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ふたりの恋人  作者: 吉富カエル
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優雨

「いらっしゃいませ」

 その声が聞こえる度に千佳は店の入り口を振り返っていた。そしてその度にその想いを募らせていた。待ち合わせの相手からは何の連絡もない。千佳の気持ちは焦る一方であった。


 総司は少し遅れてやってきた。千佳が店に入ってから三〇分近くが過ぎていた。

「悪いな。少し仕事が長引いてしまって」

 総司は荷物を店員に預けると千佳の真向かいに腰掛けた。お互いの顔を見つめ合いながら、こうして座るのはずいぶん懐かしい気がする。

「ねえ、わたしのことをどう思ってるの?」


 唐突に問い掛けたのは千佳であった。座ったばかりの総司にとって何を話そうか迷っていたときである。

「な、なんだよ、いきなりだなあ」


 その口調とは違い総司の瞳に笑顔はなかった。そして総司を見つめる千佳の瞳にも。

「だって、だってそうでしょ。わたしのことが好きなら、わたしのことを大切に思ってるなら、遅れる連絡くらいくれたっていいじゃない。なのに総司は・・・」

 千佳はその溢れ出る総司への想いを止める術を知らない。ほんの些細な出来事ですら、今の千佳にはとてつもなく大きなものとなって襲い掛かってきた。


 総司にとってはほんの少しの遅刻かも知れない。しかし総司の気持ちに疑惑を抱く千佳にとって、それは些細なことでは済まされないことであった。

「わたしが・・・、わたしがどんな想いであなたのことを待っていたかわかるの。昨日の夜だってそう、あなたと別れた後、どんな想いでその夜を過ごしたかあなたにわかるっていうの」


 千佳のそうした言葉は総司の理性を失わせるには十分であった。まだ準備のできていない総司の心の中へ土足で入り込み、そして思うがままに自分の気持ちをぶつけてくる。そんな千佳が憎らしかった。

「な、なんだよ、いきなり。じゃ、じゃあ、聞くが、お前だって俺の気持ちがわかるのか。俺がどんな気持ちで昨日お前に逢っていたかなんてお前に分かるわけないだろう」


 いつもの総司の口調ではない。明らかに千佳の態度に戸惑いを感じていた。

「俺がお前のことをどれほど大切に想っていたか。逢えない苦しみをどれほど感じていたか。確かに俺も迷い悩んでお前を裏切ったこともある。だけど・・・、だけどそれは一時のものであって俺の心の中には常にお前がいた。なのに、なのにお前は・・・、俺が遠くで独り苦しんでいるときにお前が他の男と何をしていたか、俺が知らないとでも思っているのか」


 既に千佳の気持ちなど頭の中にはなかった。その思考はすべてがみずからの正当性のみを求め、相手の気持ちを思いやるような心の余裕すら失せていた。


 だが総司の言葉を聞いた千佳の表情は総司の理性を取り戻すには十分過ぎた。千佳の表情からは感情が消え、一切の生気が感じられなかったのだ。

「な、なんで・・・?」

 千佳にとってそう呟くのがやっとだった。まさか慎吾との関係を総司が知っていたなんて思いもしないことであった。

「なんで、なんで知っているの・・・?」

 千佳は呪文のように繰り返していた。まるで覚えたばかりの言葉を必至で繰り返す子供のように。


 総司はそんな千佳を目の前にしてみずからの言葉の意味を改めて感じざるをえなかった。今の千佳に対して、総司の知ってしまったこと、千佳と慎吾との関係を口にするのは千佳を窮地に追い込んでしまうことが十二分にわかっていたのだ。


 だから総司は、自分の知ってしまった事実を隠していた。あえて自分の中だけにしまっておくことで千佳を見つめ直そうと考えていたのだ。しかし、総司は一度、自分の口から出た言葉を取り戻す術を知らない。

「とにかくだ、とにかく俺はお前をどこまで信用していいかわからないんだよ。俺の、俺のお前に対する気持ちがそんな奴と比べられていたなんて思うと・・・」


 総司にとって、千佳の中での一番はあくまでも自分であり、まさか自分と同じほどの想いをよせる相手が他にいたなんて思いもしないことであった。

 しかし総司の言葉を聞いた千佳は、その強い想いを、慎吾に対して抱いていた想いを無造作に扱われた怒りに満ちていた。例えそれが総司であってもその怒りの矛先から逃げることはできない。

「なんで?なんでよ。なぜ二人の人間を愛してはいけないの。いったい誰がそんなこと決めたって言うのよ」


 その表情は先程までと違い、怒りに満ちた瞳は総司に口をはさむ隙を与えない。

「だって、だってしょうがないじゃないの。愛してしまったんだもの。わたしは、わたしはあなたが好き。一生傍を離れたくないほどあなたが好き。でも・・・、でも、あの人のことだって、慎吾のことだってあなたと同じくらい好きなのよ、好きになってしまったのよ。それなのに・・・」


 それはまるで欲しい玩具を母親にねだる子供のような、子供の気持ちに大人の想いが混在していたかのようだった。

「なぜ?なぜ二人の人を愛してはいけないの?なぜ自分の気持ちに素直になることがいけないことなの。二人の人を愛してしまったものにとって、その気持ちを切り捨てることが幸せなことなの?それが幸せってものなの?教えてよ。あなたに、その答えがわかるのだったら教えなさいよ」


 その言葉は総司の中で響いていた。かつて自分の意思とは裏腹に、その寂しさに、その弱さに負けた経験が甦る。そしてその中で今まで感じたことのない何かが動き始めていた。

(俺は間違っているのか?)

