誓い抱きし者達 四
最初に彼らの帰りに気付き、その数が少ないのを察して鼻を鳴らしたのは、鏡の道が他所へ移らないよう全身全霊を懸けて術力を使っていた黒炎だった。
一度正しく繋がった道をそのままの状態で安定させるのは難しい話じゃなかったが、まだ鏡の表面に残る傷が広がらないよう、彼は気を抜けなかったのだ。
鏡の間に置かれた数百の鏡の内、ほぼ半数が元どおりに修復された。
四城市にある鏡との道もつながり、白鳥や紅葉、梅雨その他の狩人達も危機が過ぎ去ったのを確認して続々と戻りつつある。
北海道の地から帰ってくる彼らを、地方に散らばっていた皆が集まって出迎えようとしていたのだ。
―――光の気配が闇と融合し、覆い尽くされそうになるのを感じ取ってここから河夕が飛び出して行った直後、凄まじい獣の咆哮を彼らは聞いた。
闇の邪気を容赦なく斬り裂く刃のごとき威力を示した咆哮は、地球にいた白鳥や紅葉達だけでなく、本部にいた黒炎や薄紅にも鼓膜が破れそうなほど強烈なものだった。
同時に四城市内を襲っていた闇の力は急激に弱まり、また是羅の気配は地球上から完全に消えてしまった。
消滅したわけではない。
だがあの獣の咆哮が持つ巨大な力の前で、是羅は退かざるを得なかったと言うことだ。
獣の正体が何であるのか、彼らには知りようがない。ただその後、是羅と対峙していた光はどうなったのか…、ここに集まった彼らの思いはそれ一つで、今こうして北海道から戻ってくる狩人の気配の数を察してからは、一様に重苦しい表情になっていった。
「…緑君…」
白鳥の気落ちした声音に、薄紅の隣に立つ岬は眉を寄せた。
まさかと思った。
彼らから一歩離れた位置で同様に気配の数を知った生真は、ただ静かに目つきを鋭くして道から出てくる人を待つ。
紫紺に痛めつけられて気絶していた少年は、まだ右肩に腫れが残るものの、薄紅の治療によって順調に回復していた。
「影主が戻るぞ」
いつになく沈んだ黒炎の声とほぼ同時に鏡が微かな光りを放ち、複数の影を映し出す。
最初にそこから出て広間に姿を現したのは河夕。
次に雪子が戻り、最後に蒼月が、彼女を支えるような形で帰ってきた。
「河夕…、雪子…!」
岬は二人が無事なのを見て一先ず安堵し、うつむいたまま一言も発さない雪子に近づいた。
「雪子、怪我は? 大丈夫?」
「…岬ちゃん…」
いつもの彼女からは考えられない、力のない声音に、岬が怪訝な顔をして見せた時、河夕の大きな手が岬の頭で弾んだ。
「? 河夕…?」
振り向いた彼の表情は痛々しく、必死に何かをこらえているような…、そんな苦しみを思わせる顔で、岬はまさかと雪子をもう一度見た。
「雪子…?」
泣いてはいなかった。
けれど彼女は…。
「…光が死んだ」
「――」
起伏のない河夕の言葉を、岬以外は誰もが聞いただけだった。
驚く者も、嘆き膝をつく者もいない。
ただそういう報告を受け入れるだけ。
解っていたことだと、否定したがる者もいなかった。
「光さ…、そんな……っ」
「…桜」
泣いてはいない、ただ無表情でうつむき加減に立ち尽くす雪子の肩に触れて泣きそうな顔をする岬の頭から手を放し、河夕は薄紅を呼び、雪子を彼女の部屋で休ませてくれと声を掛ける。
「岬。おまえは松橋と一緒にいてやれ」
「う、うん…」
「行きましょう」
薄紅に声を掛けられ、岬は雪子を促して河夕の横を通り抜け、鏡の間を出ていった。
「桜、おまえはすぐに戻れ。話がある」
「…承知しました」
それを最後に三人の姿は遠ざかる。
岬と雪子、二人の地球人がいなくなると、今まで沈黙を通していた十君の面々が河夕を囲うようにして前に出る。
