誓い抱きし者達 二
「!」
「あっ…」
日本刀を模った狩人の力をぶつけ合いながら、光と紫紺はほぼ同時にその凄まじい気の復活を知って対照的な表情を浮かべた。
「チッ…生きていたか」
「河夕さん…」
今まで完全に絶たれていた王の力の波動が戻り、光の口元には笑みが上る。
死んでいなかった、やはり彼は生きていた。
その確信が、光に更なる力を与えてくれる。
「だから言ったでしょう、河夕さんは生きていると」
「フン。ここに来れねば無駄なこと…あのガキが無事であっても黒炎が死んでいれば何ら変わらない」
「いい加減…、その減らず口をどうにかしていただけませんか!」
「っ」
声量を上げ気合を入れると同時に光の力が増し、交えていた刃を押し返す。
同時に光の左手から放たれた気合砲が紫紺の腹部に直撃し、男をアスファルトに叩き付けた。
続けざまの第二撃、それを間一髪で避け後方に飛んだ紫紺。
だがそれを上回る速度で光の刃が男を狙う。
「――っ!」
咄嗟に突き出した紫紺の刃が光のそれと衝突し、耳鳴りのように甲高い音が響いた。
「ぐっ……」
光の、固く結ばれた口元に浮かぶ決意の色。
彼の瞳に、紫紺を斬ることへの迷いは欠片も見られない。
「クソッ…!」
――情を重んじ、狩人たる定めに背いて生きる連中にこんな瞳が出来るとは、紫紺は予想もしていなかった。
憑かれた人間を殺さず、闇だけを滅ぼす方法を探すんだ…そんなことを真面目な顔をして言う連中に何ができる、紫紺はそんな言葉で彼らを軽侮してきたから。
影主の座には相応しくない影見河夕を慕う雑魚どもなど、影主になるべきだった自分には敵の数にも入らない、紫紺はそう信じて疑っていなかったから、力の差を見せつけられた驚愕と、負けるかもしれない、死ぬかもしれないという恐怖を募らせつつある今、男の実力など通常の半分も出し切れてはいなかった。
そうなれば憎悪から膨らむ殺意もまた同様に薄れ、彼に憑いた、負の感情を吸収して力を増す魔物の力も弱まってしまう。
光との力の差は広がる一方だった。
「なぜおまえになど…」
相手を侮蔑する口調にもいつもの余裕は見られない。むしろ震える語尾に、光は同情を禁じえない。
「なぜこの俺がおまえのような雑魚に負けるんだ……っ」
負けを、口にして。
勝つことをあきらめている男の姿は、哀れを通り越し、もはや滑稽にもなり得ない。
「…本当に愚かな人ですね」
相手を押さえ込む力を緩めないまま、光は静かに言い放つ。
「僕を本気で怒らせて、無事に済むと思っていたんですか?」
ぐっと掛かる圧力が増し、その分、鋭い刃の切っ先と紫紺の距離が縮まる。
「貴方は、河夕さんだけでなく有葉様や生真様にまで害をなし、…あげく雪子さんにまで手を出した」
「っ……」
「狩人の僕が、闇に憑かれたとはいえそんな真似をした紫紺殿をただ狩って差し上げるなんて優しすぎると思いませんか?」
「貴様……っはぁ……っ?!」
「かと言って雪子さんが見ている前ですから、惨たらしいのと見苦しいのは勘弁してあげますよ。貴方のせいで彼女に人間性を疑われて嫌われたんじゃ割に合いませんからね」
「ふざけるな…っ」
「いやだなぁ紫紺殿。僕はいつだって真剣じゃありませんか」
それを極上の笑みでさらりと言って。
貴公子の仮面の下には底知れぬ怒りを漲らせ。
狩人の力を湛えた腕は敵を討たんがために頭上高く伸び上がった。
その一部始終を光の結界の中で見ていた松橋雪子は、闇に憑かれた者を開放する手段はそれしかないのだと教えられて、理解もしていて、それでも光の握る刀が紫紺の心の臓に突き立てられるのは直視出来ずに顔を背けた。
――狩人が闇に憑かれた人間を救うには、殺してやるしかないんだ……
いつだったかの影見河夕の言葉が脳裏を過ぎった。
…解っている。
特に今は、光は自分を守るために、その力を奮っていた。
たとえ結果的に紫紺が狩られて死んだとしても、それで光を責めるつもりなど毛頭ない。
それでも実際にその手にかける瞬間を見ていたくはなかった。
光の手が誰かの命を奪う瞬間を、知りたくはなかった。
(緑君…!)
