雪月過―速水と影主―
この短編は本編から五百年前に遡る、当時の影主・影見綺也と速水の物語です。
「一緒に地上に降りてみないか」
影主にそう誘われたのは、私があの場所に住み着くようになってから一月余りが経った頃。
私にはまだ名がなく、今はこんなにも愛しているあの人を敵だと思い込んでいた時代の話。
地上の日の国では武将同士が争う戦国の世が続き、血と憎しみの波動に闇の魔物どもが引き寄せられ暗躍していた。
そんな地上に降りてみないかと誘われて、初めは警戒していた。
あの頃の私は影主を疑い、母達の憎む狩人を私もまた憎んでいたから、どうやら他の狩人には内緒で私と二人きりで地上に降りるつもりらしい影主の誘いに、あわよくばそこで殺してやろうと思い付き、肯いた。
行く、と答えた私に表情を綻ばせる闇狩一族の王・影主。
美しい漆黒の髪と黒曜石の瞳が、私だけを見つめていた。
◇◆◇
日の国に降り立って、名前を持たない少女の最初の言葉は言葉にならなかった。
そこは彼女のまったく知らない世界で、信じられない、見たことのない光景が広がっていた。
地上は白いものに覆われ、空気はひどく冷たく、吐く息は白く色づく。
天空には、魔物の故郷にも闇狩の郷にもなかった大きな球体。
すべてのものを包み込むような、慈愛の光りを投げかける夜空の星。
その輝きが真っ白な地上を照らし、白く冷たいものは白銀の輝きを帯びていた。
「…、影主、ここは…、地上って…」
「日の国は今、冬を迎えているんだよ」
「フユ…?」
「雪が…、この白く冷たい結晶を雪と言うのだが、これが空から舞い降りる季節のことだ。今宵は月が美しい…、雪の降る景色を見せてはやれそうにないが、おまえは月を見たこともなかったろう?」
「ツキ…って、あの一番大きな星のこと…?」
「そうだ。あれは星とは違い、この蒼き惑星に寄り添う癒しの天体」
「…」
「我らが始祖、里界神の住まう星に存在する聖獣は、発せられる声と見つめる瞳は人の心を癒し、触れる指先は身を癒すことから、敬愛を込めて"里界の月"とも呼ばれるらしい」
「ツキ…」
「私はね、…ずっと月が欲しかったのだよ…」
淋しそうに告げた影主は、指先に吐息を掛ける少女の仕草に気付き、自分が纏っていたローブをかけてやった。…そうして手は、彼女の肩に置いたまま、続ける。
「月が欲しい…、決して手に入らないものを望むことを、そう言うらしい」
「…手に入らないの?」
「入らないね。月は見上げる者達すべての癒し。それを独占することは大罪だ」
「…」
「それでも望まずにはいられない。私だけを癒してくれる存在を…」
あまりに切実な声音に、少女は思わず影主の顔を見上げていた。
そうして目にするのは、自分に向かって儚く微笑む彼の顔。
「一族に縛られ、己の心の自由さえ得られぬ私を癒してくれる存在…、それをおまえに望むのも罪だろう」
「――――」
「おまえは闇の血を引く娘。狩人の王たる私の傍にいることも苦痛のはず…。そうと解っていて、私はなんと愚かなことを願うのだろうな…」
「影主…?」
「…すまない」
静かに笑い、影主は少女から離れた。
今日知ったばかりの雪の上をゆっくりと歩く彼の背を、少女は何故か不安に駆られて追いかけた。
大きな月が二人を見下ろす。
微かな星の灯火はその美しさに翳み、わずかな存在を夜空に散りばめる。
影主はそんな上空を仰ぎ、時折、少女を振り返る。
少女が後をついて歩いているのを確認するようにして、そっと微笑う。
「おいで」と暖かな手を差し出され、向けられる笑顔があまりにも優し過ぎた。
…自分だけを見てくれる眼差しに、少女はこのとき初めて出逢った気がした。
それまで母に疎まれ、名前さえ与えられず、魔物の中に放られて、いつ死んでもおかしくない状況でありながら、それでもなお生き続けなければならなかった。
月が欲しい――決して得られないものを望む…、それはきっと少女も同じ。
望まれぬ子として生まれた彼女を母親が愛してくれることなど決してないと知りながら、それでも母の愛が欲しがった。
名前が欲しかった、その名を呼んで欲しかった、自分の存在を、認めて欲しかった。
そのために殺そうと思った、母親の憎むこの男を。