紫紺が死に、光を亡くした十君。
あの口うるさかった副総帥までがいなくなってしまい、この面子が揃ったというのにひどく静かだ。こんなことになってどう責任を取るつもりだと河夕を責める者もいない。
「…有葉は」
「有葉様はまだ目を覚ましていないそうです」
答えたのは紅葉。
河夕より先に戻っていた彼女らは、高紅が死に、紫紺が裏切り、生真と有葉が重症を負い、この鏡の間が爆破されたこと…、本部から離れていたために一時は河夕の生死さえつかめず混乱した彼らは、それらの説明を既に薄紅から受けていた。
「ですが怪我の方はどれも大事無く、時間が経てば目を覚ますだろうということでした」
「副総帥の遺体は収集不可能だったそうです。もともと酷い状態だったものが紫紺の仕掛けた爆発によって微塵になってしまったとか…、鏡の間の暴発に巻き込まれて負傷した狩人は全員治療を受け終えて今後の影主の指示が出るまで各自待機しています。その他に死者はありません」
梅雨が事務的な口調で告げながら、チラと探るような目つきで河夕を見上げた。
…人は深い悲しみを背負ったとき、深い絶望に追いやられたとき、抑え切れない激情を面に出すより、完璧な無表情を作ってしまうものなのだろうか。
今の河夕は先代を亡くした当時を思い起こさせるような、静かすぎる顔をしていた。
感情を読み取らせまいとする沈着冷静な態度を装い、影主としての責務を果たす。
それだけのためにそこに立っているような、痛々しさ。
梅雨は、こんな『影主』が正しいのかどうか未だ判断しかねていた。
ただ、こんな彼の姿を見ていると、言葉では表現できない痛みが胸を締め付けた。
「河夕」
そうして次に口を切ったのは、彼と面差しの良く似た十五歳の少年。
河夕の実弟でありながら誰よりも河夕を憎む十君、黄金。
その彼が険しい顔付きで河夕を睨みつけた。
「光はどうした」
容赦ない問い掛けに、その場の十君は幼い王弟を凝視する。
「…光は死んだと、そう言っただろう」
「違うっ、あいつの…っ、光の亡骸はどうしたって聞いてるんだ!」
「生真様、それは…」
「オマエには聞いてない!」
口を挟もうとした蒼月を一喝して黙らせ、再び河夕に言い放つ。
「アイツが自分から闇を呼び込んだのは知ってるっ、だからって後の金粉さえ持ち帰らなかったのか?! あれだけ一緒にいたのに…っ、ずっと一緒にいたアイツを弔う気さえないのかオマエは!! 闇に憑かれたら光でさえその他大勢の闇に憑かれた人間と同じかよ!!」
「生真様それは違います!」
「オマエは黙ってろって言ってるだろ!」
「黙れません。河夕様は深緑の遺体を取り戻そうとなさった、だがそれを拒まれたんだ」
「取り戻す…?」
蒼月の言い様に、白鳥が怪訝な顔をして聞き返す。
「拒まれたって、…誰に…?」
「…解らない」
短い沈黙の後で、河夕は正直に答えた。
「光が五年前に世話になった人だろうとは思う…。おまえ達もあの一瞬に獣の咆哮を聞いたはずだ。たぶんその主だろう…。だがその正体は知らない。人間ではないと聞いていたから、きっとそういうことなんだろうと推測するだけだ。光は自ら闇を呼び込んだ。…それがどんな姿で死ぬことになるのか分かっていても」
河夕の静かな返答に、生真は息をのみ、数人が沈痛な面持ちでうつむいた。
「松橋を光から離して俺達と引き合わせた雷牙とかいう奴に『そんな姿を光が見られたいと思うか』と問われて、俺は否定出来なかった。少なくとも松橋には見せるべきじゃないと思った…。光のことを本当に大事に思ってくれている人らがあいつを弔うというなら、彼らに任せていいと思ったんだ」
そこまで一息に告げて、河夕はふと表情を切り替えた。
