誓い抱きし者達 五
どれくらいの時間が過ぎた後になってか、岬は泣き疲れて眠ってしまった雪子を、ちょうど部屋に戻ってきた薄紅に任せて河夕の部屋へ帰ってきた。
有葉と生真の私室もあると聞いていた本部最上階のここは相変わらず無音の静寂を保っていて、有葉が意識を失ったまま別室で今も眠り続けていると薄紅から聞いていた岬は、生真もここには戻っていないらしいと思う。
有葉ほどではないが、彼も地球人ならば全治一月と診断されそうな重傷を負った身だ。無理せず休んでいて欲しいと思うものの、伝える相手がいない呟きは静寂の中でかき消された。
「…」
河夕の部屋の扉を前に、彼が戻ってきているだろうか、今どんな心境なのかと思い悩んだ岬は、しばらくその場に佇んだ後でドアノブに手をかけた。いつまでも悩んでいるより面と向かってしまった方がいいと意を決して。
荘厳な扉は、しかしその外見からは考えられないほど軽く滑らかに開かれ、岬の入室を許可した。
「…河夕?」
そっと扉を閉めながら呼びかける岬に応える声はない。
ただ緩やかな微風が頬をかすめ、河夕のベッドの奥にあるベランダの戸が開けっ放しになっているのに気付いた。
「…?」
出て行った時にはちゃんと閉められていたはずのそれが気になって歩み寄ってみると、その外、石造りのバルコニーに河夕が座っていた。
建物の壁に背を預ける格好で、目的もなく宇宙の星を仰ぐように。
「…河夕」
「…」
遠慮がちに呼びかけると、河夕は言葉もなく岬を振り返りって静かに笑む。
「隣…、座ってもいい?」
これも遠慮がちに尋ねると、河夕はうなずいてわずかに体を移動させた。
岬が余裕で座れる場所を作ると、また空を仰いだ。そんな彼に習うように、隣に腰を下ろした岬も夜空を見上げる。
水も大気もない世界の空は宇宙そのもの。
無限の星々が煌く闇に閉ざされ、太陽の恵みも月の慈しみも得られない。――だが美しかった。
地球からは決して見上げることの出来ない奇跡とも言える夜空は眩しいほどに美しい。
「…松橋、どうだ」
不意に声をかけられた岬は一瞬返答に詰まったが、河夕が相変わらず空を見たままだと気付き、落ち着いて息を吐く。
「今は眠ってるよ。…雪子、ずっと泣いてた」
「そうか…」
「雪子ね…、光さんのこと好きだったみたいなんだ」
「―――は?」
思いがけない返答に、一瞬今の状況も忘れて聞き返した河夕。
岬はそんな彼にわずかに眉を寄せはしたけれど、別段追求することもなかった。
「俺、言ったろ。雪子が俺の知らない誰かになっていくみたいだって…。そういうことだったんだなって、泣いてる雪子を見てて判ったんだ。あぁそっか、光さんの前にいる雪子は俺と一緒にいる時とは違うんだ…、ずっと一緒にいた幼馴染じゃなくて、一人の女の子だったんだなって」
「…それ、松橋が言ったのか?」
「ううん。でも否定もしなかった…、ずっと泣いてて…、その泣き方がね、やっぱり女の子だったんだ」
光の名を呼びながら泣き続けた少女を思い、哀しそうな笑みを浮かべる岬。そんな彼の表情を凝視していた河夕は、一体全体、何がどうなってそういう結論に至ったのかを心底不思議に思いつつ、しかしその一方で光の想いを聞いていた河夕は、どこか納得せざるをえない部分も認めないわけにはいかなかった。
「…おまえただの鈍い奴じゃなかったんだな」
「なんだよ、それ」
怪訝な顔つきで聞き返す岬は、ふと気付く。
「あ、もしかして河夕は知ってたの?」
そう考えれば、いろいろと見えてくるものがある。
雪子と光の様子に首を傾げた岬を笑った河夕。
一歩離れて、見守るような態度を取っていたのは、そういうことだったのだろうか。
だが河夕にしてみればそれは誤解もいいところ。