母と、母の恋人・是羅の宿敵と教えられた狩人の王・影主を。―――なのに。
「おいで」
差し出された手は魔物のそれより小さいのに、少女を受け止めるには十分大きくて暖かい。
「寒くはないか」
彼女のために紡がれる言葉は優しく、深い慈しみが感じられた。
こんなこと、今まで誰がしてくれただろう。
疎まれ、嫌われ、憎まれ、蔑まれ。
そんな世界から逃げ出したくて殺そうとした相手が、よりによって殺すべき相手が、なぜそんなものをくれるのか。
今までずっと求めて、求めて求めて求め続けて、それでも得られなかった救いを、どうしてこの人だけがくれるのか……っ。
「…どうした」
静かな声とともに、影主の指先が目尻に触れる。
零れ始めた雫をすくいあげ、穏やかな表情で見つめられる。
「なにが悲しい? …私が愚かなことを言ったせいか」
不安そうな問いかけに、少女は左右に首を振る。
違う、そうじゃない。
そうではなくて…。
「…私も…月が欲しい……」
「――」
「名前や、優しい手や、心配してくれる言葉、私を見てくれる…、私だけを想ってくれる存在が欲しい…、ずっと願ってた…助けて欲しいって…誰か私を助けてって……!」
「…」
初めて自分の本心を吐露した少女を、影主はしばらくの沈黙の後で引き寄せた。
――引き寄せられて、抱きしめられて、そうして初めて他人の体温を感じた。
「影主…」
「…私はね。自分が影主となるのが当たり前だと思っていた。影見の長子に生まれ、父もそのつもりで私を鍛え、母の期待も大きかった。…だが実際に王になり…、この手が父を殺め王位を継いだあのとき、私は言い様のない虚無感に襲われた。父王を殺めることが王位継承の儀式であると理解して、自分にはそれだけの力があると信じて疑いもしなかったのに…、あの広い城に父の存在を見失って初めて気付いた。…私は王になるべき器ではなかったのだと」
「…」
「私は…どうやら父を…家族というものを、愛してしまっていたらしい」
それが人間として当り前の感情だと思うのは、人として生きる者達だけ。
魔物に憑かれたとはいえ人を斬る狩人として生きなければならない闇狩一族にとって、人たる感情など無用であり、それは罪として裁かれるべき想いだった。
「それでも父を殺した事実は事実…、義弟に…、貴也に私を斬って王になれとも言えず今もまだ王位に居座りつづける私は…まったく愚か以外の何物でもない…」
「影主…」
「そんな時におまえに出逢った。私を殺しに来たとおまえは言ったが…本当に殺すつもりだったのか?」
「え…?」
「私には、おまえは自分自身を殺してしまいたがっているように見えた」
「――…」
「あのとき、おまえの口から放たれた本心は、私を殺さねば母親が振り向いてくれない…、愛してくれない…、そう叫んだ、あの言葉だけだろう」
目を見開く少女に、影主はそっと微笑んだ。
「…そう叫ぶ事の出来るおまえを羨ましく思ったよ。愛して欲しいと家族に訴えられることも、そう訴えられるおまえの正直さも」
影主の指が少女の髪をすく。
一族の城で、影主の権限で客人として扱われている彼女の身は、生まれ故郷にいた頃からは想像もつかないほど綺麗に飾られ、髪質も柔らかな生糸のよう。
それを指先で弄びながら、影主は続けた。
「私は…、自分の本心をおまえに重ねたのかもしれない。おまえを救わねば、自分も救われないような気がしたんだ」
「…だから影主を守るために現れた十君から私を庇ったの……?」
問う少女に、影主は肯定も否定もしない。
「私の傍に留めておきたかった…、なぜかな。手放してはならないような気がしたんだ。運命というものが存在するのだとすれば、それが形となったような…、不思議な直感だった」
自嘲気味に言い、影主はまっすぐに少女を見つめる。
夜の闇よりも濃く、なのに汚れない透明感を併せ持つ黒曜石の瞳に、長めの髪は艶めく漆黒。
生まれながらにして王たる威厳と気品に満ちていた、と他の者から聞かされた美しい狩人の王は、こんなにも淋しい表情をする人物だったのか。
少女が殺そうとし、母が憎んていたのは、果たしてこんな男だっただろうか。