雪子に背を向け、紫紺と対峙していた光。
その表情も、話の内容も彼女は一切知ることがなかったけれど、紫紺の言葉に光がどれほどの怒りを募らせたかは想像に難くない。
だから。
だから彼のことが心配で。
「え…?」
不意に視界を横切った異質な物体。
「!」
ハッとして四方に目を配らせ、雪子は目を見開く。
見渡す限りが黒かった。
――女ノ匂イ……
――極上ノ女ノ匂イ……
――是羅様ヘノ供物……
その不気味さに手足が急速に冷え、戦慄が走る。
闇の卵が雪子を囲う結界の壁に張り付き、鬩ぎ合い、力の押し合いが壁に皹を入れようとしていた。
そしてその禍々しい闇の最中から伸びてくる人の腕。
「ひっ…!!」
呪われた赤い瞳――かつて岬や雪子と同じ校舎で過ごしていた少年の姿を、完全に我が物とした是羅が、とうとうその魔手を雪子に届かせようとしていた。
「ぁ…やっ…いやあああああっ!」
雪子の叫びに、光が振り返った。
――…殺セ……邪魔スル者ハ容赦ナク斬リ捨テヨ……!
是羅の呪いに紫紺の身が大きく跳ねた。
「っ、あ、がっ…はあっ……!!」
雪子を囲む闇の一部が紫紺を目指す。
「雪子さん?!」
捕らわれ、姿の見えなくなった彼女に、顔色を失った光が紫紺を放って駆け戻ろうとした、その一瞬。
――殺セ…オマエノ敵ハオマエガ殺セ……!!
「ああああああああああ……っ!!!!」
「っ?!」
身の内に宿った魔物が暴走した。
闇の王たる是羅の言葉に呼応し、敵を殺せと、その命令を遂行すべく。
「殺す! 殺す! 殺す!!」
「紫紺殿!!」
唐突な紫紺の力の復活に態勢を整え遅れた光は、背後を取られて吹き飛ばされた。
「殺す! 邪魔な奴は殺す…――殺シテヤル!!」
…もはやそこに、光が知る男はいなかった。
獣のごとく巨大化した体躯。ひび割れた背中からは角のような物体が幾つも生え、剥き出しになった歯茎から伸びる岩のような牙、鉄を切り裂くことも可能にしてしまいそうな鋭い爪、全体はどす黒く、硬い毛が鎧のように四肢を覆う。
「紫紺殿…」
吹き飛ばされ、土に塗れた体を起こし、顔を上げた光は、同時に目に映った獣人の姿にただ茫然とするしかない。
だがそれに気を取られている余裕などあるはずがない。雪子の身の安全を確保することが何より優先されるべきこと。光は気を奮い立たせて闇の卵がたむろうそこを狙って術を放つ。
一度、二度。
「やだ! こないで! 触らないで!!」
まったく聴こえなくなっていた雪子の声が届き、それに少なからず安堵して闇の最中に飛び込んだ。
光を邪魔者だと、敵だと判断して襲い掛かってくる形を持たない魔物を切り伏せ、必死に抗う少女の腕を強引に引き寄せる。
「嫌っ!」
「雪子さん!」
「っ、え…緑君?!」
ぐいっと近づき、真正面から目を合わせれば、雪子もそれが光だと確信して自ら彼の胸に飛び込んだ。
「緑君、是羅が…岡山一太が……!」
「そのようですね…」
答える光は忌々しげに雪子の指差す方を見た。
彼らを取り囲む黒い靄状の闇に前後左右を守らせて、かつて一度だけ顔を合せた事のある少年の姿がそこにあった。言葉を発することもなく、ただ憎らしげな笑みを浮かべ、冷めた視線を光に投げかけるその姿。
だがあの時との決定的な違いは、岡山一太の意識がその体の内側に有るか無いか。
今の彼は、既に是羅のものになってしまっている。
「…雪子さん、下がっていてください」
彼女を背後に庇い、刀を構える。
是羅に勝てるとは思えない。だが雪子だけは無事に本部に連れて帰るためにも、負けるわけにはいかない。
雪子だけは、絶対に…。