雪子の好きな相手が岬だと思ってきた彼は、突然のように雪子の想い人が光だと言われても、そう簡単には理解し難い。ただ、幼馴染だという岬の言葉を借りるなら、色恋沙汰には完全初心者の雪子が、一番近くにいた異性への感情をそう思い違えた可能性はあるかもしれないということだ。
自分の気持ちを理解するのが最も難しいことだと思うことも、時にはある。
他人の気持ちなんて、どうとでも取れるから。
「…俺が知るわけないだろ」
と、多少苦しい誤魔化し方をして。
「おまえ、松橋が光のこと好きだとして…、何でもないのか?」
「うん…。なんか寂しいような気はするけど…、だけど自分のことより俺の心配ばっかりしてくれてた雪子に、光さんていう、守ろうとしてくれる人がいたのは嬉しいんだ。その分だけ雪子が辛いの解って…、少しだけ光さんを恨めしくも思うけど…。光さんは雪子を守ってくれたのにね……」
「…」
「どうしてこんな方法しか選べなかったんだろう…って…悔しいよ…」
「……」
岬は知らない。
知らないと判っていても、その言葉に河夕は胸を押し潰されそうになる。
命と引き換えにしなければ守れなかった大切な人の命。
そのための死ならば本望だと思える狩人の想い。
誰かの言葉に、眼差しに、温もりに…、誰かの存在そのものに救われてきた狩人が、その誰かを守るために捨てる命なら、それは狩人の誇りへと形を変える。
だがそれを理解させるのはのは無理だと、河夕は知っている。
誰かの犠牲のもとに生かされた者の気持ちを、過去の経験から身をもって知っている河夕も、知っていた光も、それを岬と雪子に理解してもらおうとは思わない。
だから隠す。
だから、何も言わない。
「あ。あと薄紅さんから伝言頼まれてるんだ。有葉ちゃん、まだ意識戻らないって」
「…ああ」
「ああって…、知ってた?」
「ここに戻る前に様子見てきた。…起きていれば話さなきゃならないことがあったからな…光のことも、隠すわけにいかないだろ」
「うん…」
答えてから、岬は「あれ?」と首を傾げた。
「光さんのことも…って、他にもなにか?」
「紫紺と高紅のこともある」
「それと?」
「…」
「それだけじゃないだろ? だって今の言い方って…」
「…」
それと、是羅を倒す術のこと。
説明不十分な、必要最低限な言葉だけ並べた返答を、河夕は言葉にする前に飲み込んだ。
だがそのための不自然な間が岬に不安を抱かせる。
「河夕、なにを隠してるの」
「…隠すつもりはない」
「なら話して」
真っ直ぐで、決して自分から逸らされない岬の目に、河夕は小さく苦笑した。
「…どう説明すればいいのか、考えただけだ」
「説明?」
「あぁ…、是羅を倒す準備が整ったってことを」
「っ」
それを言っただけで岬の顔に緊張が走り、その手が痛いくらい河夕の腕を掴んだ。
考えていることが簡単に読めてしまう素直な態度に、河夕は改めて失笑した。
「…おまえがそんな顔をすると思ったから考えていたんだ。俺が死ぬかもしれないなんて誤解をさせずに済む説明の仕方ってやつを」
「誤解…」
ほんのわずかに、河夕を束縛する力が緩む。
「…じゃあ河夕は死なない…?」
「…」
「河夕…、え?」
確認のために聞いた岬に、河夕は言葉を発さなかった。だから不安になってもう一度口を開いた直後、いきなり河夕から手を外され、同時に引き寄せられ抱きしめられる。
「かっ、な…!」
「岬…」
「っ…」
耳元に囁かれて、岬はカッと体が熱くなるのを感じた。
心臓が早鐘のように小刻みなリズムを打つ。それきり言葉も出てこない。
それを好都合と判断したのか、河夕は静かな口調で話し始めた。
「…いま、一族の連中に是羅の気配を追わせてる。見つかりしだい俺達はあいつを討ちに向かう。これが光を弔うことにもつながるだろうからな」