十君を順に見渡し、薄紅が戻ってきたのを知り、…そうして生真を見た。
まっすぐに少年を見据える目は兄のものではなく、一族の王としての眼差し。
決意を秘めた力強い視線。
「それに、俺達には俺達の弔い方があるはずだ」
「…っ」
紅葉の隣に戻ってきた薄紅が(まさか)と目を見開く。
ここで告げるつもりなのかと表情を強張らせた彼女を、河夕は一瞥し、だがなんの反応も示さずに続ける。
「所在を突き止め次第、一族は是羅を討つ」
「!!」
「光を死なせたのは俺の責任だ…。こんな理由で是羅を討つと決めるのは王として失格だろう…、だがこれ以上奴との戦を長引かせるわけにはいかない。次こそあいつを倒す」
「っ、…お待ちください影主!」
これに慌てて口を挟んだのは、意外にも梅雨だった。
疑惑の表情で、確かな焦りを含む口調。
「それは…、是羅を倒すということは、高城岬を滅する覚悟を決められたということですか……?」
まるで岬の身を案じるかのような言い方をする梅雨に、四城市での彼ら十君の会話を知らない河夕は少なからず驚かされた。
だがその周りで紅葉や白鳥が彼女の言葉を不思議がらず、同意するように肯くから、何かあったのだろうと察した。
今になって、また理解してくれる十君を得られたのだろうかと思うと、河夕の気持ちも軽くなる。
それならいっそう自分の取ろうとしている手段は間違いのないものになると、彼を慕う人々にとっては痛みにしかならない確信を河夕は抱いてしまった。
「岬は死なせない」
はっきりと断言する河夕に、十君はもちろん、詳しいことを知らないながらも鏡の間に集う狩人達の間にも緊張が走った。
「…速水を滅さずとも是羅を倒す方法…それを、河夕様は本当に見つけられたのですね…?」
確認するように問うのは薄紅。
自分からその問いを口にしながら、彼女は傷ついた顔をする。
河夕がこれからどんな手段に出るか、それを本人から聞かされたのは光一人。
だがそれを聞いた後の光と唯一言葉を交わしていた薄紅は、確信はなくともそれに近いものを知ってしまっていた。
そしてそのことを河夕もまた察していたのだろう。
努めて表情を変えず、冷静に、返す。
「是羅を倒す術はここにある」
自分の胸を拳で叩き、生真に向かった。
「そのために…、生真。俺を斬れるか」
「?!」
「河夕様?!」
「影主なにを……っ!」
驚愕の意を露に声を荒げる十君の中、生真の目に浮かんだのは驚きと同等の確信。
自分の予想は当たっていたのだという衝撃。
「親父の仇を取らせてやる。それで是羅を倒せるとなれば迷う余地もない。…生真、俺を斬って王になれ」
「影主…!!」
「どうしてそのような方法を…っ」
十君の、あからさまに反対の意を込めた声を完全に無視して、河夕は弟にだけ繰り返す。
「俺が斬れるか」
「……っ」
いつもそう言い放っていた少年が…、殺してやると息巻いていた少年が、今は言葉もなく、自分を斬れと告げる兄の顔を見据えていた。
だがその顔のどこにも迷いはない。
恐れも、不安も、その表情には一欠片さえ見出せない。
「…おまえ、本気なのか…」
どうにかそれだけを言い返した生真に、河夕は笑った。
あの日、遺物庫から出てきた彼が見せたあの微妙な笑み。
「…もう充分すぎる犠牲を払った。死ぬのは俺で最後にするんだ」
「っ…!」
それをそんな顔で言うのだ、河夕は。
生真に。
血を分けた弟に…、父を失い河夕を憎んでいる少年に。
死ぬのは自分で最後だと、いまこの時に。
「王になれ、生真」
落ち着いた河夕の声は、生真を静かに抑圧していた。
決して拒ませないと言いたげな無言の視線。
