夢に囚われし者 一
二月三日――節分であるこの日の放課後、三時二十分。
県立西海高校一年二組の教室で、高城岬は箒を手にしながら幾度目かの溜息を付いていた。
それは何かに困っているとか、そういう意味の溜息ではなく、その顔色が示すとおり、明らかに疲れから来るものだった。
というのも、毎晩十時過ぎには布団に入っているのに一晩中眠ることが出来ないため。
…いや、眠っていながら眠れていない、と言う方が正しいのかもしれない。
目を閉じて横になっていても、意識ははっきりとしていて、自分がどんな状態なのか、周りの様子はどうなのか、そんなことがはっきりと感じ取れてしまうのだ。
それはまるで、眠っている時の自分こそが本当の自分であるかのように。
(なんでこう毎晩毎晩…、近いうちに睡眠不足で死ぬかも……)
そうして今度は大きなあくびをする。
(俺って実は夢遊病者だったりして)
冗談じゃないと思いつつ、今の自分の置かれた状況を冷静に分析してみれば、あながち冗談だと笑い飛ばすことも出来ない。
再度、大きなあくびをしながら、箒を持つ手を動かし始めた。
――こんなことが始まったのはいつからだっただろう。
一週間…、それ以上前からだっただろうか。
確かなことは覚えていないけれど、とにかくもう長い間眠っていない気がする。
同時に朝、体を起こす度に気付く大量の汗。
目覚ましの音でハッとするのだから、やはり自分は眠っているのかもしれないのだが…。
(悪い夢でも見てるのかなぁ…)
もともと、夢を見ても覚えていることなどほとんどない岬である。
考えても無意味だと自分に言い聞かせて、またあくび。
教室の後ろ半分に下げられている机を一つ一つ所定の位置に戻していく、それを繰り返す岬の前に立ち塞がったのは一人の少女。
岬はその唐突な登場の仕方に思わず後退りしてしまったけれど、それがクラスメートであり自分の班の班長だと判ってほっとする。
「なんだ、木村か…」
「何よ、人の顔見て後退るなんて。――あ、もしかして雪子だと思ったの?」
「そういうわけじゃないけど…」
言って、彼女にぶつからないよう机を運ぶ。そんな岬に優はストップをかけ、彼の頬を両側から押さえつけて自分の方に向けさせた。
「高城君、その態度すごく怪しい。やっぱり変よ!」
「え?」
「高城君、いつも真面目に掃除してくれてるから、なんか様子おかしいって女子は皆、心配しているんだよ」
「……ゴメン」
周りへの気配りが足りなかったと、非を自認した岬は素直に謝った。
それに優は「まったく」と呆れたように笑う。
「ぜんぜん謝ってもらわなくていいんだけど、疲れてるなら帰ってもいいんだよ?」
「え?」
「高城君はいつも真面目過ぎ。疲れている時くらい、皆に甘えて休みなよ」
「木村っ、それは差別なんじゃないか?!」
そう叫びながら、二人の間に少年が一人割り込んでくる。
同じ班であり岬の友人、田沢勝だ。
「俺が元気なくたって平気で掃除させるくせして、なんで高城なら許されるんだよ!」
「アンタに元気がない日なんてあったの?」
「うっ…と、ともかくだな!」
「日頃の行いがものを言うのよ、こういう時って」
平然と、はっきりくっきり言って下さる木村女史に、勝は黙らざるを得なかった。
何せ遅刻と掃除サボりの常習犯といえば、この田沢勝以外にいない。
結局、自分の腕にしがみつきながら唸る勝るにすまないと思いはするものの、優の言い分が正当なものである以上は助け舟を出してやることも出来なかった。
何より、この木村優は、先に名の出た雪子こと松橋雪子と同様に、なるべく逆らいたくない相手だ。
「とにかく高城君は家に帰って休んで頂戴。これは班長命令よ、高城君だってクラスの女子全員にこれ以上の心配かけたくないでしょ?」