「河夕…」
「…行くときは、おまえも一緒だ」
「え?」
「是羅を倒すときはおまえも俺達と一緒に来い。そこで俺があのクソ野郎を倒す様をしっかりと見ておけ。おまえと松橋の生活を害する敵はここでいなくなるんだってことを目に焼き付けて、今の不安を全部拭い去るんだ。俺は必ずおまえを救う。おまえを死なせずとも是羅を倒せるんだってことを一族に証明してやる」
一緒に来いとは、おそらく岬にとって意外な言葉だったのだろう。
今までは極力、是羅と岬を対面させないようにしていた河夕である。今回のことも自分は雪子とともに留守番だと頭の片隅で思っていた岬は、咄嗟の言葉が見つからずにただ目を見開く。
「俺が死ぬかもしれないと心配なら尚更、傍にいて見張っていればいい。その方がおまえも安心だろう」
「う、うんっ」
「おまえがどうしても怖いから嫌だって言うなら留守番でもいいが…」
「行くよもちろん!」
岬は自分がどんな格好でいるのかも忘れて顔を上げ、至近距離で河夕の美貌と対面して瞬時に顔を火照らせる。
「っ、あ、えっと…」
戸惑い、言葉を濁す岬に苦笑し、河夕は手を放した。
二人の間に普通の距離が戻り、…だが河夕の手は岬の頬に伸ばされる。
「か、河夕…っ」
「…おまえ意識し過ぎだ」
「そ、そう言うけど…でもなんか…速水とか…」
「速水?」
「〜っ、これってなんか言い訳みたいに聞こえるかもだけど…っ! 河夕と五百年前の王様って顔そっくりなんだって! だから河夕が近づく度に速水がすごい動揺してて…っ」
「…」
「だからなんかそれに同調して俺自身も意識しちゃうっていうか…っ、別に河夕が好きとかじゃ…、いや好きなんだけど! でもそういう意味じゃなくて友達としての好きなんだけどっ、でも速水は綺也さんのことそういう意味で好きでっ、河夕が近づくとそういう意味で反応しちゃってそれが俺にも伝わって意識しちゃうんであって…っ、あ、いや意識しちゃうけど好きなのは友達の好きで恋人とかそういうんじゃなくて、赤くなったりしてるのはあくまで速水の気持ちが伝わってきて俺も恥ず、か、しい……って河夕?!」
長々と言い訳みたいな説明を続けていた岬は、ふと聞こえてきた笑いに目線を上げてみて、笑いを噛み殺そうにも抑えきれていない河夕に気付く。
「なんだよ! 俺が必死に説明してるのに!」
「いや…、おまえがあんまり真剣で…」
「真剣だって解ってるなら笑うな!」
「そうは言うけどな…」
今のは真剣すぎて、内容が内容なだけに誰が見ても笑えるだろうと思うが、それは内心でのみ呟き、岬の頬に置いてあった手を頭に乗せてわしゃわしゃと髪を掻き回す。
「っ、河夕!」
「解ったって。速水が俺と綺也を混同しているから。おまえも危ない道に片足突っ込みそうになってるだけだってんだろ?」
「危ない道…、っ、やっぱり解ってない!」
真っ赤になって声を張り上げる岬に、河夕は遠慮なく笑ってしまう。
まったく素直というか純粋というか、これほどからかいがいのある相手は今までどこにもいなかった。
だがそうして笑っている裏側で、速水の動揺が岬の外側に出てくるという現状に不安は隠しきれない。
それはつまり二人の精神が一体化しているということ。
今までは岬の内側で静かに眠っていた速水の魂が、昨年十月の闇狩との出逢いによって覚醒を促され、そこで知り合った影見河夕が過去の恋人と酷似していたという、偶然という言葉だけでは片付けられない偶然に、長い間体を一つにしてきた岬と速水の魂が刻一刻とその距離を縮めてきている証拠だ。しかも速水は無自覚の中で気付いているだろう、河夕の中に懐かしいものがあることを。
