誓い抱きし者達 六
「岬ちゃんも行くのね…」
「うん。是羅が滅びる瞬間をちゃんと目に焼き付けろって、河夕が言ってくれたから」
薄紅の私室で、二人は言葉を交わした。
出発前のほんのわずかな時間、岬と河夕の二人は雪子にその旨を伝えに薄紅の部屋を訪れたのだ。
是羅発見の報告は、光の死からおよそ十時間後に河夕の耳に届き、その数分後にはいつでも出立出来る準備が整った。
蒼月、白鳥、紅葉、黒炎、梅雨、薄紅、そして影見生真こと十君黄金。
紫紺と光−深緑を失い八人になってしまった十君は、それでも数時間前に比べればずっと落ち着いた状態で河夕の前に姿を見せた。
桃華の名を持つ有葉は、今もまだ意識が戻らないままだった。
薄紅に言わせれば、精神感応能力に優れた少女は直に聞くことはなくとも河夕の思いを察して目覚めることを拒否しているのではないか、ということらしく、河夕もそれを否定はしない。
もとより是羅との最終決戦にあの幼い妹を連れて行くつもりのなかった河夕は、彼女の目覚めを待つことなく出立を決めた。岬はせめて一言挨拶していった方がいいんじゃないかと言ったのだが、帰ってきて、是羅を倒したという吉報を持って会う方が有葉も喜ぶという合理的な説明に納得した。
それが“嘘”だなんて考えもしないまま。
「気を付けてね、岬ちゃん。…影見君が一緒なんだし、一人じゃないから…、きっと大丈夫だと思うけど」
「うん」
一人じゃ、ないから。
そう口にした雪子の脳裏に浮かぶのはたった一人で是羅から自分を守ってくれた光の姿に他ならない。
一人じゃなければ…、せめてもう一人仲間がいてくれれば光は死なずに済んだはず。それは彼女だけでなく河夕や蒼月達皆が思うことだった。
「…信じてるからね、影見君」
泣き腫らした目は数時間の眠りによっていくらか癒えていたようだが、どことなくやつれた様子の雪子の言葉に、河夕は静かに笑んで頷く。
「ああ。岬は必ず無事にここに戻す。だから心配せずにゆっくり休んでいろ。…ただ、もし外に出るのが苦痛でなければ有葉の傍にいてやってくれ」
「うん…。皆いなくなっちゃうんだもんね。起きたときに独りだったら、きっと寂しい…」
有葉ちゃんのの傍にいるよと返した後で、雪子は河夕の全身を見つめて小さく笑った。
「…にしてもすごい格好ね。なんか本物の王様みたい」
雪子が言うと、岬も笑い出し、一歩離れた場所にいた薄紅も吹き出す。
「みたいじゃなくて本物の王なのよ、河夕様は」
「こんな衣装が柄じゃないのは自分が一番判ってるさ」
苦々しく言う河夕の表情にも微かな笑いが混ざっている。
彼だけじゃなく、薄紅の衣装も、そしてここにはいない十君、その他大勢の狩人達の服装も今までの洋服とは明らかに異なっていた。
薄紅の衣服は狩りを役目とする以上動きやすい軽装であったが、それでも時代と、今日という日の戦の重みを感じさせる一族の戦闘服。
是羅との最終決戦を迎える日に向け、王が代替わりするたび、新たな十君のために新調され続けていたものだ。
裾の長い上着の腹部を細かな刺繍の施された太紐で絞り、胸元には荘厳な竜の姿。“薄紅”と言う名にちなんでいるのか桜色が基調になっていて穏やかな印象を受けるため、竜の表情もどことなく柔らかい。
竜は始祖里界神が従える神獣、つまりそれを一族の衣装に織り込むことによって、里界神の郷・里界の恩恵を受ける一族だという意味を持つのだ。
その一方で河夕はといえば、雪子の言うとおり、戦うことを第一に考えた軽装でありながら豪華さ漂う王族の気品と威厳を充分に兼ね備えたもので、基は黒で胸元の竜は銀。それが彼自身の漆黒の髪と黒曜石の瞳によく映える。
