかを聞くことなどできるわけがなかった。


 今の千佳には慎吾のことしか頭になかった。さっきまで感じていた不安も、直美が慎吾について聞きたがる千佳を不思議そうに見つめていたことも千佳の脳裏には残っていなかった。

(慎吾。わたしの慎吾が苦しんでいる。それなのにわたしはのうのうと時間を過ごしていた。慎吾が意識のないまま苦しんでいるのに・・・、わたしは慎吾の気持ちを疑い、総司に想いを寄せていた。ごめんね慎吾。今からあなたを助けに行くから、それまでの辛抱だから)


 総司は再び携帯を取り出していた。仕事の合間に時間を見つけては呼び出しを続けている。それなのにその呼び出しがに千佳が反応することはなかった。

(千佳はいったい何をしているのだろう)

 総司には今朝、さおりに言われた言葉が再び思い出された。

(やはり俺は千佳のことを何も知らないのだろうか。付き合い始めてからの三年間、あれだけの時間を共に過ごし、あれだけの想い出を二人でつくってきたのに。俺はいったい千佳の何を見ていたのだろうか。それともさおりさんの言うとおり・・・)


「芳山。おい、芳山。」

 先程から上司が総司のことを呼んでいるのだが、総司にその声は届いていない。

「総司君。先程から課長が呼んでいるわよ。」

 隣でパソコンに向かっていたさおりが総司でも気づくようにはっきりと教えてあげた。

「あ・・・、あ、はい」


 総司は勢いよく席を離れると課長の方へ急いで近づいていった。

「お前、いったいどうしたんだ。この前の失敗以来、仕事にまったく集中していないんじゃないのか。あれがそんなにショックだったのか」

 総司にはその口調は優しくもあるが、どこか自分を見下しているような感じさえした。

「い、いえ。別にそう言う訳ではないのですが・・・」

 その気持ちを表面に出すこともできず、そしてその理由を言うこともできないでただ語尾を濁すことしかできなかった。

「だったらもう少し仕事に集中したらどうなんだ。それとも昨日、あれから先輩になんか言われて落ち込んでるのか?まあ、どちらにしろ、お前には会社もいろいろと期待してるんだからあんまり心配させるんじゃないぞ」


 その言葉に心当たりのある総司の表情は変わっていた。だが総司はそれを感じさせないように必死で隠そうとした。

「・・・すいません」

 そう言った総司は俯いていた。

「あまり気にするなよ。何事も経験だ」

 課長は俯いた元気のない総司を初めて目にして気まずく感じたのか、それだけ言うと総司をその場に残して席を離れて行ってしまった。


 総司が席に戻るとさおりは先程までと変わらぬ表情で仕事を続けていた。総司は自分が周りから見てわかるほど、いつもと違う表情でいることに気づいていなかった。いや気づいていたが隠しているつもりだった。

「彼女・・・、連絡つかないの?」

 そんな総司の気持ちを知っているかのようにさおりは総司に言葉を投げた。


 それはさおりにとってはなにげない一言であったのかも知れない。だがその言葉は焦りと不安に駆られた総司にとって、とてつもなく重い言葉であった。

 総司にとってその言葉は心の中をすべて見透かされているような、そんな気がした。それは今まで感じたことのない、どこか本能的に嫌悪する部分であった。


 今までは、千佳のことを想いながらもどこかさおりに対して惹かれる部分もあったのは事実だ。だからこそ悩み流されもした。だが今の総司にとってさおりは自分の心を手にとって弄んでいるように感じらた。もちろんさおりはそんなことはほんの僅かも思っていない。ただ総司のことが知りたいという気持ちの現れでしかなかった。しかし、そんなさおりの気持ちを理解するほど総司には余裕がなかった。

「いったい何が・・・、何がわかるっていうんですか」


 低く重い言葉だった。そこには今まで総司から感じることができなかった追い詰められた迫力が感じられた。

「え?」

 さおりにははっきりと聞き取ることができなかった。総司の言葉はかすれ、確かな言葉として聞き取るには困難であったのだ。それが総司には、その気持ちを知り、言葉の内容を聞き取っていながらも、まるで総司の気持ちを弄んでいるかのように感じられたのだった。

「さおりさんに何が・・・、さおりさんにいったい俺の何がわかるというんですか」

 その声は大きく、さおりのみならず、その周り一帯が聞き取るにも十分過ぎた。総司はさおりの、その総司を見つめる信じられないといった瞳を見てようやく自分の口から出た言葉に気がついた。


「す、すいません。なんでもありません」

 やっとのことで総司は自分の席に戻ると先程までと同じようにパソコンに向かった。しかし総司はその隣でさおりが瞳を涙で濡らしながら席を立とうとしている姿を見ることはできなかった。


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