影見綺也の幻影に遭遇したあの遺物庫で、河夕の体内に吸い込まれた小さな光り―金銀の指輪から放たれた閃光が何であったか、その正体を速水は感じ取っているはずだ。だからなおさら河夕と綺也を混同し、河夕が近づけば動揺する。
このままでは近い将来、岬が岬一人の存在でいられなくなるのは決定的だ。
彼が彼でなくなってしまう…、そうなるまえに、河夕は彼自身の手で決着をつけねばならなかった。
高城岬に、河夕は何度も『心』を救われてきた。
決して得られなかったはずの友を得、支えられ。
たくさんの『幸せ』を、岬と、そして雪子と過ごした時間の中で手に入れた。
だから今度は彼の番。
河夕は、岬を岬のまま、彼らの未来の『幸せ』を守らなければならないから。
「…そう怒るな」
いつからか作り笑いになってしまったそれを抑えながら、河夕は自分が立ち上がった後で岬に手を貸して立たせようとしたが、「いいっ」とふて腐れた顔で拒まれて、消えたはずの笑みが再び口の端にのぼる。
「…悪かったって。けど俺が心配なのも解れよ」
「? 心配?」
「おまえが闇に狙われるたび、近付いてきたのは楠だったり岡山だったりとどこか狂った男ばかりだったんだ。松橋だって気が気じゃなかったろ。まぁ闇に憑かれりゃどこかおかしくもなるけどな」
「そ、それは…」
「是羅が倒れれば少しは安心出来るだろうが…」
言いながら、立ち上がった岬の耳元に再び顔を近づけると、瞬間湯沸かし器のように火照る少年の頬。それがなんとも面白い。
一歩後ろに下がろうとするのを、わざわざ腰に手を回して捕らえ、囁く。
「…速水が離れて、それでもまだ俺を意識するようなら正直に言いに来い。前向きに考えてやるから」
「!! かっ、かっ、かぁっ……!」
「カラスか、おまえは」
「河夕!!」
同時に向かってくる拳を軽く避けて、河夕は屈託なく笑う。
「もぉっ、ほんとに河夕は解ってない!! 冗談にしても質が悪過ぎる!!」
「なら本気に取っとけよ」
「本気ならなお悪い!!」
「変な奴だな」
「どっちが?!」
真っ赤になって声を張り上げる岬の心臓は、速水の影響もあってか早鐘どころでは済まない。いつ爆発してもおかしくないくらい激しい脈動を繰り返す。
――それでも、笑っている河夕の方がいいと思う。
無言で星空を眺めているなんて、そんな悲しい姿を見せられるくらいなら自分がからかわれるのも苦ではない。
愉快そうに笑いながら部屋に戻る河夕の後を追いながら、岬は本心からそう思った。
「…岬」
「っ、なに!」
答える口調には刺があっても、気落ちしている河夕に掛けられる言葉がなくて悔しい思いをするよりはずっといいと…。
「是羅は必ず俺が倒す」
「――」
急に真面目なことを言われて返答に詰まった。
「おまえと速水を分離させて、おまえと速水の両方を必ず救ってやる」
「河夕…」
「だから俺を信じろ」
真剣な眼差しに射すくめられて、岬はただ相手を見上げる。
「俺を信じろ。…いいな?」
「…」
信じろと言われて迷うほど、河夕と過ごしてきた時間は短くない。
知り合ったのはほんの半年前の出来事でも、その間に起きた騒動の中で知り合った河夕は、いつだって岬と雪子の二人を守るために死力を尽くしてくれていた。
そんな彼を信じずに、他の誰を信じろというのか。
「俺は河夕を信じる。…だから約束しよ、河夕は死なないって」
「…」
「河夕も生きて帰ってくるって、約束。俺を助けるために死ぬなんて、…光さんと同じことは絶対にしちゃ駄目だ。もしそんなことしたら…雪子はもっと悲しむ。そんなことになったら俺も雪子ももう立ち直れないから」
「…そうだな」
「俺と雪子を守ろうとしてくれるなら、そこには河夕もいなきゃ駄目なんだからな」
「岬…」
約束をしようと言って笑む岬に、河夕の胸は痛んだ。
