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闇狩  作者: 月原みなみ
41/64

闇狩の血を継ぐ者 四



 ――…女をよこせ……


 地の底から震えるような低い声。


 ――もう待てぬ……、もう待てぬぞ速水……


 闇の王は余力を最大限まで引き出し、これが最後と言わんばかりの勢いで敵対する狩人に思念を送り続けた。


 ――速水を渡せ…女を…松橋雪子を我に差し出せ……っ!!


 影主の決して殺せない女を。

 手元に置き愛でるだけであの若き狩人の王に打撃を与えられる、何よりも使える玩具。

 速水を取り返し、その身を食らい、そして松橋雪子を得てその体に己の魂を住み着かせれば、それだけで影主は負けを認め闇の王の前に平伏する。


 ――さぁ…、我の手に速水を……

 ――この手に松橋雪子を……


 闇の王、是羅の思念は狩人の城を侵していった。

 是羅は知っているのだ。『情』に通じる関係を地球人との間に築いた王が一族すべてのものに受け入れられるはずのないことを。

 それに反発し、あの若き王を憎むものがいることを。


 ――我の声を聞け…そして二つの体を私に捧げよ……


 時間はない。

 長く待つわけにはいかない。

 今すぐにでも動ける傀儡が必要だった。





「いいかげんにしないか! もはや終わったのだっ、影主が真実をお知りになった以上、私が位に残り一族を欺く必要はなくなった! 本来ならば、最初からこうなるべきだったに違いないんだ……!!」

「ふざけるな……っ」

 声を荒げる副総帥・高紅に、紫紺の若く低い声が吐き捨てる。

「おまえに従えば俺が王になれると…、俺が影主になれると言うからおまえに従ってきたんだぞ?!」

 紫紺の厳しく激しい発言に副総帥の顔が歪む。

 闇狩十君・紫紺の実名を影見黎人。

 この男もまた河夕と同じ祖父の血を引く影見一族の一員であり、世が世なら正統な王位継承者となるはずだった。それは十君・薄紅こと影見桜も同様。先代であった河夕の父親が一人の女性を一途に愛しさえしなければ…、否、先の時代に王となったのが河夕の父親でさえなかったら、きっと影主になったのは自分だという自信が紫紺の中にはあった。

 だからこそ、何重にも河夕が憎い。

 一族の掟など知らぬ存ぜぬで勝手な振る舞いを続け、挙句の果てに宿敵であろうはずの『速水』を殺せないなどとふざけたことをぬかす。王になるべきではなかったガキが王になっただけでも憎らしいのに、その王は王たる努力もしなかった。

 そのくせ、今度は自分を十君からさえ追放すると言い捨てた。

 なぜあんなガキの言うことを聞かねばならない。

 王となるべき存在は自分でなければならなかったのに。

 影主は己であったはずなのに……!



 ――我に従え……



「…影主は俺だ……」

「っ、紫紺?! 」

 高紅が紫紺の異変に気付いたとき、既に青年の瞳は燃えるように赤かった。

「紫紺、おまえ……っ」



 ――我に従え……さすればおまえの望み、我が叶えよう……



「紫紺っ、我を取り戻せ! そのままでは……っ!!」

 高紅が声を張り上げようとも、もはやその声は相手に届かない。

「俺が王だ…」

 虚ろに呟く紫紺の耳に、現実の音など入っていかない。

 届くのは魔物の誘い。

 一筋の光りも届かない奈落の底へと引きずり込む甘美の誘い。



 ――その望み、我が聞いた…己がものにと望むなら我が傀儡となれ……



「俺が影主だ……!!」

「紫紺……っ!」

 刹那の閃き。

 運命の歯車は動き始めた……――。



 ◇◆◇



「ちょっ、ちょっと待って! じゃあ…えっと五百年前の影主の名前が影見綺也さんで、速水の恋人? その後を継いだのが綺也さんの弟で、河夕の直接のご先祖様にあたる影見貴也さん? それで速水のお父さんが副総帥さんのご先祖様で、ご先祖様の犯した罪を隠すために貴也さんは副総帥に利用されたってこと?」

