恋人
その彼とは付き合い始めた頃から将来を意識し、そして就職のため遠く離れてしまった今でも、わたしにとっての彼は変わることのない存在だった。
そしてその気持ちは今でも変わらない。彼と過ごす時間には意味があり、夢があり、将来があった。彼は私の欲しいと思うものをすべて持っていた。それが永遠に変わることのないものだと信じてしまうほどに。
総司から告白されたとき、千佳は素直に嬉しかった。これから訪れると思われる総司との日々。それらを想像しただけで千佳の心は小躍りし、将来について幾つもの夢を見た。
慎吾から告白されたとき、千佳は哀しかった。その心は今もわからない。ただ、心の変遷に、時の流れのみを感じ取っていた。
「今、付き合ってる奴はいるのか」
その言葉を聞いたとき、何も言えなかった。
「俺と付き合ってくれ」
その言葉を聞いたとき、首を縦に振ることしかできなかった。いや、首を横に振ることができなかったと言った方が正しい。
それが、してはいけないことだとはなんとなくわかっていた。でも、自分の気持ちに正直に生きていくためには首を横に振ることはできなかった。
自分の気持ちに正直に生きるために、その想いを寄せる人を裏切ることになる。そのことに気づいていてもできなかった。
「わたしも慎吾のことが好きだった・・・。」
その意味は過去形だった。ただその言葉を聞いた時の慎吾の笑顔は今でも忘れない。千佳の慎吾に対する記憶は面影から始まり、あの笑顔でとまっている。
慎吾への想い。総司への想い。千佳の二人への想いに変わりはない。千佳にとっては二人ともかけがえのない存在であることは確かなのだ。
しかし、総司と離れてしまってからは、お互いの距離からか、慎吾と逢う回数が多くなっていった。そしてその度に慎吾の気持ちを、想いを、ぬくもりをその体に受け入れてきた。そうすることによって千佳は今を生きていくことができた。
千佳には二人を愛することなどできない。慎吾といるときは慎吾を愛している。そして、総司といるときは、あくまでもその愛は総司にのみ向けられている。
そんな千佳の元へ今日、久しぶりに総司が帰ってくる。
「こうして千佳とゆっくり過ごすのも久しぶりだなあ」
久しぶりに逢った緊張からか、どことなくぎこちない。総司はそのことを示すかのように、千佳との間にほんの僅かな隙間を空けて座った。
「・・・うん」
千佳はその隙間を埋めるように総司に寄りかかる。
「どうだ、学校の方は?」
先程から千佳は総司の瞳を見つめていた。しかし総司はその視線に気づいていないのか、公園の奥のほうを見つめている。
まだ小学生ぐらいの子供達が五、六人ぐらい、男の子ばかり集まって騒いでいる。先程まではサッカーをして遊んでいたのだが、既に辺りは薄暗くボールを蹴るには十分な明るさが足りない。
二人の座っているベンチの隣には、誰が忘れていったのだろうか少し汚れたタオルがかかっている。総司が手を伸ばせば届きそうな距離だ。
千佳は総司の質問には答えようとせず別の質問を返した。
「仕事の方は順調なの?」
その質問に総司は一瞬、戸惑うような表情を見せながらも言葉を続けた。
「ああ、ここ最近やっと慣れてきたよ。まあ、職場の先輩には迷惑かけっぱなしだけどな。就職したばかりの頃に比べたらなんとかやれているよ。」
総司は夜の窓を開け始めた空を見上げながら、まるで何かを思い出しているかのように答えた。
「そう・・・、だったらよかった」
この三ヶ月間、電話でしか話をしていない。千佳がどんなに逢いたいときでも、まだ学生の千佳には簡単に逢いにいける距離ではなくなっていた。
そんな千佳にとって会話の内容などはどうでもよかった。ただ総司と言葉を交わすだけ、同じ場所で同じ時間を過ごすだけで千佳は幸せだった。
「ところで、お前の方は大丈夫なのか。もうそろそろ就職活動とかしないとまずいだろ」