決して守られることのない約束を平然と交わせるほど、河夕は嘘に慣れていない。
だからただ笑い返した。
「…おまえが必要としてくれる限りは傍にいる。半年前の約束は今も有効だ」
その半年前の約束で今をごまかす。
必要としてくれる限り。
岬が河夕のことを覚えていて、その名を抵抗なく呼べるうちは傍にいる。
速水を分離させ、岬の中の河夕の記憶が失われるまでは、間違いなく傍にいる、と。
岬は、約束したものと信じて安堵の笑みを覗かせる。
河夕はただ微笑っただけ。
別れのときは容赦なく迫っていたにも関わらず……。
◇◆◇
「……ねぇ空知さん」
沈んだ白鳥の声に、ベッドに横になっていた空知こと蒼月は目だけ向けた。
「もしさ…、もしだよ。十君全員で一睡もせずに飲みまくってさ、是羅発見の報告が来たときに全員見事なまでに酔い潰れていたら、…河夕様は延期してくれるかな…」
「蹴り飛ばされて殺すぞと脅されて戦場まで引きずっていかれるか、用無しと捨て置かれるかのどちらかだろう」
「…」
あまりに冷静かつ的確な即答に、白鳥は机上に突っ伏した。
ここは蒼月の私室。
是羅発見の報告が入るまでに万全の状態を整えておけといわれ、少しでも眠るためにそれぞれの自室へ戻ることになった十君だが、こんなときに眠れるわけがなく、白鳥は話し相手を求めて蒼月の部屋に来たのだった。
休むためだけともいえるほどシンプルな蒼月の部屋に、ベッド以外唯一の家具と思われる木のテーブル、それに白鳥は倒れていた。
きっと皆が眠れない時間を過ごしているのだろうと思うから、先のような例え話を持ち出した白鳥だが、きっと蒼月の答えが正解。希望通りには決してならないだろう。
彼ら十君が河夕の言葉を受け入れた後に聞かされた、高城岬と速水を分離させる方法というのは、ある意味、河夕と岬の二人がいれば事足りる手段だった。
あとは是羅をしばしのあいだ足止めできる狩人がいればいいだけ。
極端な話、十君を連れて行かずとも人数さえいれば普通の狩人で充分影主の助けになれるのだから。
「あぁそっか。じゃあ一族中で宴会を催せばいいのかな? ほら、地球であるだろ、通夜の後とかに親族一同集まって飲めや歌えの大騒ぎ。少しでも光君の弔いになればってことでさ。親族じゃないけど同じ一族じゃないか」
「…白河」
「それも駄目かい? だったら皆で家出でもしようかな。いやそれにしては大所帯過ぎるか。中には河夕様が是羅を倒すと聞いて張り切ってる子もいるし、百人や二百人は黙ってても河夕様の援護に…」
「白河」
「なんだい空知さん、なにかいい案でも思いついた? あぁそうか、空知さんの馬鹿力で河夕様をどこか狭い場所に軟禁するのも…」
「いいかげんにしろ!」
思わずベッドから起き上がって声を荒げた蒼月に、白鳥は傷ついたような顔をして、唇を噛んだ。
悔しそうな、その表情。
白鳥の気持ちはよくわかる、それは蒼月だって同じ思いだ。
だが。
「…もう俺達がなにを言っても河夕様の意志は変わらない」
「…」
「あきらめろ、とは言いたくない。だが河夕様の意志を変えられない以上、河夕様の十君として役目を全うすることに集中しろ。…王として死なせて欲しいと仰られた河夕様の援護だ…、俺達に出来るのはそれだけだろう」
「だけど…っ、だけど俺はやっぱり嫌なんだよ…っ」
「…」
「河夕様のいない一族に何が残る?! そりゃあ生真様も好きだよ、大事な先代の子だ、俺達の理想を実現させてくれる力はあるだろうさ! だけど…だけど俺達が十君になったのは河夕様がいたからじゃないか……っ」
「…そうだな」
「緑君がいなくなっただけでもこんなに本部の空気が虚ろなのに…、これで河夕様まで失ってしまったら…俺は……」
