闇狩の血を継ぐ者 一
河夕が目を覚ましたのはそれから五時間ほどが経過した後、光も睡眠を取って、岬が目を覚ましたと聞いた十君の面々が彼を見に再び河夕の部屋へ集まってくる少し前。
室内には食べ物の匂いがし、背後からは聞き慣れた三つの楽しげな声が聞えて来た。
岬と、雪子と、そして有葉。
部屋に運ばれた数人分の食事は、岬と雪子のお腹が空いてるだろうと考えた有葉が持ち込んだものらしかった。
「おはよう、河夕」
ソファから最初に声を掛けてきたのは、厚手のガウンを羽織った格好でおにぎりを頬張った岬だ。
「おはよー、影見君! 岬ちゃんのベッドでとってもよく眠れてたみたいねっ」
刺々しい口調で言い放つのはもちろん雪子で、有葉は彼女の隣に座り、ジュースの入ったグラスを手にしながら可笑しそうに笑っている。
「…」
寝起きの河夕はしばらく無言で三人を眺めてから、ふと気付いたように有葉を向く。
自分が岬から離れたせいで彼がこうなってしまったのだと、ずっと自分自身を責めていた少女は、岬が一度目覚めた際の興奮状態に口走った台詞に酷く傷ついてずっと泣き続けていたのだ。
真っ赤な目をして、体を小さく丸めて泣く妹を、河夕は抱きしめてやるしかなかったから、その有葉がいつもと変わらない愛らしい笑顔を浮かべて岬と雪子の間に座っているのは多少なりとも驚くべき光景だった。
「おまえ、もう大丈夫なのか?」
気遣うように言った河夕に、けれど有葉の方は満面の笑顔で大きく頷く。
「だって岬ちゃん、笑ってるもん」
答えながら岬と雪子の腕をガシッと掴む有葉の表情はやっぱりいつもの彼女らしい愛らしさで、河夕も「そうか」と安堵の笑みを覗かせる。
「でも最初はやっぱり顔合わせずらかったんだと思うな。有葉ちゃん、岬ちゃんが目を覚ましたって解って緊張してたもの」
雪子が、河夕に対しての時とは天と地ほどの開きがある優しい口調で言うと、有葉は恥ずかしそうに頬を染めて「だって…」と口を開く。
「岬ちゃんがまだ怒ってたりしたら…って思ったら怖かったんだもん」
「そうだよね…、本当にごめんね、有葉ちゃん」
岬が精一杯の気持ちを込めて謝罪の言葉を告げれば、有葉は激しく左右に首を振って岬に抱きつく。
「いいの! 岬ちゃんが生きててくれたらお兄ちゃんも雪子お姉ちゃんも嬉しいでしょ? 悲しくならないでしょ? お兄ちゃんが元気だと有葉も元気なの、ねっ、お兄ちゃん!」
「そうだな」
短く答えて三人が囲んでいるテーブルに近づくと、すかさず有葉が腕を伸ばしてくるので河夕は迷わず抱き上げてやった。
テーブルの上にはこの面子だけじゃ到底食べ切れないような量のおにぎりと、五枚の皿に分けて盛られた玉子焼きやウィンナー、ナゲット、鮭、蒸かしたジャガイモ、トマトとツナのサラダにバターロールやクロワッサンなどのパン類とバターやジャム、おまけにデザート用のケーキまでが勢揃いしていて、和洋混合の朝食が所狭しと並べられていた。
河夕はナゲットを口に放り込みながら、この量と妹の顔を見比べる。
「有葉、これだけの量をどうやって運んできたんだ?」
「あれ!」
あれと小さな少女が指差したのは、ソファの後ろに放置された銀製のカートだ。確かにあれなら、有葉のような小さな子供にもこれだけの量を運ぶことが可能だろう。
「にしても、この量は多すぎないか?」
「だって岬ちゃんと雪子お姉ちゃんが和風洋風どっちが好きか判んなかったし、有葉も一緒に食べようと思ったし、それにお兄ちゃんも食べるでしょ?」
「まぁな」
「それにこれ運ぶときに白鳥のお兄ちゃんと会ってね、これだけ盛っていけば充分足りるでしょうって」
「白鳥が?」
怪訝な顔をする河夕とは対照的に、有葉は心底嬉しそうに頷く。
「岬ちゃんがそろそろ目を覚ますのよって言ったら、じゃあすぐに俺達も行きますから皆で朝ごはん食べましょうって!」
「―――俺達?」