「そ、それはそうだけど…」
言って、チラと勝を見る。
恨めしそうに自分を見上げている友人の視線が痛い。
「でも、ほら、俺は放課後に代表委員会があるし…」
岬が言うと、優は待ってましたとばかりに不敵な笑みを浮かべる。
「そういうときのために私や亮一がいるんでしょ?」
優が言うなり、亮一こと佐藤亮一が、松橋雪子を伴って廊下から教室に入ってくる。
「あれ? 雪子、先に委員会に行って待ってるって…」
「岬ちゃんが大変だからすぐ来てくれって…、やっぱり具合悪いの?」
岬の幼馴染でもある松橋雪子は、家が近く、毎朝一緒に登校する仲の良さ。そのため、雪子だけは岬の具合が良くないことを誰より早く知っていたのだが、「絶対に大丈夫」と言い切った幼馴染に何を言っても無駄だということも長い付き合いで解っているから、本当に限界ギリギリまでは岬の好きにさせようと思っていたのだ。
「さぁ雪子、高城君を家まで送ってあげて」
「でも木村っ」
「学級レクも近いって言うのに、大事な学級委員長に休まれると困るんだぞ」
「今日の委員会は私と亮一で出るから、高城君は雪子と一緒に帰る、いいわね?」
「だって、岬ちゃん」
同級生達の有無を言わせない態度に、雪子もすかさず同調している。
「さぁ帰った帰った!」
優に背中を押されて教室を追いやられた岬は、気付けば鞄にコートに、靴まで外履きに変えられて、準備万全の状態で外に放り出されていたのだった。
◇◆◇
冷たい風が二人の横を流れていく。二月の北風は頬を切り裂くかのごとく冷たくて、鋭くて。
左手側には枯れ木が立ち並び、右手側には自分の町を一望出来るという坂道を、岬と雪子は並んで歩いていた。
雪子の首に巻かれた赤と白を基調にしたマフラーが風になびく。
「…【小さな親切大きなお世話】って諺もあるけど、今回の優達の場合は【大きな親切余計なお世話】って気がするわ」
「うん?」
「帰って休めって言ってくれたのは助かるけど、…どうせ岬ちゃん、これからまたあいつのところに行くんじゃないの?」
「…あぁ、そのことか…」
雪子が言う意味を悟って、岬は少なからず表情を暗くする。
「私的にはこのまま鎖つけてでも岬ちゃんを家まで連行して行きたい気分なんだけど、そこのところ判ってくれてる!?」
「判って…る、けど…、でも約束だから」
「約束って言えるの? あんな強引なのが」
不機嫌に告げる雪子の言葉を、岬は虚ろに聞いていた。
彼女の言うことが判らないわけじゃない。
けれど約束は約束だ。
どんなに強引なものであったとしても、自分で「いいよ」と返してしまった以上は責任がある。
「放っておけるわけないだろ、あいつにしてみれば今が一番辛い時だろうし」
「甘いのよ岬ちゃんは!」
いい加減にしなさいと言いたげに怒鳴る彼女から、岬は一歩離れた。
「岡崎だか岡田だか知らないけどね! 学校に出ても来ないで毎日岬ちゃんを呼び出そうなんて図々しいにも程があるっての!!」
「岡山だってば…」
「岡山でも谷山でもいいわ! とにかく学校にも来ないで自分の悪いところを認めようともしないで、それで我が物顔で岬ちゃんを呼び出すなんて何様のつもりよ! そんなんで岬ちゃんの友達名乗るなんて、岬ちゃんが許しても私が絶っ……対に許さないわよ!!」
興奮した口調で続ける雪子に、岬は小さな溜息をついた。
「でも…いじめられていたら学校に来たくないって気持ちも解るし…」
「それで自殺しようとして選んだ場所が四城寺の林の中だって言うんだからたいしたものよねぇっ!?」
