慎吾
その廊下は薄暗く、片隅に置いてある長椅子には一人の年配の女性が腰掛けている。かなり長い間そこに座っているらしく、その瞳は瞼でふさがれ、肩はこれ以上ないほどに傾いている。
やがて女性のいる反対側のドアが静かに開くと、そこから数人の白衣を着た人たちが出てきた。その人たちは、感情のない、まるで機械のような足取りで、その多くは女性に一瞬目を傾けると廊下の奥へと消えていった。やがて最後の一人かと思われるその医師が女性に近づき声をかけた。
「坂本さんですね?」
物音一つしない廊下で静かに声だけが響く。そしてその声に呼応するかのように先程の女性が力なく立ち上がる。
「坂本慎吾さんの、お母さんですね?」
問い掛けられた女性は声を発することなくただ首を縦に振る。その顔に表情はない。
「できる限りのことは致しました。何とか一命は取り留めたのですが、非常に危ない状態であることにかわりありません」
聞こえているのだろうか。女性は何の反応も示さない。
「今できることは息子さんの生きる意志の強さに期待するしかありません・・・」
窓一つない薄暗い廊下である。女性からはかすかに唇だけが動くのが見て取れた。
「・・し・・ん・・・、し・・ん・・ごに、慎吾に逢わせてもらえないでしょうか。」
女性はそれだけ言うと相手の返事を待たずに、まるで何かに操られているかのようにドアの中へゆっくりと消えていった。それを見届けた医師はしばらく女性の座っていた椅子の辺りを見つめていたが、やがて何も言わずに先ほどの医師たちと同じように廊下の奥へと消えていってしまった。
女性が部屋へ入ると慎吾はベットの上で横たわっていた。その瞳は閉じ、まるで意思のない蝋人形のようであった。
女性はゆっくりと近づき慎吾の手を握った。その手は蝋とは違い温かかった。だがその手をどんなに強く握ろうとも、その手が答えを返すことはない。
「・・し・・・ん・・ご・・」
女性は跪くと、声にならないほど小さな声で慎吾に向かって語りかける。
「慎吾・・・、お願いだから眼を開いて。お願いだから・・・、わたしを見て。」
女性はその後も何かを言おうとするのだが嗚咽で歪んだその口からは言葉の内容を理解することはできなかった。それでも女性はまるで呪文のように小さな声で慎吾に語り続けていた。
やがて女性はそのすべてを語り終えたのだろうか、慎吾の手を握ったまま、その横で崩れ落ちるように深い眠りへと引きずり込まれていった。
慎吾は眠っていた。深い眠りの中にいた。
(ここはどこだろう)
慎吾は今まで見たことのないような世界を泳いでいた。そこは永遠の空間のように感じられた。その空間は赤で塗り潰され、あたかも辺り一面に血を撒き散らしたかのようにも感じられた。その果てしもなく広がる赤い空間の中を慎吾は泳ぎ続けていた。不思議と自分がなぜこのようなところにいるのかを考えることはなかった。 やがて泳ぎ続ける慎吾の前に一筋の明かりが飛び込んできた。
(なんだろう、あの明かりは?)
慎吾の遥か上の方に青白い、やや霞がかった太陽のようなものが見える。そこから発せられる明かりは永遠とも思える空間の中を一直線に慎吾を目指していた。しかしそれは目の前まで伸びてはいるものの、慎吾に届くことなくその効力を消し去ってしまう。
慎吾はその明かりに触ろうと近づき手を伸ばすのだが、まるでそれは生き物のように慎吾の伸ばした手をかいくぐる。仕方なく慎吾はその明かりに近づこうと泳ぎ始めた。だが、その明かりは慎吾がどんなに泳いてもなかなか近づくことができない。まるで慎吾との距離を一手に保っているかのようにさえ感じられた。
(不思議な明かりだなあ。まるで意志を持っていて、俺をからかっているようだ)
ふとそう感じた慎吾は泳ぐのをやめてみた。するとその明かりも同じように動くのをやめた。そして再び慎吾が泳ぎだすと、明かりも慎吾に合わせて動きを開始した。
(やっぱりそうだ。こいつは意志をもっている。そして俺をどこかへ連れて行こうとしているな。でも、いったいどこへ連れて行こうってんだろう)
慎吾は再び泳ぐのをやめると辺りを見渡してみた。だが、先程と同じように赤の世界にはこの明かりの他には何も見つけることができない。ただ一つ違うように感じたのは、先程より空間の色が濃くなってきていることだった。ただそれもはっきりとわかる程ではく気のせいにさえ感じられた。
慎吾は再び明かりの方へ向かって泳ぎ始めた。すると明かりは先程と同じように慎吾と一定の距離をおいて後退するというその動きを繰り返し始めた。
慎吾とその明かりが動きを再開してどれ程の時間が流れたのだろうか。やがて慎吾は周囲の異常さにその動きを止めた。
(なんだろう、この寒さは。)
慎吾が明かりに向かって泳げば泳ぐほど、その周囲は寒くなり慎吾の体温を奪っていった。そしてそれと同時に先程から感じていた周囲の色の変化も明らかに分かるほどとなっていた。
慎吾が最初に明かりを見つけたときはそれほどではなかった赤の世界も明かりに向かって泳ぎ続けるにつれその濃さと密度を増し、今ではこの明かり以外には何も感じることも見ることもできなくなってしまっていた。もちろん、最初の頃には確認することのできた明かりを発していた青白い、霞がかった太陽のようなもの例外ではなかった。
(この寒さは異常だ。このままこの明かりに向かって進んでいけば俺はいつか凍え死んでしまう。それにこれほど泳ぎ続けているのにこの世界には何も見つけることができない。これはいったいどういうことなんだろう。もしかしたら俺の他にはなにも・・・)
