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闇狩  作者: 月原みなみ
46/64

誓い抱きし者達 三

「影主行ける! まだ不安定だけどこっちで援護するから…っ、オレ信じて深緑のとこ行ってやってくれよ!」

 涙交じりの黒炎に、河夕は返事もせずに繋がれた鏡の道へ飛び込んだ。

 もし一つでも間違えば時代も場所も異なる空間に放り出され、最悪の場合は異空間を繋げたがための圧力によって死ぬことだってありうるのに、河夕は一瞬の躊躇もなく久方ぶりに繋がった地球への道を疾走した。

 おそらく光と雪子に一番近い鏡も爆発してしまったのだろう。何度呪いを施しても道が繋がる気配がなかったため、別の一番近い鏡と接触した。そこから急いで光の気配を追って、いつ彼の姿を確認できるだろう。

 闇に侵され狩人でも人でもなくなってしまった光を思い、河夕は悔しさに歯噛みした。

「光……っ!!」

 失われていく深緑の輝き。

 いま彼は、どこにいる……?



 ◇◆◇



 冷たい北からの風が、今はひどく心地良い。

 体温の感じられる羽毛に寝かされながら、光はゆっくり顔を上げた。

 すぐ側にある、あまりに懐かしすぎる人の顔。

 自分の無力のために“名雪”を死なせてしまって以降、会うことの出来なかった裕幸の、あの頃とまったく変わっていない姿。

 歳を取って見えないのも、彼の持つ力のせいなのだろうか。

「…裕幸、さん……」

 罪悪感と、後悔と、…それ以上の懐かしさから込み上げてくる涙をこらえてその名を呼んだ光に、

「久しぶりだね。すっかり大人になって…」と穏やかに告げ、そっと微笑する裕幸。だがその瞳に宿るのは喜びの色ばかりでは決してなく、どちらかと言えば哀しみの色が濃い。

“名雪”に関わる過去のせいではなく、今現在の光の状態が、裕幸には哀しかった。

「…俺達がもっと早く助けに行ければ、君にこんな真似をさせずに済んだのに…。間に合わなくてごめん…」

 自分以上に泣きそうになっている裕幸に、光は小さく首を振った。

「いえ…充分…間に合いました…雪子さん、が…無事だった…す…から」

「光君…」

「僕は…今度こそ…失わずに済んだんです……」

「…」

 姉を亡くし“名雪”を死なせた。

 そのことを知っている裕幸は、光の今の気持ちを察して何も言えなくなる。

 そのうちどこからともなく『オマエ、白夜びゃくやを泣かせるようなこと言うなって』と呆れたような第三者の声が届き、誰かと疑問に思った光に裕幸は答える。

「今のはこの子だよ」と、自分達が乗っている鳥の背を撫でる。

「…この、子…?」

「君が闇狩に戻ってしばらくしてから一緒に暮らし始めたんだ。名前は雷牙らいが。俺達はライって呼んでるけどね」

「一緒に…この大きなのを?」

「普段は人型だよ。それに大きさは調整できるんだ。今は君を運ぶために大きくなってもらったけど、本来は“鷹”なんだ」

「…なら雪子さん、を…乗せた獅子は…まさか…」

 疑惑の眼差しで問う光に、裕幸は微苦笑を交えて肯く。

「そう。竜騎たつきだよ」

「…」

 雪子を乗せて飛翔していた、手を上に高く伸ばしてやっと背に触れられるほど大きな獅子は、裕幸に呼ばれたと思ったのかこちらを振り返った。

 深い色の瞳は、百獣の王と称される鋭さを持ちながらも光に懐かしい面影を見出させる。

 色は漆黒。

 宿る力は意志の強さ。

 それを、光は確かに知っていた。

「あぁ…本当に……」

 確信と安堵から漏れた声は、ほとんど吐息でしかなかった。

 雪子だけは守らなければならない…その強い思いだけで膝をつかずに済んでいた光は、信頼出来る人が来てくれたことに安堵し、雪子が助かったことを確信した今、気を張っていた体が急激に重たくなるのを実感した。

 そしてそれは裕幸にも伝わり、顔色を変えた彼は早口で雷牙に声を掛ける。

 彼らは是羅と争っていた場所から空を駆けて遠ざかり、裕幸が安全と判断する場所へ移動していた。

 体調が万全で、気分が良ければ、通常では考えられない空の散歩を楽しみ、下方に広がる町の景色を眺めることも出来ただろう。だが、今の光には風景を見るために体を動かす力どころか、五年ぶりに再会出来た大切な人と言葉を交わすことさえ相当の苦痛だった。