「うん! 白鳥のお兄ちゃんと、蒼月のお兄ちゃんと、紅葉のお姉ちゃんと!」
「……」
「ね! 皆で食べた方がご飯も美味しいでしょ?」
喜々として語る有葉は、河夕が額を押さえて軽い溜め息をつく理由を解かっていなかった。解ったのは雪子一人で、今まで眠り続けていた岬にも知りようがない。
「クスクスッ。岬ちゃん、もう少ししたら動物園のパンダになれるわ」
「パンダ?」
「オーストラリアのコアラも可よ」
「??」
雪子が可笑しそうに言うのもまったく意味不明の岬は首を傾げ、有葉をソファに下ろした河夕の顔を見上げる。
「河夕、今言ってた人達って…?」
「あぁ…、ま、会えば解るさ。連中が来る前に…」
言いかけて、雪子と岬を順に見比べた河夕は、おもむろに岬の髪に触れる。
「なに?」
「いや…、おまえら二人とも、風呂は?」
「あ、私はシャワー借りた。薄紅さんが使ってって言ってくれたから」
「なら岬、おまえ先に使え」
「え」
「傷口の心配はないだろ、もう痕も残ってないんだ」
「そうよ、岬ちゃん。せっかく影見君のお友達に紹介してもらうんだから綺麗にしてこなきゃ」
「―お友達?」
「光と同じような奴らだよ」
河夕が言い、その脇から有葉が、十君と呼ばれる狩人の位、今現在そこに就いている面々の名を上げていった。
十君最年長で岬の治癒にも必死で力を貸してくれた大柄の男、蒼月。
異国の雰囲気を漂わせる金髪碧眼の好青年、白鳥。
常に生傷の絶えない元気少年、黒炎。
大人しそうな顔をして実はいい性格をしている妙齢の女性、紅葉。
嫌味で性悪の紫紺と、一族の掟に従順し真面目すぎる一面を持つ梅雨。
「それに影見君の婚約者の薄紅さん」
「婚約者?!」
「元だ、元」
予想範囲内であった岬の驚愕した声に河夕はあっさりと返す。
「それに有葉の桃華と光の深緑が合わさって十君」
「十君て影見君の親衛隊みたいなものなんだって」
雪子がそう締めくくって食べかけのおにぎりを片付け始めたが、岬の方は難しい顔をして指を折る。
「蒼月さん、白鳥さん、黒炎さん、紅葉さん、紫紺さん、梅雨さん、薄紅さん、それに有葉ちゃんと光さんで十君? 十君て言うからには十人じゃないのか?」
「え?」
「今並べた名前、九人分しかないよ」
岬が不思議そうに言うと、雪子も自分で指を折りながら幼馴染の言葉が正しかったことを確認する。
「あれ…、総帥の影見君が入って十人とか?」
「いや」
聞いてくる雪子に、河夕は低い声で否定する。
「…生真が入るんだ」
「イクマ?」
「生真君て確か、河夕の弟の名前…」
以前聞かされた覚えのある名前を岬が言えば、河夕は小さく頷いた。
「そう。弟の生真だ…生真の黄金が合わさって全部で十人。それが闇狩一族の十君だ」
「その子、今まで一度も顔見せてなくない?」
雪子が厳しい顔つきになって問うと、河夕の表情からは作り笑いさえ消えてしまう。
「ああ。あいつは…、俺を憎んでるからな」
「憎んで…?」
岬が聞き返し、雪子がその理由に思い当たってハッとした刹那、しばらく無言だった有葉がすべてを遮るような勢いで河夕の腕にしがみつく。
「でも岬ちゃん助けてくれたのは生真君だよ!」
「有葉…」
「生真君がいなかったら岬ちゃん本当に死んじゃってた! そうでしょお兄ちゃん! 生真君が岬ちゃんの命守ってくれたんだよね?!」
切羽詰った真剣な眼差しを受け止めて、河夕は数秒の間を置いてからそっと微笑し、妹の頭を優しく撫でる。
「そうだな…。岬を助けてくれたのは生真だ」
「うん!」
「…だったら」
河夕と有葉が頷き合うのを待って、岬がポツリと口を開く。
「だったら、生真君は河夕を恨んでなんかいないんじゃないかな…」
「岬…?」
「だって本当に河夕が嫌いなら俺のこと助けたりしないだろ?」