揺るぎない強い意志。
「影主の名と共に、親父の理想はおまえが継げ」
「――!」
拒めるわけのない、その命令。
「っ…殺してやるよ…」
「! 生真様…っ?!」
「なにを…!!」
「死にたいなら殺してやる! 親父の意志は俺が継ぐ…っ、おまえなんかに…裏切り者のおまえなんか俺がこの手で殺してやる!!」
「生真様…っ!」
言い放ち、生真はその足で鏡の間を出ていった。
河夕の言葉を拒めなかったぶんも、今こそそのすべてを幼い背中で拒んで、少年は広間を飛び出していった。
「生真様……っ」
「影主! 今のはあんまりじゃねーか!!」
「どうしてあんなことを…っ、どうして貴方が死ぬ方法なんて…っ!!」
「それしか方法はない」
「河夕様…!」
白鳥も黒炎も紅葉も、そして蒼月も声を荒げたし、梅雨は驚きに言葉を失くす。
ただ一人、薄紅だけは無言だった。
河夕の婚約者の立場に在った少女だけは、ただ黙って河夕を見つめていた。その様子に最初に気付き、違和感を覚えたのは蒼月。
まさかとの予感が走る。
「薄紅…、おまえは知っていたのか?」
そう口を開けば、白鳥達も彼女一人がおとなしいことに気付いて振り返る。
「薄紅…、知っていたの……?」
気遣うように言うのは紅葉。
「貴女は知っていて、納得したの……?」
それに薄紅は肯定も否定もせず「河夕様は」と切り出した。
「河夕様は、深緑だけに全てを話されていました。私は何も聞いていません。けれど…、知った後の深緑の様子から、きっとそんなことなのだろうと予想がついていただけです」
「…緑君には…って、緑君は知っていたのかい…?」
白鳥が震える声で聞いてくるのを、河夕は静かに肯定した。
「あいつには話した。俺が死んだ後で生真を支えてやって欲しいと」
「それを緑は納得したんですか?!」
そんなはずがない、河夕のことだけでなく有葉のこと、そして生真のことも心から気遣っていた光がこんな手段を認めるはずがないと、その場にいた誰もが思った。
だが河夕からの返答は。
「…理解したから松橋を守って死んだんだろ」
その信頼は。
「なぜ……っ」
「俺の意志は変わらない。是羅を倒し、岬と松橋を四城市に帰す、そのための術がこれしかないことを俺は知っている」
「しかしっ」
「何度も言わせるな」
まだ言い募ろうとする十君を制して、河夕は言い放つ。
「是羅を倒すために俺は死ぬ。次の王には生真が起つ。おまえ達は引き続き十君の位に就き生真を助けろ」
「河夕様…っ」
「まさかおまえら、俺の弟を見捨てやしないだろうな」
「――――っ」
完全な、確信犯。
彼らに影見生真という少年を…、河夕と同様にずっと見守ってきた十五歳の少年を放っておけるはずのないことを知っていて、それでこんな言い方をするのだ、この王は。
「河夕様…っ、貴方は卑怯だ…、これでは五年前と何も変わらない…貴方は何も変わっていない…っ!!」
「知っている」
自嘲気味な肯定。
胸の内には確かに罪悪感が在るだろうに、それを押し隠して残酷な言葉を突きつける。
「だが俺は決めたんだ。是羅の所在を突き止めたらすぐに知らせろ。…いいな」
言い放つ河夕に、しばらくは誰も言葉を返せなかった。
返せるはずがない。
自分は誰を信じて十君になったのか。
信じ、慕ったのは、影見河夕という王、ただ一人ではなかったか。
影主となったのが影見河夕、彼だったからこそ支えようと、…守ろうと、彼ら今生の十君はここに集ったのだ。
その王が死ぬと宣言して…、宿敵・是羅を討つために死ぬと宣言されて、素直に受け入れられるはずが無い、認められるはずがない。
けれど彼を止める術も彼らには何一つ有り得ない…っ!