総司は話題を自分のことから遠ざけるかのように話し掛けた。
「就職かあ・・・。あんまり興味ないなあ」
千佳の視線の先には子供達を迎えにきた母親らしき人が映っている。子供達の中でも一番小さく、まだ小学校の低学年らしき子供がみんなに手を振って母親のところへ走っていった。
後に残った子供達は小さい輪になっていたかと思うと、一斉に歓声をあげ、大きく広がりそしてまた小さな輪へと戻っていた。
総司も先程まで見上げていたその視線を子供達へと移していた。
「就職に関しては興味のあるないの問題じゃないだろう。お前も来年の春には学校を卒業するんだから、就職しないとなんのために大学を卒業するのかわからんぞ」
千佳には総司の言葉が届いていなかった。いや、言葉は届いていたのかもしれないが、その言葉の内容を理解することはできていなかった。総司に逢うまでは話したいことがいっぱいあった。でも、今は何も頭の中に浮かんでこない。ただこうして側にいたい、そんな気持ちだけだった。
総司は何も変わっていない。出逢ったときから変わらない。話をするときの遠くを見つめるしぐさ、そしてその声やぬくもり、すべてが千佳の知っているそのままだった。
千佳は何も話そうとはしない。ただ総司の手を強く握ることしかできなかった。総司はそんな千佳の気持ちを知ってか知らずか、ただその手を強く握り返し、それ以上のことについては聞こうとはしなかった。
言葉など無用なものでしかない。こうして総司といっしょにいるだけで、そこには言葉など必要ない。瞳を見つめ、その体に寄りかかり、その服を触る。その行動は言葉などで飾らなくても気持ちで伝わっている。
千佳にとっては届いているかどうか分からない言葉よりも、その肌で、その神経で、そのぬくもりで感じることのできる行為の方がどれほど幸せだろうか。こうして総司に触れたその指先から、神経細胞を伝わりそのぬくもりが体中を駆け巡る。それは末端神経に至るまで、その一本一本にくまなく拡がっていく。そう思うだけで千佳は今まで感じたことのないほどの高揚を感じていた。
「どうかしたか?」
千佳の表情を心配したのか総司が声をかける。その手は優しく千佳の肩まで伸びた髪を掻き揚げていた。
「・・・ううん」
千佳はただ首を横に振るのみだった。総司はそんな千佳を優しく見つめていた。
先程まで遊んでいた子供達もいつのまにか姿を消していた。公園の街灯は二人の影だけを照らし出している。
「・・・行こうか?」
総司は優しく言葉をかけた。そして何も答えようとしない千佳の手を強く握り締めると、その体を包み込むようにゆっくりと立ち上がった。やがて二人は街灯の灯にうっすらとその軌跡だけを残しながら公園を後にした。
今朝まで慎吾に触れていたその肌で総司の肌に触れる。その想いは慎吾のそれとは違い、溶けるように熱い。慎吾に対する想いなど一瞬にして蒸発してしまうようにさえ感じられる。
「あたたかいね」
(なんでだろう。言い出せない)
「ずっと、このまま側にいたい」
(なんでだろう。総司と付き合い始めた頃の気持ちが甦る)
わたしの決心は、まるでその想いの熱さに気化してしまったかのように、その面影すら残していない。
(総司にはわたししかいない。わたしがいなければ生きていけない)
わたしはそっと総司の唇をその指先でなぞってみた。その指先に感じられる吐息は今まで感じたことのないほど温かい。
(そして、わたしも総司がいなければ生きていけない。そこに違いがあるとすれば、わたしは一時として独りでは生きていけないということだ。それはつまり総司を裏切るという結果になるのかも知れないのに)
わたしはその体を総司に任せきっている。総司の体の動きにあわせ、わたしの体も呼応する。それはまるでその瞳に映る想いのように淡く切ないことなのかも知れない。