「嫌いだったとしても、死に掛けてる岬ちゃんを助けてくれたってことは優しい子なんだと思うな。それに影見君を嫌ってる紫紺さんとかだったら絶対に岬ちゃんのこと見捨ててそうだし…、生真君て影見君の弟で有葉ちゃんのお兄ちゃんでしょ? 過去に何があったって有葉ちゃんが影見君のこと大好きなのと同じで、生真君もいろんなこと、ちゃんと判ってるんだと思うけど?」
「松橋…」
「俺、生真君にも「ありがとう」って言わなきゃね」
「―岬ちゃん!」
微笑む岬に、有葉が突進して抱きついた。
「岬ちゃん大好き! 雪子お姉ちゃんも大好き! 大好き!!」
「有葉ちゃん」
「岬ちゃんずるいっ、有葉ちゃん、私にも抱き着いてきて欲しいな」
「お姉ちゃん好き!!」
「私も有葉ちゃん大好きよ」
そうしてしっかり抱き合う雪子と有葉に、岬は小さく声を立てて笑い、河夕は数秒面食らって固まった後に表情を崩した。
「…サンキュ」
照れ隠しのような、低く小さな囁き。
いつか生真ともこういう場所が共有できるようになるよう、河夕は兄として、人として願わずにはいられない。
ずっと寂しい思いをさせてきた。
王になどならないという約束を破り、信頼を裏切り、家族の絆を壊してしまった五年前のあの日から、決して近づけなくなった遠い心。けれどもしかすると取り戻せるのかもしれない…、岬や雪子の言葉がそれを信じさせてくれる。
希望を見出させてくれる。
だから決して失えない二つの存在。
守るために強くなる…、守るために戦える、きっと悲しませずに済むように。
「ほら岬、さっさと風呂使え。後が控えてんだからさ」
「あ、うん」
「なんなら一緒に入ればぁ? その方が時間短縮になるし」
「なっ、雪子?!」
「―…それも一案だな。そうするか、岬」
「かっ…!」
「冗談に決まってるでしょ影見君のスケベ!!」
自分で言い出したにも関わらず、河夕の発言を聞いた途端、真っ赤な顔でいきり立った雪子に、河夕は怪訝な顔をし、岬は何故か火照る顔を隠そうと必死だ。
「男同士で何がスケベだ」
「影見君と岬ちゃんじゃ洒落にならないのよ!!」
「おまえが言ったんだろ」
「そうねっ、そうよ私が言ったわ! だったら忘れて頂戴っ、今のは気の迷い!!」
「気の迷いっておまえ…」
「しつこい! 岬ちゃんはさっさとお風呂行って!!」
「え、あ、うん」
「影見君は朝食取る! 空腹でお風呂入ったら具合悪くなるんですからね!!」
一気に言い放って肩を弾ませる雪子は、キッと正面の河夕を睨みつけた。
「…おまえ、なんか妙なこと考えてないだろうな」
「だとしたら全部影見君と緑君のせいよ!!」
なんでここに光の名前が出てくるのかと河夕は思ったが、結局、自分が寝に入るまで続いていた不毛な言い争いは今も尾を引いているということなのだろう。
あの栗色の髪に貴公子然とした風貌の青年が、色恋には完全初心者の少女に何を言ってくれたのか、河夕はここにはいない仲間の顔を思い浮かべて深々と息を吐いた。
それから三十分もしない内に河夕の部屋はいっそうの賑わいを見せ始めた。
河夕が洗ったばかりの髪に滴る水気をふき取りながら浴室を出てくると、もはや岬の私室と化した一室には、通常では考えられない、複数の楽しげな声が行き交っていて、声から判断するに白鳥と黒炎が来ているのは間違いなさそうだ。
浴室から出てその部屋に戻ってきた河夕に最初に気付いたのは最年長の蒼月。
「河夕様…、勝手に失礼しました」
「あぁ。それは気にしなくていいが…、それより何だあれは」
「それが…」
蒼月が言葉を濁すと同時に、今まで河夕の存在になどまったく気付かなかった薄紅が振り返る。
来ていたのは蒼月と薄紅、それに黒炎と白鳥の姿があった。
「河夕様、勝手に失礼させていただいてます」
「…、何をやってるんだ?」
なんだか嫌な予感がして聞き返すと、それに応えたわけではないのだろうが、岬の隣を陣取っていた黒炎の声が大きくなって河夕の耳に飛び込んでくる。