「なぜ…っ」
止められるとすれば、それはきっと光だった。
生真は五年間で広がってしまった兄との溝が本心をぶつける邪魔をし、有葉が泣いて止めたところで、兄の強い意志を聞かされれば幼い少女は退いてしまう。父親の死を受け止めた彼女は、兄の想いを尊重して己の望みを抑えこんでしまうだろう。
もし万が一の可能性があるとするなら、それは地球人であり狩人であった光のみ。
仲が良いのか悪いのか、そんな微妙な関係であっても長い間共にいた彼の言葉だけは、河夕の心に届いたはず。だからこそ河夕も、光にだけは最初にすべてを明かしたのだろうから。
…なのにその光が今はいない。
もう二度と帰らない…、十君は紫紺を亡くし、光を失って、唯一の主まで一族の理に奪われねばならないのか。
「…是羅の行方を追わずとも、高城岬を滅すれば奴は討てる」
蒼月の思いがけない低い呟きに、河夕は男を一瞥して眉を寄せた。
「…」
「河夕様を失うくらいなら、…我々は…」
我々は―――。
蒼月、白鳥、紅葉、薄紅、黒炎、そして梅雨。
この場にいる十君全員の目に思いつめた色が浮かぶのを確かに見て、河夕は短く息を吐き出し、首を振った。
「おまえ達に岬は殺せない」
それは河夕の確信。
「あいつは俺の“希望”だ。おまえ達はそれを俺から奪うのか」
「っ……」
父親をその手で殺めたことに苦しみ、五年の月日を経ても得られぬ『答え』に絶望を見そうになっていた河夕。そんな彼に一筋の光りを投げかけ、以前の笑みを、本来の彼を取り戻させた高城岬。
あの少年がいたから、今の彼らの王が在る。
今の河夕を信じ慕う十君に、河夕を癒した少年は殺せない。
殺せるはずが無い、岬が死ねば河夕もまた今のままでいられるはずはないのだから。
「…おまえ達に岬は殺せない」
もう一度繰り返して、河夕は穏やかに微笑する。
「俺の守ろうとするものを否定する奴が俺の十君であるはずがないからだ」
河夕の十君。
彼のために集まった彼ら。
「そうだよ…、俺達は河夕様を信じて十君になった…貴方を守りたいと思ったから…っ」
白鳥が震える声を押し出したが、最後まで告げ終えぬうちに言葉を詰まらせる。
後を引き継いだのは紅葉の正直な想い。
「河夕様をお助けしたくて…、そのために十君になったのです。生真様ももちろんお慕いしています、あの方も我々にとっては大事な方、けれど…、けれど私達の王は貴方一人だと、…貴方を失った一族で私達が共通して目指す未来はありません」
「なぜよりにもよって貴方までが死を選ぶんだ…、五百年前の王を愚かだと言った貴方がなぜ…っ」
「俺も人のことは言えないくらい愚かだったってだけの話さ」
「河夕様…」
苦笑交じりに告げた河夕は、穏やかな微笑を崩さぬまま、自分のために集った十君を一人一人、順に見つめる。
「これが俺の最後の役目だ。俺を王と認めてここに集ってくれたのなら、俺の最期は王として死なせてくれ」
「……」
静かな瞳をしていた。
光が死んで自棄になっているわけでも、焦っているわけでもない。
ずっと考えていたことを実行に移すときが来た、ただそれだけのことだと言うような真っ直ぐな眼差し。
彼は既に決めてしまっていたのだ。
「……」
まだ言い足りないことはあった。
本心から納得することなど到底無理なことだった。
それでも。
「―……っ」
王を助け、王を守り、王の望みを果たすことが十君の役目。
河夕の十君であることを誇りに思う彼らに、王の言葉は拒めない。
頼むと告げる河夕の願いを拒絶することなど…、それこそ出来るはずがなかった。
「…それが貴方の望みならば…」
諦めにも近い気持ちで、十君は己の主に膝をついた。
彼の意志に従うことを誓って跪く。
十君だけでなく、その場に集っていた何十、何百の狩人が次々に膝を折り、是羅を滅ぼさんとする主に頭を垂れる。
「我らが王、影主の御心のままに」
――それは一族が河夕の死を受け入れた瞬間だった……。
◇◆◇
部屋は静かだった。
雪子と二人、薄紅の部屋に通された岬は、部屋の主が河夕に言われたとおり鏡の間に戻るのを見送った後で雪子の隣に腰を下ろした。だが、室内は不気味なほど静かだった。
…静かすぎるのだ、雪子が。
ここに来てから彼女は一切口を開かない。
それどころか岬と目を合わすことも顔を上げることもなく、…泣きもせずに、ただソファに座って足元の一点を見つめていた。