 身の内に闇を呼び込んだ狩人の体は、もはや人の体ではなくなった。

 早々に諦めて闇の魔物と同化してしまえば楽だった。

 だが最後まで狩人の誇りを棄てず、闇の力だけを利用して雪子を守ろうとしていた光の体は既に限界。

 あげく「獣と化せ」と命じた闇の王、是羅の言葉をも拒んだ身は魔物でもいられない。

 人でもなく、魔物でもなくなった身体の行く先はただ一つ。

 力を失っていく光の視線の先には、もはやその一点しか見えていなかった。

「ライ、ここに降りよう」

 裕幸の指示に、雷牙が忠実に従って下降を始めると、隣の獅子も追ってくる。

「光君、君にどうしても会わせたい人がいるんだ」

「っ……?」

「だからまだ意識を手放しては駄目だ。まだ…生きていなければ駄目だよ」

「…」

 そっと握られた掌から伝わる温かな力の波動。

 答える力も出せず、視線だけを裕幸に向けた光。

 ゆっくりと地面に着陸し、雷牙の背から裕幸の手を借りて降りると同時に、先に降りた雪子が駆け寄って来た。

「緑君!!」

「…雪子、さん…」

「緑君っ、大丈夫?! 死なないよね?! 死んじゃったりしないよね?!」

 涙目で訴える彼女に、微笑んでやることも難しい。

 現状を正しくは理解していない雪子でも、今の状態を見れば察してしまうだろう。

 是羅の命令を拒み、敵が遠ざかり、そして彼らが助けに来てくれたことによって光の内側の闇が暴発することはなくなった。だがその顔色はひどいものだったし、自分の足で歩くどころか、今の姿を保つことさえ厳しいのだ。

 それは、闇でも闇狩でもない裕幸達にも解っていた。

 心配いらないと返したところで嘘にしかならないと、解ってはいたけれど…。

『平気だって』

 不意に上がったのは雷牙の声。だがそれを知らない雪子はぎょっとして辺りを見渡し、

「?!」

 光と裕幸を下ろした鳥がわずかな煙とともに人型へと変化する光景を目の当たりにして絶句する。

「心配すんな。白夜の治癒能力は宇宙一だぜ。この程度の傷ならすぐだすぐ」

 今の今まで巨大な鳥の姿をしていたのは、雪子と同年代の、学生服を着た少年だった。

 髪の色が茶というよりも金色に近いことを除けば、明朗快活な印象を受ける、どこにでもいる高校生と変わりない。

「ま、ちょっと無茶してヘバってっけど、しばらくすりゃ復活すんじゃねーの? な、白夜」

 明るく、さも簡単そうに言う雷牙に、裕幸は苦笑してから肯いた。

「そうだね…、光君は大丈夫だよ」

 大丈夫、と嘘をつく。

 裕幸に支えられながら、光はその手を震わせた。

「…おまえに怪我はないのか」

「!!」

 再び誰か別の低い声が上がって、雪子は飛び上がりそうな勢いで背後を振り返った。

 いたのは二〇代後半に見える男が一人。

 つい先程までそこにいて、雪子を乗せここまで飛んできた漆黒の獅子の代わりに、男が一人。

「なっ、や、え、ちょ……っ」

 動揺し、うろたえる雪子に、雷牙はケケケと愉快そうに笑い、今まで獅子の姿をしていた時河竜騎は相変わらずの無表情で余計なことは何一つ語らない。

 だがそんな彼が光には懐かしい。

 次第に霞んでいく視界の中、彼らの存在があることが、ただ嬉しかった。

 彼らが自分のために嘘をついてくれるなら、その想いに応えないわけにはいかない。

「…雪子さん…、さっき、話したでしょう…」

「えっ?」

「名雪さんのご主人と…っ、…友人は普通の人間じゃなかった、って……」

「―――」

「こういぅ…、こと、だった…、みたいで…す、ね…」

「こういうって…えぇ?! じゃああの人…っ、さっきまでライオンだったあの人がご主人の大樹さんなの?!」

「違う違う、大樹裕幸はこっち」

 雷牙がさも可笑しそうに雪子の言葉を否定する。

「だって…、え、でも白夜…さん、て…?」

「だからこっちだっての。白夜はあだなみたいなもん。闇狩一族にだって名前二つある奴いるだろ? それと似たようなもんなのさ」

「けど…旦那さんて…えっ…、あの…」

 言いよどむ雪子が何を考えているのか、光も雷牙も竜騎も、そして裕幸本人も察してそれぞれが思い思いの顔をする。唐突に吹き出した雷牙に続いて竜騎が嘆息し、光は苦しい中で自分を支えてくれる裕幸の顔を見上げた。