「でさ、この時の影主ときたら全然手加減てものがないんだぜ? ひでーと思わねぇ? 俺ってまだ十二のガキだったのにさ」
「河夕様が何をしたら本気で怒るのか判断できずに喧嘩を吹っかけた君がオバカなんだよ」
「だって俺、生真にちょっとイタズラしただけなんだぜ? それであんな大怪我させられたらたまんねーじゃん」
「河夕、実は兄馬鹿ってやつなんだ」
「それはいい表現だよ、岬君。そう、河夕様は昔から生真様と有葉様を溺愛してらしたからね。例えば河夕様に報告なしで有葉様とどこかに出かけるとするだろう? そうすると後で怖いんだよ、嫉妬されて」
「そこまでいったらただのシスコンじゃない」
雪子の辛辣な台詞に、黒炎が声を立てて笑い、白鳥はうんうんと感心するように頷く。
「さすが河夕様に一言の反論も許さずに叱り付けられる方だね。そんなキッパリ言い切れる人物は他にいないよ」
「ねぇ岬ちゃん。シスコンてなに?」
「えっと…、河夕は有葉ちゃんが大好き…、ってことかな」
「お兄ちゃんが有葉を? うふふ、有葉もお兄ちゃん大好き!」
「――可愛いなぁもう!」
満面の笑顔で雪子と岬の間に座っている有葉を、雪子の方がギュッと抱き締めた。
こんなに可愛い妹なら自分もシスコンになるだろうと岬や白鳥が言うのを聞きながら、端でその一部始終を聞いていた河夕は眉間の縦皺をいっそう深くして蒼月に問う。
「――で、あれは何なんだ?」
先刻よりもかなり低い声音には明らかに怒りが含まれていて、蒼月は背中に冷たいものが走り抜けるのを実感しながら恐々と口を開く。
「何と言われましても、答えようがないんですが…」
「薄紅」
蒼月がまだ言葉を濁すのに引きつり、今度は逆位置に立つ薄紅に答えを求める。
忠誠心厚く無口で、けれど親しみやすい蒼月とは逆に、薄紅は言いずらいことでも遠慮なくずばずばと言ってしまえる強心の持ち主だ。
「白鳥と黒炎が河夕様の過去を暴露してるだけですわ」と、あっさり平然と答えられて、今度こそ河夕は額に血管が浮かぶのではないかと思うくらいに顔を引きつらせた。
「ったく…ろくなことしないのは誰だ?!」
凄みを効かせた声を上げれば、和気藹々と談笑していた面々がハッと彼の方を振り返る。
「河夕様、一体いつからそこに?」
最初に口を開いたのは白鳥。
うろたえているならまだしも、実に楽しげにそんなことを言われれば河夕の怒りも治まり様がない。
「おまえらな…、岬と松橋に妙なこと吹き込むな!」
「妙なことなんて何一つ。僕達がずっと見守ってきた河夕様の可愛らしい思い出を語っていただけですよ」
「それをやめろって言ってるんだ!」
「おぉ、影主が照れてンぜ! 岬、これはなかなか見られない代物だ」
「へー。影見君がああいう顔して怒る時って照れてるんだ」
「そう、河夕様は昔から照れ隠しに怒ることの方が多いんだよ」
「だからおまえらぁ……っ」
「おっと、ここまでくるとマジでやばくなってきてるから、少し気を引き締めた方が間違いないぜ。影主怒らせると、それこそマジで怖いから」
「えー? 岬ちゃん、なんでお兄ちゃん怒るの? お兄ちゃんは有葉が大好きって話してただけだよね?」
「うーん…そうなんだけどね……」
有葉のまったく悪気のない台詞に、しかし岬は苦し紛れの返答しか出来なかった。
河夕が有葉を好きだという話だけなら確かに問題ないが、シスコンとまで言われた以上、ただ笑って聞き過ごすのは難しい話だろう。
「えーっと河夕…? 俺達、別に変な話なんか何も聞いてないよ?」
「そうそう。影見君が相当の兄馬鹿だって判っただけよ」
「ゆ、雪子!」
「だってそうでしょ? ね、有葉ちゃん」
「うん、お兄ちゃんはシスコン!」
「――――」
「…っあははははははは!!」
有葉の、本当の本当に悪気のない発言に河夕が絶句し、黒炎と白鳥が爆笑する。
こちらでは薄紅と、そして蒼月が必死で笑いをこらえていて、岬と雪子ももはや笑わずにはいられない。
