第十五話
どんよりとした気持ちで迎えた朝だった。
昨日の夜はほとんど眠れないせいもあり、気持ちは沈んでいる。目の前が爽やかな光景でも、なかなか気持ちは晴れないものだ。
ベルンハルトが歩いている通りは、朝のひかりに満ちていた。夜明けの涼しい空気がひんやりと肌をなでていく。
通りは仕事場へと急ぐ人の姿がちらほらと見受けられた。ごく当たり前の、日常の光景だ。こんな光景を目の当たりにすることが久しぶりに感じられて、ベルンハルトは思わずその場に足を止めていた。
平和な日常の影で、ひそやかに闇は動いている。
魔女達の裁判が進み、そちらの任務に気を取られているところだったが、今日は直属の上司、アーレンス大佐から呼び出しを受けていたのだ。何についての呼び出しかは、見当が付いていた。
戦争体制に入るため、軍内部での部隊を再編成するのだ。外交の状況は悪化の一途を辿っている。もう少しすると、この国を含め、同盟を組んでいる国同士での話し合いが行われる予定なのだが、そこで同盟を破棄するのではないかという話も出ているのである。再編成の動きは、それを予期したものだろう。
そして、それ以上に気になるのは、イーリスの事だった。
彼女を捕虜として捕らえてから、何度か恨みのこもった視線で睨まれていたのだが、本部へ戻ってからここ最近は睨まれることもなくなっていた。
だからかもしれない。昨夜、久々に睨んできたイーリスの表情が、頭から離れないのだ。
自分が死ぬという時に、友人のことを心配していた彼女。
カロッサ大佐の計画を知った今、何とか彼女達を助けてやりたいとも思う。だが絶対忠誠の軍で、カロッサ大佐に反抗しようと思うと、全てを捨てる覚悟が必要になる。おまけに、今がむしゃらに突き進んだところで、大佐の策にはまってしまうのは分かりきっていた。
「手元にあるものを捨てて一国を選ぶか、か……」
ぼんやりと大佐の言葉を反復して、掌をぎゅっと握りしめる。
ただ今は、何もできない自分が、歯がゆいだけだった。
*
前にアーレンス大佐の部屋に来たときは、もうひとつの護衛任務が始まる前だっただろうか。そこまで日は経っていないはずなのに、ずいぶとん久しぶりに感じられた。
「久しぶりな感じがするな」
アーレンス大佐の前に立って開口一番、ベルンハルトが思っていたことを大佐は口にした。ベルンハルトも苦笑する。
「骨の折れる任務に就いていますからね」
「そうだろうな」
アーレンス大佐も労るような声音で頷くと、手元に書類を引き寄せてきた。ぱらりと開いて目を通しながら、口を開く。
「もう分かっていると思うが、部隊再編成の話がきた」
「はい」
本題の話に、ベルンハルトは表情を引き締めて姿勢を正した。
「ベルンハルトには、旅団を率いて前線で戦ってもらうことになる」
「りょ、だん?」
アーレンス大佐の言葉に、思わずぽかりと口を開く。
ベルンハルトに新たに与えられた部隊は、今までの部隊を軽く飛び越えているのだ。まるで階級を飛び越したような衝撃だ。
「どうしてそんな部隊を私に……」
驚きのまま口にした言葉に、アーレンス大佐も苦い表情を浮かべる。
「分からん。ただおめでたく受け取るのではなく、何らかの力は働いていると思った方が良いな」
アーレンス大佐の言葉に、真っ先に浮かんだのはカロッサ大佐だった。彼が何らかの入れ知恵をしたのだろうか。軍内部は、必ずしも実力での階級になっている訳では無い。貴族での地位などが作用して、上にいる者もいる。カロッサ大佐が計画を見越して手回しをしていたとしてもおかしくない。
このままでは掌の上で踊らされるばかりだ。思わず唇をかんでいた。
「ベルンハルト」
そんなベルンハルトに、アーレンスは彼の名前を呼んだ。顔を上げると、アーレンスは穏やかながらも真摯な目でベルンハルトを見ていた。