「…雪子…」
岬の呼びかけにも答えず、足の上に置かれた手だけが小刻みに震えていた。
「…」
岬は雪子の正面に移動し、絨毯に膝をつく。彼女の虚ろな表情を見上げる形になって、その震える手を両手で包み込んだ。
「っ…」
誰かに触れられたことにハッとして顔を上げた雪子は目を見開き、…そこにいるのが岬と知ると、安堵か悲しみか判断のつきかねる表情を浮かべた。
「…岬ちゃん…」
いつもからは考えられない、弱々しくてか細い声。
手から始まった震えは全身に伝わり、華奢な体がよりいっそう細く小さく見えてしまう。
――泣いてくれたほうがいい…、岬は心からそう思った。
こんな、泣きたいのを必死で堪えている雪子は見たくない。
こんな幼馴染を見ているのは耐えられない。
「雪子、泣いていいんだよ」
「――」
「雪子」
顔を近づけ、まっすぐに瞳を見返して言う岬に、しかし雪子は首を振った。
「…なんで…?」
さっきよりもずっと痛々しい声だった。
「なんで…、なんで私が泣くの…?」
「雪子」
「だって変よ…泣いていいって…、だって約束したんだもの…」
「雪子?」
「だって泣きたいときは言うって約束したの…、そしたら傍にいてくれるって…」
「―!」
まさかと思った。
その約束を交わしたのが誰かを聞いたことはない。けれどそんな約束を彼女と交わすだろう人を岬は一人しか知らない。
「だから…だから泣きたかったら緑君に言うの…、岬ちゃんじゃない…、緑君じゃなきゃ駄目なの……、緑君に言わなきゃ泣いちゃいけないの……っ」
「―雪子!」
優しく包み込むようにしていた彼女の手をぎゅっと握り締めて、この現実世界に留めるために…、引き戻すために岬は声を荒げた。
「雪子、その光さんが死んだんだ」
「…」
「光さんはもういない。帰ってこないんだよ」
「…そんなことない…」
「雪子っ」
「だって…だって緑君…ずっと笑ってたのよ……?」
大丈夫だと言って、笑っていた。
これくらいの怪我、少し休めばすぐに回復すると学制服姿の雷牙が言い、光はそれを否定しなかった。
ずっと、…ずっと優しく微笑っていた。
「私が無事で良かったって…、良かったって、笑って……っ、なんで…? 私言ったじゃない…っ」
「雪子…」
「死んじゃイヤだって言ったでしょぉ……っ?!」
不意に雪子の目から大粒の涙が零れた。
一つ、二つ…、堰を切ったように溢れ出す涙と一緒に、今まで抑え込まれていたものが弾けた。
「死んじゃイヤだって…っ、駄目って言ったじゃない…! そんなんで助かっても嬉しくないって…、そんなの助からなかったのと同じだって言ったの…言ったの、緑君も同じ経験あるから解るって…辛いの解るから駄目って……!!」
「うん…」
「死なないでって…死んじゃいやだって…私ずっと言ってたのに……!!」
自ら闇を呼び込んで、是羅に「死ぬ」と言われても否定しなかったけれど。
ひどく苦しそうで、立っているのも辛そうだったけれど。
…けれど、それでも光は微笑っていたから。
助けに来た彼らが『大丈夫』って言ったら、苦しそうだったけど、嬉しそうだった。
いつもと同じ優しい眼差しで雪子を見つめて、『良かった』と、微笑ったんだ。
「なのに…っ、なのになんで死んじゃうの……っ?!」
「――っ」
「ずっと傍にいてくれるって言ったじゃない!! 泣きたいときは支えてくれるって言ったじゃない…っ、約束は破らないって……っっ、だったらなんで今いないのよぉ…っ!!!!」
ぼろぼろと涙を零して哀しい叫びを上げる雪子を、岬は迷わず抱きしめていた。
無意識に体が動いていたと言っても良い。こんなことになってしまって、助かったのに救われなかった彼女を、独りで泣かせるなんてしたくなかった。
傷ついた彼女を包み込む術が欲しかった。
「…泣きたいだけ泣こう…?」
掛けられる言葉など、思いつかない。
それでも岬は。
「光さんの代わりになんてなれないけど…だけど俺がずっと傍にいるから…だから泣きたいだけ泣こう」
「岬ちゃん…」
「俺と一緒に泣こう…、二人で…、それこそ泣くことも出来ない一族の人達の分も」
あの時、闇狩の血に連なる者、狩人の力を持つ者は余すことなく同志が闇に被いつくされるのを感じ取っていた。
それは狩人がもつ本能のようなもの。
