闇狩の血を継ぐ者 三
河夕が部屋に戻ると、そこでは岬一人が彼の帰りを待っていた。
扉が開くと同時に顔を上げた岬は、重苦しい表情の中にも微かな安堵の色を滲ませて足早に河夕に近づいて来た。
「河夕、会議はもういいの?」
「ああ」
「父さん達は? 雪子の家族や学校の皆も…」
「大丈夫だ。一族の連中が思った以上にやってくれた。四城寺の本堂には被害があったようだが、住職達は無事だ」
「そっか…」
河夕の返答に、今度こそ心からの安堵の息を吐いた岬。
「皆、無事だったんだ…良かった」
「ああ」
応え、岬の頭で手を弾ませた河夕は、部屋の中央へと進みながら隣を歩く友人を見下ろす。
「ところで…、松橋は薄紅が連れて行ったのか?」
「えっ…」
「? 岬?」
松橋、と、河夕が彼女の名を口にした途端、岬は顔を強張らせた。
「どうした…、松橋に何かあったのか?」
「ううん、何も…うん、雪子は薄紅さんが自分の部屋で休んだ方が良いって…、雪子も自分からそうしたいって言って…」
そう答える岬の様子は明らかにおかしかったが、河夕はあえて追求しなかった。別れ際のあの雰囲気からして自分が原因である可能性は大いにあったし、岬を気落ちさせるような内容の話しを続ける気にもなれなかったからだ。
「有葉はどうした。おまえと一緒にいたんじゃないのか?」
「ううん。有葉ちゃんは…」
言いかけた岬は、ふと思い出したように顔を上げ、微かに頬の強張りを解いた。
「有葉ちゃんは生真君が呼びに来たよ」
「――生真が?」
思いがけない返答に河夕は軽く目を見張ったが、岬はそれに気付かなかったらしい。
「顔見てびっくりした。兄弟でもこんなに似るのって珍しいんじゃないかって思うくらい河夕と似てるんだもん」
相手の微妙な変化などお構いなしに楽しそうに告げる岬は、河夕を苦笑いさせ、小さな不安を取り除く。
生真は岬に対して特に何も言わなかったらしい。
もし先刻の会議室での一件を有葉と二人して岬の耳に入れるようなことがあれば、変なところで勘が働く岬のことだ。河夕の本心に迫ってくるとも限らない。
残される速水のことを考えなかった影見綺也は馬鹿だと言った河夕が、まさか似たような方法で是羅を倒そうとしていると知れば、岬はきっと怒るだろう。
いや、怒るだけならまだ救われる。怖いのは、一度は河夕のために死を選んだ岬が再びその衝動に駆られることだ。
あげく、岬だけは悲しませずにすむ、その理由まで知られることになれば、河夕はその瞬間に守りたかったもののすべてを失ってしまうかもしれない。
(岬に何も言わなかったのは、まだあいつには何も教えてないから解っていないのか…、それとも思うところがあって言わない方が賢明だと判断したか…)
自分とよく似た面差しの弟の姿を思い浮かべながら、河夕は自嘲気味に笑う。
(…あんなに嫌だったのに…、結局俺も親父と同じ方法を選ぶんだ)
五年前のあの日、河夕に斬られるつもりで彼の前に現れた父王は不思議と穏やかな顔をしていた。
妻を失い、三人の子供を守るためにはこれしか方法がないのだと分ったとき、彼は今の河夕と同様に自ら死を選んだのだ。
――…王になれ、河夕……
今でも耳に残る父親の最後の言葉。
――…生真と有葉を守れ、河夕……
命を賭して人を救う狩人になれと口癖のように言ってきた彼は、家族を守るために命を賭けた。河夕もまた、自分にしか父王を救えないと、自分自身に言い聞かせて親を斬った。
そして今、今度は兄から弟に王位は継承される。
是羅が滅びた後の、一族の在り方を定めるために。
願わくばこんな残酷な王位継承の儀などこれで終わってしまえばいい。
戦うために『情』が必要ないなんてことは間違いだと、自分がきっと証明して見せるから。
(一族を変えていけ、生真)
自分は父親の仇として斬られても構わない。