「――?」
ふと、黒い靄状の闇の奥、是羅の腕に囚われた人影に気付く。
「!」
まさかと、背後の雪子を振り返って、そこに見たものは。
「―――……ぁ…っ!!」
「緑君!!」
叫んだのは、是羅に囚われ、泣き出しそうな顔をした雪子。
「緑君…」
静かに呼ぶのは、光が背後に庇った、それ。
「緑君、そんなに私、雪子に似ていた?」
光の血に濡れた手を舌先で弄びながら、彼女の姿を模った魔物は艶やかに笑う。
「っ……」
胸をその手に貫かれた光は、傷口から止めどなく溢れる血液に衣服を濡らし、言葉もなく膝から大地に崩れ落ちた。
血と一緒に力までが失われていく感覚。
雪子の声が、ひどく遠い。
「緑君!! 緑君!!」
「ックックックッ…ハッ、アッハハハハハ!!」
悲痛な雪子の叫びに重ねて是羅の嘲笑が響き渡る。
「ハッ、まったく脆いな、人間の体というものは! 偉そうなことを言っておいて、おまえもこれで終いか、闇狩十君の狩人よ!!」
「っ…」
「しょせんはその程度か? フン、それも仕方あるまいな。己の家族さえ守れなかったおまえが私に勝てようはずがないのだから!!」
ズンッ…ズンッ…、絶望的な足音と共に是羅の背後に現れた、かつては仲間であったはずの紫紺の成れの果て。
光の胸部を素手で刺し貫いた魔物は、早々に霧散し、元の靄状に戻っていたが、敵の数が減ったわけでは決してない。
「クククッ…、女、しっかりと見ておけ。おまえを守ろうとした狩人が食い殺される瞬間をな。そうして存分に絶望するがいい。我を憎み、その身に闇を受け入れろ、さすればおまえは唯一無二の我の楯となれるのだ!」
「……っ」
同じ学舎で顔を合わせていた少年の顔から放たれる悪しき言葉。
獣人と成り果てた紫紺が、大地に伏した光へと近づいていく。
「っ、緑君! 立って緑君! 死んじゃ嫌ぁっ!!」
雪子の、痛々しい叫び。
意識の遠いところでそれを聞いて、光は必死に起き上がろうと力を入れる。
だが彼の身体は、もはや言うことを聞かなかった。
溢れ出る血と一緒に感覚すら奪われていくのだ。
(雪子さん…!)
そんなふうに泣かせたくなどなかった。
幸せでいてほしくて、笑っていてほしくて。
誰の隣に立っていても構わないから、平穏な日々の中で元気に生きていてくれるなら、それ以上望むことなどなかった。
「緑君、立ってよ! お願いだから…っ、お願いだから逃げてぇ……っ!!」
「…っ…」
雪子の声なのに“彼女”のかつての声が重なって響く。
―――逃げ…なさ…光君……
もうすぐ母親になるはずだったその人は、体に穴を空けられても必死で言葉を紡いだ。
逃げなさいと、彼女の血に濡れて立ち尽くす光に言い聞かせた。
そんなこと、出来るはずがないのに。
ここで自分だけが逃げるなんて、そんなことをするくらいなら、自分も彼女と同じ魔物の手で殺されてしまいたかったのに。
――情けないことを言うんじゃない! 名雪はそんな君を庇って死んだのか?!
――悪いと思うなら…っ、君が自分のせいだと思うなら、彼女が死んで君が生き残った現実を無意味なものにしないでくれ!!
――彼女が庇って良かったと思うような…そんな狩人になるんだ……っ!!
(裕幸さん……)
栗色の髪に色素の薄い眼。自分と似通ったその色で、深い慈しみに満ちた笑みをくれた無性的な美貌の人。
光を責める言葉は何一つ口にせず、ちゃんと生きろと。
立って歩き出せと、叱咤してくれた彼の姿が脳裏に浮かぶ。
――おまえは松橋を守ると誓った、俺はそれを信じた、だから話した……
(河夕、さん…)
―――松橋を守るんだろ?
