想い出
しばらくのあいだ降っていなかった雨が、わたしの心に降り注ぐ。雨はその姿を隠し、その気配さえ感じさせることはない。まるで、わたしの心に生まれてくる想いのように、それは永久に繰り返される。
わたしは雨が好きだ。その寂しさ、その懐かしさ、そのぬくもり。そして、その気まぐれさがわたしを魅了する。
眠れない。
(どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いつかけじめをつけなければいけない。でも・・・)
その耳には何も届かない。ただ静けさのみが存在する。
(助けて。時間が経つほど苦しくなるよ。考えるほど苦しいよ。もう、こんな自分なんて・・・)
その横で何も知らずに寝息をたてている慎吾の手をそっと握る。その手は大きくすべてを温かく包み込んでくれそうな気がした。見つめる視線の先には無邪気な、そのどこか小さい頃からの面影の残るえくぼ。いつ見ても変わることのないその唇に唇をそっと重ねてみる。反応のないその肌はどこかいつもと違って感じられた。
(いつの頃からなのだろう。きっと小さい頃からわたしは慎吾が好きだった。その肌、声、爪、唇、輪郭、その全てが私は好きだった。今は慎吾以外、他に何もいらない。ただただ慎吾が欲しい。今はそれしか考えられない、考えたくない)
どれくらいの時間がたったのだろうか。少しのあいだ眠ってしまったのだろう。遠くで新聞を配るバイクのエンジン音が聞こえる。やがてその音が近づいてきて窓の外で止まる。一瞬の静寂の後、またその音は遠のいていく。そしてまた静寂に包まれる。
千佳はそっと慎吾の唇を指でなぞってみた。その指にかすかに感じられる慎吾の吐息は、その指先から全身へと波紋を広げ千佳の全身を包み込む。そして体全体をゆっくりと夢の中へと浸透させていく。やがて指導者を失ったその指先は元の主の下へとかえって行く。
陽は昇る。例えどんなに時間を止めようと努力をしても、その努力は決して報われることはなく、ただ虚しく自分の心に響くだけ。このまま永遠の闇の中、お互いの体温のみを感じることができるのならどれほど幸せだろうか。
(悪いのはすべてわたしだ。わたしさえいなければこんなことにはならなかったはずなのに。でも、後悔はしていない。ただ、もう以前のわたしに戻ることはできない。わたしが過ごしてきた日々は二度とやり直すことはできない)
千佳の脳裏を一瞬の後悔が襲う。だが、それはそこに留まることはなく一陣の風となって再び外界へと吹き抜けていく。
(今日の授業は休もう。迎えに行くのは午後からでいい、その頃にはきっとわたしも今よりは落ち着いているだろう。今は何も考えたくない。ただこうして慎吾のぬくもりを感じていたい。それが今のわたしにできる唯一のこと)
ぬくもりに包まれると思考能力は剥奪される。それは千佳に限られたことではない。千佳はあくまでも、幾千、幾億と存在するその種の一つとして、その宿命のままに生きていくことしか許されていない。
(今は考えることはできない、眠ろう。慎吾のために、わたしのために、そして、総司のために)
あの時は慎吾とこんな関係になるなんて思ってもいなかった。小さい頃からずっと側にいてくれた。兄弟のようだった。時には弟みたいに、また、時にはお兄ちゃんみたいな存在として、いつもわたしの側にいた。それが当たり前だと思っていた。
きっと気づくのが遅すぎた。当たり前のことが当たり前でなくなった時に初めて気づくなんて知らなかった。
「よお。久しぶりだなぁ。元気だったか」
懐かしい慎吾のその声を聞いたのは二年前の同窓会の時だった。成人式の日だったのをはっきりと覚えている。高校を卒業してから一度も逢っていなかった。それどころか連絡すらしたこともなかった。なのに、そこに慎吾がいるのが当たり前のようだった。
その時の慎吾は、まるで毎日逢っていた頃のように千佳に話し掛けてくれた。それは千佳にとって押入れの奥にしまっていた古いアルバムの中から、やっと見つけ出した思い出のように懐かしくもあり、そして温かくも感じられた。
慎吾とはお互いの母親が古くからの知り合いだったこともあり、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。泣かしもしたし、泣かされもした。でも、いつも一緒だった。ただ高校に通いだしお互いが周囲の視線を意識しだしてからは会話も少なくなっていった。いや、意識していたのはわたしだけかも知れない。慎吾は変わらない。周りのことなど関係ないように感じられた。