(だからおまえが親父の意志を継いで一族を変えていけ)
生真になら任せられる。
光や、河夕の信頼する十君に支えられて歴史を変える影主になれ。
(おまえならきっとやれる)
そう信じているから――――。
「河夕?」
「っ…」
生真の話からすっかり自分の思考の世界に入り込んでしまっていた河夕は、心配そうな岬の声で我に返り、自分を見上げる岬の大きな目に微笑する。
「悪い」
「ううん…、なんか、疲れてる? まだ睡眠時間が足りないとか…」
「大丈夫だ」
「…」
言葉だけでは不安を取り除けずにいる岬の頭の上で軽く手を弾ませ、気を取り直すように話の続きを持ち出す。
「で…、そんなに俺と生真は似てたか?」
「え、あ、うん! そっくりだったよ」
元気に答えたかに見えた岬は、しかし次の言葉に躊躇うような素振りを見せる。
「…雪子もね、驚いてた」
そう続ける岬の表情がまた曇り始めて、河夕も今度こそ無視するわけにはいかなくなった。
なぜ雪子の名前をそんな顔で言うのか。
どうして岬が、そんな怯えにも似た表情で雪子のことを話すのか。
「…おまえ、松橋と何かあったのか?」
「っ、え?」
「おまえがそんな顔で松橋の名前口にするのは尋常じゃないだろ」
「……」
顔を上げると同時に黒曜石のまっすぐな目に見返されて、岬は言葉を詰まらせた。
中央の広間から岬の部屋につながる扉の側、立ち止まった岬が何か言い出すのを河夕は黙って待つ。
「…」
そのうち、このまま黙ってはいられないと判断した岬は、消え入りそうな声を押し出した。
「…なんか…雪子が雪子じゃないみたいで……」
自分で言った言葉に傷ついたような顔をして。
「すごく…怖くて…」
「怖い? 松橋が?」
聞き返す河夕に岬は小さく頷いた。
「俺と雪子、本当に小さい頃からずっと一緒で…、結構お互いの考えてることとか解ったりして、一緒にいるとすごく安心出来たんだ…なのに今は雪子の考えてることが全然解らない…、何が辛いのか伝わってこない……」
「岬…」
「不安なんだ…、雪子が俺の知らない全然別の誰かになってくみたいで……」
どういうことなのか河夕にはさっぱり解らない。
雪子は岬が好きで、岬がそのことにまったく気付いていない、このあたりの感情のすれ違いが岬にこのような不安を抱かせているのかとも思ったが、こんなことを第三者の河夕が口にするのは間違いだ。
当人同士で話す以外、確かな答えを得ることは不可能だ。
「…そうやって本人に聞いてみたらどうだ?」
「でもそれで傷つけてしまったら…」
「おまえが臆病になってどうする」
「…」
「松橋がいくら気の強い女でも、こんな非日常的な騒動に巻き込まれれば精神的に参っても仕方がない。挙句に、おまえが今言ったようにガキの頃からずっと一緒だった幼馴染が自殺まで図ってんだ。これで平然としていられる方がどうかと思うけどな」
「それは…ごめん……」
しゅんとなって謝る岬の頭を軽く叩く。
「こういう時こそ支えてやれ。松橋にはずっと助けられて来たんだろ?」
「うん…」
幼稚園の送迎バスからずっと一緒だった幼馴染だ。
河夕と知り合い、闇の魔手に狙われた時も是羅に襲われた時も自分の身を楯にして岬を守ろうとした雪子。
何の力もない普通の少女。
けれど彼女の想いは…、純粋な気持ちは、時として河夕の力よりも強く大きな力となって岬を守ってきた。
「…雪子は、俺より全然勇ましいよね…」
「岬」
「解ってる…。解ってるよ、ちゃんと」
応えて笑む岬の表情は、数秒前に比べればずっと穏やかになっていた。河夕の言葉に勇気付けられたのか、雪子を思い、彼女の気持ちを察したのか。
「俺は雪子の幼馴染だもん」
「…ああ」
河夕も笑んで頷き、まだ岬らしさを失っていない彼の態度や物言いに安心する。
ならばあちらの方はどうなるか…、河夕は貴公子然とした仲間の顔を思い浮かべながら複雑な感情の入り混じった吐息を漏らした。