装飾品などがほとんど見られないのは河夕の個人的な好みだが、そんな細かなものがなくとも岬と雪子の目の前に佇む狩人の王は美しかった。
「…柄じゃないなんて、結構似合ってるんじゃない?」
「冗談。こういう格好は…、光一人が似合ってりゃ充分だ」
濁しつつも結局は光の名前を出した河夕に、岬と雪子は顔を見合わせた後で、笑えた。
「言えてる。光さんだったらすごい似合いそう」
「薄紅さんが桜色だったら、緑君は緑色なの?」
「深緑の衣装は鮮やかな若葉色よ。とても優しい色。私は十君の中で深緑の色が一番好きだったわ」
「そっか…」
薄紅の台詞に、雪子は目を細めて笑う。
「そっか、それなら私も見たかったな……」
「…見るだけなら岬様に着てもらいましょうか?」
「えっ?!」
薄紅の唐突な提案に岬が驚きの声を上げるのと重なって河夕の声が上がる。
「やめとけ。サイズが大きすぎて裾引きずって歩くことになる」
「むっ」
「そうよ、せっかく綺麗な衣装なら汚さない方がいいわ」
「雪子まで!」
「体格差はごまかせないだろ」
「だからって裾引きずって歩くとか人のことチビみたいにっ」
「違うわよ岬ちゃん。岬ちゃんは可愛いサイズだってこと」
「フォローになってない!」
河夕と雪子に順にからかわれ、それにいちいち素直に反応してみせる岬。
三人のごく自然なやり取りに薄紅がクスクスと笑い出すと、三人も顔を見合わせて黙り込んだあとで、笑う。
自然に、普通に。
無理のない笑い声。
最後までこの雰囲気を崩さずに。消さずに――。
「じゃあ雪子、有葉ちゃんと二人で俺達の帰り待っててね」
「ん…、行ってらっしゃい。岬ちゃん、影見君、薄紅さん」
留守を任された雪子は笑顔のまま三人を見送る。
まだ光の死から立ち直ってはいなくとも、元気付けようと、笑わせてくれようとする友達が傍にいて、彼らのために笑える自分がまだちゃんと居ることが嬉しい。
岬は屈託のない笑みを浮かべ「行ってきます」と返した。
ずっと一緒だった幼馴染、守りたいもう一人の友人に見送られ、岬と河夕は薄紅と三人で出立のために部屋を出て行こうとした。
だが薄紅の開けた扉から岬が出て行ったのを見て、河夕は足を止めた。
「? 影見君?」
不思議そうな雪子の声に、岬と薄紅が振り返る。
「どうしたの河夕」
「…」
尋ねる岬と、無言の薄紅。
河夕は一つ息を吐いて、表情を和らげた。
「悪い。松橋に言い忘れたことがあるんだ。おまえは桜と先に行ってろ」
「え、待ってようか?」
「いいって。桜、そいつ連れて先に行ってろ」
「…ええ」
岬を連れて行けと言われて、河夕が雪子にしようとしている話の内容を察した薄紅はほんの一瞬翳りを見せたものの、すぐに表情を引き締めて岬を促す。
「行きましょう、岬様。河夕様もすぐに来られるでしょうから」
「え、あ、うん…」
妙だなと思わなかったわけじゃない。けれどもし話の内容が光に関することだったりするなら自分は聞くべきじゃないだろうと自分に言い聞かせ、薄紅と二人で先に部屋を出て行った。
軽い音を立てて閉ざされた扉。
岬と薄紅の気配が遠ざかるのを確認して、河夕は雪子の傍に戻る。
「…影見君…?」
呼びかける雪子の傍で膝を折り、目線の高さを合わせた河夕は腰紐の中から一つの指輪を取り出した。
「?」
受け取って見ると、それは少しばかり古びたリングで、小さな石が三つ埋まっていた。
「これは…?」
「光の母親の指輪だ」
「え…?」
「あいつの家族が、闇に憑かれた光の姉貴に殺されたって話は聞いているだろ」
「うん…」