「…緑も、きっとそうやって河夕様に反論したんだろう」
「…」
「あいつがあんな話を素直に聞き入れたとは思えない…、それでも納得して雪子様を守るために死んだんだとしたら…その気持ちは地球人でなければ解らないものなのかもしれない」
「空知さん…?」
「…それが解れば、俺は弓月を助けられたのかもな…」
「…」
弓月――弓月叶は、五年前に空知の手にかかって闇から解放された、当時十八歳の少女だ。一族の掟に従うしかなかった空知の心に変化をもたらし、彼に愛されて死んでいった無垢な少女。彼女を助けられなかった過去は、今も空知の傷となって残っている。
「…すべてが終わって、河夕様が一族から失われるのなら…、地球に降りてみるのもいいかもしれない」
「え…?」
「地球人の心に触れて、少しでも学ぶものがあれば河夕様の考えを理解できるかもしれない…、そうなって初めて、本当の意味で生真様を支えられるのかもしれない」
「…」
「是羅が倒れれば、そういうことも可能だろう」
言って、蒼月は白鳥をまっすぐに見る。
「…何事も前向きに考えろ…、これは、おまえがいつも俺に言っている台詞だ」
「空知さん…」
「河夕様を信じるしかない。あの方は間違っていないのだと…、俺達が信じた王として正しい判断をしたからこういう結末を迎えるのだと…、俺は信じることにする」
いつになく饒舌な蒼月に、白鳥は苦笑めいた笑みをのぞかせて頷いた。
「そうだね…、もう、信じるしかないんだね…」
別れのときは、もうすぐそこまで近づいてきていた。
誰にも止められない。
何者にも変えられない。
彼らはそれを選び取ってしまったから。
「こんなときに貴方がいないでどうするの深緑…」
泣き腫らした目は、眠っている姿からもはっきりと解った。
誰より大事に守りたかったはずの雪子をこんなに泣かせて、一人先立った深緑はなんて愚かだろうと薄紅は思う。
「なぜ河夕様の言葉を受け入れられたの、貴方は…」
そのために地球人を守って死んでしまった彼は地球人だった過去を持つ。
河夕の言葉を受け入れたのも、河夕の傷を癒したのも地球人。
一族とあの青い星の住人には、いったいどれほどの違いがあるというのか。
「…本当に、こんなときに貴方がいてくれなきゃ…私はいったい誰に河夕様のことで愚痴ればいいの……?」
泣きたいのに泣けない狩人。
薄紅は…、影見桜は、ただ静かに拳を握り締める……。
本部より遠く離れた砂と岩ばかりが広がる大地に、生真は容赦なく術を打ち込んだ。
「クソ…っ、くそ! なんでだよ…なんで俺なんだよ河夕!!」
爆発と、それによって起こる風に自ら飛び込み、無謀なまでに体を痛めつける生真。
「うわあああああああ……っ!!」
叫び、気合をいれ、もう考えなしに、ただ夢中で何もない大地を破壊し続けた。
おとなしくなんかしていられなかった。
黙ってなんていられなかった。
自分を斬れと告げた兄の顔が、声が…、そればかりが繰り返し繰り返し脳内に浮かんでは消えていく。
――王になれ、生真…
「黙れよ…っ」
――親父の理想をおまえが継げ……
「黙れよ裏切り者……!!」
叫ぶと同時に閃光が走る。
激しい衝撃と、鼓膜を破りそうなほどに強い音波。
「畜生……っ、チクショォ……っっ!!」
何も考えたくなかった。
河夕のことなど、何も。
あんな顔を見せる兄のことなど、何一つ。
◇◆◇
――闇狩一族の本部を離れ、そこは半透明な球体の結界に守られた異国。
地球の大陸をそのまま掘り抜いてきたかのような広大な島が、豊かな自然と美しい獣たちとともに結界の中心に浮かんでいた。
その大地に聳え立つ、サイレント・シーと呼ばれる鉱石で創られた神殿の一室から愉しげな笑いと怒り狂う声が一つ。