黒曜石の眼が静かに微笑っていた。
自分にそんな顔を見せてくれたのは、一体いつ以来だっただろう。
彼は光を信じた、信じたから雪子を任せた、その信頼を、裏切るわけにはいかない。
(いま雪子さんを守れるのは…僕しかいない……)
是羅になど奪われてなるものか。
雪子を守り、河夕の傍に連れて戻る。
それが今の光の『使命』。
たとえ明日は彼女の傍にいられなくても、…守ることが出来なくなっても、河夕の信頼を裏切らず、大事な女を取り戻せるなら悔いはない。
(力なら…あるのだから…)
こんな体になっても戦える力なら、すぐ目の前に。
手の届く位置に散らばる闇の卵達。
常に狩人の器を求め、紫紺を変貌させた負の力。
この体が魔物の器になれば、闇の力が傷を癒すだろう。たとえ精神を乗っ取られ狩人としての自我を失うことになっても、河夕との信頼、雪子との誓い、それらを思い出せる間は自分でいられる。
それくらいの“強さ”はある。
(…河夕さんが来てくれる…河夕さんなら、必ず…)
鏡の道がつながり、河夕が雪子を迎えに来るまで。
それまでのわずかな時間だけでいい。
乗り切れば…、その間だけでも逃げ切れば雪子を守れる。
だから、そのためなら迷う時間さえ惜しかった。
「…来い…」
「?」
地に伏した光の低い呟きに、紫紺が足を止め、是羅が眉を寄せた。
「っ…緑、君…?」
涙で潤んだ目をめいっぱい見開いて、雪子はその光景を凝視していた。
立ち上がる光。
胸元を自身の血で真っ赤に染めながら、刀を杖代わりに立ち上がった狩人。
「来い…、この体をくれてやる…」
幸いにも光の内側には紫紺と是羅に対しての憎悪が渦を巻いていた。
それを餌にして闇を呼び込むのに難しいことはない。
自ら心にしていた蓋を取り、無防備な状態で狩人の身を晒す。
この身を食らえと魔物を誘う。
「貴様……っ」
「緑君!!」
闇が集う。
狩人の血を、肉を求めて魔物がたかる。
より強い力を、紫紺を斬れる力を、是羅から彼女を取り戻せる力を―――!
「っ……あ…あぁ…っ!!」
欲望という名の願いを闇の魔物が聞き入れる。
「う…うぁ…」
獣人と化した紫紺が、光の高まる戦闘能力に後退り低く唸った。
血が止まり、力が戻り―――身の内に魔が宿り、負の力が狩人を侵食する。
…戦える……
そうして一瞬の静寂。
「―――――――-!!」
獣の脇から腰にかけて引かれた一本の閃光は、容赦なく元仲間であった男の命を奪った。
悲鳴を上げる間もない。
ただ一閃。
それが全て。
「まさか…、っ?!」
躊躇わず同じ狩人を斬り殺しただけでなく、自ら闇を己の内に呼び込んだ光の行為に、さすがの是羅も驚愕し目を見開いた。
雪子を捕らえていた腕の力がわずかに弱まり…、そのほんのわずかの間に少女の位置は移り変わった。
闇の王、是羅の腕から光の腕の中に。
彼女を守るべき狩人の傍らに。
空気が金色に染まっていく。
闇に憑かれた者の最期と同様、狩人の刀によって斬られた紫紺のなれの果ては、今ゆっくりと金粉に姿を変え、風に舞い、土に、水に…、自然界へ還っていく。
低い唸り、死の断末魔は時を追うごとに遠のいていった。
「貴様……っ」
「緑…君…?」
移動させられた雪子本人でさえ何が起きたのか解らなかった。
気付いたときには光の腕に支えられていて、是羅の姿が遠かった。
肩を大きく上下させる光はひどく苦しそうだったけれど、雪子を守ろうと、彼女を抱く腕に込められた力は常よりもずっと強い。
「緑君…っ」
「すみませんが…」
苦しげな呼吸の合間に、彼は呟いた。
「しばらく、僕の顔を見ないで下さいね…」
「え…?」
「目を閉じて…、しっかり僕につかまっていてください…」
「…」
どういう意味なのか解らなくて、けれど聞き返すこともできなくて、雪子は光の腕を掴む手に力を込めた。
抱きしめられるまま彼の胸に顔を埋め、言われたとおりに目を閉じる。
小刻みな鼓動が耳を打ち、熱い体温に包まれる。
放すまいとする指先。
失いたくないという想い。
守りたい女――信頼出来る男の、腕の中。
言葉よりも鮮烈に、そして正直に伝わってくる形のないものに、目を合わすことさえなかった二人は、けれど確かに安堵していた。
光の口元に浮かぶ柔らかな笑み…、そしてそれを目にして嘲笑する目前の敵。
狩人が取ったまさかの行動にしばし言葉を失くしていた是羅は、しかし何がきっかけであったか不意に声を上げて笑い出した。