「利用されてやってた、て言う方が正しいかもな。…それより早くやれよ」

「あっ、ごめん。じゃあここ…で、河夕は副総帥をクビにした?」

「ああ」

「ああって…」

「俺を騙した、それを役職の解雇だけで許されるなら安いもんだ。俺でなかったらその場で首切り落とされてたぜ」

「切り…」

 淡々と告げるわりに重い内容の話しに、岬はしばし絶句した後で深々と息を吐く。

「なんか…、河夕って本当に王様なんだね…」

「は?」

 しみじみと呟かれて、河夕は苦笑いの表情を見せた。

 手の中には裏表が黒と白に色分けされた複数の円盤型の石。向かい合ってソファに座る二人の間には六四マスに区切られた緑色のゲーム盤が置かれ、盤上の大半を黒と白の円形の石が覆っていた。

 黒の断然有利な展開を見せているそれは、早い話普通のオセロゲームである。

「俺が影主だってことは速水に聞いたんじゃないのか?」

「…違うと思う。河夕が闇狩の王様だって言ってたのは…是羅だった気がする」

「…そういやぁあいつもそんなこと言ってたな」

 わずかに眉を寄せて不快そうに答えた河夕は、最後の一マスに黒の石を置き、白いのを三つ裏返してゲーム終了。本当なら後手の白・岬がもう一つ石を置けるはずだが、盤上のほとんどを黒が支配していて、白を置いて変わる場所がどこにもないのだ。

「おまえ弱すぎ」

 通算二十勝〇敗の河夕が呆れたように言うのを、岬は恨みがましい目で見上げる。

「河夕が強すぎるんだろっ」

「こんなゲームで強いも何もないだろ」

「だったら弱いなんてこともないっ」

「あぁ、ならおまえは下手過ぎるだけか」

「〜っ河夕!」

 頬をうっすらと朱に染めて言い返す岬を、河夕はただ笑って見返した。

 光にだけはと思い、今後の計画を告げたのがほんの三時間ほど前。

 彼は雪子を伴って地球に降り、恩人とも言える女性の墓参りに行っている。有葉は生真に呼び出されたきり戻ってくる気配がなく、薄紅は、おそらく光から何かしら聞いたのだろう。岬の容態を聞きに来ることさえなかった。

 岬を外に出すわけにいかない以上、必然的に二人きりの状況が出来上がってしまった河夕は、有葉や生真と昔遊んだゲームで岬との時間を過ごしていた。

 こういう時間を持てるのも、きっとこれが最後。

 それを思えば岬と過ごす時間も愛しかったが三時間も経てば当然のように飽きてくる。

 そろそろ光と雪子が戻ってきてもいい頃だと、時計を見ながら内心で呟いた河夕は体を伸ばしつつ立ち上がった。――その時だ。

「?!」

 それは突然の異変。

 本部全体の空気が乱れ、古城を思わせる風貌の建物が激しく揺れた。

「なっ…」

「立つな岬!」

 ばらばらと遠慮のない音を立てて盤上の石が落ちる。

 立ち上がろうとした矢先に世界が揺れ、バランスを崩した岬の体がゲーム盤の乗ったテーブルへと傾く。

 その角にぶつからないよう、寸での所で彼の体を支えた河夕は、岬に怪我がなかったことに安堵するも今だ続く揺れの原因を突き止められず困惑した。

 ここは闇狩一族の本部、しかもこの部屋は王・影主の私室だ。頑強な造りと影主自身の結界によって二重に守られた室内でこれだけ激しい揺れが感じられるということは、外の有様が気にかかる。何より、姿の見えない弟妹の安否を知りたかった。