(わたしは独りでは生きていけない。そのために、今を生きるために慎吾が必要なのだ。それと同時に将来を考えるため、幸せな死に逃げないために総司が必要なのだ。そのどちらかが欠けてもわたしは生きていくことができない・・・)
うっすらと和らいで行く意識の中でわたしは自分に言い聞かせるように総司に声をかける。
「ねぇ、今度、総司の家に行ってもいい?」
総司は何も言わない。何も言わないかわりにその体で千佳を包み込む。わたしの中に総司が入り込み、そこから、そのすべての想いが伝わってくる。そこに言葉は存在しない。言葉などという、人間の考え出した意味のないものを使うこともなく、その想いは二人の距離を埋め尽くす。
やがて総司の想いに包み込まれたわたしは思考能力を剥奪され、白の世界へと舞い落ちる。そしてすべてを忘れ去る。そこには何も存在しない。存在するのは圧倒的なその想いのみ。
(千佳)
それが声であったかどうかはわからない、だが確かに総司はわたしを呼んだ。遠のく意識の中うっすらと残っている。そしてそれ以降のことは覚えていない。
わたしは眩しい朝日によって現実に引き戻される。二四時間前、わたしの横にいたのは慎吾だった。慎吾が静かな寝息をたてていた。
「起きたか?」
ほんの少し前に起きたのであろう。総司はまだ眠そうな感じで声をかけた。
「ううん、まだ」
わたしはそう言うと総司に背を向けるように寝返りを打つ。
「・・・なぁ、話しておきたいことがあるんだ。いや、これからの俺たちのことを考えていくなら、絶対に話しておかなければいけないことなんだ」
総司の表情は見えないがその気持ちはどこか別の場所にあるように感じられた。
総司はわたしの言葉を待つことなく話を始めた。
「俺が向こうで働き始めてからの三ヶ月間にいろんな環境の変化があった。まず・・・、お前になかなか逢えなくなったことや仕事のこと、会社での人間関係のこと、とにかくこの三ヶ月の間で俺のなかでは大きな変化があったんだ」
わたしは総司の手を探し出し、そっと握った。しかし総司はまるでそのことに気づいていないかのように話を続ける。
「そして、その中でも、俺にとって一番大きかったのは、とにかくお前と逢える時間がなくなってしまったことだったんだ。そうなることはわかっていたことだったのに・・・、わかりきっていたことなのに。・・・辛かった。そして、寂しかったんだ」
総司のその視線は部屋の隅を見つめている。そこに何があるわけではない、ただその視線は部屋の隅に注がれていた。
「お前は気づいていなかったかも知れないが、俺がまだ学生で就職について親と喧嘩したり、悩んだりしてたときにお前が側にいてくれるだけで俺はなんとなく安心できた。お前がどんな想いで俺の側にいてくれたかはわからない。だけど・・・、お前が俺に「がんばって」と、ひとこと声をかけてくれることで俺はがんばることができた。とにかく俺にとってのお前の存在は絶対に必要であって、なくてはならない安らぎの場所だったんだ」
わたしは嬉しかった。総司と付き合い始めたのは大学に入学してからすぐのことだ。もう三年以上も経つのに、掃除の口からわたしが必要だったことを聞かされたことは一度もなかった。
総司はそんなわたしの気持ちを知っているのか、わたしの反応を確かめるように手を握り返した。そして、わたしが何も言わないことを確認すると話を続けた。
「それがこの三ヶ月間、初めてお前のいない生活を過ごした」
ここで総司は少し呼吸を整えるかのように煙草を手に取った。そして煙草に火をつけようとするのだが、なかなかうまくつけることができない。ようやくに火のついた煙草を深く吸い込みやがて大きく息を吐き出す。
「寂しかったんだと思う。」
まるで自分の気持ちを確かめるように言葉を続けた。
(寂しい?)