「闇の魔物の血を引くおまえに、このようなことを望むのは酷だろうと解っている…、解ってはいるが、それでもどうか聞いてほしい。故郷に戻っても辛いだけの身ならば、このまま一族に留まってはくれないか。母親に愛されたいというおまえの望みには届かずとも、私は私としておまえの片翼になりたい」
「影主…」
「だから…"速水"」
不意に聞き慣れない名を口にされて、名の無い少女は息を呑む。
「"速水"…、私の傍に残ってくれる気になったら、この名で応えてはくれまいか。始祖の郷に生きる"里界の月"…、かつてその聖獣が守護した女神の名だ」
「…っ」
「私の月になってくれ、速水」
月に――。
決して独占することの叶わない夜闇の光ではなく、ただ一人、自分だけを癒してくれる存在に……。
◇◆◇
影主は嘘偽りのない心からの言葉を少女にかけ、尊い名を贈った。
あの時はあまりのことに言葉が詰まり、ろくな返答も出来なかった少女は、しかし彼を誰より必要と想うまでにそう時間はかからなかった。
片翼になりたいと告げた影主。
自分の癒しの存在になってほしいと願った影主。
そのすべてがどんなに嬉しかったか、少女は彼に伝えたかった。
しかしそられはすべて叶わぬ願い。
願うことも許されない禁忌の想い。
少女が母親の愛を求める以上に愚かなことだと、彼らが思い知るのは、それから数ヶ月を経てのことだった。
何かを知る前に母親に捨てられ、魔物の玩具と成り果てていた少女は、闇の一族の中で自分の母がどういう地位にいたのかを解ってはいなかった。
母に寄り添う是羅という男がどんな存在であったのか、少女はまったく知らなかったのだ。
それを正しく理解していれば、こんな悲しい結末は有り得なかった。
知っていれば二人は出逢うこともなかっただろう。
闇一族を束ねる男――是羅。
その男が命を預けた女、その女から産まれた少女。
"速水"と名づけられたその少女が是羅の命そのものであること。
彼女が男の“核”が形を変えた姿であり、是羅を倒す唯一の方法が"速水"を斬ることだということ。
それを正しく理解していれば、きっと二人は出逢わずに済んだのに……。
―――…貴方を失って救われる命ならいっそ殺して……!!
速水を討てば影主は一族の王でいられた。
狩人は魔物を滅ぼし、始祖里界神から課された宿命を全うし、宿願叶って自由を得られるはずだった。
だが影主は速水を庇い、自らが犠牲になることで是羅を五百年の封印に縛り付けた。
速水を死なせないために、影主は自らの死を選んだのだ。
少女はこんな救いを求めてなどいなかったのに。
こんな形で救われるくらいなら殺してほしかったと泣き叫ぶ速水の声も、もう本人には届かない。
―――…なぜ…なぜ…こんな……
この身を自ら滅ぼせればどんなに楽だろうかと思う。
是羅の魂ごと死んでしまえたら、どんなに幸せだったか、と。
影主のことも忘れて、何も考えず。
“月の名”など消してしまえたら、こんな苦しい想いをせずにすんだのに……。
「…さっさと帰ってこいよな…」
影主の死に絶望し、己を責め、身は塵となって消えてしまっても彼女の魂は封じられただけの是羅の“核”とともに時空を超えた。
時代は変わり、世界はその様相を変え、そうして五百年の月日を数えて彼女は再び出逢うのだ。
黒曜石の瞳に漆黒の髪。
影主の名を継ぐ狩人の王、闇狩の名を持つ青年に――。
「ったく…三ヵ月で帰ってくるって言ったくせに…なんで連絡一つよこさないかな」
時空を超えた速水の魂…、その宿りとなった少年の呟きが彼女の想いを揺さぶり起こす。
影主に逢いたいという想いを募らせる。
「…逢いたいよ、河夕…」
―――…逢いたい…影主…
あの時間に帰りたい。
貴方と二人、幸せに笑えていた懐かしいあの日に帰りたい。
そんな願いは決して叶わないと解っているはずなのに、それでも願わずにはいられない、この己自身の浅ましさ。
―――…逢いたい…
それだけが彼女の願い。
影主に逢いたい、その想いだけが今も色鮮やかに存在する。
叶わないと解っていても…、彼は死んだのだと、理解していても。
……そうして彼女の願いは、いつしか器となった少年の心にも浸透していこうとしていた。
――影主…、私は……
―――私は、ただ、貴方の傍らに帰りたい―――……
―了―