「おまえら〜…っ」
河夕の額に青筋が浮かび上がり、こめかみがピクピクと引きつっている。
「これ以上妙なこと口にするつもりなら金輪際この部屋には立ち入り禁止だ!!」
「そんな殺生な。こんな可愛らしい二人を独り占めなさる気ですか?」
「し、白鳥っ」
これ以上は影主を刺激するなと言外に含ませた口調で呼びつける蒼月。
しかしそれより早く河夕が白鳥に歩み寄り、顔面の前で手の平を不穏な色に輝かせる。
「強制的に黒焦げになって追い出されるのと自主的に出てくのとどっちが好みだ?」
「…か、河夕様、もしかしなくても本気ですね?」
「解ったら…」
さっさと出ていけと続くはずの河夕の言葉は、しかし幸か不幸かそこで途切れた。
慌ただしい足音とともに開かれた部屋の扉は、開けた緑光の心情を如実に語るかのような切羽詰った勢いを見せ、顔色は彼らしくなく落ち着きをなくしていた。
「河夕さん大変です!!」
声色にもかなりの焦りが見え、蒼月や薄紅は表情を曇らせた。
だがそんな光の状態も、怒りが頂点に達しようとしていた河夕には区別がつかない。
「おまえまで何だっ、ふざけたこと言うつもりなら今すぐ出て行けよ!!」
有無を言わさない迫力で言い放たれて、光は一瞬何事かと目を見張った。
好かれていないのはずっと以前から自覚しているが、出逢い頭にそんな言い方をされる覚えはないのだから当然だ。
だがそんなことに戸惑って時間をとるわけにはいかない。
「河夕さんっ、とにかくこっちに!」
「おい!」
「貴方が僕の話を聞いて下さればすぐに出て行きますよ!!」
光も負けじと言い返し、強引に河夕の腕を引いて扉の陰に連れ込む。
「おまえっ」
「何に怒ってるのか存じませんが今回に限って僕は無関係でしょう! 話を聞いてから追い出してもらえませんか?!」
「っ…」
それきり、扉の奥に潜んだ二人の声は岬や雪子に聞こえなくなる。
次に聞こえたのは「馬鹿な!!」という、河夕の驚愕の声だった。
蒼月、薄紅、白鳥と黒炎も厳しい顔つきになり、有葉の小刻みに震えた手が岬と雪子の腕を掴む。
「そんなことをして是羅になんの得がある?! あいつは……っ」
「河夕さん!」
「っ…悪い、だが……っ」
「僕達も変だとは思いました。けれど事実です。紅葉殿が数人の狩人を連れて既に向かいましたが無事かどうかは…」
「…いや、きっと無事だ。俺も何かあってはまずいと思って何人か監視をつけておいたからな…、しかし……」
「予想外の事態で副総帥も困惑しておられます。すぐに会議室に集まるよう言付かって来たんですが…」
「解った」
応えた河夕が部屋に戻ってきたとき、蒼月、薄紅、白鳥、黒炎、そして有葉までが立ち上がり、姿勢を正して河夕の言葉を待っていた。否、河夕ではなく、一族の総帥・影主の言葉を。
彼らの王の指示を。
「今の話、聞こえていたな?」
闇狩の狩人として五感が普通の人間の何倍も発達している彼らは、岬と雪子には聞こえなかった河夕と光の内緒話もしっかりと耳に入ってきていた。
無駄な言葉は一切ない返答に、河夕は小さく頷いて一人一人の顔を順に見ていく。
「蒼月、白鳥、おまえ達二人は紅葉の後を追って闇の討伐に向かえ」
「はっ」
「黒炎と有葉は俺と光と一緒に会議室だ」
「了解」
「薄紅、おまえは生真を……、黄金を探して会議室に連れてこい」
「承知しました」
王の指示に答えるや、すぐさま動き出して部屋を出て行く彼らの姿に、今までの陽気な雰囲気は欠片も見当たらない。
岬と雪子も緊張した面持ちで、まだそこに立つ河夕の姿を見つめるしかない。
「…岬」
「っ、な、なに…?」
急に呼ばれて焦る岬の側に近づいて膝を折る河夕に、光が心配そうな声を掛ける。
だが現実に起こってしまったことを隠すことは出来ない。
隠す方が傷つけてしまうことを、彼らは知ったばかりだから。
「岬…、今、四城寺が襲撃された」
