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ふたりの恋人  作者: 吉富カエル
12/14

風香

 朝はいつもと同じようにやってきた。一つだけいつもと違っていたのは昨夜、慎吾が千佳の前に現れなかったことだった。

 空は見渡す限り雲に覆われており昨日まで降り続いていた雨が今にも降りだしそうな雰囲気を漂わせている。


 千佳は布団から出ると急いで家を出る支度を始めた。総司に逢えるのは総司の仕事の終わった後、早くても夕方である。しかし今の千佳には、総司に逢うことができる、総司のぬくもりに触れることができる、ということを考えるだけで体中が熱くなっていくのを抑えきれずにいた。

(こんなにも総司を愛しく感じるなんて・・・)


 千佳には不思議でならなかった。慎吾が亡くなってからも千佳は慎吾のぬくもりを傍で感じていた。それなのに総司がこれほど愛しく思えるのが千佳自身不思議でならなかったのだ。

(わたしには今の慎吾では足りないのかも知れない。慎吾はわたしにぬくもりを感じさせることはできても、私をぬくもりで包み込むことは、もうできない。だからこれほどまでに総司を愛しく感じてしまうのだろう)


 千佳は今でも慎吾を愛している。しかし慎吾は、もういない。どれほどその愛を貫いても、それを受け止めてくれる存在は既にいないのだ。


 千佳は今にも飛び散ってしまいそうな気持ちを抑えるので精一杯であった。今まではそれは慎吾の役目であった。慎吾が千佳の気持ちを抑え、行き先のなくなった気持ちを総司が導いていた。そうすることで千佳の心のバランスが保たれていた。しかしこれから千佳は自分の気持ちを自分で抑えなければならない。


 それは千佳にとってとてつもなく苦しいことであった。慎吾のいた頃はその気持ちを慎吾に抑えてもらうことができた。そのため千佳は自分の気持ちを顧みたことがない。ただひたすらにその気持ちを、その想いをぶつけることしかしてこなかった。いや、正確には顧みることができなかったと言ってもいいのかも知れない。


 慎吾と再会する前の千佳にはその深い想いを伝える相手が総司しかいなかった。そのため、みずからの力でその気持ちを抑えていかなければならなかった。しかしそれは千佳にとってとてつもなく苦しい日々の繰り返しであった。


 総司に想いを伝えるたびに甦る忌まわしい過去の出来事。総司を想えば想うほどあの出来事が千佳の中に侵食を繰り返す。しかしそれは完全な形となって千佳の前には現れることもなく、その存在のみを千佳に思い出させ消えて行く。それが千佳にとってはとてつもない苦しみであった。


 しかし慎吾と再会してからは違った。千佳を守り続けることができず、あの忌まわしい出来事さえ知らずにいた慎吾。千佳はそんな慎吾に想いをぶつけることで過去の出来事を慎吾の中に転嫁していた。そうすることによって千佳の中ではすべての心のバランスが取られていたのだ。


 だがこうして慎吾を失った千佳にとってはすべての想いを総司にぶつけることしかできなかった。そしてその想いが愛しさとなって千佳の中に溢れていたのだ。もちろん千佳自身そんなことには気づいていない。


 千佳が家の外に出たとき、雨は降っていなかった。路面は昨日まで降り続いた雨でいまだ乾ききっていない。ちょうど、慎吾が病院へ運ばれた日、千佳が慎吾の家の前でその帰りを待っていた日に似ていた。


 総司はさおり以外の女性と二人だけで食事をするのは久しぶりだった。そして千佳とこうして二人の時間を過ごすのが懐かしく感じられた。今の総司にとってなぜか嬉しさより懐かしさの方が大きかく感じられたことが不思議だった。


 二人ともまだグラスには手をつけていない。

「仕事、忙しいの?」

 千佳は最近総司からの連絡の減っていたことが気になっていた。もちろん直美が総司に電話をしたことなど知るはずがない。

「ああ、この前の朝、お前が電話をしてきた時あっただろ。あの頃から徐々に忙しくなってきて、家に帰る時間もすっかり遅くなってきてるんだ」


 決して嘘ではないのだが、それだけがすべてではなかった。総司が千佳への連絡が減ったことには、少なからずさおりの存在、そして直美からの電話が影響していた。


 不思議な空間だった。恋人同士のはずなのに、お互いがお互いを意識し過ぎていた。千佳にはなぜか寂しげな空気が漂い、そこから総司への想いが流れ出す。総司はその想いを体全体で感じながらもすべてを受け止めることができずにいる。そして、そんな総司の行き場のない想いが再び千佳の元へと流れ出る。その想いが千佳の元へ戻ってくる度に千佳の想いは一層の重みを増して総司の元へと流れ出していた。


 そして、その想いが幾十にも重なり合った頃。

「ねえ、わたし・・・、来年の春、学校を卒業したら総司のところに行ってもいい?」

 突然のことだった。千佳にとってもなぜ、急にそんなことを言ったのかわからない。しかし千佳にとって慎吾のいなくなってしまった今、総司と離れて暮らす理由はなかった。

「俺のところへ?」


 総司は千佳の言葉の意味を確認しようと千佳を見つめた。千佳はその総司の視線にみずからの視線をもって、自分の確固たる意思を伝えるかのようにはっきりと応えてみせた。その瞳に翳りはなく総司のほのかな疑惑など、まるで嘘のようにさえ感じられた。「来年の春か・・・」