◇◆◇
「私…なんであんなこと言っちゃったんだろ……」
「悪気があったわけじゃないのでしょう? だったら気にしないことだわ。河夕様だってちゃんと解ってらっしゃるでしょうし」
「だけど影見君…、傷ついた顔してた…」
気落ちした雪子と励ます薄紅、二人の少女の声をドア越しに聞いて、光はノックしようとしていた手を宙に止めた。
雪子が背負ったものは予想以上に大きそうで、光はわずかに眉を寄せる。
(…地球に降りる事で気を紛らわせてくれればいいんですが……)
内心で呟いた後、意を決して目の前の戸を叩いた。
応答はすぐにあり、薄紅の凛とした面立ちが彼を迎える。
「あら…」
「突然の訪問をお許し頂けますか?」
「それはいいけれど…、河夕様との話は…?」
「終わりましたよ」
「あの方は何か…?」
不安の色を滲ませた表情でそう問いかけてくる薄紅に、光はさすがだなと思いつつ無言で頷く。
副総帥を罷免したり、紫紺に宣戦布告してみたり。
そんな彼らしくない行為の裏側にどんな意味が有るのか、彼女は例え漠然とであっても判ってしまったのだ。
解消されたとはいえ、もとは心を伴う婚約者の立場にいた少女。彼女の想いを察すれば光は心苦しさを感じて表情を曇らせる。
「後ほど、蒼月殿や白鳥殿が戻られたら皆の前で話されるそうです」
「そう…」
小さく答えて、薄紅はわずかにきつい眼差しを光に向けた。
「…河夕様は、貴方にはすべて話されたのね…」
「…ただ聞かされただけですよ」
「深緑…」
「僕には何も言うことは出来ませんでした。…あの方は、今度もまた勝手に決めてしまわれた…先代の時と同じです」
「……」
室内でこちらの様子を窺っている雪子には聞こえないよう、極力小さな声で囁きあう二人は、けれどそれきり言葉もなくその場に佇んでいた。
うつむく薄紅の目が潤むことはなかったけれど、光にはそれがかえって痛ましい。
「薄紅殿…」
呼びかけると、彼女はそれを遮るように一息ついてから顔を上げ、光を室内に招きいれた。
「貴方、それだけを伝えるためにわざわざ私の部屋まで来たわけじゃないんでしょう?」
「…ええ」
「本当の目的は彼女?」
「…その言い方にはどことなく不穏なものが感じられませんか?」
光の困ったような言い方が、薄紅の硬かった表情にほんの微かな笑みを取り戻させる。
「貴方が関わればろくなことにならない…、河夕様がいつも言ってるじゃない」
「それは誤解というものですよ。僕はいつだって誠実に動いているだけなんですから」
冗談のように笑って言う光に薄紅も表情を和らげ、雪子が待つ居間へと向かう。
居間の中央に置かれたソファの上に足を乗せ、膝を抱えた状態で顔だけを上げて彼らを迎えた雪子の頬にはうっすらと涙の跡が見えた。
「…泣いてらしたんですか?」
光が遠慮がちに問うと、雪子はプイッと横を向いて言い放つ。
「…半径五メートル以内には入らないって約束したでしょ」
言い方はつっけんどんだったが、強がっているのが見え見えの擦れた声。
光は微苦笑して彼女の背後に立ち、ソファの背もたれに手を置く。
「今はしばし休戦することにしませんか? 雪子さんに一緒に来てもらいたい場所があるんです」
「…私に?」
恐る恐るといった感じに顔を上げて振り向く雪子に、光は優しく微笑んで頷く。
「僕と地球に降りませんか?」
「地球…って…、四城市に戻るってこと?」
「いいえ。あの場所は今や雪子さんにとって最も危険な場所です。貴女のご家族や友人は無事ですが…、これは薄紅殿から聞いていますか?」
「…聞いた」
「ええ、だから心配はいりません。けれど貴女と岬君が戻れるほどの安全を確保できているわけではないんです」
「…じゃあどこに行くの?」
「北海道です」
「――北海道?」