「…大丈夫か」

「俺は平気…、だけどこれ…地震?」

「この星に火山地帯なんかない」

 だから地震など起こるはずがないと言外に言われて、まだまだ闇狩の事情に疎い岬も異変に不安を感じ取る。

 起こるはずのないことが起きている。

 その原因を、岬の中の速水が…、いまや岬と一体化しつつある速水が無意識のうちに捕らえようとしていた。

「…岬、一人で待ってられるか?」

「え?」

「外の様子が気がかりだ。行って見てこないことには…」

「俺も行く!」

「馬鹿。何のためにこの部屋から出さないようにしてると思ってるんだ」

「こんなに揺れてたら一族の人だって俺のことに構ってる余裕なんかないだろ? 河夕がこんなに慌ててるんだから」

「…ったってなぁ」

 岬の言い分も正しいような気はするが、だからといって無事に済む保障はない。

 是羅本人が現れる心配はないと思うが、今の岬には闇の魔物達よりも一族の反河夕派の方が厄介な相手だ。

 それを考え、岬を連れて行くことを躊躇っていた河夕だが、そこに今度は突然の来訪者。

「河夕様!」と、切羽詰った様子で外の扉を叩くのは、岬もそろそろ聞き慣れてきていた薄紅の声だった。

 河夕が足早に扉を開け、彼女を迎え入れると、薄紅は顔を見るなり早口にまくしたてる。

「河夕様、副総帥が死にました!」

「っ…?!」

 あまりにも唐突な報告に、さすがの河夕も面食らって咄嗟には言葉が出てこない。

「なっ…あ、まさか自殺じゃないだろうな!」

「いえ、紫紺です」

「紫紺に?!」

「とにかく副総帥の部屋に。お急ぎください!」

 急かされて、河夕は部屋を飛び出した。

 その後を薄紅と、そして岬が追っていく…。



 本部四階、滅多に使われることのない空き部屋のほぼ中央に、良く似た顔立ちの兄妹が立っていた。

 影見生真と影見有葉。

 河夕の実の弟妹たる二人は、人気のないこの場所で、いつまでも硬い表情を崩せずにいた。

「河夕のことで話がある」

 兄の部屋で、岬と過ごそうとしていた有葉を呼びに来た生真に、有葉は内心かなり驚いたものだったが、下の兄から上の兄の話があるといわれて断る理由はなかった。

 何より、河夕の様子が妙なことを直感で察していた有葉も、自分の言葉を聞いてくれる誰かを求めていたのだ。

「河夕が変だ」

 この部屋に辿り着いて、生真から第一声にそう言われたときはほとんど反射的に頷き返していた。

「あいつは何を隠してる? おまえになら話してるんじゃないのか?」

 今でも河夕を慕い、側にいる妹になら何か自分には言わないことを話しているのではないか、生真はそう考えて有葉を呼び出したのだが、答えはNO。有葉は何も知らなかった。

「…お兄ちゃんは何も言ってないの…光ちゃんには、何か話してるみたいだけど」

「光に?」

「さっき下で…会議室から戻る途中、お兄ちゃん、光ちゃんだけ連れてどっか行っちゃったの…だから有葉は何も知らないよ……」

 だけど、と有葉は低く呟く。

「だけどお兄ちゃん変なの…、絶対にいつものお兄ちゃんらしくない…、おじいちゃんとか紫紺とか嫌いなのは有葉も一緒だけど…、だけどあんなふうにするお兄ちゃんは知らないもん……」