「お前が何らかの件に巻き込まれているであろうことは、俺も承知している。俺も何か力になれることがあれば力になるが」
一体何があったんだ、という意味を含んだアーレンスの言葉に、ベルンハルトはぐっと息を飲み込んだ。
アーレンスの力を借りることができれば、今何もできない状況から脱出することができるかもしれない。それはとても魅力的な言葉だった。
だが、と脳内で思考を巡らせる。ベルンハルト直属の上司がアーレンスであることは、周知の事実だ。カロッサ大佐がそれに気が付いていないはずがない。何か先手を打っているかもしれないのだ。
「ありがとうございます。もう少しひとりで頑張ってみます。もし、お力を借りなければどうしようもなくなった時、またうかがっても良いですか?」
アーレンスは少し眉を上げてベルンハルトの言葉を吟味しているかのような素振りを見せた。それから、ひとつ頷く。
「ああ。遠慮はいらない。本当は強引に俺も加わりたいところだが……、お前の意志を尊重しよう」
「ありがとうございます」
少しだけ、アーレンス大佐の言葉に心が軽くなったような気がして、ベルンハルトは小さく頷いた。
*
アーレンス大佐の部屋を後にして、ベルンハルトは少し休憩してから執務室へ戻ろうと、主にひと休みするのに使われる共用室へと足を運んだ。
みんな仕事に励んでいるのだろう、共用室はがらりとしていた。誰もいないかと思っていたが、ひとり、奥のソファでぼんやりとしている人物がいる。
「ヴォルフ」
声を掛けると、虚空を見つめて何事かを考えていたらしいヴォルフが、はっと身体を起こした。
誰かの気配に気が付かないのは珍しい。ベルンハルトとは長い付き合いだが、ヴォルフはどこか緊張しているところも見られるのだ。
「ああ、ベルか」
「どうした」
「いや、ちょっとな」
ヴォルフの手前にあるソファに腰掛けながら問いかけるが、彼は曖昧に笑うだけだ。疲れているのだろうか。それだけなら良いのだが、何となく嫌な予感もするのだ。何となくで終われば良いのだが。
「……アーレンス大佐から、話はあったのか?」
「部隊編成の話か? ああ、終わったところだぞ」
「そうか。どうだった?」
ヴォルフの問いかけに、ベルンハルトは少しだけ、どう答えるべきか逡巡した。なにせ、明らかにあやしい匂いが漂う編成なのだ。けれども、黙っている訳にもいかない。
ベルンハルトは覚悟を決めて、口を開いた。部隊再編の話をヴォルフは面白そうに聞いているが、話を聞いていくうちに、次第に表情がこわばっていくのが分かった。
「それって……」
「誰かの息が掛かったのは間違いないだろうな。カロッサ大佐か、それとも他の誰かがやったのか。同じ部隊に就けるかは分からないが、ヴォルフも何らかの操作をされるかもしれないな」
「そうか……」
ヴォルフはベルンハルトから目を離すと、何かを考え込むようにしていた。心ここにあらずといった感じだ。ベルンハルトと話している時にそうなるのはとても珍しい。
やはり何かあったのか。あの時に感じた嫌な予感は、どうやら当たっていそうだった。
共有室には、未だ誰か来るような気配は見られなかった。それを確認してから、ベルンハルトは口を開く。
「ヴォルフは、カロッサ大佐と何かあったか?」
ヴォルフは、ゆっくりと視線を戻した。ベルンハルトに聞かれるのが分かっていたのか、それでいて聞かれたことに驚いているかのような、そんな表情を浮かべている。
「……ああ」
ヴォルフは苦笑した。何かがあったということは、カロッサ大佐から話を聞かされたから、なのだろうか。
「おそらく、今回の部隊編成も、大佐の話が絡んできてるのではと見ている。どこまで根が深いものなのか……」
「ああ……」
ヴォルフも小さく頷いた。やはり彼も、思うところがあるのだろう。深く悩んでいるのかもしれない。