唐突に出された地名に、雪子は目を丸くして聞き返す。
同じ日本の島でも修学旅行で一度行ったきりの場所だ。
薄紅は、雪子を連れて地球に行くという光の発言には驚いたようだったが、行き先を聞けば彼の言いたいことが把握できた様子。
「深緑。北海道に行くのはいいけれど、河夕様の許可は出てるの?」
「ええ。了承済みです」
「そう」
河夕が許したとあれば薄紅に文句のあろうはずがない。
むしろ同じ女として、雪子の不安定な精神状態を考えれば、ほんの一時とはいえ故郷である地球の見知った土地に戻るのは歓迎すべきことだった。
「深緑と一緒に行ってくるといいわ。彼が一緒なら危険なこともそうはないでしょうし。あえて言うなら『狼に注意』というところだけど…」
「…それが一番危険じゃない…」
薄紅と雪子に疑いの目を向けられて、光はただ苦笑する。
「お二人とも、僕がそんな非紳士的な行為に及ぶと思ってるんですか?」
「…思わなかったら半径五メートル以内に入らないで、なんて言わないもの」
「って彼女が言うんだから何かしたんでしょ?」
「…」
あんまりな言われようだとは思うが、全てを否定出来ない事実には違いない。
光は短く嘆息し、もう一度雪子に向き直る。
「では、雪子さんの嫌がることは決してしないと約束します。それでも一緒に北海道へ出掛けてはもらえませんか?」
「…」
「ぜひ貴女と一緒したいんですが」
「…約束は絶対に破らないのよね?」
「ええ」
雪子の念を押すような言い返しに、光は静かな微笑で応える。
穏やかで優しい笑み。
それが雪子の内側に募るやるせない思いの塊を取り除いてくれる気がした。
しばらくの沈黙。
「…うん。行く」
雪子は答え、差し出された手を取った。
――人口およそ六百万人。
人が日々生活する場よりも手付かずの原生林と山々、そしてのびやかな原野が広く大きく続く北の大地は、三月に入っても辺り一面が雪に覆われ、桜や梅の木には硬い蕾さえ見られない。
この時期、北の大都市と呼ばれる札幌市での平均気温はマイナス四℃。地方に出ればマイナス十℃を下回ることも決して珍しくない。
吐息は白く色づき、手足が赤く冷えて感覚まで失われていくような冷気。
それでも光と雪子の二人がそこに降り立った時、空高く上った太陽は心地よい日差しを雪と氷に覆われた大地に降り注ぎ、まだ遠い春の訪れを少なからず早めてくれているように感じられた。
薄紅に借りた保温効果のあるコートの前を合わせて、雪子はそっと息を吐く。
白い煙となって空気に散っていく光景は、北国ならではものに見えて小さな感動を胸に呼び起こす。
「…話には聞いてたけど…、やっぱり寒いんだ、北海道の冬って」
「これでも随分暖かくなっていますよ。もう三月ですし」
「でも私の感覚でいくと全然冬…、というよりこれぞ冬って感じがする」
「日本は南北に長い国ですからね」
笑いを交えて答えた光は、腕に白を基調にした大きな花束を抱え、迷いのない足取りで雪子を促すようにして目的地へ向かう。
「それにしても、この間はかなり困惑していたみたいでしたが今回は迷わず道に入れましたね。二度目で慣れましたか?」
「慣れたっていうか…、諦めたの。緑君や影見君と一緒にいて、やることなすことに驚いてたらキリがないって分ったから」
彼らが言うのは、地球から本部、もしくは本部から地球へと続く道のことで、雪子はそのどちらともをこの数日間で経験した。この道というのが鏡を使うもので、全身が写るものという条件つきではあるが、この鏡に河夕や光、闇狩の力を持つ者が呪いをかけると鏡の世界が黒く染まり、そこには目的地に置かれた鏡までの通路が創り出されるのだ。