別々の学校だったため、慎吾のことを忘れかけていた高校からの帰り、地元の駅の改札でわたしは定期券が見つからずに改札を通ることができず困っていた。大勢の人が行き交う中、わたしだけ時間がとまっているようだった。誰も私の存在などに気づかず、家路を急いでいた。そこへ偶然、慎吾がその友達と通りかかったことを覚えている。
「お、千佳じゃねぇか、どうした?」
慎吾は、まるで妹に話し掛けるように周りのことなど意識していない。いっしょにいた友人は興味なさそうにこっちを振り返っていた。
「あ、うん・・・、なんか定期券がどこかへいってしまったの。乗るときには確かにあったんだけど。もしかしたら電車を降りるときに落としたのかも」
わたしはどうしていいかわからず、今の状況を伝えることしかできなかった。
「落としたのか?」
慎吾は辺りを見渡しながら聞いてきた。
「だからわかんないの。鞄の奥のどこかにあるかもしれないし、ホントに落としたのかもしれない。でも、乗るときにはあったのだから、たぶん・・・」
わたしはさっきから何度も探したその鞄の中を、もう一度慎吾の前で探してみた。
「じゃあ、しょうがないな。とりあえず駅員に話をして見つかったら届けてもらうようにしたらどうだ」
慎吾はわたしの鞄をもう一度確認するように覗き込んだ。
「う、うん。実はわたしもそう思って、さっき駅員さんに頼んでみたの・・・、そしたら見つかったら届けてくれるらしいのだけど、改札を出るのに定期券がないからお金を払わなくちゃダメらしいの」
慎吾はわたしの鞄から目を離すと、駅員を探すように改札の方を見つめていた。わたしは慎吾に釣られるように視線を改札の方に向けると話を続けた。
「でも、今日に限ってほとんどお金持ってないし、携帯電話も家に忘れちゃって。だからどうすることもできなくて・・・」
それを聞いた慎吾はわたしの方を振り返ると、少し気まずそうな顔をした。
「やべぇなあ、俺も全然金持ってねぇよ。悪いけど和樹、金貸してくれないか」
慎吾は一緒に電車から降りてきた友人に声を掛けるが、和樹と呼ばれた友人は、その表情を変えることもなく「悪い、俺も持ってないわ」と、一言返ってきただけだった。それを聞いたわたしがどうすることもできないでいると、慎吾はわたしに笑顔を見せながら
「駅員と話をしてくる」
と言い残して行ってしまった。
残された慎吾の友人は気まずそうにわたしの顔を見て「俺もちょっと行ってくるわ」と、慎吾の後を追っていった。
わたしはそれからしばらくのあいだ鞄の中を捜していたが、どうにも見つけることができずただ慎吾を待っているだけだった。
改札のところでは、慎吾が周りの様子を気にすることもなく駅員に向かって大声を張り上げていた。
「だから、落としたんだからしょうがないだろ。規則規則って言ったってお金も、ないもんはないんだからしょうがないだろ」
その間もホームには電車が入ってくる。降車客の中、慎吾の声だけが知佳の耳に届いていた。誰もが怪訝そうな顔を二人に向け、それでいて、まるでその二人のやりとりは風景の一部であるかのように横をすり抜けていく。
わたしは行き交う人々の波に隠れるように慎吾に近づいていった。そんなわたしに慎吾は気づく様子もない。
「だいたい、いつも使う駅なんだから逃げも隠れもしねぇよ。だから今日ぐらい通してくれたっていいだろ」
慎吾の後を追っていったはずの友人の姿はもう見当たらない。 わたしはそっと慎吾に近づくとその手を軽く引っ張った。しかし、慎吾はわたしの方を振り向きもしないで駅員に詰め寄っている。
「今日ぐらいって言われましても。一応規則ですから守って頂かないと」
駅員は「いいかげんにしてくれ」と言わんばかりに困り果てている。
「だから、さっきから言ってるだろ。金は持ってないって。それに、だいたい駅員だったらその駅を使う奴の顔ぐらい覚えろよ。毎日使ってるんだぞ。千佳が定期券を買ったのぐらい覚えてるだろ。とにかく通るからな」
駅員からしたら、たった一人の乗客の顔を覚えるなんて無茶な話だ。だが、慎吾はそう大声を張り上げると、側にいるわたしの手を強引につかみ、駅員が静止するのも聞かずに改札を出てしまった。まだ高校生だったわたしには周囲の視線が恥ずかしく、俯いたまま慎吾に身を任せることしかできなかった。
改札を出た後のことはほとんど覚えていない。気がついたときには家の前にいた。そんなわたしには慎吾の気持ちなどわかるはずもなく、何も言えずに慎吾と別れたのを覚えている。
それからのわたしはその時のことを振り返ることもなく、何年かぶりに慎吾と逢うまでは連絡も取っていなかった。
でも、そんな慎吾に恋人ができたことは母親から聞いて知っていた。たしか高校を卒業してすぐだったと覚えている。ただその頃のわたしには好きな人がいた。そう、慎吾のことを考える余裕もないほど好きな人が。