四城寺というのは、この町で古くからの歴史を持った由緒ある寺の名で、現住職には幼い頃から確かな能力というものが有り、その力で何度も町の人々を救ってきたという事実がある。そのため、四城寺は町の人々から多大なる信頼と人望を集めており、その四城寺と誰より深いつながりを持つのが高城岬。
その寺の現住職が岬の実父なのである。
四城寺には本堂と呼ばれる建物の他、家族が住む母屋と、その奥に、まるでこれらの建物を守るかのような深い林があった。
そのすべてが四城市の土地であることは知っているが、その広さがどれほどのものなのかは岬も知らない。昔から、この林には決して立ち入らないようにと父親から言い聞かされていた為、岬も、雪子も一度も中に入ったことがなかったのだ。
あの日は、雪子の髪を留めていたリボンが風に攫われたのを追って林に入り、そこでたまたま見つけてしまった。
いじめを苦に自殺しようとしていた岡山一太、その人を――。
「岬ちゃんの性格はよぉっく解っているつもりだけど! でもそんないかにも仕組んだような人となんで友達やってなきゃいけないわけ!?」
「仕組むって…」
「岬ちゃんが優しい人だって知っててわざとあそこで死ぬ真似して見せたって事よ!」
突拍子もなく、そしてあまりに過激なことを言う幼馴染に、岬は酷い頭痛を抱えた。
これは絶対に寝不足のせいなどではない。
「雪子…、それは言いすぎ」
「何が言いすぎ!? だって絶対に変じゃない! 私達が止めなさいって近づいた時にアイツなんて言ったか覚えてる? “どうして高城君がここに…”って言ったのよ!? ここにも何もないでしょ、あの林は岬ちゃんの家の土地なんだから! そんなどっかから取って付けたような台詞で岬ちゃんを口説こうなんておかしいのよっ、でもってそれにまんまとはまってる岬ちゃんも相当の大馬鹿者だわ!」
「はいはい…」
「しかも私のことは徹底無視! 岬ちゃんにべったりくっついてっ、あれは一体なんなのよ!!」
結局のところ、自分を無視されたことに腹を立てているのかと思った岬だが、それを声にして言う度胸はない。
それに、雪子が本気で心配してくれていることも、岬は痛いくらい判っていた。
「そもそも岬ちゃんの寝不足が始まったのだって、あいつと会ってからじゃなかった?」
「さぁ…、よく覚えてないんだ。気付いたら寝られなくなっていたって感じだし…」
「で? 気付いたらパシリにされていたのよね?」
「……。でも、あいつと話すのは楽しいよ…」
どこまでもあいつ――岡山一太を庇う岬に、雪子は思いっきり顔を歪めた。
岬がどう思っているのか、その本心が読めなかった。
話しているのは楽しいという。
友達だから傍にいてやりたいと岬は言う。
だったら、どうして今、岬はそんな顔で自分の隣を歩いているのだろう。
「…そんなの友達だなんて言わないわよ」
ポツリと、隣にいても小さな声で呟いた雪子に、岬は小首を傾げる。
「なに、何か言った?」
「別にっ」
言い捨てて、そっぽを向いてしまう雪子だったが、そんな自分の態度がかなり悪いものだと自覚すると途端に落ち込みそうだ。
なんだってあんな奴のために、自分から岬に嫌われかねない態度を取らなければならないのか。
雪子だって判っている。
岬の優しい心。
傷ついていると感じた誰かを放って置けるはずのない少年だということは、ちゃんと解っている。
けれどこんなのは。
“友達”っていうのは。
「…早く影見君が帰ってきてくれればいいのに」
「―――え?」
「影見君よ、影見河夕。みんなすっかり忘れちゃった不良転校生の。まさか岬ちゃんまで忘れちゃったわけじゃないでしょ?」
「…当たり前。覚えてるよ、ちゃんと」
「そうよね? なんてったって、私が唯一岬ちゃんに相応しいと認めた人だもの」
影見河夕――その名を忘れたことなんかない。