「どう立ち回るのが正解なのか、ずっと考えているが、答えは見つからないな。だが、あの二人を放っておくこともできない」
「……そうだな」
ベルンハルトの言葉に、ぼんやりとヴォルフは頷く。その仕草に、何か引っかかるものを感じていた。
ベルンハルトとヴォルフは、同じ部隊に配置されてからここまで、ほとんど意見を違えることなく進んできた。時には立場や考えの違いから口論をすることがあっても、どうしてそうなったのか、きちんと理由は分かっていたのだ。
だが今、初めてヴォルフが何を考えているのか分からなくなっていた。いや、本当は分かりたくないだけなのかもしれない。
ベルンハルトの表情を見て何を思ったのか、ヴォルフはふ、と柔らかく笑う。
「ベルほどには考えが至らないかもしれないが、俺も何か考えてみる。何か浮かぶかもしれないしな」
「……ああ」
柔らかく笑ったヴォルフの表情は、どうしてだろう、本当の表情には見えなかったのだ。
*
ついに、判決が下された。
判決が下されるまでも、ベルンハルトにはただ悩むことしかできず、できたことと言えば、誰が計画に加わっているのか、少しずつあぶりだすことぐらいだろうか。
あぶりだすと言っても、やはりカロッサ大佐にぬかりはないらしい。ごく僅かな人物が分かっただけだった。
何もできないまま迎えた判決の日。法廷に立つイーリスの表情は、いつもよりもこわばっているように感じられる。どんな判決が下されるのか、緊張しているのか、それともカロッサ大佐の計画を知って色々考えてしまっているのだろうか。
判決で響いた重々しい声。判決は死刑だった。あれだけ弁護士が裁判のおかしさを訴えても、何ひとつそれが取り上げられることなく、予定調和のように下された判決。イーリスは一体何を思いながら、死への判決を聞いたのだろう。
独房に戻るまでの道、ベルンハルトはイーリスに話かけることができなかった。イーリスも黙ったまま、歩いている。
このまま、戻してしまっていいのだろうか。刑が確定すれば、イーリスもここにいることはできずに、別の場所に移される可能性は高い。そうすればベルンハルトも、今の任務は終わるのだろう。
もし任務が終わってしまい、イーリスがどこかの地下牢に移されれば、彼女と話す機会もなくなってしまう。
このまま、何も話さないまま、彼女を行かせてしまって良いのだろうか。
ベルンハルトは思わず唇を噛みしめる。
「ねぇ」
その時、イーリスがぽつりと呟いて、振り返った。その目には、今までのような嫌悪の色は無い。諦めたような、その中でも縋るような、そんな色が混ざっている。
「何だ?」
気が付けば独房の前で、イーリスは中に入るために声を掛けたのかと思った。だがそうでは無いらしい。とりあえずベルンハルトはポケットの鍵を探って、扉を開けた。イーリスと共に、するりと中に入る。
部屋の中に入ると、イーリスはまたくるりと振り返った。
「あなたの立場は理解しているし、あなたが今、意に沿わないことをしているのも理解してきた」
少し考えるように間を置きながら、イーリスはぽつぽつと話す。その目からは、色々揺れていた感情が消えて、いつもの強いそれになっていた。
「それでも……」
「……何だ?」
「もし、私を助けてくれるのなら。あなたを英雄にしてあげる」
そう言い放った彼女の声音は、とても強いものだった。死を前にしても、決して諦めない凛としたそれに、ベルンハルトは息を呑む。
そして気が付けば、笑いが込み上げてきていて、小さく笑っていた。
「……何?」
「この軍が編成される前、まだ騎士団があった頃。俺の父親も騎士団の一員でね、だから昔からよく聞かされてきたことがあったんだ」
子供の頃から、そして今でも、会って過去の話になる度に聞かされる騎士道の精神。