慎吾はこの異常な寒さのためか、今まで感じなかった孤独感を感じだしていた。そしてどうしようもない不安に襲われ始めた。
(このまま泳ぎ続ければ寒さのため間違いなく俺は死ぬ。でも俺は死にたくない。まだ俺は死ねないんだ)
一度、不安に襲われるとそれに打ち勝つことは今の慎吾にはできない。そしてそれは突然襲い掛かってきた。不安に支配された慎吾が来た道を戻ろうと振り向いた瞬間にそれは襲いかかって来た。
まるで待ち構えていたかのような出来事だった。振り向いたその瞬間、先程まではゆっくりとそして気づかれぬようにとその姿を変えていった赤の世界が一気にその姿を変貌させたのだ。
その濃度のため慎吾の五感はその感覚を失い、その密度のため慎吾の心臓は呼吸することを失った。そしてその寒さのためにその体は意思による働きを封じられてしまったのだ。
慎吾には何も感じることが許されていなかった。この世界にいる限り慎吾は大海原に発生した、たった一つの泡でしかなかったのだ。その生命はみずからの意思で守ることもかなわず、自らの意思で終焉させることもできない。何億というその数限りなく発生し、生まれては消えていくたった一つの泡であった。
慎吾にとってその時は永遠にも感じられた。何も感じることができない慎吾が唯一感じることのできたもの、それは時間の流れであった。いや正確には感じられていたのかどうかもわからないが、慎吾にはその感覚が残っていた。
しかし慎吾には永遠と感じられたその時間も実際にはほんの一瞬の出来事でしかないのかもしれない。慎吾が孤独と不安に耐えられず、振り向いた瞬間に赤の世界はその姿を変貌させ慎吾を支配した。しかしそれと時を同じくして、慎吾を導いていたあの明かりも姿を変貌させていたのだ。
姿を変えた明かりはその先端からまるで触手のような無数に分かれた更に小さい明かりを発生させた。その小さい明かりたちはこの世界の濃度によって捉えることのできない慎吾の体に幾十にもなって絡みついた。その小さい明かりたちはやがて慎吾の体全体に絡みつくとその輪郭をはっきりと見て取ることのできるほどの光を放ち始めた。その光は温かく、まるで慎吾を優しく包み込むように辺りを照らし出した。
(温かい。なんて温かいのだろう)
慎吾を包み込んだその光はまるで慎吾を守るかのようにゆっくりとそして確実に前に向かって進み始めた。
(こんなに温かいのはいつ以来だろう。まるで小さいときに感じたぬくもりのようだ)
慎吾の脳裏に小さいときの思い出が甦る。友達と喧嘩をしてあざだらけになって帰って来たときのこと。野球の試合でエラーをして悔し涙を流して帰って来たときのこと。女の子の気持ちがわからず傷つけ悩みながら帰って来たときのこと。そんなときにいつも優しく包んでくれたぬくもりだった。そしてまたそのぬくもりは慎吾を温かく包み込み、その内側から満たしていった。
(かあさん?かあさんなんだね?)
慎吾の問い掛けにその光は何の反応も示さない。ただ先程と同じようにゆっくりと、ゆっくりと太陽に向かって進み始めていた。
しかし、その光は進むにつれ徐々にその速度を落としていった。そしてついにはその動きを感じることができないほどになってしまっていた。
(かあさん、いったいどうしたんだい?)
慎吾がその体を包む光を確認したとき、既にその光は慎吾の体を包み込むのが精一杯になっていた。その向かう先の太陽もまた、その存在を隠してしまっていた。
(そうなんだね、やっぱりかあさんだったんだね。だから俺を守ってくれたんだね)
慎吾はそう呟くと、その体を包んでいた光の殻を中から破り自分の意思で泳ぎでた。光の中から出るとそこは先程より更なる寒さが待っていた。いや待っているはずだった。しかし、慎吾にはその寒さを感じることはなかった。
(かあさん、ありがとう。そして、心配かけてごめんな)
慎吾はそう自分に言い聞かせるように呟くと再び泳ぎ始めた。その瞳には何も映ってはいない。しかし、慎吾の脳裏にははっきりと自分の進むべき方向が見えていた。
(ごめんな、かあさん。俺はかあさんに頼ることはできないんだ。俺はもう人に頼るのはやめたんだよ。そして、これからは守っていかなくてはいけないんだ。例えこの世界から出ることができないとしても俺は出口を探し続ける。出口があると信じて探し続けようと思っている。それはかあさんや誰の力も借りずに自分だけの力で探し続けなくてはいけないんだと思う。それができて初めて自分の大切な人を守ることができるんだと思うから)
既に慎吾の周りは闇に包まれ何も見えない。しかし慎吾はその第六感に疑いすら抱かず泳ぎ続けていた。
(なあ、かあさん。俺、かあさんにはまだ伝えてないけど、俺は小さい頃から千佳のことが好きだったんだ。かあさんも知ってるあの千佳のことだよ。その気持ちは大きくなった今でも変わらない。そしてこれからもずっと変わることがないと思う。だから、千佳を守るため、そのための、これは俺が俺に与える最初の試練なんだ。だから、かあさんには心配をかけるかもしれないけど黙って見守っていてくれないか。俺は俺の力で乗り越えて見せるから)
慎吾は無意識のうちに今の自分の状況を理解していた。事故に遭い病院へ運び込まれたこと、体が動かないこと。そしてこのまま意識が戻らないかもしれないということを。
どれだけ待っても千佳の携帯はならない。もちろん慎吾に起こった出来事など知る術もない。ただ、今朝、総司と交わしたほんのわずかな言葉だけが千佳の中で生き続けていた。
(総司、あなたはどこで何をしているの。あなたの・・・、あなたの声をください)