その部屋には人影が二つ、獣が二匹いたのだが、怒り狂う声の主は獣の片割れ。
『この変態ヤローっ、白夜に指一本触れてみろっ、いくらおまえだってタダじゃおかねーかンな!!』
叫んでいたのは鷹だった。
上空から獲物を見定める鋭い目は藍色。
発見した獲物を確実に捕らえるための爪と鋭利な嘴に見事な翼。
全身を被う模様に羽の触り心地などは地球上のそれらと変わりないのに、地肌が黄金色に輝いているため見た目からして稀な鷹だ。それが人間としか思えない流暢な日本語で人間を罵倒しているのだから現実離れもいいところ。
それに加えて金の鷹と、もう一匹の獣―神々しいまでの鬣に巨大な体躯、その全身を漆黒の艶めく毛に覆われた獅子は、驚くべきことに水の鎖で戒められていた。
本来ならば鉄などの鉱石で作られるべきそれが、触れただけで断ち切れる水なのだ。
にも拘らず二匹の獣は束縛されたまま逃げられない。
金の鷹―雷牙は一人の男を罵倒し、漆黒の獅子―時河竜騎はただでさえ鋭い目を怒りに漲らせ、無言で同じ男を睨みつける。
それに対して愉しげに笑っているのが二匹の獣の怒りを一身に浴びるその男。
無造作に伸びた茶色の髪を掻き揚げ、面白そうに目を細めて、自分に怒りを募らせている獣達を見やる。全身を白一色の衣に包み、吸血鬼のようなマント―やはり色は白だったが―まで装着したその人は、簡素な椅子に腰掛けながら、傍らの揺り椅子で眠る人の栗色の髪に手を伸ばした。
栗色の髪に白い肌。
男女の区別さえつけられない穏やかな美貌の人。
『〜〜〜っ、白夜に触るなっつってんだろーが!!』
すかさず雷牙がわめき、竜騎は視線を合わせただけで相手を射殺せそうなまでに目を吊り上げた。…だがそれだけ。今の彼らにはそれが唯一可能な反抗だった。
「…まったく。君達二人は白夜が絡んだときだけは意見が一致し、白夜を楯に取られたときだけは俺の言うことにも従うんだな」
『うっせーよボケナス!! おまえ約束が違うだろ?! 俺と黒天獅が罰受けりゃ白夜はいいって言ったじゃねーか!! だったらなんで薬使って意識奪ってそんなヤラシイ真似しくさんだよ、あぁ?!』
「そんな誤解を招く言い方はよさないか。ただこの部屋に招待しただけでヤラシイと表現される覚えはないぞ?」
『テメーは存在自体がイヤラシイんだ変態!!』
「失敬な」
わずかに憤然としつつ、男は「いいかい?」と続けた。
「君達は掟を破ったんだよ。闇と闇狩の戦に他部族の介入は不可、それをよりによって君達が、よりにもよってその法を定めた里界神に一番近い君達が背いて是羅に手を出し闇狩を救出した。結局は死んでしまったけれど、あげくその狩人の願いを叶えて欲しいっていうのは虫がよ過ぎないかい?」
『仕方ねーだろ! 白夜が泣く方がよっぽど嫌だったんだ!!』
「ふむ…、確かに白夜が泣くのは俺達里界神も心苦しいけどね」
『だったら白夜に手ぇ出すな!!』
「だからさっきから言ってるだろ、ここに連れてきただけで…」
『薬使って意識奪って拉致同然のコトしといて招待だ?! 連れてきただけ?! 寝言は寝て言えってんだコラ!!』
「…それは何かい、連れ込んだだけじゃなく実際に手を出せと言うのかい? それならそれで喜んで寝所の準備でも始めるが?」
『ふざけんな! そんなことしたらマジで』
『殺す』
『っ』
不意に発された黒天獅の声の冷酷さに、雷牙は固まり、男は笑みを強めた。
『裕幸に何かしたら、里界神だろうが人間だろうが容赦しない。忘れるな』
「怖いねぇ君は本当に。そんなに“裕幸”が大事なら俺に近づかないよう言い聞かせておいで」
心から愉しげに告げて、男は立ち上がった。