闇と闇狩の力がぶつかり合い、放出される不快な波動は、各地に散らばる皆の体に異常を来たし、彼らは一人の狩人が死にに行くことを察した。
まして十君に名を連ねる者達はそれが誰なのかまで知りながら、駆けつける術もなく大切な仲間を死なせるしかなかったのだ。
目覚めない有葉の看病をしていた岬は、共にその部屋にいた生真と薄紅が、ふとした拍子に顔を強張らせたことに気付いた。
真っ青になり、どこか一点を見たまま固まった彼らの様子から、何か尋常ではない事態が起きているのだろうという予測はしていた。
それが緑光という青年の死だと知ったいま、岬には、何故それを察した彼らが悲しまなかったのかが不思議だった。
しかしそれも雪子の言葉を聞けば判る。
光がなぜ死んだのか…、それが雪子を守るためという光自身の意志だと、彼らは知っていたから。
狩人としてだけじゃない、一人の男として彼女を守ろうとした光の行動の結果だと判っていたから、だから泣けなかったのだと。
そしてそれは河夕も同様。
どうなったのか解っていなかった岬の頭を撫でたときの河夕の表情の、なんて苦しげなものだったか。
悲しくないはずがない、泣きたくないわけがない。
だけど河夕が涙一つ零さなかったのは、光の気持ちが解っていて、その意志を尊重しようとしたからだ。
泣きたいのに泣かない彼ら。
同じ一族の者には許されない涙。
誰かを憚らず光のために泣けるのは、岬と雪子の二人しかいないのだ。
「独りで泣かないで…、二人で泣こう…? 河夕の分も、いっぱいいっぱい泣いちゃおうよ…」
「岬ちゃん……っ」
抱きしめられた腕の中、雪子の瞳から大きな涙が新たに零れ落ちる。
「雪子…」
小刻みに震える少女の細い体。
あんなに気丈で、闇の魔物相手でも怯まずにいつも岬を庇っていた松橋雪子の存在が、今はこんなにも頼りなく哀れに思えた。
泣いているのは一人の女の子。
姉のようで、母親のようで…、そんな岬の知る幼馴染の彼女ではなく、ただ一人の傷ついた女の子だった。
これと同じことを思ったのは光と言い合う彼女を見たとき。
光に宥められて泣き出した彼女を見たとき。
いつだって光と一緒にいるときの彼女は岬の知らない女の子だった。
それに気付いたら、雪子の今の気持ちが岬の中の速水に伝わり、彼女は岬に、今までと異なる涙を流させた。
一つになりつつある二つの魂の言葉が岬の口から紡がれる。
「…光さんのこと、好きだったんだね……」
「…っ…?」
「好きな人に守られて死なれてしまうなんて…、こんなに自分を憎らしく思うことは他にない…」
五百年前の恋人を思い、光を思う。
確信にも似た岬の思いがけない言葉に、雪子は(違う)と思った。
そう声に出して言おうともした。…けれど、そう言われた途端に涙が溢れ出た。
息が詰まり、否定の言葉の代わりに苦しい嗚咽が漏れてしまう。
「辛かったね…」
「…っ…」
「無力で足手まといにしかならなかった自分が一番許せないんだ…」
「岬ちゃん……」
「こんな残酷なこと他にないよ……っ」
「岬ちゃ……っ」
――もう何も考えたくなかった。
次から次へ、どこからこんなに溢れ出てくるのかと考える暇もないほど瞳から零れ続ける雫が岬の肩を濡らした。
光の腕に抱きとめられて泣いたときに自分の涙が汚してしまったのは彼の胸元だったのにと気付いたら、その違いになおさら切なくなった。
自分を包み込んでくれる温もりも、腕に込められる力も、紡がれる言葉の響きさえも、優しくて安心出来る岬のものに比べて、光には苦しくさせられっぱなしだった。
その一方で元気付けられて、救われて……。
命と引き換えにしてでも守りたいくらい想われて。
そんなにまで大事にしてくれた光に、雪子は何も返せなかった。
返せないまま、もう逢えない。
光のことが好きだったのかなんて、いまさら考えてももう遅い。
彼は、雪子の好きな相手は岬だと思ったまま死んでしまった。
だから今更判りたくもない。
もし答えを手に入れたら今以上に苦しくなりそうで、そんなのは考えたくもなかった。
これ以上悲しい思いをするのは嫌だった。
「…雪子…」
だからそれは岬だけが気付いた変化。
涙と嗚咽に交ざって紡がれるたった一つの言葉。
何度も、何度も。
もはや逢うことの叶わない彼の名を、雪子は何度も呼び続けた。