去年の十月、岬達の周りで立て続けに起こっていた怪事件は、先にも言ったとおりある種の能力を持っている岬の父・四城寺の現住職を昏睡状態にまで追い込み、町は日を追う毎に暗く不気味なものへと姿を変えていった。
そんな時に現れたのが“彼”だ。
艶めく漆黒の髪と、深く透き通った輝きを放つ黒曜石の瞳。恐ろしいほどに整った顔立ちと体形は、彼自身の独特の雰囲気と重なって、なお近寄りがたく、踏み込めない領域を目に見えない形で創造していた。
転校生として岬達に紹介された“彼”は、しかし授業には出ない、同級生の名前は覚えない、呼んでも返事はしないという、どうしようもない奴で、おまけに何を考えているのかがまったく読めない人物だったりしたものだから、クラスの誰もが美貌の転入生を敬遠した。
だが岬は周りに習って遠ざかる気にはなれなかった。
どうしてか、彼に近づきたくて仕方がなかった。
その望みが叶い、彼と初めてまともな会話を成立させた時、それは河夕にしてみれば岬への最後の警告。
河夕は、人間には決して解することの出来ない果て無き宇宙、その深く昏い世界に蠢く幾種もの危険因子の中に存在する【闇】の魔物を狩るべく興された狩人――闇狩と呼ばれる一族の戦士だったのだ。
【闇】の魔物は人の負の感情を好み、人を食らい、人身はいつしか変貌を遂げて理性を持たない獣と化す。
その魔物を狩ることが河夕の役目、そのために彼はこの町に現れた。
そう、この町を暗く不気味なものへと変えていった力こそ【闇】の魔物だったである。
自分に近づいては危険だ、おまえも巻き込まれる。
だから二度と傍に寄るなと河夕は岬を拒んだが、岬にはそれを素直に聞き入れることなど出来なかった。
魔物の正体が岬の友人“楠啓太”だと確信した河夕は、岬と雪子を狙って動き出した魔物と激戦を繰り広げ、幾度もの危機を切り抜けて、最後には岬の、父親譲りの力が狩人に勝利をもたらした。
守るべき存在は、戦う力を減退させる。
だから闇狩一族は友人や親子の絆を要しない、それが闇狩の暗黙の了解。
けれど岬は、人は一人では生きていけないと言い切った。
守りたい人がいるからこそ得られる力がきっとある。
かつて家族を愛したがために死んでいった一族の王は絶対に間違っていなかった。
…その言葉が河夕の心を癒したことを、岬自身は知らない。
知らなかったけれど、その言葉があったからこそ、二人の心は近づいた。
――一緒にいよう、必要だと思える限りは永遠に……
それを受け入れた河夕は、その後、約一ヶ月間、岬と雪子と共にこの町で過ごし、けれど狩人として再びその役目に赴かねばならなくなった。
「あのお別れの日にも思ったけど、岬ちゃんて本っ当にお人よしよね。「行くわ」って言われて素直に頷いちゃって。どうして引き止めなかったの?」
「あいつは…闇狩だから。俺には解らない大変なこともいっぱいあるだろうし、我儘なんか言えないよ」
「岬ちゃんは少し我儘になった方がいいと思うけど…。にしたって、影見君がいなくなってからどれくらい経ったっけ?」
「…三ヶ月、かな」
「連絡は?」
「ない…」
「……っ」
雪子の額に十字路が浮かんだのは、おそらく岬の錯覚ではない。
「どうしてそれで納得しちゃうわけ!? なんで怒らないの!? なんでそんな平然としていられるのよ岬ちゃんは!!」
「だ、だから河夕には河夕の事情が」
「影見君の事情って!? 三ヶ月も岬ちゃんに連絡しない事情って一体なに!?」
幼馴染の迫力に、岬は一歩一歩後退する。
「こうなったら私が影見君を探し出して谷山に突き付けてやるわ! 影見君にはっきり言ってもらうのよ、もう金輪際二度と岬ちゃんに近づくなって!!」