「……」

 妹の今にも消え入りそうな声音に、生真は唇を噛んだ。

 河夕は有葉にも何も言っていない。

 なのに光には何かを話している。

 それだって彼が隠している全体のどのくらいかは分らない。河夕は、大事な局面であるときほど真実を隠したがる。

 五年前の王位継承の儀式の時がいい例だ。

 河夕は何の相談もなしに勝手に決めて、勝手に父親を殺して王になった。

 後にも先にも、河夕はたった一言の弁明さえ生真にしないまま。

「…あの時と同じかよ……っ」

「? 生真君?」

「なんでもねぇっ」

 吐き捨てるように言って、顔を背けた年の近い兄。有葉はその手を素早く取って、河夕とするように手を握る。

「なんだよ!」

 怒った口調で手を振り解こうとするのを、有葉は必死に掴んで放さない。

「有葉!」

「生真君の馬鹿!」

 二つの幼い声が重なり、そうして口を閉ざしたのは、生真だ。

「生真君の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ、大馬鹿っ!」

「っ…」

「なんでお兄ちゃん許してあげないの?! 生真君辛いの分るけど! 有葉もすっごく辛かったけど! でももっと辛かったのお兄ちゃんなんだよ?!」

「――うるせぇっ! 許せるわけないだろ? あいつは俺達の親父を殺したんだぞ?!」

「お兄ちゃんだってしたくてしたわけじゃないもん!」

「だけど事実だ!」

「でもお兄ちゃんはっ」

「黙れ!!」

「っ」

 同性であれば殴っていた。

 家族でなければ突き飛ばしていた…、そんな激情を伴った力強い怒声。

 それでも有葉は手を放さなかった。

 掴んだままの生真の手をよりいっそう強く握って、去ってしまおうとするのを引き止める。

「放せよ…っ」

 言われてもブルブルッと左右に首を振って拒み、ぎゅっと生真を逃がさない。

「有葉…」

「だって…、だってもう生真君と有葉とお兄ちゃんしかいないんだよ……?」

「…」

「お父さんもお母さんも死んじゃって…、光ちゃんとか薄紅のお姉ちゃんとか優しくしてくれる人はいっぱいいるけど…、家族って言えるの、有葉達三人だけなのに…」

 幼い妹の大きな目が潤み始めたことに気付いて、生真は短く嘆息する。

「どうしてお兄ちゃんと生真君は仲直り出来ないの……? 生真君だってお兄ちゃんのこと好きなくせにどうして一緒じゃ駄目なの……?」

「…俺は河夕なんか嫌いだ」

「生真君っ」

「俺はあいつをぶっ殺して親父の仇を討つ、そう決めたんだ!」

「なんで?! そんなことしたらまた家族がいなくなっちゃうんだよ?!」

「そんなのっ」

 声を張り上げる生真の脳裏に、ここ数日の河夕の言葉が蘇る。


 ――今でも俺が憎いか、生真。

 ――親父の仇が討ちたいか……?


 当たり前だと言い返した。

 絶対に許さない、絶対に殺してやると言い放った自分に、そうだ、河夕は笑ったんだ。

 それでいいと、笑った。

 あの笑顔は、なぜだろう、妙に穏やかで、妙に、優しくて……。

「! あいつまさか……っ」

「生真君?」

 不意に浮かんだ絶対的な、確信とも呼べる予感。

 もしそうだとしたら。

 それを河夕が望んでいるのだとしたら。

「あいつまた……っ」

 途端に目頭が熱くなり、胸が苦しくなった。

 そんなことはありえないと、否定したい自分の心を否定してしまいたい。

「そんなこと本気で……っ!」

「生真君……?」

 有葉の目に不安の色が揺れていた。

「あ…」

 まだ幼い、心身ともに幼すぎる妹を前に生真は言葉を失った。

 それとほぼ同時に世界が揺れた。

 空気がざわめき、立っていられなくなるほどの激しい揺れが二人を襲った。

「きゃあっ」

「有葉!」

 離れた手を今度は生真からしっかりと掴んで地に伏せる。

 乗り物酔いを起こしそうな不快感。

 嫌な気配が本部全体を覆っていこうとしていた。

「まさか闇か…っ」

「じゃあ岬ちゃん危ないの?!」

「知るかよ! けどこれは…」

 呟きながら、この不快感の出所を察知しようとした生真はすぐに顔色を変えた。

 出所を探るまでもなく、それはこっちに近づいてこようとしていた。

 強い邪気。

 息をして、この場の空気を吸い込むのを拒否したいほどの不快感。

 これは仲間の――闇狩の力が魔物に乗っ取られようとする異常な事態を察知する闇狩の本能だった。

「有葉、立てるか?!」

 自分よりも幼く、そして弱い少女を抱き上げるが、有葉の顔面は生真と比べ物にならないほど青ざめ、手足は痙攣を起こしていた。

「有葉! 有葉!!」

 呼びかければ反応はあった。

 大丈夫だと答えようとしている口が、そうは動かないから全く大丈夫じゃないのだと疑う余地もなかった。

「クソッ、誰だよ闇に憑かれた馬鹿は!!」

 気持ち悪くて悪態をつけば、それだけ体力を奪われる。

 ―――どんな人間の心にも善と悪が存在する。

 闇狩とて能力を持つだけで心のある存在なら、その内に闇を寄せ付けることもないとは言い切れない。だから狩人達は闇を寄せ付けないよう常に自己暗示に似た方法で心に蓋をし、自分の力を奪われないようにしているのだ。