「――!」
「松橋…、おまえの家も、西海高校も…、地球にいる闇に憑かれた人間や、闇の卵が四城市に集中しだしたんだ」
「なっ……」
「じゃあお父さんやお母さんは?! 学校の友達は?!」
叫ぶように言う雪子に、河夕はただ首を振る。
「判らん…だが死ぬことはない。こうなることを予想して数人の狩人を近隣に配置しておいたし俺が結界を張っても来た。何より住職がいるんだ…、すくなくともおまえ達の家族は絶対に無事でいる」
「…父さんが……」
「…是羅が本格的に動きだした」
「っ」
「四城市を滅ぼしたくなければ岬を出せと…、岬と、それに松橋、おまえも差し出せと言ってきてるらしい」
「雪子まで?!」
岬が驚愕の声を上げるのを、河夕は黙って肯定する。
「…実を言えば、それは俺も光も予想していた」
「どういうこと…?」
雪子の震えた声に、河夕は眉を寄せ、低い声を押し出す。
「是羅は本来、女しか総帥にしてこなかった…、是羅の憑いた体、つまり岡山が岬を欲したから是羅は岬を狙ったけれど、これだけの時間が経って是羅の精神体が岡山の精神力を上回ってしまえば宿主の望みを叶えるなんて言葉で言うことを聞かせなくても、岡山の体は是羅の体になってしまう。そうすれば…、岬は必要じゃなくなるんだ」
「でも! それでも俺が速水と一緒にいる内は俺が闇の総帥なんだろ?! 河夕は俺を殺せないからっ、だから都合がいいって是羅は……なんで雪子まで巻き込むんだよ!!」
「俺が失えないのはおまえだけじゃない」
「――!!」
「俺は松橋も失いたくない」
「そんな……、じゃあ是羅は…河夕が殺せない相手なら誰だっていいって…?」
「…っ、俺が…俺が殺せない女を欲してるんだ」
悔しげに、憎しみを込めた河夕の呟きに岬と雪子は目を見張る。
一緒に会議室に来いといわれ、河夕を待つ有葉と黒炎も息を呑む。
「…それが私……?」
「雪子さん」
「私が女だから?! 女じゃないとやることやれないから?! だから私なの?!」
「松橋っ」
蒼白になって叫ぶ雪子は立ち上がり、逃げるように後方へ下がる。
「雪子…」
「岬ちゃんと私とっ、二人とも手に入れたくてお父さんやお母さんを殺そうとしたの?! 学校の友達も岬ちゃんの家族も…っ、そんなメチャクチャな理由で殺されるの?!」
「雪子さん!」
「だってそしたら岬ちゃんどうなるのよ?! 私に是羅の女になれって言うなら岬ちゃんの中の速水はどうなっちゃうの?! 五百年も前から是羅に苦しめられてっ、岬ちゃんだって辛い思いして死のうとまでしたのにっ、岬ちゃんの中の是羅の魂、どうやって私に移し変えようっていうのよ! そんなこと出来るなら影見君だってとっくにやってるんじゃないの?! 今度は私達に何させようって言うのよあの変態は!!」
「…是羅になら出来るんだ」
「何が?!」
「是羅が自分の中に魂を取り戻せば、新しい女に移し変えるのも可能だ」
「だって無理なんでしょ?! 是羅に返せるなら影見君にだって…!」
「……食うんだよ…っ」
「?!」
「…岬を食えば、血と肉は是羅の糧に。魂は是羅の手足に…、是羅の魂はあるべき場所に戻る…岬以外の、俺が殺せない女を必要とする理由はそれだ。岬を人質にするだけでも効果はあるのに、あえて松橋を寄越せと言ってきた理由もそれなら納得がいくし、実際、是羅は総帥にしてきた女が飽きればそうやって次の女帝を立ててきた」
河夕の説明に、岬も雪子も、もはや言葉がなかった。
岬を食い殺して、雪子を闇の女帝に。
そんなことを考え、それを実現させるために四城市の家族や友人を躊躇うことなく殺そうとする是羅がただ…。
「…信じられない……」
そう呟いて、雪子は膝から崩れ落ちる。
「なんで……? なんで私と岬ちゃんなの……?」
「雪子さん…」
「私達って一体なに……? 利用できるから寄越せって…、それってどういうこと? 私達は是羅の玩具なの…?」