「谷山じゃなくて岡山…、それに河夕と会わせたらあいつ怖がりそうだし…」
「岬ちゃ〜〜〜〜〜っん!!」
どうして雪子がここまで岡山一太を嫌うのか、岬には解るような解らないような。
ともかく彼女があの少年を毛嫌いしているのは疑いようがなく、その迫力に一歩一歩下がっていた岬は、とうとう逃げ道を無くしてしまった。
怖い顔をして迫ってくる雪子。
背中に、下に落ちないよう取り付けられているガードレールが当る。
そこから地元の風景が一望出来るのは、その先に地面がないからであって、一番近い地面は十メートル以上も下のアスファルトの道路。
落ちればその先に待っているのは確実に“あの世”だろう。
「ゆっ…雪子、一先ず落ち着いて…」
「こうなったら私が出向いてはっきり言ってやるわ! このままじゃ岬ちゃんが死んじゃうもの!」
「俺の寝不足はあいつのせいじゃ」
「そうに決まっているでしょ!?」
なぜそこまで断言できるのか。
それに、今は雪子にこそ殺されると思った岬は、どうやったら彼女が落ち着くだろう、この危機を乗り切ることが出来るだろうと寝不足の頭をフル回転させた。
と、笑いを含んだ声が二人の間に割り込んでくる。
「クスクスクス。貴女のように、この冬空の下でも鮮やかに咲く花には笑顔を見せて戴きたいものですが」
歯が浮くような台詞をサラリといって岬と雪子に近づいてくるのは一人の青年。
だがその人物の顔を見上げて、二人は一瞬にして言葉を失った。
突如現れたその青年は、それこそ真冬に咲く大輪の椿のごとく艶やかな美貌の主。
百八十近い長身に天然らしい柔らかな栗色の髪。
顔の造作や流暢な言葉遣いから、おそらく日本人だろうとは思うが、ハーフだと言っても通用しそうな高貴な顔立ちだった。
「裏切られて殺してやりたいとおっしゃるのでしたら手伝って差し上げますが、そうではないでしょう? “気”が優しいですからね。雪子さんが岬君を心配するあまり…、と言ったところでしょうか」
「!」
「なんで、俺達の名前…」
「僕は占い師ですから、何でもお見通しです」
再びクスクスと笑う青年に、岬も雪子も不審な表情を浮かべた。
占い師が初対面の自分達の名前を言い当てて、それが何の意味を持つのだろう。
あからさまに疑いの目を向けられて、自称占い師は笑みを強める。
「そうですね…、せっかくお逢いした記念に一つ占って差し上げましょうか」
言って岬に近づいた青年は、断りもせずに岬の手を取って軽く握りこむ。
手相を見るでもなく、ただ両手で手を包まれた岬は、どう反応するべきかも分からない。
「あ…あの…」
何を始めるのかと思う二人の前で、青年はそっと微笑む。
「岬君は、とても大事な人の帰りを待っているようですね」
「え?」
「安心して下さい。もうすぐ、その人と再会出来ますよ」
「本当ですか!?」
岬より先に雪子が声を上げる。
「本当に? 岬ちゃん、本当に待ち人に会えるんですか?」
「僕の占いは外れた試しがありません」
「やったじゃない岬ちゃん! 影見君に会えるって!」
「…う、うん」
「それに少しお疲れのようですね」
青年の鋭い指摘に、岬と雪子は二度驚く。
「このキャンディを食べれば今夜はぐっすりと眠れます」
レモン味のキャンディを一つ、今まで自分が握っていた岬の掌に置いて、手を放す。
「雪子さんの言葉から察するに、その影見君が岬君の大事な待ち人ですか?」
聞かれて、岬が即座に頷くと、青年はにっこりと笑う。
「僕を信じて下さい。必ず会えます」
「…ありがとうございます」
岬が語尾をわずかに震わせながら頭を下げると、青年は今一度、優しく微笑んだ。
雪子にはイチゴ味のキャンディを手渡し、優雅な足取りで去っていく。