 複雑な表情で、それでも穏やかな雰囲気が崩れない彼の、栗色の髪に色素の薄い瞳。光と似通ったその色に、本当の兄弟みたいだねと笑った日もあったけれど、彼を兄と表現するのにはどうしても抵抗があった。

 女に見えるというわけじゃない。

 大樹裕幸という人間は存在自体が清浄すぎて、男女の区別をつけるにはあまりに俗世から掛け離れて見えるのだ。

 誰にも汚すことの出来ない聖域を形にしたような人。それが大樹裕幸からまず最初に受ける印象だから、雪子が彼を『男』と認識しなかったのは無理のない話で、それを今までの経験から自覚させられてきた裕幸も今更気分を害したりはしない。

「素直な女の子だね」と苦笑混じりに言って、雪子を見返す。

「で、さっきの竜騎の質問、君に怪我はないのかい?」

「え、あ、はい」

「そう。それはよかった」

 裕幸が静かに笑んで、光も安心したように微笑むから。

 雷牙が陽気に笑いながら軽口を叩くから。

 …だからきっと大丈夫なんだと、雪子は彼らに騙された。

「お、来たか」と最初に呟いたのは明るい雷牙。

「じゃあライ」と、裕幸が彼にうなずいて見せ、雪子を振り返る。

「えっと…雪子さん、でいいのかな? 今こっちに闇狩が近づいて来ているようなんだけど、ライと一緒に迎えに行って、ここまで案内してきてもらえるかな」

「案内?」

「ここ一帯は俺の結界の中だから狩人達には入って来れないんだ。だからライと一緒に行って、光君を迎えに来た狩人を連れてきて欲しい」

「おまえは光の傍にいたいかもしんないけどさ、俺一人じゃ闇狩の顔判ンねーもん」

 正論に聴こえた。

 気配だけで闇狩か否かを判別することが出来るなんて知らない彼女は、自分がここを離れなければならない理由など他には思い当たらなかった。

「迎えに来た人って、もしかして影見君かな」

「影主ではなさそうだね。でもひどく焦ってる。光君を本当に心配している人だよ」

 疑う理由もなかった。

 裕幸に支えられた光の表情から柔らかな笑みが消えないから。

「判りました。じゃあ緑君、行ってくるね」

「よし、さっさと迎えに行ってさっさと戻って来ようぜ。おまえだって光のこと心配だもんな」

「うん!」

 雷牙が雪子の気持ちを汲んでくれるような言葉を選ぶから。

 心配だって、不安を煽るような言葉を避けず率直に口にしていたから、だから隠し事などないのだと。

 だから大丈夫なのだと。

「…雪子さん」

 背を向けた彼女を、光はただ一度呼び止めた。

「…、貴女が無事で本当によかった……」

 振り返った彼女に、光は微笑う。

「本当に…良かった……」

「…っ」

 静かで、真っ直ぐなその瞳。

 真摯な想いを乗せた言葉。

「な、なによ馬鹿!」

 そんな光に見つめられて、顔を火照らせた雪子は思わず声を張り上げていた。

「『良かった』なんて緑君の台詞じゃないでしょ?! 私が怪我ないのは緑君が守ってくれたからじゃないっ、『良かった』は私の台詞…っ、緑君が死なないで『良かった』の!」

「雪子さ…」

「ありがとう守ってくれて!!」

 顔を真っ赤にして叫ぶように言った雪子は、同行者の存在も忘れて一人さっさと早足で遠ざかる。それを吹き出した雷牙が一拍遅れて追いかけ、笑い続けて、雪子を怒らせてしまったようだ。