「そんなわけないだろ!」
河夕が怒るように言い放っても、雪子の心は立ち直れない。
「じゃあ何…? も…解んない…影見君が殺せないから? 影見君が私達のこと大事にしてくれるから、だから利用できるの? だったら影見君が岬ちゃんや私のこと」
「雪子さん」
雪子の言葉を遮って、光が口を開いた。いつの間にか彼女のすぐ側まで歩み寄っていた光は、その肩に手を乗せ、少しばかりきつい口調で告げる。
「雪子さん、それ以上は言わないでください」
「緑君…」
「お願いです。もう何も言わないでください」
「…」
光に遮られて、周囲に目を配れば、岬が悲しげな顔をして雪子を見ていた。
有葉が怯えるような目をして、黒炎は顔を背けて。
そして河夕が。
「影見君…」
ひどく傷ついた顔をした、河夕が…。
「…、雪子さん」
わずかに暖か味の戻った声音の光は、何を言いそうになっていたのか自覚して河夕から目を逸らせずにいる雪子の顔を自分に向けさせて続ける。
「貴女は河夕さんを信じてください。そして僕が貴女に誓ったことを、決して忘れないでください」
「……」
「岬君は河夕さんが絶対に守ります。だから貴女は僕が命に代えても守ると、そう誓ったはずです。決して忘れないよう、この手に刻んだ証とともに」
数時間前に口付けられた手の甲を包まれて、雪子の目頭が熱を持つ。
「貴女と岬君は河夕さんを救ってくれた。同時に河夕さんを慕う僕達をも救ってくれた…そんな貴方達を是羅に奪われたりなど決してしない」
「…影主の守りたいものは俺達の守りたいものだ」
後方から黒炎の力強い声が響く。
「不安がるな。おまえらも、おまえらの家族も友達も、住んでる町も、俺達が絶対に守ってみせる。蒼月も白鳥も、薄紅だって同じように思ってる」
「雪子お姉ちゃんと岬ちゃんの大事なもの、全部ちゃんと守るよ。だって岬ちゃんと雪子お姉ちゃんは、有葉の大事なお兄ちゃんを守ってくれたもの」
黒炎と有葉にそっと笑いかけて、光は再び口を開く。
「先陣を切った紅葉殿もです。河夕さんを理解し慕うのは、何千といる一族のほんの一部かもしれない。それでも、その一部に含まれる僕達は一族すべてを敵に回しても負けることなどありえません。その強さを与えてくれたのは岬君と雪子さん、貴女達なのだから」
「緑君…」
「信じてください。河夕さんと、河夕さんを信じる僕達を」
光の真摯な言葉に、雪子は瞳を伏せ、小さく二度、頷いた。
「必ず守ります。誓いは決して違えられません」
その言葉とともに手の甲に刻まれた二度目の口付け。
雪子の瞳から涙が零れ、光は彼女の手を放した。
「…行きましょう、河夕さん。黒炎殿も有葉様も、そして僕も、貴方の大事なものを守るために戦います」
「…ああ」
黒炎が部屋を出、有葉が続き、光が行く。
河夕が最後に部屋を出ようとして、閉じかけた扉の隙間。
部屋に残す岬と雪子に背を向けたまま、河夕は告げた。
「…巻き込んですまなかった……」
「――っ、河夕!」
閉ざされた扉が立てる哀しい音。
岬が後を追おうとしても、敵の侵入を拒む扉は内側から開けることが叶わない。
「…なんで…」
ガチャガチャと、必死で扉を開けようとしていた手を止めて、岬は雪子を振り返る。
「どうしてあんなこと言ったんだよ! 雪子だって河夕が悪いわけじゃないことくらい解ってるだろ?!」
「…岬ちゃんには解んないわ…」
「そういう言い方…っ」
「影見君がただ純粋に好きな岬ちゃんには私の気持ちなんか解らない…っ、絶対、解るわけない……!」
「…雪子……」
大粒の涙を幾つもこぼして泣き続ける雪子は、岬が知っている彼女ではなかった。
十六年、常に一緒にいた幼馴染の少女ではなかった。
「雪子…」
光の口付けを受けた手をもう片方の手で包み、それを涙の雫が濡らしていく。
そんな彼女にしてやれることを、岬は何一つ思い付くことが出来なかった……。