愉快だ。
こんな愉快な気分は久しぶりだと、彼ら二人を笑い飛ばす。
「くくくくくくくっ…まったく愚かだな、今生の闇狩一族は」
「…」
「まさか女一人を我から奪い返すために自ら闇を呼び込むとは…、なかなか愉しませてくれる行為ではあるが愚の骨頂よ。魔物を呼び込めば負の力は増す、その力で弱い者は斬れるだろう。だがその代償は貴様の命。たかが女一人を守るために己を犠牲にするというのか」
「っ?!」
何が起きているのか、正確なところを解っていなかった雪子は、是羅の発言にハッと顔を上げ、光を見ようとした。だがそれを彼自身に阻まれる。
顔を見ないで欲しいと言った彼の声が脳裏に蘇って、是羅の言葉から胸中に広がっていく不安は恐怖となって胸中の波紋を広げ、指先は小刻みに震え始める。
まさか…、そんなこと、嘘であってほしい。
けれど光は否定する素振りを見せない。――否、否定したくても出来ないのだ。
余計な言葉を口に出来るだけの余裕も、今の彼にはなかったから。
「緑君…っ」
涙声を上げる雪子に応えるのは彼の手だけ。
強く抱き寄せて、守り抜く意志だけが伝わってくる。
それがなお雪子を辛くさせた。
そしてそんな彼女の内心を察してか、是羅は口元をいやらしく歪めて笑い、続ける。
「そもそも…、闇の力で狩人であった同志は斬れても我は斬れまい。闇の魔物は我が僕、魔を受け入れるはそういうことだと、知らぬわけではなかろう狩人。さぁ、その女を我によこせ。闇を呼び込んだ貴様はもはや我が傀儡。我の声を聞き我に従え。…そのような姿になってまで、己の意志の中で生き長らえたくはないだろう」
「っ…」
「あの男のような醜い姿を、その女の前で晒したくはないのだろう?」
決して自分に見せようとしない彼の今の姿を、雪子は想像することも出来ない。
紫紺がどのように変化していったのかは彼女も見ていた。
背が割れ、体毛が肌を裂いて出現し、咆哮を上げながら獣へと変わっていく…、あのおぞましい光景を思い出すのに比べれば、触れる光は人間と何ら変わりない。
人の腕、人の肌、人の体温。
閉じた瞼に浮かぶ姿は栗色の髪に色素の薄い眼、どことなく異国の雰囲気を漂わせる整った容貌の緑光だ。
河夕をからかう時の意味深な薄い笑み。
雪子をまっすぐに見つめる時の真摯な眼差し。
そんな彼の姿しか思い出せない。
「さぁ狩人、その女を我に渡せ」
「っ…そんな命令を…っ、聞けるはずが、ないでしょう…っ」
ようやく応えた光の、力なく掠れた声。
一言一句ごと、爆発と戦闘の最中に砕けたアスファルト上に光の唇を伝って落ちた鮮血が赤黒い染みを広げる。
衣服も、手のひらも、それがもともとの色だったのかと疑いたくなる血の色だ。
それほどの血を流し、立っているだけでも苦痛だろうに、雪子を庇おうとする力は緩まない。
是羅に屈しまいとする強い態度で言葉を紡ぐ。
「勘違いされては困りますね…っ、僕はまだ狩人の誇りを捨ててはいない…。僕に…命令できるのは…、河夕さん一人…、僕の主は、あの人だけです…っ」
「あの愚者を王と仰ぐから貴様もそう愚かなのか」
嘲笑を交え、是羅は目を細めた。
「影見綺也は速水を、今生の影主は高城岬を…、我を滅する機会などいくらでもあったものを連中はことごとく不意にした。おかげで我は退屈せずに済んだがな。…そしてこれからはその女が存分に愉しませてくれような。その女と、おまえが」
「っ…?」
「おまえ、その女に懸想しているのだろう?」
ビクン…と雪子の体が震えた。
だが光に変化はない。
是羅を見据える眼光は揺るがず、雪子を庇う意志にも変わりない。
「狩人、おまえが我が傀儡となりて従うならば、その女はおまえにくれてやる。我が望みは今生の影主に殺せぬ女の体のみ。その腹に我が魂を宿らせた後は奇渓城に捨て置くつもりであった。おまえが望むなら好きにさせよう」
勝ち誇った男の、笑い。
「我に従えばおまえは欲しいものを手に入れられる。おまえが身の内に呼びこんだ魔物を取り除いてやってもよい。おまえたち愚者は好いた者を我に奪われるのが悔しいのだろう? 当然、死にたくもないだろう。我に従えばおまえは欲しいものを全て手に入れられる…、我を滅することも出来ぬ影主に殉じて死ぬなど、あまりにくだらないと思わぬか」
傲慢なその態度。
