岐路
慎吾と行く旅行のことを考えて独り幸せな気持ちになる。旅行というには少し大袈裟かもしれないが、慎吾と初めて行く泊りがけのドライブ。三年程前、まだ総司と付き合い始めたばかりの頃、初めて二人で訪れた想い出の場所。今度は慎吾と行く。
車で街灯もない細い山道を抜けると、そこには何もない展望台。そこからは夕陽に染まる海だけが見える。海は夕陽を反射し空よりも明るい。夕陽が沈むとそこには明かりなどというものは存在しない。ただ暗闇のみが存在する。陽が沈むことで光はいなくなり、ただ総司のぬくもりだけが残っている。そのぬくもりは何も見えるはずのないわたしの視界を薄紅色に染める。やがてその色は徐々に濃度を増しわたしの心へと浸透する。そしていつしかわたしの心を遠い世界へと吸収する。
その世界にはなにもない。天も地も、水も空気も色さえも存在しない。そんな中わたしは出口を求めて一筋の線となる。最初まっすぐだったその線もやがて弧を描く。そして徐々にその弧の半径を縮めながら、ゆっくりとそして確実に中心に向かっていく。しかし、中心にたどり着くことなくその動きは停止する。動きを停止した線は時が経つほどに短くなりいつしか点となる。そしてその点もやがて霧散する。
わたしは総司との想い出を追っていた。慎吾と行くときのことを想像しながら、総司と行った時のことを思い出していた。わたしの過去には総司がいる。それと同時に慎吾がいる。遠い過去は慎吾のもの。近い過去は総司のもの。そしてわたしの現在は慎吾のために存在し、これから起こりうる未来は総司とともに存在する。そう決めていたはずだった。わたしが二人を手に入れた時点でそうなると思っていたことだった。慎吾はわたしを支え続けて、わたしは総司を支え続けた。そして、総司は独り走り続けていた。
夢を見た。短い夢。想い出の中の慎吾が語りかける。
「俺はいつだって千佳の側にいた。そしてこれからも側にいる。それは永遠に変わらない。例えお前に気づかれなくともずっとずっとお前のことを守り続ける」
想い出の中の総司が語りかける。
「千佳のことが好きだ。俺はお前のために生きる。だからお前も俺のために生きてくれ」
わたしは二人に願いでる。
「わたしを連れ去ってください」
と。しかし、わたしの願いに二人は反応しない。深い不安がわたしの心を支配する。わたしは二人に触れようとそっと手を伸ばす。しかし、その伸ばした手の先には届くと思っていた二人の影は映らない。影はわたしの手を伝い、わたしの体をすり抜けるとそのまま一度も振り返ることなく去っていってしまう。
これほど苦しいことはなかった。そして、これほど満たされていたこともなかった。わたしは二人によって満たされ、二人によって苦しめられる。そうすることで、わたしは自分の罪を償うことができた。
わたしを救う方法などこの世の中に存在しない。彼らの存在が地球上から消えたとしてもその記憶はわたしの中に永遠に生き続ける。過去の記憶は変わらない。消し去ることなどかなわない夢なのだ。わたしを救う方法。それはたった一つ。わたしの存在を消し去ることしかありえない。
あれほど待ち焦がれていた慎吾との旅行。そんな日など来なければいい。時間が止まってしまえばいい。そうすれば、このままずっと二人を想い続けることができる。幸せな気持ちで待ちわびることができる。わたしには二人が必要なのだ。だから、慎吾を裏切ることもできないし、総司を裏切ることもできない。裏切ることができるのはわたしだけ。わたしは自分を傷つけることでしか二人を救うことができない。
この苦しみは誰にもわからないだろう。あれほど待ちわびていた日が最も遠い日へと変わってしまったのだ。わたしには逃げることはできないのだ。
「はやく一緒に行きたい」
旅行のことを想いながら慎吾と一晩中語り合ったことを思い出す。そこには総司との想い出は存在しない。慎吾との時間は慎吾のためだけに存在する。そこには例えわたしに生を与え育んできたものであろうと入り込むことは許されない。もしそのような冒涜を働くものがいたのなら、決して許されるはずもなく、わたしから追放される。
わたしには同時に二人を愛することができない。だから苦しいのだ。二人を同時に愛すことができるのならそれほど楽なことはないだろう。わたしは総司を愛し、慎吾を愛している。総司を愛している瞬間はわたしの中に慎吾は存在しない。同じように慎吾を愛している瞬間はわたしの中に総司は存在していない。それがわたしの愛なのだ。
焦る気持ちを抑えることはできない。
(はやく、はやく慎吾の声が聞きたい。慎吾の言葉が欲しい。お願いだから)