「ま、心配しなくても君たち二人が罰を受けるなら白夜は無罪放免だと言ったのを嘘にはしないよ。ここに連れてきたのは、その方が君達の精神的な打撃が増すと思ったからに過ぎないんだから。なんせ君達二人だけが罰を受けると知った彼は、わざわざ俺を訪ねて悪いのは自分なんだから自分にこそ罰を課せと言って来たんだからね」
『!』
「落ち着いて話そうと茶を勧めたら疑いもせずに飲んでくれたけれど、ある意味この子の先行きが不安になってしまったよ。君達、百夜の守護獣を名乗るんだったらもう少ししっかりしなさい」
『味方に騙されるなんて前提が白夜の頭にあるかってんだ! おまえ白夜の信頼裏切ったも同然じゃねーか!!』
「それを言うなら君達こそ心配をかけるからと白夜には黙っていたみたいだが、黙っている方が心配をかけるんだということをこの機会に学んだ方がいいんじゃないか?」
『〜〜〜〜〜っ』
にっこりと微笑まれて、雷牙は二枚の翼で頭を抱える。
『あ〜〜〜っクソ! なんだってよりによってテメーが俺らの方に来るんだよ! 他の三人はどこ行った?!』
「それは愚問というものだね。是羅を退じるために黒天獅が咆哮なんて上げるから、あのとき近所にいた異世界の民にもどれほどの影響があったか解るかい? 是羅と一緒に宇宙空間まで飛ばされた者もいたんだよ? その事後処理に行ったに決まっている」
『だ〜か〜ら〜っ、なんでよりにもよっておまえが残ったんだよ!!』
「だから愚問だよって。俺が事後処理に同行して異世界の民に謝罪するようなことになれば事態が深刻化するのは当然の展開だろ? 他の三人はよーく解ってるのさ」
それを笑いながら言うなと雷牙も竜騎も真剣に思う。
しかし意識のない白夜――大樹裕幸を人質同然に取られ、あげく罪を犯したと言うのが完全な事実である以上、彼らが罰せられられるのは当然のこと。ここで怒りに任せて鎖を断ち切れば刑罰は重くなるだけだし、彼ら二人の保護者的立場にある裕幸にも被害が及ぶ。
何より今ここで素直に罰を受けなければ、狩人の遺言とも言うべき願いは里界神に聞き入れられない。
何せその里界神の長が、目の前のこの男なのだから。
「ま、あとはゆっくり高みの見物といこうじゃないか」
男が言って壁を小突いた刹那、この世界の鉱物サイレント・シーで出来た壁一面に水の膜が掛かった。
次に男が簡単な呪いを施すと水の膜はスクリーンとなって宇宙空間の惑星を映し出し、ある一点を目指して移動していく。
岩と乾いた砂ばかりが延々と広がる大地。
地平線までを遮るものはなに一つ見当たらず、ただ一つそびえたつのは地球の一国、ドイツの古城を思わせる風貌の巨大な『本部』。
「死した狩人の願いを叶えるか否か…、それは影主次第だよ」
告げ、男は意味深な笑みを強めた。
「影主が俺を楽しませてくれれば狩人の願いは聞き入れるに値すると他の三人にも報告しよう。だがもし影主が俺の期待に沿わなかった場合はゲームオーバーだ」
『テメェ…っ、あいつらは命張ってンだぞ?! 是羅と戦えなんて役目押し付けたのはそれこそテメェらじゃねーか!! ゲームなんて言うな! あいつら馬鹿にすんなよ変態!!』
「ふふん、そういう罵声はなかなか気分がいいものだよ」
『この…っ、テメェ絶対にろくな死に方しねーぞ!!』
「死ねるものなら死んでみたいと常々思っているさ」
不敵に笑う男に、雷牙も竜騎も胸が悪くなってくる。
こうなったら何がなんでも狩人の願いを聞き届けさせてやると強く思う。
――影主…、光の信頼を裏切るなよ……
それが雷牙と竜騎の共通の思い。そしておそらくは、意識さえあれば裕幸も同じように祈っただろう。
影主の決断一つ。
それが、すべてだ。
そうしてこれより小一時間を経て是羅発見の報せが本部に渡る。
宇宙空間の物差しで計れば闇狩一族の郷よりそう遠くない死の星。
是羅は『奇渓城』にいた。