「…雪子さん…」

 彼女の背中が完全に見えなくなってしまっても、光はしばらく目線を動かすことがなかった。

 ――ありがとうは、それこそ光の台詞。

 彼女と出逢い、惹かれ、失ったものを取り戻せて。

 こうして大事な女を守りぬけたから今がこんなにも尊いのだ。

 もう思い残すことはない。

 彼女は無事に河夕の元に戻れるから。

「…いい子だね」

 ふと裕幸の声が響く。

「だからあの子には見せたくなかったんだね…」

「……っ」

 応える代わりに、光は身を捩った。

「っ…、っっ……」

「光」

 その様子に、今まで一歩離れて見守っていた竜騎が険しい顔つきで近づいてくる。

「光、我慢するな」

「光君、もういいんだよ」

 裕幸の震えた声。

「雪子さんは戻って来ない。ライは解っていて彼女を連れて行ったんだ。だからもう我慢しなくていい」

「ぁ…っ」

「光!」

「あ…ぁあ……っ!」

「光君!」

「この馬鹿が…っ、出せ! そのままじゃ化け物のまま死ぬことになるんだぞ!!」

 いいと言っても必死に耐えようとする光に、竜騎は舌打ちした後で容赦なくその背を平手で殴った。

「――――!!」

 その勢いに押されたのか、光の唇から黒い煙が吐き出される。

 一度出ていく道がつながれば、身の内で膨張するだけして行き場のなかった力はそこに集中して外を目指す。

「出しなさい光君! 君は狩人だった、最期まで狩人でいるんだ!!」

「光!!」

「ぁ―――っ、あ…ああああっ!!」

 裕幸と竜騎に支えられて、光は叫んだ。

 身の内に呼び込んだ闇の力、そこから傷を癒し雪子を奪い返すだけの力を利用した彼の体の中は、その時から闇と闇狩の力が反発し合う戦場と化していた。

 顔を見ないで欲しいと頼んだのはそのためだ。

 狩人の力が圧している間は光のままでいられても、一度闇の力が上回れば目は赤く変色し、顔つきは変わり、自我は押し潰されて理性を持たない魔物と化す。そうなれば彼自身が雪子を窮地に追いやっただろう。

 だがそれを認めず、狩人であり続けた光。

 目覚めよと闇の王の声を聞いて暴発を始めた力さえ抑え、拒絶した光。

 とっくに死んでいてもおかしくない、彼の体は既に人としての機能を果たしていない。

 ――彼の体内には、人を化け物に変化させるほど巨大化した闇が出口を塞がれて膨張し続けていたのだから。

「光君…!」

 口から最後の一欠片を吐き出した光の全身を薄い霧のようなものが被っていく。

 禍々しく昏い色をしたそれは次第に濃くなり被う面積を広げ、竜騎の腕に、裕幸の足にまで忍び寄る。

「あ…っ、はぁ…っ、あああ…っっ!!」

「竜騎…っ」

「まだだ」

 光の肌が裂け、血が吹く。

 肥大化する手足に裕幸が顔色を変えて口を開くも、竜騎は冷静に首を振る。

 光を被い尽くそうとしていた霧状の黒い物体が次第に形を取り始め、光とは別の体を表に出す。

 重なる二つの影。

 大気が、震えた。

「竜騎!」

「手こずらせやがって…っ」

 気体から固体へと変化したそれを片手で鷲掴み、グイッと力任せに光から引き離す。

 その勢いに今一度光の悲痛な叫びが上がり、魔物が吼えた。

 竜騎の手から放られ、単身立ち上がったそれは、人の背丈をはるかに越える――竜騎が獅子に変化した時よりもまだ大きい黒く巨大な化け物だった。

 是羅に命じられ、光に拒まれて完全な覚醒が叶わなかった魔物は死体が腐ったような酷い臭いを振りまき、動くたびに手足の肉が泥のように落ちていった。

 片目は不気味に輝き、片目は周囲の肉が溶けてほとんど眼球のまま放置され、歯茎が剥き出しの牙と鋭利な爪は血に飢えながら竜騎に向けられた。


 ――ナゼ…ナゼ引キ離シタ…アレハ俺ノ体…

 ――ナゼ引キ離セタ…俺ト俺ノ体…ドウヤッテ…

 ――狩人ニハ無理……狩人ジャナイ…

 ――…オマエ…俺ノ仲間……?


「!」

 陽炎のように魔物の気配が揺らいだ。

 竜騎を、自分の邪魔をした敵としか認識していなかった化け物が、彼から自分と同じものを嗅ぎ取って敵意を薄れさせた。


 ――…異形ノ臭イ…俺ト同ジ…血ノ臭イ……


「――っ、竜騎をおまえ達と一緒にするな!!」

 怒鳴ったのは裕幸。今までの落ち着きも柔らかな物腰もなく、激情に突き動かされるまま声を張り上げた。

「光君だけじゃなく竜騎まで愚弄するつもりか!!」

 魔物の目が彼を向く。

 敵意から疑惑に転じた魔物の気配は、今度は裕幸に対しての憎悪に変わる。


 ――狩人…違ウ…影主…違ウ…モット強イ神気…モット…里界ノ……!!


「黙れ」

 低く短く放たれた竜騎の一言。

 同時にその拳が魔物の胴体を突き破る。

 不気味に響く呻き声。増す死臭。ぼとぼとと落ちていく肉は墨のような液体となり、蒸発して消えていく。


 ――ナゼ…オマエハ俺ノ仲間…同ジ血ノ臭イ…里界ハ敵ダ……!