 それゆえ、こうして闇狩の力が闇に乗っ取られようとしている今、狩人の心にされた蓋と魔物の力がぶつかり合い不快な波動を放出する。これが周囲の狩人にも大なり小なりの影響を与え、力の妨害をする。河夕や光ほどになれば多少の目眩や頭痛程度で治まるだろうが、有葉や生真のように成長途中で闇に対する抗体能力も発展途上の子供にとっては相当の負担だ。

「っ…」

 憑かれたのが闇狩としてのプライドを持った狩人なら、こんなことになるまえに自ら己の内の闇を狩るだろう。となれば答えは一つ、この不快な波動を放出している狩人はもはや闇狩に非ず。

 憎悪や嫉妬、そんな暗い感情に支配され自ら魔物を呼び込んだ負け犬だ。

「いったい誰だよ……!」

 吐き気がする。

 目眩も頭痛も、あるのかないのかさえ分らない。

 とにかく気持ちが悪かった。

 呼吸をすることさえ、嫌になる。

「なっ……?!」

 そして衝撃。

 ガンッッッッ…――激しい破砕音と爆発。

「きゃあああああっ!!」

 有葉の悲鳴に生真の苦悶の声はかき消される。


 ――女の匂い……


 地を這うような不気味な声。

 それが是羅のものだと、生真は分った。

「あぁ…」

 続けて聞こえてくる、嘲笑を交えた男の声。

 いつも亡き父親を侮蔑してきた紫紺の声だ。

「おまえ達か…」

 目的の相手ではなく、何の力も持たない子供二人かとわざとらしい落胆の息を吐く紫紺に生真は目を見開いた。

「テメェ…っ、恥ずかしくないのかよ! 闇狩だろ?!」

「うるさい」

「なっ――っああああぁ……!!」

 一瞬で間を詰められ、腕を捻り上げられて、肩が異常な音を響かせるのを聞いた。

「脆いな」

 つまらないと言いたげに言い捨て、生真を放り、倒れている有葉の腹部を蹴り上げる。

「-―――――っ!!」

「あ…有葉……っ」

 声にならない悲鳴。

 男の腰位置にも満たない幼く小さな少女の体が破砕された壁に叩きつけられ、それきり彼女は指先一つ動かすことがなかった。

「テメェ…っ!」

「愚かな王の前におまえも殺してやろうか」

 赤い目が生真を見据える。

 その手に、狩人特有の刀が握られていた。

「おまえにも、この小娘にも王の座は相応しくない。もちろん、あの愚王のもので有り続けるはずもない」

 紫紺の赤い目がいやらしく歪む。

「玉座は私のものだ」

「!! そんなもんのために……っ」

 日本刀を思わせる華麗な細工の施された柄に、月の輝きよりも儚い銀の刃が帯びるのは紫紺の名が表すとおり、濃い紫色の輝き。それが生真の咽元に当てられる。

「そんなもの…? これだからおまえたちに影見の血を委ねるわけにはいかないんだ」

 そう言って紫紺の見せた表情は、いつになく暗く、そのくせ不気味に恍惚とした笑みだった。

「…、おまえの屍を投げ捨てておくのも一興だが、そうしている間に追いつかれては面倒だな」

 背後から迫ってくる強い力を感じ取り、紫紺は薄く笑って刀を引いた。

「まず手に入れるべきは松橋雪子…、それが先だ」

「っ…待ちやがれ……」

 生真はいつにない大声で紫紺を引き止めたつもりだった。

 けれど擦れ、震えた声に他人を引き止める力は無きに等しく、遠ざかる男の背さえ視界に入って来ない。

「クソッ……」

 遠のく意識の最後の欠片が捉えたのは、自分と妹の名を叫ぶように繰り返し呼んでいる懐かしい声だった……。





 その光景を見たとき、河夕は呼吸すら忘れて立ち尽くした。

 闇狩一族の本部でありながら無残に破壊された一角はまさに瓦礫の山で、どこが天井でどこが床なのか、どこまでが壁なのか、…ここは本当に部屋だったのかも判らない無残な有様だった。