いったいどこからそれほどの自信が生まれてくるのか。
なにを根拠に自分の考えが一番正しいと思えるのか。
聞き苦しい…、聞くに堪えない、呪われた言霊。
笑うのは、今度こそ光の番だった。
「くだらないのは…、一体どちらでしょうね…」
「――なに?」
「一度手折られた花は二度と生き返らない…。これから咲き誇ろうとする大輪を蕾のまま散らすことほど愚かで無粋な真似はない…」
静かに、けれど強く言い放つ光に、是羅の目が鋭く切れる。
「何度も言わせないでいただけますか…、僕の王は河夕さん一人…、あの人の信頼を裏切り、…っ、彼女を奪われるくらいなら潔く死を選ぶ…、まして彼女が彼女であろうとするのを侵す者に従うなど冗談じゃありませんね…っ…」
「…貴様は死が恐ろしくないとでも言うのか」
「殺すことの恐ろしさを知らない貴方には解らないでしょう…、自分の無力のために大事な人を死なせてしまう恐怖…、そのために大切な誰かが幸せになれない現実…、それがどんなに残酷なことか、貴方には想像すら出来ないんでしょうね…、そんな事になるくらいなら自分の命と引き換えに守れる最大限のものを守ろうと…、そのために死を選んだ“影主”の想いなど、永遠に理解できるはずがありません…っ」
速水を死なせたくなくて、泣かせたくなくて自らの死を選んだ影見綺也。
妻を奪われ、残る三人の子供達を守りたくて殺されることを望んだ影見皐。
そして今、岬を守りたくて、雪子を平穏な日々の中に返したくて、死を選ぼうとしている影見河夕。
どれも守られる側にしてみれば自分勝手な言い分だ。
結局は彼らが、苦しむ誰かを見たくなくて『死』という言葉に逃げただけとも取れるだろう。
だが死を選んだ彼らにとっては、それが最上の選択だった。
愛する誰かから『生の世界』を奪わずに済むこと、それが何より大事なことだった。
生きていれば世界は広がる。
無限の可能性を秘めた未来が開かれる。
綺也を、皐を、河夕を失った悲しみがどんなに深くても、その傷は時の流れに癒され、新たな出逢いに救われる。
父親をその手で殺め、未来に絶望しか見出せなくなっていた河夕が岬と雪子との出逢いによって癒されたのと同じように、生きてさえいれば幸せは必ずその手につかめるから。
…たとえ愛する人の笑顔が自分に向けられることはなくなってしまっても、いつか忘れ去られるときが来たとしても、彼らは「良かった」と本心から思えるだろう。
それほどまでに守りたいのだ、自分に【幸せをくれた君】を。
「…雪子さんを無事に河夕さんの元へ送り届けられるなら、…そのための死なら本望ですよ」
岬を犠牲にせずとも是羅を倒す方法を見つけた、そのために河夕が死を選ぶと聞かされたあの時、そんなのは五百年前の王と同じではないかと怒鳴った。
岬を泣かせ、雪子を悲しませ、…そして自分達を残して逝ってしまうのかと叫んだ。
だがこうして光は理解する。
姉を死なせてしまった傷、名雪を死なせてしまった後悔、それらを癒し、とっくに失くしたと思っていた気持ちを思い出させてくれた雪子を守りたい。
彼女の未来を、守りたい。
「僕は紫紺殿ほど自分の欲望に素直にはなれません…、人間であるより、河夕さんの十君でありたいんです…」
それは雪子に向けた言葉。
彼女にとっての一人の男であるより、一人の狩人として死ぬために。
これが当然の義務なのだと、言い聞かせるために。
「必ず守ります…、それが河夕さんとの約束ですから」
だから気に病まないでいい。
命と引き換えに守るのは、王、影主との約束。
ただそれだけだから……。
「っ…イヤよ…」
不意に、今まで光にしがみついたまま無言だった雪子が震える声を押し出した。
「絶対…絶対に死んじゃイヤ…っ」
「…雪子さん」
「死んじゃイヤ…死なないで……っ!」
涙に濡れた言葉は雪子の祈り。
震える手で、しがみつくように光の腕を抱きかかえる。
「どうしてそんなふうに言うの…?どうしてそんな簡単に死ぬとか口にしちゃうのよ! そんなふうに守られたって嬉しくないっ、そんなの緑君だって知ってるはずじゃない! 名雪さんに庇われて嬉しかった?! 助かって幸せだった?! そんなの助けられなかったのと同じだって、なんで解んないの?!」
「…」
「顔見るなって言うなら見ないから…、言うこと聞くから…だから死なないでよ…っ、お願いだから…お願いだから……っ!!」