 総司は考え込むような表情でグラスを手にとった。

「俺にとってはお前が俺の元へ来ると言ってくれること、これほど嬉しいことはない。でも・・・」


 その言葉には明らかな総司の戸惑いが見受けられた。

「でも、俺はお前を正式に迎えに来たいんだ。お前が俺の元に来てくれることは本当に嬉しい、向こうで、一人で暮らす今の俺にとってどれだけの力になることか。独りでいるときどれほどお前に傍にいて欲しいと思うことか」


 総司のその言葉には自分にとって千佳がどれほど必要なものか、そして千佳のいない生活がどれほど苦しいものかをはっきりと感じさせた。そんな総司の言葉を聞いた千佳には慎吾の入り込む隙間など存在していなかった。

「だけど・・・、それは、結局は恋人の延長線上でしかない。俺たちが恋人でいる以上、今までのような事だって起こるし、気持ちに迷いだって生まれるかもしれない」


 今の千佳の中には総司の言葉の意味をすべて理解することはできない。その総司の言葉の裏に隠された真意は総司のみにしかわかっていなかった。

「だから、俺は正式な形で・・・、俺自身にもけじめをつけるためにもお前を迎えに来たいんだ。いや、必ず迎えに来るからそれまでは我慢して待っていて欲しい」


 総司はグラスに口をつけるとゆっくりと、まるで今まで飲んだことのないような味をかみしめるかのように飲んだ。


 それは総司の迷いの表れの言葉であったのだ。千佳と慎吾の関係を知る以前、千佳と前回逢ったときの総司であったなら、千佳の言葉を受け入れていたに違いない。しかし今の総司には千佳の言葉を素直に受け入れるだけの決心がつかなかった。


 千佳は総司が飲み終えるのを待っていた。そして総司がグラスから口を離すと同時に話し始めた。

「わたしは・・・、わたしは総司を信じて待っていればいいの?わたしには信じて待っていることしかできないの?」


 総司には何も言い返すことはできなかった。ましてや千佳を見つめることすらできもしない。総司のその想いは複雑に絡まりあって、この場で答えを見つけるには短すぎる。

「そう、わかった・・・、だったらわたしは総司を待つ。今のわたしにはそれしかできないから。例え、どんなに苦しくても総司を信じて・・・」

 千佳はまだ一度もグラスに口をつけていない。いつもなら傍にいるだけで感じられる総司のあのぬくもりも今の千佳には感じることができなかった。


 千佳の言葉を聞いて総司の中で迷いが生じたのは確かだった。だがその迷いを千佳に問い質すことはできない。もし問い質そうものなら、総司が今まで我慢してきた千佳への想いがすべて流れ出してしまいそうな気がした。今の総司にとっては時間が短すぎた。とにかく考える時間が欲しかった。

 二人が食事を初めてそれほど時間が経っていたわけではない。だがその距離が遠く感じられ、そしてこの場ではその距離を縮めることができないでいた。


 部屋の電気すら点けていない。窓から差し込む星の光が、時折通りかかる雲に遮られて部屋を真の闇へと導く。

(わからないよ。総司の気持ちがわからないよ・・・)


 風が強いらしい。開け放たれた窓からカーテンを払いのけ、千佳の元へとその流れが迷い込んでくる。

(許してくれると思っていたのに。総司だったら必ずわたしを必要としていると思っていたのに)


 風は遠く、波の香りまで運んでくる。ほのかな忘れかけていた懐かしい香りだ。

(総司はわたしを本当に必要としているのだろうか。わたしのこの気持ちは総司へ届いているのだろうか)


 慎吾は千佳の前に現れない。しかし今の千佳に慎吾のことを思い返す心の場所はなかった。

(足りない。わたしの気持ちが足りない。総司への想いが足りない。総司のぬくもりが足りない。すべてが足りない。今のわたしには足りないことが多すぎる。こんなことならいっそ・・・)

 千佳はそれ以上のことは考えたくなかった。そして今までは考えなくてもやってこれた。それは想いを伝える相手が千佳の傍にいつもいたからであった。


(もし、総司がわたしのことを必要としていないなら、わたしには存在する理由がない、総司の傍にいる必要がない。今までは総司が傍にいないとき、わたしを必要としてくれる人、慎吾が傍にいた。でもその人も今はもういない。ならばいっそ、慎吾のところへ・・・)

 今までも何度も千佳の中に生まれては消えていったことだった。もっと厳密にいうならば消えていったのではなく、千佳の心の働きによってかき消されていた。だが総司の態度を目の前にした千佳にとってその考えを消し去ることはできずにいた。


 風の香りに混じって遥かに汽笛が聞こえる。千佳の覚えている限りではこれほどはっきりと聞こえることは今までなかった。

(総司へのわたしの気持ちも同じなのだろうか。時として届いたり、時として届かなかったり)


 切なかった、そして虚しくもあった。千佳の総司への想いは知り合った頃から一瞬として変わることはなかった。それは慎吾がいたときでも変わらない。例え、その想いの矛先が慎吾に向くことがあったとしても、総司への想いの深さが変わったわけではなかった。

(明日、また総司と逢う。そのとき、総司から伝わるぬくもりが違っていたなら・・・)


 千佳はそれ以上考えるのをやめた。そして風の香りに包まれながら、その想いに身を燃やし深い眠りへと入っていった。


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