「…光は、闇狩の力を継いでいるからって一族に迎え入れた時に地球の家族から離れた。狩人の体は魔物がもっとも欲するものの一つ、光が力の使い方も知らずに家族と一緒にいれば、一家全員が危険だったからだ。だから戸籍上は、あいつは存在しないことになっていたんだ」
「…それって、死んだことになってたってこと?」
「そんなもんだ。だから家族が姉貴に殺されたとき、光は家族の一人だって親戚の前に出ることも、葬式に出ることも出来なかった…、だから形見になるような物も何一つもらえなかったんだ。そんなあいつに親父が持って来たのがそれだ」
「…」
「親父は戦うことは嫌いだったが自分が心許した相手のためなら他人の意識操作なんて迷わずやるような人だったからさ…。本人は譲ってもらったとか言っていたが、実際は盗んだようなもんだろ」
言いながら河夕は苦笑し、雪子もつられるように笑う。
「…おまえさ、どうして人が愛を誓うときに指輪を贈るか知ってるか?」
「――、なんでなの?」
「永遠に切れないから、らしいぜ」
返された言葉に、雪子は軽く目を見開く。
「指輪はリング、一本の円は何周しても止まることも切れることもない。永遠に進み、永遠に続くもの…、その象徴が指輪なんだって、これは俺の母親が言ってた話だけどな。だから親父も唯一の形見にそれを選んだんだろう」
「…永遠に…」
手渡された指輪を見つめて呟く雪子に、河夕は一呼吸置いてから続ける。
「…あいつ、最初はおまえが自分の姉貴に似ていたから守りたかったんだってさ」
「…?」
「あいつの姉さんな…、まぁ相手が悪かったってのもあるけど、ずっと片思いしていて、その辛さ、苦しみから闇を呼び込んだんだ」
「―――!」
「鈍感な岬に片思いしてるおまえに姉貴を重ねて、同じようなことには絶対させたくなかったから守ろうと思ったって、そう言っていた」
それは光が死ぬ直前…、河夕が今後のことを伝えた後で交わされた会話。
――最初は似ていると思っただけだったんですけどね。…僕が死なせてしまった姉に…
そんな台詞から始まった光の言葉は、雪子への想いの変化を語った。
姉に重ねて、守ろうと傍にいるうち、姉にはなかった強さを雪子の内に見出した。
純粋に岬を守ろうとする勇気。
人を想うことを怖がらない姿勢。
そして光の過去の傷を癒した限りない慈愛の言葉。
「姉貴の末路を見ているしかなかったあいつは、絶対に誰かを好きになったりしないと言っていた…、特別なのは俺達影見の兄弟だけで、他に守りたい人間なんかいらないと。けどおまえを見ていたらそれは間違いだって気付いた、おまえを守りたいと思う気持ちは増していったって…、そんなこっぱずかしいこと平然と言えるのはあいつくらいだよ」
「っ…」
「…その指輪はあいつの家族の唯一の形見で、光が一番大事にしていたものだ。…だからおまえが持ってろ」
「っ…けど…!」
「おまえが持っているのが一番いい。…言ったろ、指輪は永遠の象徴だと」
言いながら、雪子の手に光の指輪を握らせる。
「光はおまえを好いていた。あいつが死んだからこそ言えることだが…、あいつの想いは永遠におまえのものなんだ」
「そんな…っ…」
雪子の目から涙が落ちる。
とめどなく溢れてくる。
「頼む。受け取ってやってくれ、あいつのために。俺はこんなことでしか光に償えない」
「影見君…」
「あいつを死なせたのは紫紺があんな手段に出ると予測出来なかった俺の責任だ。どうして一族が人との関わり、情を禁じたのかが今更理解できた気がする。情ってのは人を想うものばかりじゃない、人を害するものも当たり前のように存在する。王が人を思えば掟に従う一族は反発する、その反発は敵意になり憎悪に変わる…。俺達が敵対してきた闇の魔物が最も好む感情を、よりによって一族の内に生み出してしまうからだ。俺が一族の王として正しく在れば紫紺はあんな真似せずに済んだ、光も死なずに済んだだろう」