「…血の匂いはするだろう。だが俺は貴様らの同類じゃない」

 胴体の中央をぶち抜いた拳は、その腕を刃に変えて魔物を両断した。

 飛び散る肉片。

 上と下を繋ぐものが半分しかなくなった体は支え切れずに豪快な音を立てて前のめりに倒れた。足だけが地に立ち、上半身は地面に転がる。そんな姿になっても魔物はまだ生きていた。


 ――オマエ…妖カ…?

 ――オマエハ妖魔…俺達ノ同胞…ッ、里界ハ敵……ッ、妖ハ是羅様ノモノ……!!


「俺は裕幸あいつのものだ」

 低く言い放ち、竜騎は地に転がる魔物の上半身を蹴り上げる。

「失せろ!」


 ――ギャアアアアアアアアアァァ……!!


 宙に蹴り飛ばされた魔物の上半身は「失せろ」の言葉に込められた呪力に縛られ粉砕した。

 上をなくし、その場に硬直していた下半身はゆっくりと金粉に姿を変えていく。

 先に光によって狩られた十君・紫紺の成れの果てがそうであったように、闇の魔物は里界の力によって滅ぼされ時のみ解放へと導かれる。浄化された金粉となって風に舞い、土に、水に、自然界に還るのだ。

「…里界…」

 虚ろな眼差しで、自分から出た魔物と竜騎の姿を見ていた光は無意識の中で呟いた。

 闇狩一族の始祖里界神りかいしんが住まう郷。

 深海・紅蓮・蒼空・永緑、四匹の竜を従えた神々の聖なる星、里界。

「…は…はは…」

 思わず笑ってしまって…、自分でもおかしくなるくらい力ない声に、またおかしくなって。

「光君?」

 ずっと彼を支えていた裕幸が、不安そうな目で見つめてくる。

 いつでも優しかった裕幸。

“彼女”を死なせてしまった時でさえ光の存在を拒まず、あるがままを受け入れて叱咤してくれ、五年も会わずにいたというのに、こうして傍にいてくれる。

 光のために雪子を遠ざけ、人から闇を分離させるなんて神業を成し遂げて、光に狩人のまま死ねる場所を作ってくれた。

 …どうして今日に限って、名雪の墓前に花を置いてきたのだろう。

 裕幸と竜騎がどう思うかが怖くて、墓参りには行っても、来たという足跡は残さずに帰っていたのに、どうして今日に限って自分の存在を残してきたのか。

 雪子という、守りたい存在を手にしたことで気持ちに変化があったから、というのも一つの理由だ。

 河夕が今後どんな手段でもって是羅を倒すか、それを知ってしまった後で深く考えることをしていなかったからかもしれない。

 ――だが本当は甘えていた。

 助けて欲しかったのだ。

 五年前に自分を救った、影主の輝きに似た彼らの力に。

「僕は…いつだって気付くのが遅いんですね……」

 視界が定まらず、自分がどこを見ているのかも、もう判らない。

 ただ竜騎が傍に戻ってきたのを気配で感じながら、…光は笑んだつもりだった。

「姉が苦しんでいるのに気付かず…、この手で、殺めて…、自分が狙われていることにも気付かずに名雪さんを死なせてしまって…、本当なら裕幸さんと竜騎さんにもう一度会うなんて…、決して許されるはずがなかったのに……」

