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ふたりの恋人  作者: 吉富カエル
10/14

面影

 あの日、千佳の本当の気持ちを知ってからというもの直美は独り思い悩んでいた。親友のため、千佳のためを思い、自分の気持ちを隠し、耐え続けていた直美。そんな過去を振り返らずにはいられなかった。

(わたしは千佳のためを思い、そして総司先輩のためを思って、この気持ちを抑え続けていた。それがどれだけわたしにとって辛かったことなのか、きっと千佳にはわからない。二人が一緒に並んで帰っていく後姿をわたしがどんな想いで見つめていたか。一緒にいる二人に対してわたしがどんな顔をして接していたのか・・・)


 直美は涙で濡れたその顔を枕にうずめた。

(なのに、なのに千佳は・・・、例え知らないこととは言え、千佳は総司先輩だけでなく、わたしの、わたしのこの気持ちまでも・・・)

 独りでいるともはや気持ちを抑えることができなくなっていた。やり場のない感情は涙となって表れ、直美の感情を刺激する。

(もうダメかも知れない。あの時・・・、あの千佳と総司先輩が付き合い始めたことを知ったとき、捨てたと思っていたのに・・・、まだこんなにもわたしの中にたくさん残っていたなんて。)


 三年という月日は想いを風化させるには短すぎる。それがいつも傍にいたとなると尚更のことだ。直美は完全に冷静さを失っていた。いつも千佳と総司のことを思い、その自分の気持ちを隠してまでも二人に接していた直美の心はもはやそこにはない。直美は携帯を握り締めるとゆっくりと番号を押し始めた。


 総司とさおりはいつものようにカウンターに並んで腰掛けていた。誘ったのは総司の方からだ。

「この前は・・・、本当にすいませんでした」


 総司はこの前の、会社でのさおりへの態度に対して、心の底から謝っていた。

「ううん、いいの。それに謝って欲しくない・・・。謝られるとこっちの方が惨めになるから」


 さおりはそう言うと総司の方にチラッと目をやった。総司はそんなさおりの一瞬の視線には気づいていない。

「ねえ、総司君は人を好きになるってどういうことだと思っているの?」


 さおりの視線はグラスに注がれている。総司はそんな質問をしたさおりを不思議そうに見つめた。だがさおりは総司の視線に気づくでもなく自分から話を始めた。

「わたしはね、相手のことが気になって気になって仕方がなくなることだと思うの。それがね、自分が意識するかしないかに関係なく、どこかで相手のことを考えているの。例えば、仕事のときや食事中、そして部屋に一人でいるときとか、ずっとその人のことが頭の中から離れないの、出て行ってくれないのよ」


 総司はなぜさおりがそんな話をするのかわかっていた。だがそれと同時にさおりの切ない気持ちもわかってしまっていた。

「わたしはね、人を好きになると相手の気持ちが知りたくなるの。ううん・・・、知らずにはいられないの。自分が相手のことを好きだとわかっても、相手が自分のことを好きかどうかなんてわからない。だってそうでしょ、人間なんだから人の気持ちなんて分かるはずがないもの」


 さおりは一息入れるとグラスを手にとり、その三分の一程度を口にした。いつも少しずつしか飲むことのないさおりにしては珍しいことである。

「でも・・・、わたしは相手の気持ちが怖くて仕方がないのよ。自分の気持ちを伝えたときの相手の反応がどうなのか・・・。それが怖いの。でも、それはきっと誰もが持ってるものだと思ってたの。いえ、わたしの周りの誰もが持っていたものなのよ。そう・・・、あなた達に逢うまではね」


 さおりは総司の方に視線を移した。総司はそんなさおりの視線に応えるかのように見つめ返した。

(あなた達・・・、達・・・?)

 総司がその疑問を口にする前だった。さおりはグラスを手にとると目の前で静かに廻し、その中で発生する穏やかな波を見つめながら口を開いた。

「少し・・・、昔の話をしてもいいかな」


 珍しいことであった。総司とさおりが一緒に飲むことは決して少なくなかった。しかし今までさおりの方から進んで過去の話をしようとすることはなかったのである。

「ずっと前のことなのだけど、まだわたしが社会人として働く前、学生の頃になるのだけど、その時、わたしには付き合っていた人がいたの」


 総司にとってそれは意外なことでもなんでもなかった。さおりほどの女性なら今独りでいるのが不思議なほどである。

「その人もね、あなたと同じようにすごくまっすぐな人だった。例えば、あなたとわたしとの関係にしたってそう。少しずるい男だったら・・・、遠くに残してきた彼女のことをわたしに打ち明けたりしない。遠くの彼女と近くのわたしとで、きっとばれることなくうまくやっていこうとすると思うの」