 総司にそれほどの錯覚を思わせるほどの千佳の言葉だった。総司にも覚えがないわけではない。寂しさからその気持ちが傾いた時もあった。だがそれはほんの一時のことであり、決して総司の心を奪うほどのものではなかった。しかし、もしこうして再び千佳と逢う機会がなかったとしたなら・・・

(もしかしたら・・・、俺は千佳と同じ立場になっていたのではないだろうか。千佳と、そして、さおりさんと)


 迷いの生じた総司にとって既に千佳を責めることはできなかった。それは痛いほど悩み、そして同じ想いを経験したことがなければ決して許すことのできない苦しみであった。

(俺に千佳を責める資格はないのかも知れない。)


 それは総司の中に生まれたほんのかすかな迷いであり、そして自分への自信のなさの表れでもあった。

(俺は自分の過ちを正当化していただけなのか?例え一時とはいえ、俺の気持ちはさおりさんに・・・)


 千佳が切なかった。その小さな体で大きな想いをぶつけてくる。そんな千佳が切なかった。そして、その想いを受け入れることのできない自分がもどかしくもあった。しかし小さな千佳のたった一言で総司の迷いはなくなっていた。なぜなくなってしまったのかは総司にもわからない。だが迷いはなくなっていた。


「わたしはそれでも総司のことが好き・・・」

 たった一言だった。その一言が総司の迷いを吹き飛ばしていた。あれほど悩んでいたことだったのに。あれほど苦しんでいたことだったのに。千佳のたった一言でその想いは爆発した。

「俺もお前のことが大好きだ」

 出逢った頃から好きだった。大好きだった。いつもその姿を追っていた。その後姿を見つめ、その笑顔を覗き込んだ。そんな毎日が好きだった。それほど大好きだった。だから悩んでいたのだ。そしてその想いが大きければ大きいほど悩みも大きくなっていった。


 既に総司の中からは慎吾のことなど消えていた。いや初めから総司の中には慎吾など存在していなかった。その思考はただひたすらに千佳を追い求め、探し続けていたのだ。


 既に考える力はなかった。頭ではない。気持ちが動いていた。総司は抱き締めた。今までのどんなときよりも強く抱き締めた。それはその限界を遥かに超え、まるでその想いの強さが目に見えるほどであった。そしてそれは千佳の思考能力を剥奪し、すべてを総司の中へと導きこんだ。


 千佳は舞う。大空を舞う。背にある大きな翼を羽ばたかせながら舞っていた。その羽ばたきはすべてのものを吹き飛ばした。雲も、風も、星も、そして、無限に広がる空さえも。そして道を創った、光り輝く一本の道を。それは一直線に伸びていた、その先で待つものへと向かって。


 ふんわりと包み込まれるような朝だった。そして陽の見ることのできない朝であった。強く降り注ぐ雨は、まるで昨日の出来事を洗い流すかのようにさえ感じられた。

 二人ともいつ店を出たのかすら覚えていない。そしてどうやってここまでたどり着いたのかも。ただ覚えているのは、千佳は総司のぬくもりをその全身で感じ、総司はその千佳の想いを強く抱き締めていた。

(ねえ、総司。わたしの一番好きなものって知ってる?)


 千佳はまだ夢の中にいた。

(お前の一番好きなもの?)


 総司にはすぐに答えが浮かんでこなかった。

(そう、わたしの一番好きなもの。わたしね・・・、わたし、雨って大好きなんだ)


 千佳はまるで子供のように嬉しそうな表情を浮かべていた。

(雨ってね、あたたかいの。どんなに辛いことだって、どんなに哀しいことだって、どんなに苦しいことだって、全部雨が洗い流してくれるの)


 総司には千佳の言いたいことのすべてを理解することはできなかった。

(それでね、雨の日に部屋中の電気を消して・・・、真っ暗な中、何も考えないで、ただ雨の当たる音だけ聞いてるの。そしたらね、すごく懐かしい感じがするの。そう、なんかね、大好きな人に抱かれているような、そんな懐かしいぬくもりがするの)


 夢の中だった。千佳は夢の中で一人だった。

(本当に不思議なんだ。でも懐かしいぬくもりなんだよ。そう、まるでこんな感じで・・・)

 暖かかった。そして優しかった。千佳の大好きな、あの雨よりもあたたかかった。


 総司は力強く抱き締めていた。その強さを、そのぬくもりを、まるで千佳の体に刻みつけようとするかのように。その総司の叫びに体全体で応える。声を出すことなど考えられない。言葉として伝えようものならそのままどこかへ行ってしまいそうな気がした。


 降り続く雨は二人へは届かない。どんなにその身を焦がし、二人のことを想い続けようとも決して届くことはない。それでも、力の限り降り注ぐ。


 千佳の中には総司のみが生きることができた。それは出逢ったときから変わらない。総司といるときはそれ以外のことは考えることができなかった。

(ああ。このまま、このままずっとこうしていたい。こうして総司のぬくもりに包まれていたい。総司、お願い、わたしを、わたしをあなたの元へ連れ去って)

 すべての想いを総司が支配する。そしてその想いは千佳の血を、皮膚を、肌を伝って総司へと浸透する。


(千佳、俺の千佳。このまま、このままお前を抱き締めていたい。二度と離したくはない。できることなら、お前を、お前を連れ去ってしまいたい)

 総司はその想いを込めて千佳を抱き締める。その想いが、気持ちが、心が千佳を抱き締める。まるでその時が永遠に続くと思うほどほどに。


 雨は、強く、優しく降り続けていた。


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