「雪子さん…」
華奢な体が哀れに思えるくらい震えていた。
長い髪に隠れた表情は、どんなに苦しげなものだろう。
彼女の気持ちは解っている。
誰かの犠牲のもとに助けられた者の気持ちを、光は確かに知っていた。
だが今は、その時の気持ちよりも彼女を守りたいという思いの方が強い。
河夕や、先代…、そしておそらくは自分を庇って死んでいった“彼女”と同じ気持ちの方が、ずっとずっと強かった。
「…僕は貴女を守ります」
「緑君…」
「雪子さんが生きていてくれることが、僕の今一番の望みなんです」
「……っ」
光が答え、雪子の頬に新たな雫が落ちた時。
「そうまでして死にたいか」
侮蔑の色を宿した眼で二人を眺めていた是羅が言い放つ。
容赦なく、そろそろ飽きたと笑いながら。
「ならば望み通り死なせてやる。我が闇の魔物共に骨の髄まで侵食され、自我を失い獣と化してくたばるがいい。その女の前で醜い姿を晒すがいい!」
「!」
「やめてっ!」
是羅に呼応するかのごとく一瞬にして炎が二人を囲う。
光の身の丈を遥かに超える高さまで燃え上がる火の檻に、なぜか是羅の姿だけが鮮明に映っていた。
「目覚めよ我が同胞」
狩人の内に呼び込まれ、負の力を増した魔物に闇の王の声が届く。
「っ…あ…ああっ…」
「緑君!」
光の内側で何かが暴れだす。
ぎりぎりのところで闇狩の力に抑えられていた負の力が暴発する。
「――――っは、ぁっ……!」
「緑君! 緑君?!」
体が熱い。
内側から外に向かって何かが溢れ出そうとしている。
背を割り、肌を裂き、血を枯らす。
意識を乗っ取られ獣と化すのか、負の感情に侵食され闇として狩られた同志のように。
「っ…まだ…まだおまえの言うとおりになどなりはしない……っ!」
河夕との約束がここにある。
雪子の命が、ここにある。
それは何物にも譲れない――――!!
「緑く、ん……っ」
狩人の誇りと、王への信頼。
守りたいものをその手に掴んだ人間の、最後のあがき。
「光…っ」
遠く離れた闇狩の郷、修復作業は進んでいるものの、いまだ無残に破壊された痕を残す姿見の前で河夕は拳を握り締めた。
「くそ…っ」
額に汗をにじませながら、必死に鏡の修復を続け、異界への道を繋げようとしていた黒炎は、彼自身も知らないうちにこみ上げて来た涙に視界を曇らせ、二の腕で乱暴に目をこすった。
「くそっ、さっさと繋がれよ役立たず!!」
応えるはずのない鏡に毒づき、必死に術力を迸らせる。
その脇で砕けた壁を叩きつける河夕。
「やめろ光…、もうやめろ……っ!!」
懇願にも似た声色。
すぐにでも駆けつけたいのに、その術が何一つ手元になく。
そのくせこんなことばかりが残酷なほど鮮烈に伝わってくる。
――あれほど近くに感じられていた深緑の輝きが、今はこんなに遠い。
もはや彼のものとは思えないほど昏くて、乱れていて、そこに闇狩の…仲間の意識はほとんど感じられない。
彼が彼ではない何物かに奪われていってしまう。
「さっさと繋がれよ…っ、深緑のとこに行かせろよ!!」
少年の叫び。
だが鏡の道はつながらない。
彼らを仲間のもとに運ぼうとはしない。
彼らの祈りは聞き届けられず、時間だけが無情にも過ぎていく。
「もう間に合わないのか…っ?! もうこれで…これで終わりなのか!!」
血を吐きながら叫んだのは四城市で是羅の影と対峙していた蒼月。
遠く北の大地から風に乗って運ばれてくる不快な波動は、時を追うごとに増していた。いつからか、それがもとの男のものではなく、光のものになっていることも彼らは察していた。
そして今、彼を覆う闇の力と、彼自身の闇狩の力が急激に高まり、衝突した。
それがなにを示すものか、狩人である彼らは残酷なほど解っていた。
「――っ、空知さん、君だけでも行くんだ!」
意を決したように声を張り上げたのは白鳥。
「君一人の穴くらい俺がしっかりと埋めるから…、だから君は緑君を!!」
「…、行きなさい、蒼月」
白鳥に続いて紅葉も告げる。
最初、是羅の姿を象っていた闇の魔物たちは、いまや黒い霧状の物体となって四城市を覆い尽くそうとしていた。
妬み、恨み、ほんのわずかでも負の感情を持つ者の呼吸器官から体内に吸い込まれた闇の力は人間を破壊行為に走らせ他者を傷つけさせる。
狩人のうちに侵入したものは、その力と力が反発しあい不快な波動を放出する。