トゥルルルルル。トゥルルルルル。
携帯の呼び出し音だけが虚しく響く。
(なぜ?なんで慎吾はでないの。お願い、はやくこの苦しみからわたしを救って)
千佳には立ち止まることができない。
(慎吾に逢いたい)
気がついたときには部屋を出て慎吾の家に向かっていた。慎吾の暮らすアパートまでは遠くはないが近い距離でもない。行ったところで慎吾が部屋へ戻っているという保証はなかった。だが千佳は待っていることができなかった。
(トゥルルルルル。トゥルルルルル。)
車が走っている間も千佳の携帯は決してその働きをやめることはなかった。その呼び出し音は千佳の望むものによって遮られることはなく、永遠かと思えるほどに千佳の中にこだまする。そして、その働きがまっとうされることもなく、千佳が慎吾の部屋に着いたときその部屋の電気は消えていた。
(まだ帰っていないのだろうか・・・)
ほのかな期待と大きな不安を胸にチャイムを鳴らしてみる。反応は、ない。
(あとどれくらいだろう。あとどれくらい待てば慎吾に逢えるのだろうか)
千佳にとって時間という存在がこれほど憎く感じられたことはなかった。今まで慎吾と過ごしてきた幸せだった時間。それと同じ時間なのに、一瞬が永い。そして憎い。車の中で待つ千佳には何も聞こえない。その密閉された空間は時の流れを止め、そして思考の力さえも保つことを許さない。
千佳の横を通り抜ける車のヘッドライトが一瞬その顔を照らしては闇に還す。そこに生気は感じられなく、まるで意志を持たぬ人形のような顔である。
(こんなことになるのなら、総司に逢わなければよかった。そうすれば、ずっと慎吾の側にいられたのに)
慎吾への想いに操られた千佳には、総司でさえもその中に存在していなかった。
小さなお店。知っている人でなかったら、普通のアパートと勘違いしてしまいそうな入り口のドア。そのドアを開けるとすぐ階段になっている。天井は意外と低く昼間でも薄暗いため、気づかずに上ると頭をぶつけてしまいそうなほどだ。そして階段を上った二階にその人はいる。
「おう、慎吾、ご苦労だったな、もうあがっていいぞ」
マスターの低い声だけが店に響いている。店に残っている客はいない。先程までいた若いカップルも、慎吾が少しの間カウンターの奥に入っているうちに帰ってしまったようだ。そのカップルが残していったと思われるグラスには氷だけが残っている。
「いえ、最後の後片付けまでやりますよ」
そう慎吾はそう答えると、飲み残しのグラスを手にとり軽く蛇口をひねる。
「そうか、・・・いつも悪いな」
マスターはチョロチョロと流れ落ちる水に目をやりながら申し訳なさそうに答えた。
「そんなことないですよ。マスターにはいつもお世話になってるんですから。気を使わないでください」
慎吾はマスターの方を振り向くこともせず、流しに溜まっている皿やグラスを洗い始めた。
マスターの趣味といっていい小さなお店だった。店員はたったの二人。マスターとアルバイトの慎吾だけだ。慎吾の休みの日にはマスターが一人で店をやることになる。マスターも既に還暦を間近に控え、その額には皺が消えることがない。
(そういえば・・・、最近は洋子さんも滅多にお店に顔を出さなくなったな。)
慎吾はふと思い出したように独り言を呟いた。それが小さい声だったため、聞こえたのか聞こえなかったのかはわからないが、マスターはフロアーの掃除をしている手をとめようとはしない。
洋子というのはマスターの娘さんである。慎吾がアルバイトを始めた頃はよくお店を手伝いにやって来ていたものだった。年は慎吾より二歳ほど上で、入ったばかりの慎吾に対してまるで弟のように接してくれた。だが次第に慎吾が仕事を覚えるにつれてお店に顔を出す回数も減り、いまでは月に数回、仕事帰りにお店に寄るかどうかになっていた。
千佳と再会する前の慎吾はそんな洋子にほのかな憧れを抱いていた時期もあった。洋子の作ってくれたカクテルを初めて飲んだとき、今まで味わったことのないような感動が慎吾を襲ったのを覚えている。
そのカクテルは決して珍しいわけではなかった。何処にでもあるようなそんなカクテルだった。だが、思い出そうとすると、それがどんな味だったのかはっきりと思い出すことができない。それがどのような色だったのか、冷たかったのか温かかったのか、ベースが何でできていたのかも思い出せない。そんなカクテルは後にも先にもあの時だけだった。
慎吾はその後も何度か洋子の作るカクテルを飲んだことがある。だがどれも慎吾の記憶の中に残るほどのものではなかった。それなのに、なぜ最初に飲んだときだけ慎吾の中に残っているのか。それが慎吾には最近になってようやくわかり始めていた。