 さおりは総司へと視線を移した。二人の視線が交錯し、しばしの間、時間をとめた。

「でも、あなたはそうではなかった」

 そこには総司の知らない、今までのすべてを知り尽くしているようなさおりではなく、何も知らない処女のようなさおりが存在していた。


「あなたにとっての・・・、あなたにとってのわたしは常に二番目の存在でしかなかった。あなたは何も言わなかったけど、あの日、初めてあなたの家に行った夜、それを身に染みるほど感じてしまったの・・・」


 総司は初めてさおりを部屋に入れた時のことを思い返していた。しかしその想い出はすべてを思い出すことはできなかった。

「きっとあなた自身わかっていると思うの。わたしは彼女がいてのわたしであって、彼女が傍にいれば、わたしを部屋に入れることはなかったってことを」


 さおりの言う通りであった。総司にとって、それはさおりを初めて部屋に入れた夜のことを鮮明に思い出すことができないことが何よりの証拠である。

「わたしもそう・・・、きっと学生時代、あの人と出会うことがなければ、あなたにこれほど惹かれることはなかったと思うの。こんなこと言うと、振られた女の言い訳に聞こえるかもしれないけど、わたしは、あの人がいなくなってしまった寂しさをあなたの中に求めていただけなのかも知れない」


 さおりの声は震えていた。いつものさおりからは想像もできないほど弱々しく、そして小さかった。

「ごめんね・・・、こんなこと言って。あなたにこんなことを打ち明けたところで余計あなたを苦しめるだけだって事はわかっているの・・・、でも・・・、でも、あなたに聞いて欲しかった、あなただけには知っておいて欲しかったの」


 総司はさおりがここまで自分に対して心を開いてくれたこと、そしてすべてを打ち明けてくれたことが何よりも嬉しかった。だがそれと同時にさおりのその気持ちに応えることのできない自分が哀しかった。


 総司にはさおりの気持ちに応えてあげることができない。ここで総司がさおりの気持ちに応えたとしても、それは一時のものであって、二人にとってのその行動は、互いの傷をさらに深めるだけのものでしかない。そのことを痛いほどわかっていたのである。そしてそれはさおりにもわかっていた。


 総司はさおりに対してどのような言葉を掛けていいのかわからなかった。さおりの気持ちを考えると、どうしても自分のことについて触れることができなくなっていた。

「さおりさん・・・。言いたくなかったら言わなくてもいいんですけど、その人と、学生の頃に付き合っていたという、俺と似ているって人とはその後どうなったんですか?」


 さおりは涙をこらえた顔を上げると、既に覚悟を決めていたのか話を続けた。

「遠くへ行ってしまったの・・・」

 さおりは虚ろな瞳で語りだした。

「遠く?」


 その瞳を目にした総司は思わず最悪な事態を想像した。さおりはそんな総司の心を察したのか話を続けた。

「あ、ううん・・・、違うの。事故とか病気とかそういうのではなくて・・・、自分の夢のために、わたしを置いて海外へ行ってしまったのよ」


 さおりのその瞳からは遠く海外の地、そして遠く二度と戻ることのない想い出を振り返っているかのようだった。

「あの人も・・・、最初の頃はメールや電話で頻繁に連絡をくれていたの。でも、半年、一年と時が経つに連れてその間隔が長くなっていった、そして、わたしが社会人になると同時にあの人からの連絡もなくなってしまったの。今はもう、どこで何をしているのかさえわたしには・・・」


 それ以上、言葉は出てこなかった。また総司にはそれ以上の説明は必要なかった。さおりの想い出の人が何のために海外へ渡ったのか、また今どうしているかなどは今のさおりに対してどうでもいいことのように感じられた。


 総司には黙ってさおりを見つめることしかできなかった。さおりに対してなにか言葉をかけようものなら、総司の中に抑えている感情が表に出てきそうで怖かった。総司にとってその感情は今の二人の関係を保ち続けるためには決して表に出してはならない、それほどの想いが溢れていた。


 長い沈黙が二人の間を流れた。総司にはその沈黙を破るだけの勇気を持ち合わせていない。いや総司にとってその沈黙を守ることが今の自分にできる最大のさおりへの優しさだった。だが突然、総司の携帯がその沈黙を破った。

 発信者を見つめる総司の瞳に疑問が映る。そんな総司の表情を見たさおりが口を開いた。

「彼女とは、ちがうの?」


 総司はさおりの問いに、ニコッと微笑み返すと首を傾げながら席をはずした。電話にでるとそこから聞こえる声は千佳のものではなかった。それは大学自体のゼミの後輩であり千佳の親友であるはずの直美のものであった。


 総司の電話の内容がどのようなものであったのか、さおりにはわからない。ただ、電話を終え戻ってきた総司の表情は先程までと変わっていた。

 総司は戻ってくると何も言わずに会計をすますと店を出た。そしてすぐにタクシーを拾うとまるで抜け殻のようにさおりに会釈をし、一人で行ってしまった。残されたさおりは一人どうすることもできず、ただ総司の乗ったタクシーの向かった方向を見つめ続けていた。


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