「――っ、けどそんな影見君だったら誰も影見君好きになったりしないわ!」
完全には否定できない河夕の言葉を、しかし雪子は必死に拒む。
「緑君が信じたのは今の影見君じゃない! 薄紅さんが好きになったのも蒼月さんや白鳥さんが王様だって認めるのも……っ、岬ちゃんが死なないのも今の影見君がいるからじゃない! 私はそんな影見君のこと否定なんかしない! 影見君は間違ってない!!」
「松橋…」
「影見君が影見君だから皆が信じられるんじゃない……っ!」
泣きながら叫ぶ雪子の涙を、河夕は指でぬぐってやる。
そうして、もう彼女には嘘をつけないと思い切る。
信じてくれるならなおさら、…光がいなくなった今、これ以上は雪子を騙すわけにいかないのだと。
「…松橋。岬のこと、任せたからな」
「…え……?」
「今日の是羅との戦で俺は岬から速水を分離させる。戻ってきたあいつはしばらく意識を取り戻さないはずだ。その間におまえは岬と四城市に戻れ。岬は俺と知り合った頃からの記憶を失っている。住職達には蒼月か白鳥から説明がされるだろうし、四城市の岬の関係者には桜や紅葉が記憶操作を施す。岬は去年の十月に事故に遭い、今日までずっと昏睡状態が続いていて、一昨日の闇の襲撃で起きた地震がきっかけで意識を取り戻したってことにするんだ」
「なっ…」
「おまえ達の安全は保障する。俺がいなくても、俺の十君がちゃんとおまえら二人を地球に送り届けるから…、だから余計な心配はするな」
「ちょっと待って! 影見君がいなくてもってどういうこと?!」
「言葉通りだ」
「影見君と会った頃からの記憶がないってどういうことよ!!」
「そのままの…」
「違う! そんな言葉遊びがしたいんじゃないわ! なんなのっ? なんでそんな…、私と岬ちゃんのこと他人任せにするみたいな言い方するの?! なんで…っ、是羅を倒して影見君だって戻ってくるんでしょ?! 岬ちゃんと一緒に帰って来るんでしょ?!」
「……」
「影見君!」
強く腕を掴んで詰め寄ってくる雪子の痛々しい表情に…、切ない声音に、戻ってこれるならそんな楽なことはないと思った。
だが無理だ。
取れる方法はどちらか一つ。
河夕が死ぬか、岬が死ぬか。
「…俺は戻らない」
「――っ」
「俺は今日死ぬ。是羅を倒して、一族の役目を終えて」
「…めよ…っ、そんなの絶対駄目よ!!」
雪子は真っ青になり、河夕の胸元をつかんで叫んだ。
「やめてよ、そんなの絶対ダメなんだから! なんで…っ、なんで影見君も緑君もそんな簡単に自分の命諦めちゃうの?! 守られて死なれる私達の身にもなりなさいよ!! そんなの…っ、こんな辛いのもうたくさんよ!!」
「松橋…」
「影見君死んだら岬ちゃんだってどうなるの…っ?! 岬ちゃん、影見君に死んで欲しくなくて自殺しようとしたのよ?! 庇われたくなくてあんなことしたのよ?! なのに……っ」
「松橋」
「なのに影見君死んじゃったら岬ちゃんだって生きてけないじゃない!」
「だから忘れさせるんだ!」
「っ…」
「岬から闇狩に関する記憶は全部奪う。あいつの記憶は、俺が是羅と一緒にあの世まで持っていく。あいつには何も残さない」
「そんなの……っ!!」
「聞け松橋!」
再び声を荒げようとした雪子を黙らせ、河夕はまっすぐに涙で溢れた雪子の目を見つめる。
「間違えるな、俺は闇狩で、おまえと岬は地球人だ。俺達が守るべき惑星の住人なんだ。選択の余地もない、是羅を倒すために命懸けるのは当たり前なんだ」