最初、地球から本部まで移動する際にこれを初めて経験した雪子は、躊躇うことなく鏡の中に飛び込む河夕や光の行動が信じられず、それが可能だということを、実際目にしているにも関わらず理解することを拒否して狼狽していたが、彼らが宇宙人だったり、酸素も水もない世界で生きていたり、などということまで聞かされてしまえば、もう何を聞いても驚けるはずがない。
それが一度経験したものならなおさら、二度も驚けるほど彼女の心に余裕はなかった。
「それは…、安心しましたと言っていいことなんでしょうか?」
「どうかしらねー…」
首を傾げながら、それでも彼女の表情に嫌悪や不快な感情は見られない。
光はその事実に安堵し、雪子の足元に気遣いながら先の角を右に折れた。
「…ねえ。ところでどこに行くの?」
雪子がその問いを口にしたのは、彼らがここに降り立ってから十五分ほど経った後。
鏡の道を抜け出た場所からだいぶ離れた坂道でだった。
春が訪れ、夏になれば街路に等間隔で並ぶ木々が青々とした葉を茂らせ気持ちのよい光景が広がるだろうその場所は、まだいつ雪が降ってもおかしくないこの時期では枯れ木が寂しげに立っているだけ。
それでも、太陽が存在する青空に向かって延びる枝先は生きている証だ。
横を振り向けば一望できる北の町並み。
大半が白に覆われた人の住処は、けれど西海高校までの通学路だった坂道から見下ろす光景にどこか似ていて懐かしい。
「…もしかしてこれを見せるために?」
「いえ」
尋ねる雪子の推測を、光は静かに否定する。
「この坂道は偶然です。こうして久しぶりにこの道を通るまで、ここが雪子さん達の通学路に似ているとは気付きませんでしたよ」
「久しぶりってことは、以前にも来てるの?」
「以前は毎月…。最近は何かと忙しくて、最後に来たのは去年の十月でしょうか」
「去年の十月…? それって…私達が影見君に会う前までってこと…?」
「そういうことになりますか。けれど原因はそれではありませんよ。僕には僕の事情があったというだけですから」
「うん…」
頷きつつも、その話は雪子の胸に言いようのない不安を抱かせる。
それを光は見越し、微苦笑を浮かべたまま目的地を口にした。
「雪子さんに一緒に来てもらいたかったのは墓参りです」
「お墓参り…って、もしかしてお姉さんの?」
闇に憑かれ、闇狩としての光が狩ったという双子の姉の話を思い出して聞き返した雪子の言葉を、光はこれも静かに否定した。
「いいえ。…確かに姉の命日は、嫌な偶然でこれから参る方と同じ日ですが、姉の墓参りはしません。その必要がありませんから」
「え…?」
「これを話すと長くなるんですが…、簡単に言ってしまえば闇に憑かれた人間を埋葬する方法というのは雪子さん達が普通と思っている方法と異なるんです。僕達が闇を狩る力を持っているのは始祖である里界神からその力を授かったから。ならば闇狩の手によって闇から開放された人間の魂は始祖里界神の光りによって人間の輪廻に戻る、というのが闇狩一族の定説で」
「?? え…っと、それって…?」
「つまりですね…。雪子さん達にとっての死後の世界が天国と地獄で、それを決めるのは閻魔様の判断だとしたら、闇に憑かれた後に解放という形で死を迎えた人間にとっての死後は輪廻か消滅。それを判断するのは里界神なんです」
「うーん…と、つまり死んだらすぐに生まれ変わるか完全に消えちゃうかってこと?」
「そう思って間違いではありませんね。始祖里界神は古くから地球人びいきだと聞きますから、闇に憑かれて死んでしまった人間を哀れと思えばすぐに新しい生を与え二度目の人生をやり直させてくれるそうです」
「へー…。じゃあ緑君のお姉さんの生まれ変わりもどこかで幸せに暮らしてるのね」
「そうであって欲しいと思います」
「きっとそうよ」
本心からの言葉に明るい笑み。
いつだったかこれと似たようなことを誰かに言われたなと記憶を呼び覚まし、それが影見有葉だったと思い出す。
――大丈夫。だって光ちゃんのお姉ちゃんなんだもん!