 そしてそこに倒れる二つの小さな体。

 指先一つ動かさず、うつ伏せになって横たわる幼い弟妹の姿。

「――っ、生真! 有葉!」

 上ずる声もそのままに駆け寄ってその名を叫ぶが、塵と埃に塗れぐったりとした状態の弟妹は呻き声一つ漏らさない。

 まさか死んでいるのかと恐ろしくなったが、かろうじて二人の心臓は動いていた。微弱ながらも自分の力で呼吸し、生きようとしている。

 破砕された壁に叩きつけられたのだろう有葉が倒れている傍の岩壁には血の跡を残す凹みがあり、抱き起こした妹の顔には吐血の跡がしっかりと残っていた。

「生真っ、生真!」

 血の気の失せた青白い顔。

 数時間前の親友を思い出させるその姿は河夕の胸に底知れぬ不安を抱かせる。

「なんでこんな…っ、なんでおまえ達が……!!」

 まだ幼い、幼すぎる弟妹。

 その二人がなぜこんな目に遭わねばならなかったのか。

 いったい誰が二人をこんな目に遭わせたのか。

「紫紺…っ」

 ギリッと歯を食いしばる河夕の脳裏に、いつも自分達を軽侮し、ついさっき十君から追放してやると脅した男の面影が蘇った。

 誰か、なんて、そんな答えはとっくに出ていた。

 部屋を出た途端に吐き気を伴う不快な空気に襲われた河夕もまた、一族の狩人が闇に憑かれるという非常事態が起きたことを察知していた。

 そこに副総帥高紅の惨殺死体と、影見本家の血を継ぐ幼い二人のこんな姿を見せ付けられれば、狩人でありながら狩人のプライドも何も投げ捨てて魔物に身を投じる馬鹿など紫紺しか考えられない。

「クソッ」

 震える拳を罅割れたフロアに叩きつけ、とにかく紫紺を捕え、それなりの報復を与えてやろうと、それしか考えられずに河夕は立ち上がった。

「桜、こいつらを任せたぞ」

「えっ?」

「河夕!」

 誰かの声が――岬の声が彼を引きとめたけれど、弟妹をこんな姿にされた河夕にそれらを聞き入れる余裕などない。

 振り返ることもなく鏡の間に…、本部と地球をつなぐ道となる、等身大の鏡だけが置かれた部屋に駆け入った。

「河夕様……っ!」

 薄紅の、どうにかここに引き留めようとする呼びかけ。完全に我を忘れ、怒りだけで紫紺を追おうとするのはあまりにも危険だった。

 紫紺とて、内面的な問題はともかくとしても十君の一人として何千の狩人に認めらるだけの実力は備えた人物だ。河夕が無事で済む保障などどこにもない。

 しかも、紫紺は闇に憑かれている。

 行き先は地球、これが何を示しているのか今の河夕に判っているだろうか。

 今現在、誰が地球にいるか把握しているのか。

 是羅が誰を狙っているか、ちゃんと考えられるのか。

「河夕!!」

 岬が追った。

 あんな河夕を一人で行かせられない、それは岬も同じだ。そして彼の中に息づくもう一人の少女、速水もまた言いようのない不安を抱いて河夕を引き戻そうとしていた。


 ―――――駄目……っ!!