すべては千佳だった。あの頃の慎吾には想いを伝える相手がいなかった。まだ慎吾にとって千佳は近くても遠い存在だった。そんな慎吾の中に入ってきたのがあのカクテルだった。あの時の慎吾以外の人が飲んだのなら何も感じることはないだろう。また、あの時以外の慎吾が飲んでいても何も感じることはなかっただろう。ほのかな想いを寄せる相手のつくるカクテル。そこには作った本人にもわからない、慎吾だけにしかわからない隠された想いが入っていたのだ。
「おい」
横でマスターの呼びかける声がしたような気がした。
「おい、慎吾」
気のせいではない。はっきりとマスターが慎吾を呼んでいた。
(え・・・)
慎吾は、ハッとしたようにマスターの方を振り向いた。すると、その顔はあきれ返っていた。
「おい。お前は、そのグラスをどれだけ洗えば気が済むんだ?」
マスターはあきれ返った顔を慎吾から、慎吾の手に持っているグラスに向けて言い放った。
「グラス?あっ」
慎吾はさっきから同じグラスばかりを洗い続けていた。その横にはまだ洗っていないグラスが多く残っているにも関わらず。
「「あ」じゃないだろう。一つのグラスを贔屓にするのもいいけど、他のグラスの面倒もきちんと見てやれよ。あんまり贔屓ばかりしていると他のグラスに嫌われるぞ。それと・・・、あんまり考え事ばかりしていると幸せがどっか行っちまうぞ。もうちょっと楽しんで生きろや」
マスターには慎吾の考えていることなどわかるはずもない。だが慎吾の様子から何か考え事があるのが見て取れるのだろう、その表情は優しかった。
「あ、・・・すいません」
慎吾はそれだけ言うと、手に持っていたグラスを取り替え、他のグラスを洗い出した。
(考え事か・・・。なんで今さら洋子さんのことなんて思い出してたんだろう)
慎吾は自分で自分のことが不思議だった。なぜなら、千佳と再会してからは、こんな風に洋子のことを思い出すことなんて一度としてなかったからである。
マスターは相変わらず店内の掃除をしている。時々椅子を引きずる音が店内に響くほかは静まり返っている。
店の時計が一時をまわった頃、ようやく慎吾は帰り支度を始めていた。特に急いでいるわけではなかった。もちろん慎吾は千佳が帰りを待っていることなど知るはずもない。いつもと同じようにいつもと同じ道を家へ向かってバイクを走らせる。ただそれだけのことでしかなかった。
バイクを走らせる慎吾の表情はいつもほど明るくなかった。
(あの時、なぜ千佳ではなく洋子さんのことを考えていたのだろうか・・・)
簡単に答えの出るものでないことは慎吾にもわかっていた。しかし考えずにいられなかった。そして答えを出さずにもいられなかったのだ。
(もう一度、洋子さんに逢うことができれば・・・)
そう思いお店へ戻るため方向を変えた瞬間だった。不運としか言いようがない。午後のうちに乾いたと思っていた路面も、そこだけが顔色を変えて隠れていたのだ。
それほどスピードを出していたわけではない。だが心と体のバランスを失った慎吾には元に戻すだけの力はなかった。
激しい衝撃と共に体が宙を舞う。ほんの零コンマ何秒かの世界が何時間にもなって感じられる。まるで背中に羽が生えたかのように自分の体がゆっくりと飛んでいるかのような錯覚がした。
(考えることすらいけないことなのか)
体への衝撃を感じた瞬間、はっきりと答えがわかった。そしてこれから訪れるであろう自分への試練を覚悟し、慎吾はその意識を失っていった。
どれだけの時間がたったのだろうか。千佳にはわからない。遠くでサイレンの音が聞こえる。それが消防車なのか救急車なのか、今の千佳には考える力は残されていない。
(おかしい・・・。遅すぎる)
千佳は慎吾の部屋の電気を確認した。やはり明かりは点いていない。
(見過ごしてしまったのだろうか。わたしの気づかない間に部屋へ戻ってそのまま寝てしまったのだろうか)
無意識のうちに慎吾の部屋へ向かいチャイムを鳴らしてみた。やはり、反応はない。
(なぜ。なぜなの・・・。わたしがこれほど必要としているのに。慎吾に逢いたいのに。なぜ慎吾は戻ってきてくれないの。慎吾・・・、慎吾に逢いたくてたまらないよ)
慎吾への想いに取りつかれた千佳はそのままドアの前に座り込んでしまった。そして再び時間との戦いを開始する。永遠に終わることのない戦いがまた始まったのだ。