「光君…」

「…ぇれど…けれど、これだけは…まだ間に合うのなら……」

 ふと頬に温かな雫が落ちてきて、光は手を持ち上げた。

 目的もないまま宙を彷徨っている手を、裕幸が強く握り締める。

「お二人に…、ここで、祈れば……、願いは里界神に届きますか……?」

 闇と戦い、是羅を滅すために闇狩一族を興した始祖にこの願いは届くだろうか。

 そう問う光に、裕幸は小さく、けれどはっきりと頷いた。

「…言ってごらん」

 時を追うごとに冷たくなっていく体で、か細く、今にも消えてしまいそうな声で必死に紡がれる言葉を、裕幸は受け入れたいと思った。

 裕幸も、竜騎も。

 ほんの一時とはいえ弟のように愛した少年の願いを無視することなど出来ない。

 認められて、促されて、…そうして今度こそ光は笑んで見せた。

 これが最期。

 この世に残す最後の願い。

「…どうか…どうか河夕さんを救ってください……」

 閉じた瞼に映る王の姿。

 漆黒の髪に黒曜石の瞳。是羅を倒すために自らの死を選ぼうとしているたった一人の自分の主。

「あの人を…河夕さんを、一族から奪わないでください…、もう…もう誰も泣かせたくはないんです…っ」

 彼の弟妹を。

 一族の同志を。

 岬と、雪子を。

「勝手な…自分勝手な願いです…僕は貴方から名雪さんを奪ったのに…名雪さんと、生まれてくる子供を奪ったのに…、こんな、勝手な……けれど…お願いです…河夕さんを…」

「光君…」

「河夕さんを死なせないで下さい……っ…」

 魔物に侵され、人としての機能を果たさなくなった体には、もはや涙さえ存在しない。

 けれど必死な想いは、その言葉だけで充分だった。

「…光君…、…光君、判るかい?」

 裕幸は静かに問いかけ、光の目線の高さを少しだけ下げてやる。

 そうして数秒、裕幸に握られていた手に、小さくて暖かい何かが触れた。――子供の手が重なった。

「……?」

「見えるかな…、名雪の娘だよ」

「……っ?!」

「名雪の子供だよ。今日で五歳になった」

「…今日…?」

 彼女の命日、この日が彼女の娘の誕生日。

 光は信じ難い言葉に自分の耳を疑い、力を振り絞って開けた視界に映った小さな少女に目を見開く。

 有葉よりも幼く、小さな小さな手で光の手を包み込む女の子に、あの日の名雪の面影を確かに見出して、震えた。

 人懐っこい仔犬のように愛らしい大きな目。

「おにいちゃんが、ひかるくん?」

 そう呼びかける彼女の声。

「そんな…っ」

「名前は瑞乃。…本当はあの時に教えてあげられればよかったんだけど、名雪が死んだ後に生まれて、ずっと集中治療室に入ったままだったんだ。母体が酷い状態だったからこの子も助からないと思った方がいいと言われていた…、けれど助かった。名雪は君だけじゃなく自分の娘も守ったんだ。彼女は俺に、何より大事な子供を遺してくれたんだよ」

「っ……」

「…光君が闇に憑かれたのは気配で察していたから、結界で隠していたんだ。瑞乃は普通の人間、このくらいの子供は闇に狙われやすいし、ああいう化け物を見せたくはなかったからね」

 闇の魔物が何より好むのは無垢な子供の血肉。今まで光がその身を晒してきたような場所に、こんな幼い子供が無防備な状態でいれば、一瞬後には髪の毛一本さえ残さずに消えてしまうだろう。

 それほど危険だと解っていて、それでも光と会わせるために連れてきてくれた。

 そんな彼らの気持ちが嬉しくて、もったいなくて。

「君は五年前のことを後悔して今まで苦しんできた。それでも守りたい人を見つけて一人前の狩人になって、名雪が君を庇った現実を無意味なものにせず生きてきた。そんな君を俺達は誇りに思う」

「…僕は…僕は名雪さんに償えましたか…? 貴方に…償えたんですか…っ?」

「償いなんて考えなくてよかったんだよ」

 言って、裕幸は微笑んだ。

「俺にはこの子がいた。竜騎が傍にいてくれた。だから彼女の死は悲しかったけれど、独りじゃなかったから自分らしく生きてこられた。君も、ずっと傍にいてくれた人がいるなら判るはずだよ」

 言われて思い出すのは影見の三兄妹や一族の仲間達。

 そして失ったものを取り戻させてくれた雪子の、照れ隠しに怒る、あの愛らしい表情。

 独りではなかったから。

 彼らが傍にいてくれたから、今の自分でいられた。

「……っ…」

「君は償うことを考えるより俺達に会いに来てくれればよかったんだ。元気にしている姿を見せてくれれば、もっと早く瑞乃のことを伝えられた。もっと早く君を過去から解放できたんだから」

「っ…」

「この五年間、君のことだけが心配だったけれど…、君にも大事な人がいたんだとわかって嬉しかったよ」

「…裕幸…さ、ん…」

「君の祈りは必ず里界神に届く。約束しよう」

「…ぁ……あぁ…っ」

 最期の最後に、こんなに満たされていいのかと思う。

 闇の力を自ら呼び込んで、雪子さえ守れればいいと考えていたのに、守られたのは…、救われたのは、自分自身だ。





「! っ…」

「? どうしたの、雷牙君」

「…いや、是羅のアホの残留思念っつーかこぉ…嫌な感じのがさ」

「それは相当嫌な感じなんでしょうね」

 憎々しげに言う雪子に雷牙は苦笑し、チラと背後を振り返った。

 そして終わったな、と悟った。

 魔物が引き離された光は、人として死んでいける。

 彼が彼として死ねる形を整えることが、裕幸と竜騎に実現できる唯一可能な奇跡だった。

 自分達が駆け付けた時には、もう手遅れだったのだ。裕幸と、自分と、里界の力でなんとか命を繋ぎとめていたけれど、…雪子の前でだけは死なせちゃいけないと必死になっていたけれど、あの体はとうに死んでいたのだから。