言ってる意味がよくわからなかった。わたしは無意識のうちに総司を握るその手に力が入った。
「新しい生活が始まってすぐの頃はいろいろなことで忙しく、そのことに気づかなかったんだと思う。でも新しい生活にも慣れ、一ヶ月が過ぎた頃に部屋に独りでいる自分に気づいたんだ。そのとき、俺は自分の部屋の広さに気づいたんだ。たった八畳しかない部屋なのに。俺にはもう、千佳への電話だけでは、そこから受け取る言葉だけでは、その空間を埋めることはできなかったんだよ」
総司は話を止めると、先程火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。そして新しい煙草を取り出すと、今度は一回で火をつけ話を続けた。
「俺がその空間に気づいたとき、俺の側にはお前ではない、千佳ではない一人の女性がいたんだ。その人は俺の寂しさを紛らわすには十分だった。でも・・・、どこか千佳とは違っていたんだ。お前からは感じることのできたものがその人からは感じることができなかった」
千佳には分からない。総司の言葉の意味を理解するには千佳はあまりに純真すぎた。
(この人は何を言っているのだろう。いったいわたしに何を伝えたいの?)
総司は千佳のそんな思いに気づくはずもなく言葉を続けた。
「それがなんなのか、なぜなのかはわからない。ただ一緒に過ごす時間が短いだけなのか、それとも、他になにか原因があるのか」
総司の声に力はなかった。昨日久しぶりにわたしの前に現れた総司のはずなのに。さっき確かめたはずなのに。今は違う。いまわたしの側で話をする総司はわたしの知らない、まったくの別人であった。
(信じていた。総司にはわたししかいないのだと。本当にこの人は総司なの?昨日までは確かに総司だった。それがわたしの寝てる間に外見だけはそのままでまったくの別人と入れ替わったとしか思えなかった。いやそう思いたかった)
それでも総司はゆっくりと話を続ける。
「俺が何でこんな話をしてるか、わかるか?」
わたしは総司の腕の中でゆっくりと頭を左右に振る。総司はその動きを確かめるようにゆっくりと口を開く。
「・・・千佳と別れるべきかどうか悩んだんだ。このままの俺でいたら間違いなく俺は俺でなくなってしまう。お前というべき存在がありながら向こうではまた別の人がいる。俺にはそんな自分が耐えられなかったんだ」
総司の言葉には先程までとは違い、はっきりと力強さが感じられた。わたしはただ黙って総司の言葉を聞いていた。
「だけど・・・、こうしてお前と久しぶりに逢って、同じ時間を過ごし、お前を肌で感じることができて、やはり俺にはお前しかいないって思ったんだ。だから、これからどんな辛いことがあっても、どんなに寂しいときがあっても、お前と生きていくためには俺のすべてを知ってて欲しいんだ。俺の弱さも、強さも、そしてそこから来る俺のすべてを知ってて欲しい」
総司は口にしていた煙草を灰皿へ押し付けると強引にわたしを抱き寄せた。
「何年かしたら必ずお前を迎えに来る。こんなこと言える資格がないことはわかっている。でもそれまでは俺を信じて待っていてくれ。俺にはお前が必要なんだ。お前しかいないんだ」
わたしは自分の中の何かが熱くなっていくのを感じていた。首を縦に振ることも横に振ることもできない。わたしはただ総司の体を強く抱き返すことしかできなかった。
(わたしには言えない。今のわたしから総司がいなくなることは考えられない。それと同時に慎吾がいなくなることも考えられない。だからわたしには自分の中に生まれてくるそんな気持ちを総司に伝えることなどできるはずがない。わたしは今を生きることで精一杯なのだ。来年のことなどわからない。わたしが生きているかどうかすらわからないのに。それなのに・・・)
涙がこぼれた。その瞳からこぼれた雫は総司の体を伝いシーツを濡らす。総司はその雫の意味を理解することなどできず、わたしの体をいっそう強く抱き締める。やがて、その濡れたシーツが乾く頃、二人は同じ時を過ごした部屋を後にした。