「占ってもらったのにお金も払わないで、しかもキャンディまでもらっちゃって良かったのかしら」
「さぁ…。解らないけど、綺麗な人だったよね……」
岬がぼうっとしながら呟くと、雪子も「うんうん」と素直に頷く。
「すごく綺麗だったけど…、影見君といい、あの占い師さんといい、岬ちゃんてば最近、妙な美人さんに縁があるじゃない」
だったらその筆頭は雪子だろうと、決して口には出さなかったが……。
影見河夕を忘れた事など一度もない。
いつだって彼からの連絡を待っていた。
毎日、郵便受けを確かめに行っては(あいつが手紙なんか書くはずないか…)と肩を落とし、時には一時間以上も電話とにらめっこして、鳴った電話が河夕からのものでなかったことに何度も何度も溜息を繰り返したことだってあった。
そのたびに、泣きそうになっていた。
いつだって河夕からの連絡を待っていたのに、あっという間に時は過ぎて、いつの間にか彼がこの町を去って三ヶ月という時間が過ぎてしまっていた。
闇狩一族の狩人として闇の魔物を狩る役目を背負っている彼は、その義務ゆえにずっと独りきりの時間を過ごしてきた。
この町に来た当初もそうだ。
岬が声を掛けるまで、それはずっと変わらなかった。
だからこそ自分だけは違うと、そう思ってきたのに。
(結局、俺ってその程度でしかなかったのかな…)
あの時、最終的に闇を狩ったのは岬の力だと、河夕は断言した。
雪子の傷も完全に癒され、派手に破壊された校舎はガス爆発という“事故”として処理され(これにはもちろん一族の偽造工作があったが)、狩人と魔物のことは一切外部に漏れることなく、河夕が術を解いたことで誰もが彼のことを忘れた。
岬と雪子以外の、誰もが。
その今。
(もう戻って来ないかもしれない…)
そう思ったことだって何度もあった。
自分と雪子以外の記憶にはなくなってしまった転入生。
連絡一つ貰えずに時間だけが過ぎていき、記憶の中の彼も次第に色褪せていく。
――またな、岬…
「またな」
別れる時に、雪子と一緒に見送った河夕は確かに言ったけれど。
――またな、岬…
そう言って、名前を呼んではくれたけれど。
(おまえの“またな”は十年後かよ!)
実に有り得そうな話で、泣きたくなる。
雪子が言うように、初めて自分を怒らせた相手は、自分の一番の親友になりつつあった。
けれどそれも、三ヶ月も放っておかれた後では自信が失せる。
(結局…もうないのかな……)
シャーペンを持っていた手が止まり、岬は深い溜息を付いた。
静かな空間に、それが響く……。
「今日は元気ないね」
そんな言葉を、岬の隣で数学の教科書を広げていた少年が口にした。
この少年こそ、雪子がこの世で最も毛嫌いしている岡山一太。
「何かあった?」
「……ただの寝不足だよ」
「夜中まで勉強してるの?」
「…期末は近いよね、確かに…」
「勉強じゃなかったら、なんで休まないの?」
次々と質問をぶつけてくる少年に、岬は気を悪くするでもなく答えていく。
これが雪子であれば、とりあえず「あんたに関係ないでしょ!?」と手が飛び出しているに違いない。
「何か考え事?」
「うん…。似たようなものかな」
「ダメだよ、僕といる時に僕以外の事を考えたりしたら」
いつもと微妙に異なり、耳に残る声が告げる。
岬と同じ十六歳だとは言うけれど、十二、十三…、小学生と言っても通用しそうな幼い外見。
昨日までは可愛いとも思えたその容姿や声が、今日は何故か嫌悪感を抱かせた。
「岬は僕のことだけ考えていてくれればいいんだよ」
いつからこの少年は、自分を「岬」と呼ぶようになったんだろう。
「…あの、さ。さっきも言ったけど、期末が近いし」
言葉を選びながら、岬の面持ちは緊張していく。
「今までみたいに毎日っていうのは、来れないと思うんだ」