「!」

 頭の中で誰かが叫んだ。それが速水の警告だと気付くまでしばしの時間が必要だった。

「速水…?」

 いったいどうしたのかと、岬が内側に語りかけた、そのとき。

「…お兄ちゃん……」

 意識がないはずの小さな少女が、大好きな兄を呼ぶ。

 その直後だった……。



 ◇◆◇



「!!」

「なっ…空知さん、今のは……?!」

 四城市の結界強化、闇の討伐に加わり狩人の力を振るっていた彼らは、何の前触れもなく全身に駆け抜けた戦慄に顔色を失った。

 空知敬之―十君・蒼月も、白河純―十君・白鳥も日本刀を模った闇狩の力を握る手を止め、目を大きく見開いて背後の空を凝視した。

「河夕様……っ?」

 二人の青年の不安を音にし、言葉に出したのは同じく四城市の守護にあたっていた十君・紅葉。

 厚い灰色の雲に覆われた空の一点を見据え、驚愕の声を押し出した。

 闇狩十君に名を連ねる彼らを襲った衝撃。

 彼らだけじゃない、闇狩一族であれば誰もがこの異変を感じ取れただろう。が、影見河夕という総帥影主に生涯の忠誠を誓った彼らだからこそ感じ取った異常事態。

 突然の圧力の中、一つの絶対的存在が消えていこうとしていた。

「河夕様の力が……、消える……?」

「そんな馬鹿な…っ!!」

 蒼月が声を張り上げ、手の中の刀を消して動き出す。

「一度本部に戻る! こんなのは…こんなのは何かの間違いだ!!」

「空知さん!」

 本部と四城市をつなぐ鏡を求めて駆け出した蒼月を白鳥が追い、後を紅葉が追う。

 その途中、河夕直々の命令を受けて四城市の守護にあたっていた狩人数名に今の衝撃は何かと問われたが、紅葉はそのたびに今すぐ確認して報告すると早口に言い放って先を行く二人の青年を追いかけた。

 進路を妨害する闇の卵を力で吹き飛ばし、時には八つ当たりにも似た態度で容赦なく切り伏せた。

 そうして数分、目的の等身大鏡の前にたどり着こうとしていた三人に、その近隣を守護していた梅雨が顔色を変えて駆け寄った。

「紅葉っ、本部との道が開かないの!」

「なに?!」

「どういうこと?!」

「判らないわ! 影主に何かあったと感じて本部への道をつなげようとしたら…いきなり鏡の内部が爆発して……っ」

「爆発?!」

「何度やっても駄目なのよ! でも本部以外への道は開くの! 私の力がどうかしてるわけでも鏡に不備があるわけでもないわ! 本部にだけ道がつながらないのよ!!」

「クソッ、なんでだ!!」

 梅雨に言われて、それでもあきらめられずに二度、三度、間違いのない正確な呪いを繰り返した空知は鏡に向かって怒鳴りつける。

「なぜ本部への道が開かないんだ!!」

「術は間違いないのに……っ」

 不安と、焦りと、…そして恐怖。

 彼らを襲った衝撃は彼らの落ち着きを奪うには充分すぎた。

 こうしている間にも河夕の力が弱まっていく。

 あんなにも強く感じられてきた王の存在感が時を追うごとに薄れていく。

「河夕様……!」

 狩人の術によって鏡は黒く染まり目的地への道を開くのに、今は砂嵐のような映像が映るだけで本部に導く通路を作り出そうとはしなかった。

 いったい何がどうなっているのか。

 誰が何をしたと言うのか。

 どうしたらいいのか判らず、何をしたら河夕の安否だけでも知ることが出来るのか悩み、それでも彼らに出来ることはなかった。

 ――そうしているうちに、追い討ちをかけるかのごとく遠方から届いた急激な力の暴発。

「?!」

「なっ…これは緑君か……?!」

「…深緑一人じゃないわ…」

 顔面蒼白、全身を恐れに震わせて紅葉が呟く。

「この波動は……」

 吐き気に頭痛、目眩までが誘発され、呼吸することすら厭いたくなる不快な風。

 狩人が闇に憑かれた際の、心の拒否反応が起こすもの。

「――! 紫紺か……!!」

「あぁ…、彼が憑かれたんだよ、闇に……」

 魔物と重なりつつある狩人の力は、常に河夕と彼の弟妹を軽侮し、非難し続けてきた男のものに違いなく、それが紫紺だと分かった彼らは今まで以上の不安を抱いた。

 紫紺が裏切った。

 闇に憑かれた、おそらくは是羅の仕業。


 ――河夕様……っ




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