その言葉と無邪気な笑顔に救われた。
生まれたときから傍で見守ってきた実の妹のような少女。闇を狩ると同時に姉を殺してしまった罪を背負い苦しんでいた自分に生きる力を与えてくれたのは十歳にも満たない彼女と河夕の言葉だった。
その影見有葉を、自分はあの時の彼女のように励ましてやれるだろうか。
大好きな兄を失ったときの彼女を支えてやれるだろうか…。
「…是羅を滅ぼした王を里界神が認めて下されば……」
「え?」
ぽつりと呟いた光の小さな声に、雪子は不思議そうな目で彼を見上げる。
「それって影見君のご先祖様のこと? 速水の恋人の?」
聞いてくる雪子に、ハッと我に返り、けれどそれを気付かせないよう笑みを強めた。
「ええ、そうです」と頷いて前を向く。
「綺也様が生き返って下されば、速水が悲しむこともないでしょう?」
「そうね…、本当にそう」
彼の言葉に同意し、寂しげに呟く雪子を、光は直視出来なかった。
まるで裏切っているようだと、胸の奥に苦いものが広がる。いや、裏切っているようなのではなく、こんなのは明らかな裏切りだ。
これから起ころうとしていることを知っていて、光は最後までそれを隠し通さねばならない。
岬と雪子の二人には決して知らせてはならないのだ。
「……」
そうしてしばらく無言で歩き続けた二人の視界にいくつもの墓石が広々とした空間を取って並ぶ霊園が広がった頃、光は救われた気分で再び口を開く。
「ここです」
「うん…、なんかすごく、眺めが良くてゆったりした感じ…」
「こういう場所が似合う女性だったんですよ」
「――女の人なの?」
意外そうな口調で聞いてくる雪子に、光はクスッと小さく笑った。
「妬いてくださるなら、そんな嬉しいことはないですね」
「っ、誰が誰に妬くのよ! そういうこと言うなら帰るんだから!!」
「あぁ、それは困ります。今日は彼女に貴女を紹介に来たんですからね、雪子さん」
「私を?」
「ええ…、さ、こっちに」
それこそ驚きだと言いたげな雪子を促し、光は出入り口を抜け、墓石が並ぶ通路を三つほど過ぎて大きな通り道に出た。
町を一望出来る眺めは気持ち良く、暖かくなれば木々の豊かな緑と、春夏の花が一斉に開花するという北海道ならではの美しさとに包まれるだろう霊園は、ただそれだけで墓に眠る故人を偲び、いと惜しむ気持ちの表れのようだった。
こんな寒い時期であるにもかかわらず新しい仏花が生けられ、和菓子が上げられ、綺麗に雪掻きされた場所もある。
二人はそれらの墓石を通り過ぎ、霊園の東側、町並みが一望出来る位置に設けられた墓石の前で立ち止まった。
大樹家之墓と彫られた墓石も他と同様、雪は綺麗に払われ、掃除も終わり、まだこれから咲くだろう蕾のついた仏花が左右に生けられていた。これが、いくら早くとも一時間以内に生けられただろうことは、花の間に立てられた、まだ新しい線香から立ち上る灰色の細い煙が物語っていた。これはご両親の方かなと、光は内心でのみ呟く。
「…お久しぶりです、名雪さん」
その線香と仏花を見つめながら、薄い微笑をこぼして告げる光を、雪子は黙って見上げる。抱えていた花束を丁寧に墓前に置き、膝を折って手を合わせると、雪子も倣うように膝を折って手を合わせる。
長くもあり、短くもあった沈黙の後、立ち上がった二人は顔を見合わせた。
「ありがとうございました、雪子さん」
「ううん…、って、なんで緑君がお礼言うの?」
「一緒に来て欲しいと頼んだのは僕ですから」
言って笑う光は、墓石に向き直り、大樹の名に目を細めて口を開く。
「…ここに眠る女性は大樹名雪さんとおっしゃって…、五年前に亡くなられたんです」
「病気…とか?」
「いいえ」
答える彼の表情がわずかに歪む。