目に見えない敵と戦うとき、千佳には今まで感じたことのない恐怖を伴う。千佳の中にはその戦いの終わりは存在せず、その敵も存在しない。千佳の敵は千佳であり、その終わりは思考の終わりである。
そんな千佳には自分の力でその思考にピリオドを打てるだけの勇気は持っていない。だから永遠に戦い続けなければならないのである。例えそれが決着のつくことのない戦いであったとしても。
千佳がふと気が付いたときには空は白み始めていた。結局その日、慎吾は部屋へ戻ってくることはなかった。千佳にはどうすることもできず昨日来た道を戻ることしか残されていなかった。
(慎吾はわたしをわかっていない・・・。わたしは慎吾を愛している。それと同じように慎吾もわたしを愛している。彼にはわたしを不安にさせる権利などないのだ。あなたがこうしてわたしを待たせている間、わたしは様々なことを考える。わたしの他に別の女がいるのではないか。わたしに知らせることなく部屋を変えてしまったのではないか。そして、もう二度と逢うことができないのではないか・・・)
千佳の脳裏には慎吾に対する不安だけが生まれ成長していく。千佳は自分の中で生まれてくるこの考えが恐ろしかった。
(わたしの何処にそんな権利などあるのだろうか・・・。わたしは権利など持っていない。そんなことはわかっている。持っていないから・・・、持っていないからこそ持っていると思い込もうとする。そうやって自分で自分を守ろうとしているのだ)
千佳の運転する車は無意識のうちにスピードを上げていた。
(このままどこか遠くに行けたら楽だろうな。もう慎吾のことを考えることも必要ない。慎吾のことも、総司のことも、すべてを忘れられるのだろうな)
空も明るくなってきている。気づいていないのだろうか、遠くからやってくる対向車のヘッドライトがやけに眼に痛い。
(総司はどうしているのだろうか。まだ寝ているのだろうか。それとも既に起きて会社へ行く準備をしているのだろうか)
千佳のハンドルを握る手に力が入る。
(そうだ・・・、わたしはここにいる。総司のためにここにいる。わたしが遠くへ行けば総司が悲しむ。そのためにもわたしはここにいなければいけない。わたしは慎吾のためだけに生きているのではない。わたしは二人のために生きているのだ)
千佳は急いで携帯を取り出すと電話をかけた。前回とは違う番号が呼び出しを開始する。
(トゥルルルルル。トゥルルルルル。)
前回と同じ呼び出し音が千佳の耳にこだまする。
「・・・もしもし」
少し眠たげな、それでいて温かい声だった。
「おはよう・・・。起きてた?」
車のスピードはゆっくりと、それでいて確かな弧を描きカーブを走り抜ける。
「ああ・・・、たった今起きたところだけど。・・・どうした?こんな朝早くに」
総司は最初、電話の相手が誰だかわからなかったようだが、今ははっきりとわかっているようだ。
「ううん、なんでもないの。ただ総司の声が聞きたかっただけだから・・・」
嘘ではなかった。千佳のこの行動は本当にそれだけの気持ちでしかなかった。そこに慎吾への想いなど混在してはいなかった。
「おいおい・・・、なんだよ朝っぱらから。今までそんなこと一度もなかっただろうが」
総司にとっては千佳の言葉がよほど嬉しかったのだろうか。先程までとは違うはっきりとした明るい口調だった。
「今日はなんか・・・、そんな気分だったの」
電話の向こうから照れ隠しのような苦笑いが聞こえた。
「今から会社に行くの?」
千佳は少しでも長い間総司の声を聴いていたかった。
「ああ・・・、今日はちょっと重要な打ち合わせがあるからな。少し早めに会社に行ってその準備をしなくてはいけないんだ。本当ならもっとゆっくり話をしていたいんだが・・・、すまん、仕事から帰ったら電話するから」
総司はすまなさそうに千佳に告げた。
「うん、わかった。ごめん、総司のことも考えないでこんな朝の忙しいときに・・・。夜、待ってるから電話してね」
千佳は自分の気持ちを抑えるのに必死だった。
「ああ。お前も今日一日がんばってな」
そう言い残した総司の明るい声が千佳の耳にはっきりと残っている。
「うん。総司もね」
千佳はそう言うと、自分から電話を切った。ほんの短い間だったけれど、それでも千佳は満足だった
。
(総司はわたしのことを愛してくれている。夜、また総司の声が聞ける。逢うことはできないけれど・・・、今はそれでわたしは生きていける。総司がいることでわたしの生きる理由がある)
やがて千佳の運転する車は家の前まで来て停まった。そこから降りる千佳の足取りは確かなものであった。
窓の外で小学生達のはしゃぎ声が聞こえる頃、千佳はようやく深い眠りについた。