今は狩人達の力で四城市の住人が集う場所には近づけさせないよう、ここにいる狩人全員の力で必死に対抗しているが、それも限界ぎりぎりの状態だ。
是羅が邪魔な戦力を北の地に近づけさせないよう謀ってのことだと誰もが解っている。
一人でもこの場を離れれば残った狩人達の負担は目に見えて増すだろう。
だがそれでも誰かを光のもとへ向かわせたかった。
こんなことになって、…彼の傍には雪子がいるのに、彼を一人で死なせるなど許されるはずがない。
「行くんだ空知さん! 君が一番早いんだから!!」
「っ――!」
刹那、一陣の風が四城市を走った。
闇が笑った。
そして。
そして、獣の咆哮――――。
「!!」
突如現れた大きな黒い影に、雪子は光の身を案じた。
紫紺のように、彼もまた自我を失った獣と化したのかと恐怖した。
だが光の腕は今も彼女の腕の中。光はまだ光のまま。辛そうに顔を歪め、呼吸するのも苦しそうだったが、それでも彼は彼のままそこにいる。
…光と雪子を庇う形で是羅との間に割って入って来たのは、巨大な体躯と、神々しいほどの威圧感に満ちた鬣を持つ漆黒の獅子。
「何者だ!」
是羅の強い怒りを帯びた声に、しかし獣が怯むことはなく、その背から舞い下りた一つの人影は機敏な動作で地に降り、二人に駆け寄ってきた。
まず雪子の全身をさっと確かめ、「動けるね?」と聞いてくる。
切羽詰まった状況で、その人も焦っているのは確かなのに、紡がれる言葉は静かで、柔らかく、緊張し強ばっていた雪子の心を少なからず緩和させた。
栗色の髪に色素の薄い目。どことなく光と似通った色が、雪子の警戒心を解いた要因でもあったろう。
「説明は後でするから、まずは彼の背に」
告げて指差されたのは漆黒の獅子の背中。
「え、あの、背中って…」
「大丈夫。彼は絶対に乱暴な飛び方はしないよ」
早口なのに聴く側を落ち着かせる不思議な声で告げたその人は、続いて苦しげな光の肩に手を置いた。
「光君」
「!」
躊躇うことなく光の名を口にするその人に、雪子も光も驚いた。
だが胸を抑えていた光は相手の顔を見た途端に目を見開き、何かを言おうと開いた口はそのまま動かなくなってしまう。
そんな光の様子に、相手は小さく笑い、肩に置いた手を血と土に汚れた頬に移す。
「ずいぶんと無茶な真似をしたね…」
「っ…な…で、裕幸さんが……」
「説明は後だ」
雪子に言った台詞を繰り返して、その人――大樹裕幸は獅子を振り返った。
「竜騎」
漆黒の獣を親友の名で呼び、雪子の背を押す。こちらを向いて上体を屈めた獅子に「乗るんだ」と促し、外見からは想像もつかない力で光を抱き上げる。
「ライ!」
上空に向かって声を張り上げた刹那、甲高い威嚇めいた鳴き声が辺り一帯に響き、大きな影が彼らの頭上に現れた。
二枚の巨大な翼が起こす風は人の視界を遮り、是羅の攻撃を無力化する。
雪子は艶やかな毛並みの獅子にしがみ付いて強風に耐え、彼女を今まさに我が物に出来ると信じて疑わなかった是羅は、それが突如現れた、闇でも闇狩でもない、だからといって地球人でもありえない異なる部族の者に奪われると知って激昂した。
しかもその連中から伝わる力の根元は、是羅が最も憎む一族のもの。
それが闇の王の怒りを煽る。
「おのれ…っ、邪魔をするな異民族の分際で!! 闇と闇狩の戦に他部族の介入は不可、それを決めたは貴様らの主ではなかったか!!」
「確かに」
答える裕幸の声は冷ややかなようで、しかし根本にある柔らかさは失われない。
それを間近で聴く光は懐かしさに胸を締め付けられる。
「けれど家族にまで手を出されて黙っていられるはずがないだろ? 光君と彼女は渡さないよ」
裕幸が言い終えるより早く、彼の背丈を遥かに越える巨大な鳥が降りてきた。裕幸はその背に光を横たえ、漆黒の獅子と目を合わせて軽く肯く。
「…是羅。俺達に君を倒す術はない。それは闇狩一族のみに与えられた力だからね。だが君をこの場から追い払うくらいは可能だ」
「戯言を!」
「おとなしく退かなければ痛い目を見るよ」
「失せるのは貴様らだ!!」
激怒した是羅の力が高まる。
裕幸が素早く光と同じ鳥の背に飛び乗り、翼がはためくと同時。
「耳を塞ぐんだ!」
獅子の背に乗る雪子に向けられた言葉、その直後。
―――――――――――……っ!!
獣の咆哮が空気を震わせた。
最後に放たれた絶叫は、果たして誰のものだったか……。