 闇狩が自分から闇を呼び込むなんて馬鹿だと思った。

 いくら好いた女を守るためといったって、それで自分が死んだらただの馬鹿だ。守られた女にだって負担にしかならない。いいことなんか一つもない。

 なのに…、そう思っていたのに、あの体で雪子に微笑って見せた光を見たとき、スゲェなと思った。

 純粋に感動した。

 そんなに好きだったのかなと思ったら、光がカッコよく見えて、雪子が可哀想だなと、泣きたくなった。

「…」

 雷牙は案内人だ。

 雪子を、光を迎えに来た狩人と引き合わせて、帰すだけ。

 雷牙の役目はそれだけだ。

(泣いたり喚いたり…同情したり。それは俺の仕事じゃねーよ)

 戻ったら、きっと裕幸は泣いている。

 竜騎も不機嫌になっているだろう。

 そんな時に雷牙まで取り乱していたら、誰が瑞乃の夕飯を作るんだ?

「俺はただの案内人だ…」

「え?」

 ぽつりとこぼした独り言に雪子が再び振り返った、そのとき。

「きゃあっ!」

「雪子様?!」

 いきなりの突風と切羽詰った男の声。

「っ、何者だ!」と、雪子を背後に引き隠して、すかさず雷牙に対し戦闘体勢を取ったのは大柄で取っ付きにくそうな印象を受ける男。

 闇狩十君の蒼月は警戒心露に雷牙を見据えたが、闇狩の力の波動を感じさせるこの男が光と雪子を迎えに来た狩人だろうと判る雷牙は平然と構えていた。

 そのうち、背後に庇われた雪子が蒼月の背を叩く。

「ち、違うの蒼月さん、その人は敵じゃないの! 私達を助けてくれたのよ」

「…助けた?」

「おぅ。敵対するつもりはこれっぽっちもないぜ」

 胸を張って、今までと変わりない口調のまま。

「おたくら闇狩一族だって、是羅の他に敵作るつもりなんかないだろ? 大体ここに来たのは光を迎えに来たんだろうし」

「っ、緑は無事なのか?!」

「…、さぁ?」

 ふと声の調子が変わった。

 奇妙な間が蒼月の、そして雪子の脳裏に嫌な予感を沸き起こさせる。

「ねぇ…、私、蒼月さんを緑君のところに案内するために来たんでしょ?」

「ああ」

「緑君は大丈夫って言ったでしょ?!」

「言ったな。だってそうでも言わなきゃおまえがあいつから離れなかったろ」

「――!!」

 一気に全身から血の気が引いたような気がした。

 体が急速に冷えていく。

 手足が、震えている。

「そんな…っ」

 雪子が蒼月の背後から抜け出し、来た道を駆け戻ろうとするのを、雷牙は腕一本で阻んだ。

「何なの嘘つき! 緑君…っ、行かせたくないなら緑君どうなったのか教えなさいよ!!」

「雪子様から手を放せ」

 叫ぶ雪子と、雷牙に向けて狩人の刃を構える蒼月。

 真剣な顔で、真っ青になって光の身を案じる二人に、雷牙は深く嘆息した。

「ったく…、まぁ待てって。もう一人来るから」

「もう一人…?」

 聞き返す間に、大きな力が周囲を吹き抜けた。

「松橋!」

 光の気配がまったく感じられず、雪子の気配を頼りにここまで辿り着いた河夕は、蒼月が刃を向け、雪子を束縛する少年を一瞬で敵とみなした。

「貴様…っ」

「ちょ…冗談だろ?!」

 これにはさすがの雷牙も顔色を変え、雪子を放して背後に飛ぶ。

「蒼月、松橋を頼むぞ!」

「ちょっと待てって! 俺は戦うつもりなんかこれっぽちも……!」

「松橋を攫っておいて言い訳か!!」

 焦りより怒り、理性よりも本能で敵に向かう河夕の力は通常の比ではなかった。

 本気で相手を倒そうとしていて、雪子の「待って」の声も聞こえない。

「だあっ!」

 必死に河夕の攻撃をかわしていた雷牙はたまらず叫ぶ。

「だから違うっつってんだろ?! なんでこぉ闇狩の連中は血気盛んなんだよ! あんな馬鹿やらかした光がおとなしく見えるじゃねーか!!」

「なに?!」

「光に会いたいならその刀しまえよ刀ぁ!!」

 光の名前を出されて手を止めた河夕、その手が持つ刀の刃先間近に、ゼーゼーいいながらかろうじて逃げ切った雷牙の顔がある。

「ったく…、マジで死ぬかと思ったじゃねーか!」

「…おまえ、誰だ」

「っ、最初に聞けそういうことは! このウスラトンチキがっ!!」

「影見君!」

 ほんの数秒とはいえ、本気で相手を倒そうとしていた河夕と、少なからず距離が出来てしまった雪子は、ようやく静まった河夕に慌てて駆け寄ってくる。