「いいえ…彼女は、僕を庇って闇の魔物に殺されたんです」
「――え…?」
思いがけない返答に雪子が聞き返すと、光は墓石を見つめたまま静かに語りだした。
「五年前…、河夕さんが先代から影主の座を引き継いだ後、ほんの一時とはいえ僕の心は河夕さんから遠ざかりました。彼を嫌ったわけでは決してなかった…ただ悔しかったんです。河夕さんが僕達になんの相談もなく…王位を継いでしまったことが」
信じられていなかったのかという疑惑。
裏切られたという絶望。
父親を死なせて泣きもしなかった十五歳の少年が、ただ恐ろしく、悲しかった。
「姉を…、双子の姉の苦しみに気付けず、殺してしまった僕は…、先代と河夕さんの言葉に救われて闇狩になることを決意しました。なのにその河夕さんが王となるために先代を斬ってしまい……、もう何を信じたらいいのか判らなくなって、僕は一族を捨てました。二度と闇狩とは関わるまいと決めて、力も捨てて…とにかく逃げ出したかったんです。だからといって、かつて闇に家族を奪われた地球に帰る場所もなく、行き倒れたのを助けてくれたのが名雪さんでした。帰る場所がないなら家にいなさいと言ってくれて…四ヶ月くらい一緒に暮らしたでしょうか」
「…一緒にって…、女の人と…?」
「え?」
雪子の硬い声音に首を傾げた光だったが、彼女の内心を察して苦笑する。
「あぁ、すみません。誤解させてしまいましたね」
「誤解?」
「ええ。彼女は既婚者ですよ」
「キコン…って、結婚してる人?」
「家にはちゃんとご主人もいらっしゃいました。この人がまた優しい方で…、言い方を変えればどこかズレていたんですけどね。新婚だと言うのに僕が居候することを喜んでくれて、結局一緒に暮らすことになったんです。名雪さんのお腹には赤ん坊がいましたし、仕事で忙しいご主人は彼女を見ていてくれる人が必要でもあったんでしょう」
「へー…」
「安心しましたか?」
「っ、なんで私が安心するのよ!」
からかうように言う光に、顔を赤くして言い返す雪子。
普段らしい雰囲気に戻りながら、光は話を続けた。
「とにかくそういう経緯で一緒に暮らし始めて、四ヶ月です。僕が闇狩であることを捨てたばかりに近所に漂い始めた魔物の気配に気付かず、そのくせ闇狩の血を引く僕の体はより強い力を求める闇の魔物が求めてやまない餌だった…結果、僕を狙って現れた魔物は、何も知らずに僕を庇った名雪さんを殺してしまった。しかも…、次こそ自分の番だと思った時に魔物を退けたのは…ご主人の友人でした」
「旦那さんのお友達…?」
「…その友人も、そしてご主人も、普通の人間ではなかったんです」
「普通じゃないって…、それってその人達も闇狩だったってこと?」
「いいえ。闇狩ではありません…それは確かです。僕を狙った魔物を退けはしたけれど狩ったわけではありませんでしたからね。けれど何者なのかまでは教えてくれなかった…、当然といえば当然です。僕は名雪さんを死なせてしまった原因なんですから」
「緑君…」
「ご主人達は僕が闇狩であることに気付いていたそうです。けれど行き倒れていた僕の姿を見て何かしらの事情があると察した彼らはずっと黙ってくれていたんです…。本当に優しい人達でした…、優しく強い方だった。名雪さんを死なせてしまった僕を責める言葉さえ何一つ口にされず…、憎まれて当然なのに僕の存在を拒むこともしなかった…、ただ、この約束だけは必ず守るようにと、言われただけで」
「約束…」
「一つは、彼女を死なせて僕が生き残った現実を無意味なものにしないこと。もう一つは貴女を名雪さんに紹介すること」
「――私を?」
聞き返す雪子に、光はそっと笑みを強める。