一太からの反応は、まだない。
「だから週に一度か…それくらいになると思うんだけど」
「僕が死んでもいいんだ?」
唐突に返された言葉は、それだった。
「岬が来てくれなかったら、僕、死んじゃうよ? 僕の友達は岬だけなのに…、一人は嫌なのに、岬がいてくれなかったら僕、寂しくて死んじゃうよ?」
「…岡山君、俺…」
「一太って呼んでもいいよ?」
少年の顔に妖しい笑みが浮かぶ。
「今日から僕、“岬”って呼ぶことにしたんだ。だから岬も一太って呼んでよ。この名前は好きじゃないけど、岬が呼んでくれるなら好きになれそうな気がするんだ。それに名前で呼び合う方が友達っぽいよね」
友達。
名前で呼び合う、友達。
自分を「岬」と呼ぶのは“彼”一人だったはずなのに。
「岡山君、俺…」
「一太だってば」
眉を寄せて、不服そうな顔をする少年に、岬はいい言葉が浮かばない。
そのうち、一太の方が「いいよ」と言い放つ。
「僕の言うことを聞いてくれないなんて、よっぽど疲れてるんだね」
言いながら、その手が岬の前髪を掻き揚げた。
それを反射的に振り払った岬に、一太は奇妙な笑みを浮かべる。
「そうだね…顔色悪いよ。仕方ないから今日は帰ってもいいよ。……帰ってゆっくり休むといいかもね。そして明日はいつもの岬に戻って、僕にまた会いに来て…?」
妖しい笑み、耳に残る声。
「必ずだよ。必ず来てよ…、来てくれなかったら死んじゃうから」
「――…」
あの日の光景が蘇る。
独り、静まり返った林で死のうとしていた少年。
慌てて雪子と二人で助けた少年は、ボロボロと涙を流し、泣いていた。
あの時は雪子も彼に優しかったのに、なぜ、今は。
「必ずだよ、岬」
駄目だと。
嫌だと、言えればよかった。
だが岬は、結局、断ることなど出来なかった……。
◇◆◇
どこかで小さな声が祈る。
どこかで奇妙な影が揺れる。
「…変なんだ…今日の岬…何か壁があったよ……?」
ベランダに出て呟く少年は、岬の内側から浸透していた異質な能力の壁に不快感を露にした。
「誰かが僕から岬を奪おうとしているよ…」
誰かが岬を守ろうとしているよ?
「ダメだよ…、岬は僕のものなんだから……」
そうでしょう…?
だって。
だってその力を、アナタは僕にくれたんだから……―――。
◇◆◇
肩が重い。
疲れているのがよく判る。
子供は疲れ知らずという言葉がそのまま当てはまるような少年だった岬が、いつからこんなに疲労に苦しむようになってしまったのか。
(今日は帰ったらすぐに休もう…夕飯、食べる気もしないし…)
とぼとぼと、一人で暗い夜道を家へ向かって歩いていく。
冷たい風は、今にも雪を含みそうだ。
(でも変だな…昨日までは岡山君の所から帰ってきても疲れたりしなかったのに…)
むしろ寝不足さえ吹き飛んだように、元気になれたのに。
(やっぱり岡山君の方がおかしかったからかな)
いつもはあんなに念を押したりしてこない彼が、今日はいつになく話しかけてきて、彼の態度で気分を害したのも実は今日が初めてだった。
(楽しくもなかったら疲れるよなぁ…)
一人納得して、歩を進める。
もうすぐ満月になろうかという月が、冷えた空気のおかげかよりくっきりと見える。
満月になるまで、あと何日くらいだろう。
(明日学校行ったら土日休みだし、ゆっくり休もう)
土日なら午後から岡山家を訪ねればいいのだから、休む時間は充分ある。
午前中は布団の中で、あの音沙汰一つない不義理な友人からの連絡を仕方なく待っているというのもいいだろう。
(妙な美人さんね…、河夕の場合“妙”なんて可愛いものじゃないよ。言葉遣い悪いし授業も出ないし人の名前も滅多に呼ばない、連絡も寄越さない…)