「影見君っ、待ってって…、なんで聞いてくれないの?」

 走ったせいで息を切らしながらも、雪子は早口に続ける。

「その人は私達を助けてくれたのっ、敵じゃないのよ、一応は!」

「一応ってなんだよ」

「だって嘘ついたじゃない!」

 口を挟んだ雷牙に、雪子は容赦なく言い放つ。

「緑君は大丈夫って言ったじゃない! 心配だから早く蒼月さん迎えに行って帰ってこようって、そう言ってくれたじゃない! なのになんであんな言い方するの?!」

「光はどこだ?!」

「だから少し落ち着けってんだ! 闇狩ってのは皆そうなのか?!」

「私は闇狩じゃないわよ!」

「判った、そこまでにしよう」

 手を叩き、言い合う二人の間に入ったのは蒼月。

「河夕様も雪子様も、彼の言うとおり少し落ち着かれた方がいい。それに彼が居場所を教えなくても、雪子様も知っているんだろう?」

「あ、そっか。私が二人を連れて行けばいいんだ!」

「無理だね」

 ようやく冷静に考えてみて、雪子も光の居場所を知っていることに気づいた彼らだったが、それを雷牙が一蹴する。

「光は白夜の結界の中だ。どこにいるかは判っても、そこから中には入れない。俺が連れて行かなきゃあんたらは光に会えないぜ」

「だったらさっさと連れて行きなさいよ!」

「嫌だね」

「おまえ…っ」

 雷牙の返答が再び河夕の額に青筋を浮かべさせるが、今回は雷牙の方が怯まなかった。

「あんた、一族の影主だろ。そっちの蒼月だっけ? あんたも闇狩の十君名乗るんだったら、自分から闇を呼び込んだあいつがどんな姿で死んでいくか想像つくよな」

「死ぬなんて言わないで!」

「いいや、あいつは死ぬぜ」

「雷牙君!」

「嘘つかれたくないんだろうが」

 冷ややかに返し、河夕に向き直る雷牙。

「解ってンだろ、光がどうなったか」

「…っ」

「あいつがどんな姿になって死んでいくか…、それをあいつ自身が覚悟してて、そこの女にそーゆー姿を見せたいと思うかよ。白夜はそれが解ってたから俺に雪子を外へ連れ出せって言ったんだ。これでもまだ文句あるか?」

「っ…」

 言い返そうにも言葉が出てこなかった。

 光の気持ちが解る以上、雷牙の言葉を否定出来るはずがない。

「あいつは白夜と黒天獅が弔う。二人とも光のことホント大事にしてるから悪いようにはしない。本人が見られたくないと思ってるもンを見ようとするな」

 雷牙の台詞に、顔を見ないで欲しいと告げた光の声が重なって、雪子は口元を手で覆った。

「光は死んだ。あんた達が知るのはそれで充分だろ」

 短くも、間違いのないたった一つの真実。

 これ以上言えることも、聞くこともなかった。

 光が死ぬのは、彼と闇の力が合わさった時から一族の者達には見えていた結末だ。

 いまさら驚くこともない。

 彼が自ら闇を呼び込んだのなら、これは光自身が望んだ結果ということになる。

「…あいつは…光は、死んだんだな……」

「ああ」

 雷牙の躊躇いのない返答に、河夕も、蒼月も、…そして雪子も言葉がなかった。



 少し離れた先で一つの結界が解かれた時。

 浄化されて金粉となった魔物の成れの果てが世界に散っていくのを感じた。

 人の気配が三つ在った。

 だがそこに狩人のものは、なかった。



 ――おまえは松橋を守ると誓った、俺はそれを信じた、だから話した……



 光は河夕の気持ちを理解した。

 先代の想いも、五百年前の王の想いも、その胸に刻まれた。



 ――死んじゃイヤ…死なないで……っ!



 叫ぶように訴えた彼女の涙の温もりが、しがみつかれた腕に今も残る。

 それがどんな意味であれ、彼女に必要とされたあの一瞬がひどく嬉しかった。

 彼女を守れて満足だった。

 裕幸と竜騎と、そして二度と会えるはずのない“彼女”の忘れ形見に見守られて死ねる自分は、なんて幸福だっただろう。



「…お兄ちゃん、ねむっちゃったの?」

 静かで穏やかな少女の声。

 心音が最後の一つを跳ねたとき、光は静かに微笑っていた―――。





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