「心から守りたいと思える人を見つけたらきっと紹介するように…、これは生前の名雪さんに言われていたんです。だから雪子さんに一緒に来て欲しかった…、僕が命賭けて守ると誓った、貴女に」
光が一度言葉を切る頃には、雪子の顔は秋の夕暮れの空を映した鏡ではないのかと疑いたくなるほど赤く染まっていて、けれど光はそれを茶化すでもなく、静かに見つめて、告げた。
「…貴女が好きですよ、雪子さん」
「え…?」
目を丸くして見上げてくる少女に、光はそっと笑みを強める。
「岬君を大事に想う雪子さんが、ですけどね」
本気とも、冗談ともつかない声音。
ただ、色素の薄い二つの瞳だけはまっすぐに雪子を見つめていた。
「…それって、影見君が好きとか、有葉ちゃんが好きとかいうのと同じ好き…?」
「さぁ?」
困惑と不安に揺れる眼差しで聞いてくる少女の質問を、光は相変わらずの笑みでさらりと流してしまう。
「影見君を好きな薄紅さんを応援する好き…?」
「どうでしょうね」
「〜っ、緑君!」
からかわれてる、と思い立って雪子が声を荒げると、光も声を立てて笑う。
クスクスと笑いながら、北風に乗って揺れる雪子の長い髪を背に流す。
「雪子さんは、そうやって感情を素直に外に出した方がいいですよ」
「?」
「怒りたいなら怒る、泣きたいなら泣く、河夕さんに言いたいことがあれば正面から体当たり、悩む前に必要なことはやってしまう、それが雪子さんの雪子さんらしい姿だと思います」
「……」
「是羅のこと、速水のこと、それに河夕さんのことも…、いろいろあったし、今後も何かしらの形で雪子さんと岬君は巻き込まれてしまうでしょう。けれど貴女は僕が守ります」
赤い頬をそのままに、目を見開いて固まっている雪子の手を取り、光は変わらない穏やかな表情、けれど力強い言葉を雪子のために紡いだ。
「もう一度、ここで…、名雪さんの墓前で貴女に誓います。雪子さんは僕が命賭けて守ります。そして岬君は河夕さんが。僕達闇狩は、貴女達二人を是羅に奪われたりなど決してしません。河夕さんに従う僕達の望みは貴女と岬君の幸福です。だから…、だから僕の言葉を信じてください」
「緑君…」
「これから何が起ころうとも、河夕さんを責めないで下さい。あの人もあの人なりに、岬君と雪子さんを守ろうと必死なんですから」
「っ…」
光の強い言葉に、雪子の目から大粒の涙が落ちた。
その彼女を、光は有無を言わさずに引き寄せ、腕に抱いた。
「っ…、半径五メートル以内には入らないって、約束…」
「僕は雪子さんの楯ですから」
あっさりと、簡潔に。
それ以外の意味などないと言いたげなその物言い。
けれど見上げた先の茶の瞳はまっすぐに雪子を見つめ、抱きとめられた腕には優しく温かな力が込められる。
「…泣きたい時は言ってください。いつだって僕が貴女の壁になって外界から切り離してあげますから」
「…」
「一人で苦しまないで下さい。我慢もしなくていい…、僕がこうして傍にいます」
「緑君…」
本気とも冗談ともつかないこの口調。けれどこれが光の優しさなのだと解った。
今、この場で知ってしまった。
まっすぐな眼差しや、自分を支える力強い腕。そこに込められる無限の想い。
耳でだけ聞く分には判断のつかない本音を、その瞳が、腕が、鼓動が、言葉より鮮烈に伝えてくる。
それが痛い。
それが…、どうしてかこんなに怖い。
「…ごめんね……」
呟く先から新たな涙が頬を濡らす。
「ごめんね緑君…私…岬ちゃんが好き……」
「ええ」
「岬ちゃんが大好きなの……っ」
「知っています。僕はそんな貴女を守りたいんですから」
優しい声音に変化はなかった。だから顔を上げられなかった。
光の目を見るのが怖くて、雪子は彼の胸に顔を埋めて泣き続けた……。