騎士団のことを知らないベルンハルトにとっては、なんだか古くさく感じられることもあった。だが、こうして思えば、カロッサ大佐の言葉を素直に聞き入れられない理由は、ここにあるのかもしれない。
理屈とか、理論とか、そういう理由では無く。ただ、自分の目に入る限り、掌にあるものを守り続ける。それが、自分の正義なのだ。
「俺は英雄とかに興味は無いけれど」
ベルンハルトは床に片膝をついた。戸惑ったかのようにゆらゆらと揺れている彼女の目を見上げて、そして掌を組む。
それは軍で行うことのない、騎士としての誓いの形だ。
「ひとりの人間として、あなたを助けることをここに誓おう」
騎士の誓いを立てながら見上げたイーリスの姿は、窓からの光が差し込んで、神々しく見えた。
こうして人の心を動かす力こそ、魔女のものかもしれないと一瞬思ったが、光を浴びたイーリスの姿を見てしまうと、それもどうでもよくなってしまう。
張りつめていたものが切れたのか、イーリスの目にはうっすらと涙の膜が張っていた。彼女が頭を俯かせた拍子に、一筋、涙が落ちる。
「馬鹿ね」
「性分なのだから仕方が無い」
苦し紛れに笑いながらイーリスが告げた言葉に、ベルンハルトも思わず苦笑していた。立ち上がり、軽く埃を払う。
「さて、今の俺には全く策が無いわけなんだが。そこまで言うってことは、何か策があるんだろうな?」
部屋の真ん中にある古びた椅子に座りながら、イーリスは軽く首を傾けた。
「ひとつだけ。策というものでも無いけれど」
「聞こうか」
ベルンハルトも、残っている椅子に腰掛けて、話を聞く体勢を作る。中に残っていることで、外の護衛をしている部下に不審を抱かせてしまいそうだったが、ここは気持ちを汲んでくれる事を察するしかない。
「この後って、私たちは死刑台に送られるのかしら」
「おそらくな。ここから移動した後、本部の処刑場に向かうことになるだろうな」
今は銃殺刑が多い。本部の片隅にも、要人向けに処刑場が作られている。ベルンハルトが軍属になってからは、ほんの数回しか見ていないが。
郊外にある刑務所にも、処刑場はあるのだが、イーリス達はこちらで処刑執行をすることになるだろうという予感があった。カロッサ大佐の計画から考えると、それが一番自然なのだ。
「チャンスはそのときだけだと思うの。私とニーナが同時になるか分からないんだけど。私が処刑される前に、精霊を召喚してその場を混乱させる」
「なるほどな。その場で召喚できるのか?」
「ええ。そうね」
「ニーナ嬢も」
「おそらく」
「ということは、処刑場で悪魔を召喚する計画が高いということか……」
二人を魔女裁判に掛けたのは、王族の命令なのだろう。王族の目を欺きつつ、さらに計画を実行するには、処刑台で実行するのが最善なように感じられた。もし、ベルンハルトが計画を実行するとしたら、と考えれば、やはり同じ方法をとるだろう。
「分かった。俺はそれまでに、騒ぎを起こした後その場から逃がせるよう、算段を整えよう。しかし、イーリス嬢は戦えるのか?」
悪魔と、そしてニーナと。処刑台で騒ぎを起こす時、おそらくニーナ達と対峙することになるだろう。その時、イーリスは戦うことができるのだろうか。
イーリスはベルンハルトを見返して、強く頷いた。
「やるわ。ニーナは、私が絶対止める」
「……そうか」
強い瞳には、迷いが無い。どうやら余計な心配だったようだ。イーリスは少しだけ首を傾けて、得意そうな表情を浮かべた。
「あなたこそ、あの大佐に勝算はあるのかしら」
逆に問われて、ベルンハルトは頭をかいていた。それを言われると、痛いところだ。
「難しいな。だが俺にも意地がある。何とかあがいてみせるよ」
「約束よ」
にこやかに笑ったイーリスの表情は、その埃っぽい部屋に、まぶしく映えた。