次々と出てくる河夕のどうしようもない性分。
そんなことを並べていったら、数時間前に出会った見知らぬ占い師の方が何倍も素敵な人だったように思う。
(言葉遣い丁寧だったし、俺の名前だって普通に呼んでくれたし、人あたりよくて、優しそうで…)
もらったキャンディは、とても甘くて美味しかった。
どこにでもあるレモン味のキャンディなのに、たった一つの普通の飴玉が、岬に久方ぶりに“食べた”という感覚を思い出させてくれた。
そんなこともあり、岬にとって、あの見知らぬ占い師の第一印象は良いものだったと言える。
あの落ち着いた雰囲気からして、まず間違いなく年上だろう。
年上と言えば河夕も、学生服を着て西海高校の転入生に成りすましていたくせに、実は既に成人した二十歳の青年だったのだ。
岬と雪子以外の誰もが彼のことを忘れて後、制服姿ではない河夕と会ったとき、それまでの雰囲気とどこか違うと怪訝に思った雪子が尋ねたところ、制服を着ている時は高校生に見えるよう、そういう術を使っていたのだと教えてくれた。
(何でも有りだよなぁ、闇狩って…)
内心に呟いてから、それにしてもと、再び占い師を思い出す。
(不思議な人だったなぁ…)
名前を当て、自分の体調を見抜き、待ち人がいることまで言い当てた。
(…信じていいのかな)
あの占い師の言葉を。
河夕に会えるという、その言葉を。
(……会いたいよ)
胸中に呟かれる言葉は岬の本音。
どんなに問題の多い奴でも、三ヶ月も音沙汰無しの不義理な友人であったとしても。
(会いたいよ、河夕……)
初めて名前を呼び合った彼は、やっぱり特別な存在だから。
「河夕の大馬鹿者……っ!」
力なく呟いて、足元の石を転がした。
月の光が雲に遮られ、闇の帳が落とされる。
雲が流れ、風が吹きぬけ。
「!?」
ガサッ…木々が揺れた。
体を強張らせた岬は、けれどすぐに気を奮い立たせて先を行く。
早く雲が切れることを願いながら足早に。
「…っあ……」
下を向いて歩いていたせいで、誰かとぶつかった。
「すみません! 怪我とかないですよね?」
慌てて謝り、相手を気遣う岬に、暗闇の中の影は笑ったようだった。
高い、…百八十は軽く越えているだろう長身。
危ない人じゃないかと後退さった岬に“彼”は笑う。
「そんなに魔物の卵を肩に背負っていたら疲れないか?」
「!?」
人を小バカにするような口調。
けれど心に響くその声は。
「前といい、今といい、魔物共にはおまえがよっぽど旨そうに見えるんだな。…ま、この程度のカスならじゃ憑くことも出来ないが」
言うなり、突然のことに動けなくなっていた岬に近づいていた“彼”は、岬の肩の上で指を鳴らした。
一瞬の竜巻が生まれて、消える。
「心配するなよ。これくらいの連中なら普通にどこにでもいるもんだ。憑かれるかどうかはおまえの心持ち次第だから」
風と一緒に雲が流れ、相手の顔を月明かりが映し出す。
そうして瞳に映るその面立ちは……。
「? なにぼぉっとしてんだよ。まさかおまえまで俺のことを忘れたわけじゃないだろ? いくら約束の三ヶ月が過ぎたってさ」
人並外れた美貌が優しく微笑む。
信じられない驚きに手足が震え、絶句していた岬の瞳は次第に潤み始める。
「……岬?」
「…っ……!」
ずっとこの声に呼んで欲しかった。
会いたかったんだ、この人に。
「河夕……っ!」
「っ、お、おい!」
突然抱きつかれて目を白黒させた河夕は、何事だと、相手を押し戻そうとしたが、…どうやら泣いているらしいと察してあきらめた。
殴りはしないが泣くかもしれない――河夕が出先で予測したのは見事的中だったというわけで。
満ちるまであとわずかの月の光が、そんな二人を優しく見守っていた。