「だって影見君は岬ちゃんの友達でしょぉ……っ! 一族なんて知らないわよ!! 影見君は影見君じゃない!!」
「おまえは岬が死んでもいいのか?」
「――!!」
「おまえは、俺と岬とどっちが大事なんだ。おまえの未来に必要なのは…、今までおまえが守ろうとしていたのは誰だ」
「……っ」
「俺と岬と、おまえが生きていて欲しいのはどちらだ?」
――残酷な言葉だった。
そんなもの、選べるわけがない、答えられるはずがない。
「なんで…っ」
信じられない、信じたくない。
こんなことが現実であってほしくなんかない。
なのに戻ってこれるのはどちらか一人で、河夕か岬か、どちらかしか生きていけないのが現実だと、…だから選べと、河夕は雪子に突きつけた。
そんな残酷な選択を雪子に強いたのだ。
そしてきっと岬は何も知らないんだろうと、雪子は気付く。
是羅の最期をその目に焼き付けるために一緒に戦地へ赴く彼は、河夕が死ぬかもしれない未来など考えてもいないだろう。
だからあんな明るく「行ってきます」と笑い返せた。
光と同じに笑っている河夕の前で、あの時の自分のように騙されている。
岬も皆に騙されて、河夕が死ぬ直前になってそれを思い知ることになるのだと思うと、たまらなかった。
その思いが怒りに変わる。
自分を騙した周りへの怒り、自分勝手に死んでしまった…死のうとしている狩人への怒り。
そしてそれを受け入れるしかない、あまりにも無力な自分への怒りに。
「…っきなさいよ……っ」
雪子は拳を握り締めた。
手の中、光が一番大事にしていたと、河夕から渡された指輪を握り締めた。
「――行きなさいよさっさと!!」
もう引き止められない。
どんな言葉も河夕には届かない、だから本音など吐き棄てた。
「自惚れないで…っ! 影見君と岬ちゃんどっちかなんて比べられるはずがないでしょ?! 誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるの?! 全部…全部影見君のせいよ! 岬ちゃんがいればいいの…っ、岬ちゃんが助かれば影見君なんかいらないに決まってるじゃない……!!」
それ以外に、何を言えた…?
それ以外に何を言い返せただろう。
どちらかを選べなんて、そんなこと出来るはずがなくたって。
雪子がどんなに叫んでも拒んでも、結局、河夕は背を向けて行ってしまう。
だったら「やめて」と縋るだけ辛くなる。
今以上に苦しくなるくらいなら、いっそ全部壊してしまったほうがずっと楽になれる。
河夕のことも光のことも、憎んで、嫌いになってしまえば。
忘れてしまえば、こんな楽なことはない。
「勝手にすればいいじゃない!! 影見君がどうなったって私には関係ないもの…っ、岬ちゃんがいればそれで……っ大嫌いよ闇狩なんて!! 影見君も緑君も大嫌い……!!!!」
「松橋…」
「さっさと行きなさいよ……っ!!」
「っ、――すまなかった…っ」
不意に強い腕が雪子を引き寄せ、抱きしめる。
「悪かった…、許せ」
「ぅっ……離して…触らないでよ…、さっさと行ってよ…っ」
言い放った台詞の、伝わっているのに、決して受け止められない心の言葉。
もう戻らない。
河夕は、帰らない。
――緑君は知っていたの……?
指輪を握り締めて胸中に問えば、河夕さんを責めないでほしいと告げた光の言葉が蘇る。
判っていて、認めていたのだと、…気付きたくなんかなかった。
泣き続ける雪子を慰めてくれる人はもういない。
泣きたいときには言ってほしいと告げた光さえ、もう……。