その夜、千佳は久しぶりに自分の部屋で独りだけの時間を過ごしていた。
(わたしはなんてひどいことをしているのだろう。わたしの恋人たち。彼らは何も悪いことはしていない。なのにひどい仕打ちを受けている。わたしのこの悩みは、この苦しみはわたしだけのもの。彼らといっしょに苦しむことなんて到底できやしない。ましてやどちらかを選ぶことなんて・・・)
部屋の電気を消して布団へと潜り込む。こんなに早い時間に布団に入るなんていつ以来だろうか。今日は朝から天気がよかったが総司を見送った帰り道、夕方も陽が暮れかかってからは雨がぱらつきだしていた。
(慎吾のことを考えると心が落ち着く。小さい頃からわたしのことを知っている。わたしの喜ぶこと、怒ること、哀しむこと、そのすべてを知っている。そのことにわたしが気づかなかっただけだった)
夜の風に混じって雨の匂いがする。それはあたたかく千佳を包み込むとその周囲に淡い懐かしい想い出を漂わせていた。
(慎吾は小さい時からわたしを見ていてくれた。わたしが傷ついたときにいつも側にいてくれた。単なる偶然だと思っていた。でも偶然なんかではなかった。慎吾がわたしの側にいること、それは慎吾にとっては必然だったのだ。いつもわたしに気づかれないように、そっと影からわたしを見守っていてくれた。そんな慎吾を裏切ることなんてわたしにはできない)
屋根に当たる雨音が少し強くなってきた。
(いつからだろう。気づいたときにはわたしは雨が好きになっていた。雨はすべてを洗い流してくれそうな気がする。わたしのこの気持ちをすべて洗い流し浄化する。そしてまた、そこに新しい気持ちを育てることができる。そんな気持ちになることができるのだ。こうして静かに雨音だけを聞いていたい。すべてを忘れてしまいたい。でもそれはできないことなのだ。わたしには考えなければならないことがある。考えなければならないことが多すぎる)
雨はその音と共にぬくもりを感じさせる。そこから感じるぬくもりは、慎吾のものでも総司のものでもなく、小さいとき、まだ千佳が生まれる前に感じていたぬくもりを思いださせる。
(総司のことを考えると心が満たされる。総司の話す言葉、声、しぐさ、そのすべてがわたしを魅了する。総司の買ってくれた服を身につける。そうすることで、例え側に総司がいなくても、いつもいっしょにいるような気になれた。その服を身につけ総司以外の男と逢う。その服のセンスを誉められたときほど嬉しいことはない。側にいなくても側にいる。そんな気持ちから離れることができないのだ。わたしには総司から離れることなんてできない)
風も強くなってきたのだろう。屋根ばかりでなく窓にまで雨が打ち付けるようになっていた。千佳はカーテンにそっと手を伸ばしてみる。その窓からはすぐ近くにあるはずの街灯の明かりだけがぼんやりと見て取ることができた。
(わたしには二人のことを同時に考えることなんてできない。二人とも必要なのだ。そのどちらかが欠けてもわたしは生きていけない。それでもあえて別れなければならないときが来るのなら、その時、わたしは・・・)
布団の中で耳を澄ましていると、雨音が少し小さくなったように感じられた。
(わたしは独りの時間がこわい。いろいろなことを考えてしまう。総司は近いうちにわたしを迎えに来ると言った。総司は言った以上は必ず迎えに来るだろう。でも、わたしには待てない。迎えに来るなら今すぐに来て欲しい。今すぐわたしを連れ去って欲しい。慎吾の手の届かないところ、慎吾の気づくことのない世界。そんな遠くへわたしを連れ去って欲しかった。総司にそれができないのならば、せめて慎吾に側にいて欲しい。総司と遠く離れて暮らす今となっては、わたしの気持ちを抑えることができるのは慎吾の他には誰もいない・・・)
千佳には何も届かない。雨が強く打ち付けるその音も、優しく抱きこむそのぬくもりも。千佳には決して届かない。
(ああ・・・、わたしの恋人たちよ、どうか明日は安らかに眠らせてください。わたしに安らぎをください・・・)
雨は激しさを増していた。